「今日は、何の本を読んだ」と先生が聞くと、生徒が、「この本を130ページまで読みました」などと本を見せます。
通学教室では、しばらく前から、教室に来るときに読んでいる本を持ってくるようにさせています。最初は、「読んでいない」などと言って手ぶらで来た子も、毎週先生が聞くので、自然に本を持ってくるようになりました。
持ってきた本をもとに先生と話をするので、ただ持ってくるだけでなくその本を自然に読むようになります。このようにして、かなりの子が、本を読む習慣をつけいます。
今の社会では、本をよく読む子と、あまり読まない子が二極分化しているようです。
読書は、家庭でするものなので、家庭での読書の位置づけが子供の読書量を大きく左右します。本を読まない子には二通りあり、ひとつはテレビやゲームの時間が長いために落ち着いて本を読む時間がとれない子です。もうひとつは、勉強が忙しくて本を読む時間がとれない子です。
勉強が忙しくて本が読めないというのは、不思議な感じもしますが、事情を聞くとやむをえない面があるようです。それは、習い事に行く日が多いために、夕方から夜にかけての時間に余裕がないからです。そのため、家庭で学校の宿題などをやると、もうほかのことをする時間がなくなってしまいます。その結果、本を読まなくなるのです。
読書というのは、毎日の習慣によって読むことが面白くなります。だから、本を読む子は、毎日読んでいます。1週間に2日や3日だけ読むというような読み方では、読む面白さが味わえないので、読書が進みません。1日10ページでもいいから何しろ毎日読むようにするという習慣づけが大事です。
読書力と作文力には、きわめて高い相関があります。本を読んでいる子は、語彙力があるので、同じことを書く場合でもセンスのいい表現を使って書こうとします。上手に書きたいという意識があるので、書いた作文にも自然に愛着がわきます。だから、書くことが楽しい勉強になります。苦しいけれど楽しいという勉強になるのです。
また、読書力と国語力にも、きわめて高い相関があります。よく、読書をしても国語力はつかないなどという人がいますが、それは短期間の付け焼刃的な読書の場合です。
読書力と国語力の相関が高いということは、読書の好きな子の場合にはほぼ例外なくあてはまります。また、もし読書が好きで国語の成績が悪いという場合でも、そういう子は解き方のコツを少し教えただけですぐに成績が上がります。国語の成績は、その子の読書力の範囲まではすぐに伸びます。逆に、読書力の限界があると、いくら国語の勉強をしても成績はそれ以上上がらないのです。
では、読書をするにはどうしたらいいのでしょうか。読書をほとんどしない子に本を読ませる方法を3つ挙げます。
第一は、毎日必ず10ページ以上読むということです。10ページであれば、気楽に始められます。そして、本には人を引きつける力がありますから、いつか面白い本に出合うと10ページで終わらずにずっと続けて読むようになります。そのようにたくさん読んだときに、大いに褒めてあげます。この褒め言葉が大事で、さらりと、「○○ちゃんよく本を読むね」とか「本が好きなんだね」とか言ってあげるだけでいいのです。本を読んでいないときに、「本を読みなさい」と言われてもうれしくも何ともありませんが、自分が本を読んでいるときに、「本が好きなんだね」と言ってもらうと子供はうれしくなって、もっと本を読むようになります。
第二は、口で言うだけでなく必ず実行させるということです。親の言うことをきかない子供になるのは、親が口で言うだけにしているからです。例えば、「ちゃんと本を読んでおきなさいよ」「はあい」というような言い方をしていると、子供は親の言うことをきかなくなります。いったん言うことをきかない子供になると、それをあとから直すのは大変です。読書を確実に実行させるためには、子供に読むように言うだけでなく、その時間は家族全員で本を読むというように決めてもいいと思います。
第三は、はかどらない本がある場合は、ほかの本と並行して読むということです。本の中には、その子にとって興味がわかなかったり難しすぎたりするものがあります。本を読むのが苦手な子は、そういうとき、いつまでもその本にこだわり、その本が終わらないと次の本に進めないという状態になります。そういう状態で読む本は、子供にとって苦痛でしかありません。なかなか読めないときは、もっと面白そうなほかの本を先によみ、それと並行して読めない本もついでに読むというようにします。もちろん、そのまま面白い本だけを読むようにしてもかまいません。
ときどき、どんな本を読んだらよいかという質問があります。どの子も楽しく読める良書というものも確かにありますが、そういうおすすめの本を探して読もうとしていると、かえって読書量は増えません。
日本における小学生の読書環境は充実しています。読む本は、図書館や書店に置いてある本の中から選べばいいのです。エジソンは、図書館にある本を端から順に読んでいったそうです。そこまでする必要はありませんが、読書には当たりもはずれもあるという気持ちで、貪欲に読んでいけばいいのです。
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「作文力がこれから必要らしいけど、それはどうして」「どの教室がいいの」などということにお答えする記事です。
日本の戦後の教育を特徴づけているものは、○×式試験中心の学習による学力の低下という問題です。
○×式試験は、知識を詰め込めば、だれでも何とか成績が上がるという試験で、これがこれまでの日本の教育の中心になっていました。
例えば、現在、日本の小中学校、高校で行われている試験の中には、子供たちの学力に結びつかないどころか、受験にさえ役立たないような瑣末な知識問題が出されることがあります。これは、結局、教える先生が○と×で生徒の成績の差をつけやすくするためだけに出すようなものです。
これは、学習塾でも同じで、進学塾での勉強の中には、受験には必要のないものもかなりあります。しかも、それぞれの教科の担任が自分の教科だけを考えて宿題を出したり試験を行ったりするので、子供たちの多くは時間不足に追われています。そして、子供らしい生活を犠牲にしてまで勉強することにより、塾の中での成績は上がるが、本当の実力はついていないという事態が生まれているのです。それは、勉強の中身が○×試験に対応したものになっているからです。
大学入試でも、事情は同じです。予備校などのデータをもとに高度な情報戦として行われる大学入試は、よい成績を上げるためには、膨大な知識をいかに効率よく習得するかというテクニックの競争になっています。
東大、早稲田大、慶応大など、優秀な生徒が行くと思われている大学でも、与えられた答えを見つけることは得意だが、自分で問題を発見したり創造性を発揮したりすることは苦手だという学生が増えています。一部の大学では、小論文の入試を導入していますが、受験の合否を決めるのは、やはり知識の量になっているからです。
既に、企業の中では、学歴と知識はあるが、仕事をする実力がない社員が問題になっているようです。それは、これまでの学力が知識の量で測られるものであり、それが受験体制の完成に伴ってますます強化されるようになってきたからです。知識はあるが実力がないという若者たちは、この受験体制に過剰適応した結果なのです。
今後の日本の教育では、この○×式の詰め込み勉強の見直しが急速に行われていくと思われます。
その理由の一つは、少子化の進行で入学試験の採点に余裕ができるため、知識の有無を試すような問題から思考力を見る問題に試験の内容が変わってくるからです。
これはすでに、公立中高一貫校の作文試験や、高校入試における作文試験の導入、大学入試への推薦小論文の広がりなどで見られるようになっています。
作文力がなぜ必要かというと、書く勉強することによって、読む力や考える力をつける勉強も自然に必要になってくるからです。
これまでの教育で評価されていた○×式の学力は、与えられた答えをいかに見つけるかという要領のよさを競うような学力でした。これから必要になる学力は、与えられた条件から自分で問題を発見し、それを創造的に解決するという学力です。
このような世の中の動きを反映して、小学生向けの作文教室や作文講座も増えています。しかし、こういうところで紹介されている面白そうな教材は、導入部の教材ですから、一見楽しそうに見えてもそれがそのまま作文の学習につながるわけではありません。語句や短文を埋めるようなやりやすい勉強と、自分で600字から1200字を書く作文の勉強とでは大きな違いがあるのです。
なぜこういうことが言えるかというと、昔、ある大手の通信教育の作文講座を担当する人が、言葉の森に作文の指導法を聞きに来たことがあるからです(笑)。こちらは別に秘密にすることもないので、持っている資料を全部渡して説明してあげました。つまり、指導する中身があって作文講座を作ったというわけではないのです。
言葉の森のホームページは、指導のノウハウをすべてオープンにしています。ですから、言葉の森の教え方を参考にして指導している教室も全国にはたくさんあります。しかし、本当の実力をつけるなら、やはりオリジナルな教材のある言葉の森で始めることがいちばんの近道です。
実際に、言葉の森では、これまで、中高一貫校の作文試験や、高校入試の推薦作文試験、大学入試の小論文試験などに多くの実績をあげています。小学校の1年生から始めて、中学生、高校生(大学生、社会人の生徒もいますが)までの作文指導を専門的に行っている教室は、全国でもほかにはないと思います。
しかし、これから必要になる作文力とは、単に目の前の作文試験のためだけに必要なのではありません。将来、自分でものを考えて創造的に表現する力をつけるために、作文を書く勉強を低学年のうちから進めていく必要があるのです。
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なるほど。面白いページですね。
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幼長の子のお母さんから相談がありました。「絵はたくさんかくのに、それを作文で表すことができない」ということでした。
しかし、そういうときは、「絵がとてもよくかけたねえ」と褒めてあげるだけです。そのあと、だから、それを作文にどう書かせるかということまで求めなくていいのです。
小学校1年生の子の作文は、最初はみんな2、3行です。絵をかくのに1時間ぐらいかけて、作文は2行ぐらいで終わりとなると、作文の勉強という感じがしないと思います。しかし、そういう子供たちがみんな学年が上がれば自然に長く上手に書けるようになっていきます。
勉強には、成績として出てくる結果の部分と、その結果を出すために費やした努力という原因の部分があります。
小学校低学年の普通の勉強、つまり、計算の練習や漢字の書き取りの場合は、結果と原因が結びついています。計算の練習をするから計算ができるようになり、漢字の書き取りをするから漢字が書けるようになるという関係です。
しかし、こういう結果と原因が結びついている勉強は、レベルの低い間の勉強です。勉強の内容が高度になると、問題を解くから力がつくということはなくなってきます。問題を解くのは結果であって、解く以前の勉強が重要になってきます。
作文の勉強も、勉強の結果と原因が大きく離れています。ここを多くの人が誤解しています。作文を書くから作文が上達するという面は、文章を書きなれるということでは確かにありますが、作文のほとんどは、書く以前の読む力をつける中で育っていきます。
しかし、読む勉強をしているだけでは、書く力はわかりません。そこで作文を書きますが、それはその子の実力の結果ですから、その結果を直そうとするのではなく、結果はたっぷり褒めてあげるだけにして、原因の勉強である読む力をつけるようにしていくのです。
作文の勉強がなぜ難しいかというと、作文は、穴埋め式の勉強のような作業的な勉強ではなく、自主的に何かを考えるという勉強だからです。作文は、自分で考えて書くという勉強ですから、うまく書けないときというのはどうしても出てきます。そこで、勉強のさせ方の工夫が必要になるのです。
その工夫には、いろいろな方法があるので、もし家で作文を書いていて、うまく書かせられないときは、遠慮なく教室に電話をして聞いてください。
工夫の方法の共通点をひとことで言えば、子供が楽しく明るく負担なくできるようにするということです。作文の勉強でそのような工夫の仕方がわかれが、作文以外のほかの勉強は簡単です。作文の勉強は、お母さんにとっては勉強のさせ方の勉強というふうに考えていくといいのです。
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