昭和初期までの子供たちは、家で農作業を手伝ったり、家事を手伝ったりして成長しました。これらは、目に見えるノルマも報酬もない単調な仕事です。朝起きたら、当然のように、まきを割ったり、水を汲んだり、玄関を掃除したりしてから学校に行ったのです。こういう毎日の単調な仕事を続けていくことで、成人になってからも自立して持続するという根性が身についていきました。
しかし、今の時代に、このように毎日同じような家事手伝いを子供にさせることができるでしょうか。家事が合理化された現代では、子供に手伝いをさせるという必然性がありません。昔は、子供が手伝わなければやっていけないほど家事が多忙だったのです。今は、洗濯機も掃除機も冷蔵庫もあるので、子供が何かを手伝わなければ家庭生活が円滑に運営できないような状態はありません。
今の子供たちが、ひ弱なのは、このように毎日何かを続けるという習慣が家庭になくなったからです。毎日の暗唱や読書の自習は、この根性を育てるための機会だと考えて取り組んでいくことです。毎日の自習をするということであれば、子供も納得できる合理的な根拠があります。気分が乗らないときも、遊びたいことがあるときも、何しろ毎日自習を続けるということは守らせることができます。少なくとも、毎日玄関の掃除をするというようなことよりもずっと守らせやすいはずです。
そして、このように毎日しなければならないことがあると、子供の生活全体がめりはりのあるものになります。日曜日などは、大人でも朝起きてから特にすることもなくぼんやり過ごしてしまうことがあります。ところが、子供の場合、朝ご飯の前に暗唱ということを決めておけば、その暗唱をしたあとにすぐきちんとした生活を送る姿勢ができます。しかし、ここで大事なのは、自習ができたら褒美をあげるというようなやり方にはしないということです。自習がちゃんとできたら褒美をもらえるということになると、子供の自立心は育ちません。褒美があってもなくても、決めたことを黙々とやるということが自立心です。
ただし、子供の努力を認めることは大事ですから、親がときどき、「よくがんばっているね」「本をよく読んでいるね」「今日もちゃんとできてえらいね」などと言ってあげることです。このときに、父母で協力して、子供の努力を認めるということが必要です。一方の親が子供の努力を認めているのに、他方の親が子供の努力に関心がないとなると、勉強は続けにくくなります。また、一方の親が努力を認めているのに、他方の親が子供の欠点を指摘してばかりいると、やはり子供は勉強しにくくなります。子供をよりよく成長させるということは、どの親にとっても共通の目標になるはずですから、勉強のさせ方で多少の不一致点があったとしても、「いったん決めたことは続けさせる。そのためには、できていたら褒める、できていなければ叱るということを気長に続ける」ということだけは一致させておきましょう。
国語の力は、この暗唱や読書や対話のように、日本語を豊かに吸収する生活がなければ決して身につきません。国語力をつけながら、自立心も併せて育てる学習として、親の働きかけが必要な自習をむしろ肯定的にとらえて毎日の勉強に取り組んでいってください。
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国語力は、国語の問題集をいくら解いても身につきません。問題を解いたあと、先生の説明を聞いても、その説明を理解する力は、本人のもともと持っている国語力までです。
では、国語力はどのようにしてつくかというと、それは塾や学校の国語の勉強の中ではなく、日本語の豊かな家庭生活の中でつくのです。これが、国語の勉強が他の勉強と違うところです。国語力は、いろいろな教科の学力の中のひとつの学力なのではなく、あらゆる勉強のもとになっている理解力、思考力のことなのです。
国語の得意な子は、国語の問題集をしっかりやってきた子ではありません。家庭生活の中で、読書と対話の時間を多く取ってきた子です。だから、国語の勉強は、毎日の家庭での自習としてやっていくという方法がいちばんよいのです。
そこで、言葉の森では、毎日の自習として、音読、暗唱、読書、問題集読書などをするようにすすめています。
しかし、この自習というのが子供にとっては飽きるものなのです。問題を解くような形の勉強であれば、新しいプリントをやって、それまでのプリントのやったあとが残りますから、一見やりがいがあるように見えます。しかし、国語はそのようなプリントを解くような形の勉強では身につきません。国語力は、特別の教材がなくても毎日同じようにやれる自習を続けることによってつきます。
言葉の森の自習の内容を、わかりやすく暗唱と読書に絞って説明します。(年齢的に無理のない自習は、小学校5年生までは暗唱と読書、小学校6年生以上は問題集読書と読書です。また、どうしても暗唱や問題集読書が続けにくいという場合は、最低限の自習として毎日10ページ以上の読書だけを続けるようにしてください)
まず、自習に対する発想を変えていく必要があります。問題のプリントをやるような自習であれば、ノルマを決めておけば子供はある程度自動的に勉強をするようになります。しかし、暗唱や読書はそうではありません。暗唱や読書は形に残らない勉強ですから、最初の時期は親がそのつど「やりなさい」と言わなければできません。また、形に残らない勉強なので、子供はすぐに飽きてきます。そのために、暗唱などわずか10分でできることを続けられなくなる子が多いのです。
しかし、小学校低中学年のうちに、この形に残らない勉強を続けるという習慣を育てていくと、それは、将来の勉強に最も必要な自立した持続力を育てることになります。
子供の本当の学力は、中学生後半から高校生になり自覚して勉強するようになってから急速に向上します。自覚して勉強を始めると、それまでの親から言われてしぶしぶやってきた勉強の数年間分を数ヶ月で取り戻すようになります。
しかし、この中学生後半からの自覚した勉強であっても、本人の意欲はあるのに勉強が空回りしてしまうということがよく出てきます。それは、決心を持続する習慣が育っていないからです。例えば、英語の教科書を暗唱するとよいらしいという勉強法を聞いて早速始めたとします。ところが、ほとんどの子は数日で飽きてしまうのです。これでは、意欲はあっても実力は伸びません。
そのときに、小学校低中学年のうちに毎日同じことを同じようにするという勉強習慣をつけていた子は、一度決心したことを成果が出るまで長期間続けていくことができるのです。中学生後半から高校生のときに、自立しした勉強ができるようになっている子は、いったん目標が決まると自分のペースでどんどん実力をつけていきます。一方、自立した勉強の習慣のない子は、高校生になってもあいかわらず塾や予備校で先生から強制される場がないと勉強をすることができません。高校生以上になると、勉強は個人個人の個性の差が大きくなります。志望校の問題の傾向も違うし、生徒本人の得手不得手も違ってくるからです。そのときに、自分のペースで勉強できる子と、他人に強制される場がないと勉強できない子とでは、学習の能率に大きな差が出てきます。高校生になってから学力が伸びる子と伸びない子の差はここにあるのです。
小学校低中学年の毎日の自習は、単にその勉強をするためだけの自習ではありません。毎日同じことを同じように続けるという自立心をつけるための自習です。だれでも、最初のうちは、親に言われなければ、毎日の暗唱や読書はできません。また、数日、風邪で休んだり、旅行に出かけたりすれば、それまで毎日続けてきた自習の習慣もすぐに消えて、また親から言われなければやらない状態に戻ってしまいます。しかし、そこで親がまた飽きずに自習をさせるということを繰り返します。このようにして、何度も親から言われて続ける期間が長くなればなるほど、子供の心の中に持続する勉強の力がついてくるのです。
小学校低学年のうちに、毎日の暗唱を1年間続けた子であれば、高校生になったときに、自分が決心した勉強を1年間続けることができます。逆に、小学校低学年のうちに、毎日の自習に飽きて、プリントをこなすような勉強に戻ってしまった子は、高校生になっても、自分が決心した勉強を続けられずに塾や予備校に頼るようになります。
夏休みは、集中して勉強に取り組むのに最もよい時期ですが、ほとんどの高校生が自分で勉強できずに、塾や予備校の夏期講習に通います。それは、自立して勉強を続ける習慣がついていない子がほとんどだからです。しかし、ごく少数ですが、塾や予備校に頼らずに自分で勉強していける子がいます。こういう子が、高校3年生のわずか1年間で飛躍的に伸び、その後大学生になっても、社会人になっても自分で実力を向上させていける子なのです。
毎日の自習で親が言わないとやれないということをマイナスに考えるのではなく、親が言わないとやれないような単調な勉強(といっても、暗唱はわずか10分、読書も短ければわずか10分ですから、やろうと思えばすぐにできます)を続けることが、子供の自立心を育てることになるのだとプラスに考えて取り組んでいってください。
自立心は、国語のプリントを解くような形では育ちません。プリントのように他人から与えられたノルマがないとできないということになってしまうからです。暗唱や読書は、1枚の長文、1冊の本があれば、いつでもどこでもできます。しかも、いくら毎日やっても形に残らない勉強なので、プリントのようにやった結果が目に見えるという満足感がありません。こういう勉強を続けることが、子供たちの自立心を育てることになります。
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家庭での作文の学習を続けていると、なかなか思ったように勉強が進まない、と困る場面が出てきます。そういうときの対処法をご紹介します。
親の負担が大きいので大変という場合
問題を解くような形の勉強であれば、子供がある程度自主的に進めていけます。しかし、作文の場合は、そういう問題-解答形式の勉強ではありません。毎日、読書や暗唱などの読む自習を行い、毎週、自分で考えて作文を書くということで力がついていきます。(ほかの作文教室の中には、問題-解答形式で作文の勉強を指導しているところがありますが、そういう形では作文力はつきません)
一般に行われている従来の勉強は、知識や解き方を学ぶという勉強です。そういう勉強は、勉強の仕方を塾に任せ、子供が与えられた課題をやっていれば力がつきます。国語と作文は、そういう形の勉強ではありません。
国語は、毎日読む学習を続けることで、作文は、自分で考えて書くことで力がつきます。そのために、次のように勉強に対する発想を変えて取り組むことが必要です。
「対話をする勉強」と発想を変える
作文は、親子の対話を楽しむ形で進めていく勉強です。これは、小学生には特に重要です。小学校1、2年生は自由な題名ですから、毎週授業の始まる前に、「今週はどんなこと書くの」と子供に聞き、親が子供と作文に書く内容について話をします。また、書いた作文が返却されたときも、その作文の内容について家族で対話をします。この際、決して欠点を指摘して直すようなことはしないでください。欠点は、読む力がつく中でほとんど自然に直ります。欠点を指摘すると、作文を書くことが億劫になります。対話は、いつも楽しい雰囲気で行ってください。この対話のときに大事なことは、お父さんやお母さんの子供時代の似た話などをたくさんしてあげることです。そのときに、子供には、少し難しい言葉で、少し長い文で、少し難しい内容の話をするようにします。この対話によって親子のコミュニケーションが豊かになるとともに、子供の頭がよくなります。
小学校3、4年生の場合は課題が決まっているので、親子の対話は更にしやすくなります。次の週の課題を見て、お父さんやお母さんが似た話を子供に聞かせてあげてください。場合によっては、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんに取材してもよいでしょう。また、作文が返却されたときも、親子でその作文を話題にして話をするようにしましょう。この場合、やはり大事なことは、欠点を指摘して直すようなことはしないということです。作文はできるだけよいところを見て励ますようにしてください。
こういう形で小学校中学年までに親子の対話の習慣を作っておくと、その親子の関係はあとまで続きますし、その対話によって子供の頭がよくなります。理解力や思考力は、問題を解くような形の勉強では身につきません。対話と読書によって最も確実に身につくのです。ですから、対話のときは、楽しい雰囲気で、少し難しい言葉で、少し長い文で、少し難しい内容の話をするように心がけてください。
小学校高学年や中学生になると、子供が自分の作文を親に読まれるのを嫌がる面が出てきます。その場合は、作文ではなく、課題の長文をもとにして対話をしていきましょう。課題の長文は、ホームページでも読むことができますから、事前にお父さんやお母さんもその長文に目を通しておくとよいでしょう。
課題の長文をもとにした対話は、次のような形で進めることができます。まず、子供に、次の週の課題がどういう内容か説明させます。そのためには、子供が事前に長文を読んでおかなければなりません。題名だけの課題の場合は、子供がどんなことを書くつもりか考えておかなければなりません。この子供に内容を説明させるということが、子供の思考力と表現力を育てる勉強になります。子供に説明させたあと、親がその課題についての関連する話をしてあげます。親の話を聞くと、子供が自分の経験を通して考えただけの作文よりも話題が広がり、感想も深まります。
このように、作文の勉強は、そのほかの勉強とは違い、対話を楽しむ勉強だと発想を変えて取り組んでいってください。小学校高学年になると、普通の家庭ではどこでも親子の対話は少なくなります。特に、お父さんは子供との日常的な接点があまりないので、対話をするとしても勉強や成績のことばかりになりがちで、ますます対話が難しくなります。ところが、作文の勉強を通して話をすることによって、親子が毎週知的な対話を楽しむ習慣ができるのです。
作文は親の負担が大きくて大変だと考えるのではなく、親子の対話を楽しむ機会になるのだと考えて取り組んでいってください。(つづく)
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幼児教育の本質をひとことで言えば、インプリンティング(刷り込み)の教育だということです。ここから出てくる最も重要な条件は、バランスを重視しなければならないということです。学齢期の教育のように、何かを付け加える教育であれば、あとから修正することは容易ですが、インプリンティングの教育のように、枠組みを作る教育は、いったん作られるとあとから修正することがきわめて難しくなります。生まれたばかりの雛鳥は、最初に目についたものを親だと認識して、それが犬や猫であれバケツやヤカンであれ、自分が親だと考えたもののあとについていきます。同じことが、程度の差はあれ人間の幼児期についても言えるのです。
だから、幼児期には何でも吸収できるからということで、ある特定のことを吸収させると、それは幼児の人間形成の中にその特定の枠組みを作ってしまうことになります。単に付加された知識であれば、他の知識と共存することができますが、いったん作られた枠組みは、他の枠組みを排除するので、よりよいものに取り替えるということができません。この枠組み形成が、その子供の個性を作り出します。
ここから出てくるもうひとつの重要な条件は、幼児教育はその子の個性に応じて、個性的に行われる必要があるということです。しかも、その個性は、単にいくつかのパターンがあるという予測可能な個性ではなく、本質的に予測不可能な面を持っています。だから、幼児教育は、その子と密着した母親又は父親によって、常に軌道修正を行いながら進めていく必要があるのです。
本質的な予測不可能性ということから、教育の逆説というものも生じます。人間は、最良の条件だからといって最良に成長するわけではありません。逆に、最悪の条件にもかかわらず最良に成長することもあります。では、なぜ予測不可能かというと、人間の成長は、線形の成長ではなく複雑系の成長だからです。砂山に砂を一粒ずつ追加していくと、いつかある一粒によって砂山が大きく崩れます。しかし、いつ、どの一粒でそうなるかはだれにも予測することができません。ある働きかけを行えばある結果が出てくるというだけでなく、その出てきた結果がもとの土台を変容させ、働きかけの効果を変容させていきます。幼児教育には、個性に応じたシミュレーションが必要になるために、その幼児と密接にかかわる両親が教育の主体になる必要があるのです。
インプリンティングの教育とは、別の言葉で言えば、絶対感覚が育つ教育です。幼児は、単に何かを吸収するだけでなく、自分がこれから生きていく世界に適応するための自己形成を行っています。だから、幼児に与えられるものは、大人にとっては単なる教育であっても、幼児にとっては世界そのものです。
幼児教育においては、何を学ばせたいかというよりも、その子供がどういう世界に生きてほしいかということを考える必要があります。例えば、ある知識を学ばせるときに、親が叱りながら教えれば、子供はその知識を吸収するだけでなく、自分がこれから生きる世界を「叱られる世界」として適応するために自己形成していきます。親が、子供に幸福な人生を歩んでほしいと思って教えることが、そのやり方によっては子供の絶対的な不幸感覚を形成することになるかもしれないのです。しかし、人間の成長は複雑系の成長ですから、どんなに叱られてもたくましく生きていく子もいれば、ひとことの注意で深く傷ついてしまう子もいます。大事なことは、親が、子供の絶対感覚を育てているのだと自覚して教育を行っていくことです。
こう考えると、これまでの幼児教育の中には、重大な錯誤に基づいているものもあります。
例えば、幼児期の外国語学習です。外国語の枠組みを身につけることによって、母国語の枠組みが正常に育たない子供になる可能性があります。特に、日本語は、世界中の他の言語と比べて全く異質な母音言語という特質を持っています。英語圏の幼児がフランス語やドイツ語も習得するというのとは根本的に違います。日本語を母語として持つ幼児がどのようにして外国語もバランスよく身につけられるかということはまだ実験の段階にあることなのです。
また、CDやビデオなど、機械を利用した学習にも問題があります。機械によって何かを吸収することを繰り返しているうちに、人間に適応せず機械に適応した子供になってしまうことがあるのです。テレビなどをつけっぱなしの環境で育てられた幼児は、人間的な感情を持ちにくくなると言われています。面白くなくても笑い声が聞こえ、悲しくなくても泣き声が聞こえるような環境が日常的にあれば、幼児は感情を遮断して生きることによってその環境に適応しようとするからです。
また、実際の世界との関わりが希薄な中で行われる知識の教育にも問題があります。例えば、戸外に出て実際の花を見ながら、花にはめしべとおしべがあって、チョウやハチが飛んできて受粉するということを教えるのであれば、子供の世界は知識によって豊かに広がります。しかし、図鑑などで花の図を見せながら同じことを説明しても、子供の世界は豊かにはなりません。それどころか、そのような現実との関わりのない教育を繰り返していると、子供は、バーチャルな世界に生きることに適応するようになります。その子が成長して、戸外で花やチョウを見ても、その子にとっては、単に図鑑の説明が咲いていて、図鑑の説明が飛んでいるように見えるかもしれません。自然との関わりの中で喜びを感じるというのは、人間の幸福感の大きな要素ですから、知識だけの知識が先行することによってその幸福感の可能性が閉ざされてしまう可能性もあるのです。
また、逆に言語を軽視した教育にも問題があります。人間の脳が進化の最も後期になって発達させたものは、言語を駆使する能力です。だから、言語能力を発達させることによって、言語以外のほかの能力も言語に引っ張られて発達します。先天的な心身障害を持つ子供が、幼児期からの言語教育で言語能力が発達するにつれて身体の運動能力も回復したという例があるというのはこのためです。
幼児期の教育に自覚がないと、幼児は放任しておいても育つものだと考えがちです。その結果、小さいころは、まず体力をつけて、情操を豊かにして、のびのびと育てることだと思ってしまいます。そのこと自体はよいのですが、言語による教育は小学校に上がってからで十分だと考えて、言語的に乏しい環境で幼児期を過ごしてしまうと、言語以外の能力、つまり体力や情操も豊かに成長しなくなるのです。
幼児期の教育は、子供の絶対感覚を育てる教育です。その子が、どういう世界に生きるかを選択して自己形成をするための教育です。
だから、親は、子供がどういう世界に生きてほしいかという価値観を持って教育を行う必要があります。その価値観は多様ですが、大きく共通するものとして挙げられるのは、現実の自然のある世界で(バーチャルな世界ではなく)、人間とともに(機械とともにではなく)、言語を豊かに使って(腕力や雄叫びによってではなく)、愛情を持って(攻撃と防御に身構えながらではなく)、自由に創造的に(制限された柵の中でではなく)生きることだと思います。
言葉の森では、今後、幼児教育に力を入れていく予定です。その際に、以上のような観点を持って教育開発を進めていきたいと考えています。
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「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」という言葉があります。小学校1年生で学校に上がるとき、子供の能力には既に大きな差ができています。しかし、その差は先天的なものではなく、主に幼児期の教育によるものです。教育というとオーバーなので、幼児期の環境によるものと言ってもよいでしょう。
もちろん、人間の成長は幼児期に決定されるものではありません。人間は動物と違い、成長してからも自分の能力を変容させる柔軟な可塑性を持っています。しかし、それでも、幼児期における土台の形成は、人間のその後の成長に大きな影響を及ぼします。
幼児期の教育が重要だというのは、このような理由からです。
さて、幼児教育について考える前に、教育というものの社会における役割について考えてみます。
人間は、社会的に生きています。幸福な人生を送るためには、社会が個人の幸福を支えるものになっていなければなりません。
ところで、現代の社会では、社会の最も主要な枠組みは、国際社会でも地域社会でもなく国家社会です。日本に生きている個人は、日本の国家全体が幸福になるのに比例して幸福になっていきます。
日本の国家をよくするために最も重要な役割を担っているものは政治です。政治がビジョンと実行力を持てば、日本はたちまちよい国になります。しかし、今の政治は、ほぼだれもが認めるように、また国際社会でも認められているように、ビジョンにも実行力にも欠けています。
こういう政治を許しているのは、私たちの世論です。その世論を形成する中核となっているものは、マスコミです。つまり、日本のテレビと新聞が、日本人の民度を低くしているのです。その方法は、ひとことで言えば、肝心でないことには正しい報道をするが、肝心なことについては報道をしないというものです。だから、日本人の大多数が知的でありながら、その知性に匹敵しない政治が存続しているのです。
では、なぜこのようなことが行われてきたかというと、それはマスコミのトップが腐敗させられているからです。日本のマスコミは、多数の良心的なジャーナリストにもかかわらず、肝心なことについては真実を報道しないという体制で運営されています。
しかし、現代は、マスコミを超えた情報ネットワークが次々と生まれている時代です。これからの社会に必要なのは、多様な情報を取捨選択する能力と意志を持った個人が増えていくことです。
そのためのひとつの役割を担うものが教育です。これが、教育の社会における役割です。教育は、個人にとっても価値あるものですが、それと同時に社会にとっても価値あるものなのです。
バランスのとれた教育がバランスのとれた世論を生み出し、その世論がビジョンと実行力のある政治を生み出し、その政治が豊かな社会を生み出し、その社会の上に個人の豊かな可能性が開花するというのが未来の日本の姿です。
====3/5に追加した分====
話は脱線しますが、では、マスコミが真に国民の利益を考えたマスコミになるためにはどうしたらよいのでしょうか。それは、ある意味で簡単です。腐敗しているのは、トップ層だけのはずですから、マスコミのトップを、暴力にも賄賂にも屈しない、志のある人間に交代させればよいのです。
マスコミは、既に、立法、行政、司法の三権分立に追加される新しい権力の頂点を形成しています。たとえ私企業ではあっても、国民的な規制を必要とする影響力を持っています。したがって、マスコミに関しては、トップがその企業の全社員の選挙によって選ばれるというようにすることです。そのことを、議員立法として国会で提案し、法律として明文化するのです。そういう国民の利益を考えた立法を行うのが国会の役割です。国会は、単に政党どうしの駆け引きや取り引きや揚げ足取りをする場ではありません。国民の前で、正々堂々と正しい政策を議論する場です。
====追加ここまで。====
さて、教育は、大きく三つに分けられます。
第一は、学校教育です。第二は、社会教育です。第三は、家庭教育です。
学校教育は、教育の最も目につきやすい部分です。したがって、教育予算のほとんどはこの学校教育に投下されています。しかし、今、学校教育は大きな曲がり角に来ています。その理由のひとつは、これまでの教育の前提であった工業化社会が過去のものになるにつれて、欧米から輸入された一斉教育の限界が明らかになってきたためです。もうひとつの理由は、受験教育が、中国のかつての科挙のような末期症状を示すようになってきたためです。
社会教育は、目立たないところで重要な役割を果たしています。社会教育とは、別のことばで言えば、教育に対する文化的影響力です。
子供たちの教育は、その社会が何を価値あるものかと考えているかによって大きく左右されます。ドイツが科学技術の先進国であったのは、ドイツの社会に学問や学者を尊重する文化があったためです。日本にもかつて学問を尊重する文化がありました。しかし、今の日本は、科学技術や学問よりもスポーツや音楽や芸術を高く評価する文化になりつつあります。
イチロー選手が活躍するのは悪いことではありません。歌と踊りのうまいタレントが人気者になるのも悪いことではありません。しかし、子供たちが自分の将来の理想の人間像をスポーツ選手やタレントに見るという社会は、やがて衰退します。スポーツや音楽や芸術は、あくまでも枝葉であり、幹となるものは、科学や技術や学問です。言い換えれば、社会の理想が、消費する文化ではなく、創造する文化であることによって、社会は発展することができるのです。
家庭教育は、学校教育や社会教育と重なって存在しています。子供たちの年齢が上がるにつれて、家庭教育の役割は縮小していきます。しかし、子供が誕生してから保育園や幼稚園や小学校に行くまでの期間は、家庭教育の独壇場です。
小学校時代が、家庭教育40%学校教育60%ぐらいの割合で進むとすると、0歳から3歳までは、家庭教育がほぼ100%の時代です。しかし、問題は、この時期が家庭教育という自覚と方法のないままに過ごされてしまうことです。
そこで、幼児教育の理論と方法が必要になってくるのです。(つづく)
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■大学生の勉強の仕方
大学入試は、決して勉強のゴールではありません。昔のような学歴社会では、大学に入ることがそのまま将来の職業に結びついていましたが、今はそういうことはありません。
小学校から大学までずっと学校の中での生活が続くと、学校でよい成績を取り、偏差値の高い学校に入ることが目標のように考えてしまいがちですが、人生の本当の目的は学校に入ることではなく、仕事をすることです。大学は、今後の仕事の準備をする場です。
こう考えると、大学で真面目に授業に出て、よい成績を取るだけでは不十分です。日本の場合、大学での勉強は高校での勉強よりも易しいことが多いので、単位を取って卒業するだけなら簡単にできます。大学生は、この余裕のある学生生活を生かして、自分の幅を広げる勉強をしていきましょう。
そのために役立つのが、自分がリーダーシップをとるような経験をすることです。「若いうちの苦労は買ってでもせよ」という言葉があります。大学生のころは、いろいろなことにチャレンジして、自分の可能性の幅を広げておくことが大切です。
大学3年生になると就職活動が始まりますが、就職のときにいちばんのポイントになるのが、この学生時代のチャレンジの内容です。単に勉強をしていただけとか、アルバイトを熱心にしたとか、サークル活動をがんばったというだけでは、アピールするものがありません。ただし、勉強でも、アルバイトでも、サークル活動でも、その内容に困難なものに挑戦し何らかの成果を上げたという要素があれば高く評価されます。就職活動で評価されるために大学生活を送るわけではありませんが、せっかくの4年間を無為に過ごさないように、常に自己の向上ということを考えて大学生活を送っていきましょう。
大学時代は、できるだけ古典を読みましょう。大学の授業で指定された教科書を勉強しても、将来あまり役に立ちません。大学を卒業すれば、大学の授業で勉強したようなことはほとんどは忘れてしまいます。卒業したあとも残るものは、古典の読書です。古典というのは、岩波文庫に収録されているような歴史的に評価の定まった本です。自分の専門の分野に限らず、幅広く古典を読んでおくと、それが社会に出てからも役立つ教養になります。
読書会は、参加するメンバーの中のレベルの低い人に合わせた集まりになりがちです。読書は、ひとりで読んでいく方が身につきます。大学生は、自由な時間がかなりあります。特に何もすることがないときはとりあえず読書をすると決めておけば、時間を無駄にすることがありません。そのためにも、いつでもどこに行くときでも読みかけの本を1冊は持っていくようにしましょう。
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■言葉の森では、どういう勉強をするか
・高校生の作文の字数は、600-1200字です。
・1200字の作文(小論文)を60分で書くスピードを目標にしていきましょう。
・感想文課題のもとになる文章は、大学入試の現代文や小論文の課題と同じ難しさです。解説を見る前に、自分なりに書く方向を考えてみましょう。
・構成の仕方は、原因や対策を考えるかたちが中心になります。原因や対策の考え方には、その人なりのパターンができてくるので、自分の得意な発想法を見つけていくようにしましょう。
・パソコンで書ける人はできるだけパソコンで書き、自動採点ソフト森リンの点数を上げることを目標にしていきましょう。
■高校生の勉強の仕方
高校生は、学校の勉強で理系か文系かの選択があります。
現代の受験体制のもとでは、自分の持っている実力を生かして合格しやすい大学に入ることが目標になりがちです。そのため、数学が苦手な人は文系を選択する傾向がありますが、数学は、時間はかかるものの、勉強の仕方さえ正しければだれでも成績を上げることのできる教科です。
理系と文系の将来性を比べた場合、理系の方が広い可能性を持っています。数学が得意であれば、文系の大学に数学を生かして入ることもできます。文系を選ぶとそこから理系に移ることはかなり難しくなります。受験という短期間のことだけでなく、自分の将来の実力を幅広くつけていくためにも理系を選択するとよいと思います。
文系を選んだ人は、高校時代の間に数学から更に縁遠くなってしまうと思います。数学はやればだれでもできるようになるものです。苦手だという意識を持たないようにするためには、大学生になってから、中学生の数学の勉強を教える機会を持つといいと思います。人間は、15歳のころにわからなかったことが、18歳になると驚くほどわかるようになります。言葉の森の生徒で、中学、高校と数学があまり得意ではなく文系に進んだ人が、大学生のときにアルバイトで中学生に数学を教えている間に数学が好きになり、そのまま数学の先生になってしまったということがありました。数学は理屈の世界の勉強なので、わかり始めると面白くなるのです。
高校生になると、読書をする人としない人が更にはっきり分かれてしまいます。読書は、社会人になってからも勉強の最も重要な手段になります。高校生のときにある程度難しい本を読む力をつけていないと、社会人になってから説明文の本を読めなくなってしまいます。高校生のときに難しい説明文の本を読むと、国語の成績も当然上がってきます。読書を、毎日の生活の中に必ず取り入れるようにしていきましょう。
高校2年生の終わりの春休みには、受験勉強の準備を始めましょう。準備の仕方は、大学入試の勉強の仕方の本を読むこと、志望校を決めること、志望校の過去問を答えを書き込みながら解いてみること、志望校に合格するための参考書や問題集を選ぶこと、1年間の勉強の計画を立てることなどです。計画は最初はおおまかなものでかまいません。やっていくうちに軌道修正していきます。
これらの準備の中で、いちばん大事なのは、大学入試の勉強の仕方の本を読むことです。大学入試は、ほとんどの人にとって初めて経験する本格的な入試です。それまで入試の経験もある人でも、中学入試や高校入試の場合は、ある程度他人任せでやってこられました。塾の先生や学校の先生が指示してくれた路線で、本人は指示のとおりに勉強するだけですからある意味で気楽な受験でした。大学入試は、自分で計画を立てて、自分の判断で勉強をしていかなければなりません。
予備校などではその勉強計画を肩代わりしてくれるメニューを持っていますが、そういう他人が用意してくれたメニューで勉強すると、無駄な勉強が多くなります。自分の考えで勉強の計画を立てると、最初は能率が悪いように見えますが、試行錯誤の中で次第に自分に合った勉強の仕方をしていけるようになります。また、そのようにして自分の力で取り組んだ経験は、将来の大きな財産になります。自分の力で取り組むために、受験勉強の仕方に関する本を何冊か読んで知識を増やしていく必要があるのです。
自分で計画を立てて勉強していく場合、いちばんの頼りになるのが志望校の過去問と模擬試験です。勉強を進めていると本筋からはずれたところに時間をとられてしまうことが出てきます。ときどき過去問に戻って、自分の勉強の仕方の軌道修正をし、模擬試験で自分の位置を確認しながら勉強を進めていきます。ところで、模擬試験はあくまでも模擬試験です。模擬試験で出る合格可能性よりもあてになるのが、過去問がどのくらいの割合でできているかということです。過去問は、その年に出ている本の場合、過去7年間分ぐらいの問題しか載っていません。余裕があれば、中古のものも買っておくとよいでしょう。大学入試は、過去問を軸にして勉強していきます。そのためには、高2の春休みの段階で、解ける問題がまだほとんどない状態でも、全教科の答えを書き込みながら1年間分解いてみて、今後の勉強の方向をつかんでおくことが大切です。
大学入試で小論文がある場合の書き方は、普段言葉の森で勉強している書き方と同じです。パソコンで書いている人は、試験の3ヶ月ぐらい前から手書きに戻して、手書きで書く感覚に慣れておきましょう。志望校の過去の問題に合わせた形で10編ぐらいの作文を書いておけば、そこで使った実例、表現、意見などを生かして入試の作文に対応することができます。
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■言葉の森では、どういう勉強をするか
・作文の字数は、600-1200字です。
・高校生になったときの小論文の基礎となる意見文の書き方を練習します。
・中学生の意見文と高校生の小論文の差は、主に長文の難しさの差です。中学の3年間で勉強する意見文の書き方がひととおりできれば、その書き方で大学入試の小論文に対応できます。
・
パソコンで書ける生徒は、できるだけパソコンで書き、自動採点ソフト森リンの点数などを勉強の目標にしていきましょう。
・パソコンで書いている人で、高校入試に作文試験がある場合は、試験の3ヶ月前から手書きに戻しておきましょう。
■中学生の勉強の仕方
中学生は、私立又は公立の中高一貫校に進む子と、高校受験の必要な中学に進む子とがいます。
中高一貫校に進んだ生徒は、そのまま学校に任せておけばいいと考えるわけにはいきません。中学受験までの勉強の反動で、1年生のときに遊んでしまうと、あとから取り戻すのが大変です。勉強は、学生の本分ですから、受験の前でも後でも、常に同じように生活の優先事項として取り組んでいく必要があります。
高校受験の必要な中学に進んだ生徒は、中学1年生のころは、まだ受験が差し迫った課題になっていないためにのんびり過ごしてしまうことがあります。家庭で、勉強の方針を立てて計画的に取り組んでいく必要があります。
中学生は、まだ自分で勉強の計画を立てることはできません。計画を立てて何かを成し遂げるという経験が少ないからです。特に、受験に向けての勉強計画のような大がかりなことは、本人の力だけではできません。しかし、勉強の計画の立て方は、学校では教えてくれません。塾も、スケジュールに沿った勉強を教えてはくれますが、本人が自分で計画を立てて勉強する方法は教えてくれません。中学生の勉強の計画は、家庭で試行錯誤しながら少しずつ作っていくものです。
そのために、学年が変わる前の春休みの間に、勉強法の本をまとめて読んでおきます。新しい物事に取り組むときは、本の情報を参考にするのがいちばんです。
できるだけ多くの勉強法の本を読み、その中で、自分がいちばん参考にできると思った本を1冊決めて、その1冊を勉強法の座右の書として勉強を進めていきます。自分のペースで勉強していると、いつの間にか自己流のやり方で無駄の多い勉強をしていることが多くなるので、ときどきその本を見て軌道修正するようにします。
中学生の時期は、小学生のときよりも、高校生のときよりも時間の余裕がありません。部活があったり、定期テストがあったり、宿題があったりと、毎日時間に追われる生活をしています。しかし、勉強の基本はシンプルです。
国語力については、読書に力を入れるとともに、難しい文章として高校入試の問題集の問題文を読む練習を続けていきます。時間が忙しくなると、読書は後回しになりがちですが、中学生のころに読書をしない生活にしてしまうと、その後の高校生、大学生でも読書のある生活になかなか戻りません。読書は、勉強と同じぐらいの重要度で毎日取り組んでいきましょう。中学生になると、国語の教科の中に、文法や古文が出てきます。これらは本当の国語力というよりも、単なる国語の知識です。文法や古文は、漢字の書き取りと同じように繰り返し覚えるという形で勉強していきましょう。
英語の勉強の基本は、教科書を何度も音読して、丸ごと暗唱できるぐらいにしておくことです。教科書の1ページを20回ぐらい声を出して読むと、文章を見ないでも言えるようになります。そのようにして全ページを暗唱していきます。暗唱ができたら、もとの文章を見ないでも書けるところまで覚えていきましょう。これは、口で言うほど簡単なことではありません。気長な忍耐力の必要な勉強です。英語の成績は、真面目さに比例していると言われます。試験前に集中して勉強するのではなく、毎日の勉強の目標を決めてこつこつと取り組んでいくことが大切です。
数学の勉強の基本は、自分にとっては少し難しいぐらいの問題が載っている問題集を繰り返し解くことです。できなかったところは、解法を見て自分で理解します。解法を見ても理解できないときは、両親や先生に聞きます。お父さんやお母さんは、突然中学生に数学の問題を聞かれても答えることはできませんが、解法を見て理解することなら子供よりもよくできるはずです。身近な両親に聞いて、それでもわからないときは先生に聞くというようにしていくと能率がよくなります。
数学の勉強は、易しくできる問題を何題解いても力がつきません。問題集を繰り返し解くときも、一度できた問題は決して解かないようにします。そのかわり、できなかった問題は、日を置いて、2回でも、3回でも、4回でも、できるようになるまで繰り返し解きます。できない問題だけを繰り返し解くという勉強は、精神的にかなり苦しいものですが、こういう勉強の仕方でなければ力はつきません。
このように、繰り返しできなかった問題を解くという勉強をするために、問題集はしっかりと1冊に製本してあるものを選びます。塾でもらうプリントや通信教材で次々と送られる小冊子の形のものは、ばらばらになりやすいので繰り返し解くという勉強には向きません。
中学生の勉強で最も差がつく教科は数学です。だから、高校入試でも、数学の成績が合否を左右します。数学が苦手だと、高校に入ってからの進路の幅が狭まります。数学の成績は、頭のよさにも遺伝にも関係ありません。ただしい勉強の仕方を知っているかどうかです。しかし、覚えるる知識の量が多く、その知識が土台になって次の知識に結びつくという形になっているので、苦手な人はなかなか成績が上がらないように見えるのです。
高校入試で、作文試験を行うところが増えています。点数の差をつけるために、課題はかなり難しいものが多いようです。しかし、言葉の森の通常の作文の勉強をしていれば、どのような課題でも書き方はすぐにわかります。
合格圏内に入る作文を書くためには、思考力と語彙力をつけておくことが大切です。思考力と語彙力は、読書によって身につきますから、学校の勉強とは別に多読と難読を進めておく必要があります。
パソコンで作文を書いて送信すると、自動採点ソフト森リンの点数が表示されます。森リンの点数が高い作文は、思考力と語彙力の優れた作文です。森リンの点数は、毎月のランキングが表示されるので、自分の作文の点数を上げることを目標にして作文を書いていくとよいでしょう。
パソコンで作文を書いている人は、入試の作文試験の3ヶ月ぐらい前から手書きに戻しておきます。手書きに戻すと、漢字を勘違いして覚えていることに気がつくことがよくあります。手書きの練習をするときは、漢字を辞書で確かめるようにしましょう。この場合、漢字は書きながら確かめるのではなく、あいまいな漢字をとりあえずカタカナなどで書いておき、作文を書き終えてからまとめて辞書で確かめて書き直すようにします。
作文試験に書く作文には、時間制限と字数制限があります。いずれも、書くことに慣れていないと、なかなか短期間では身につきません。毎日の作文の練習でも、できるだけスピードと字数を意識して書いていくようにしましょう。
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