言葉の森では、現在、オープンソース長文プロジェクトを考えています。
言葉の森の長文は、これまで主に、市販の図書から作成してきました。
最初のころは、著作権の問題があるので、学期ごとに生徒1人につき図書を1冊購入し、その一部を教材として利用するという形を取っていました。
しかし、図書の寿命は短く、利用したい本が次々と絶版になっていくので、図書を利用するという方法は難しくなってきました。また、図書によっては、内容は優れているものの、表現が今一つであるようなものもありました。何よりもネックになったのは、小中高生が読むのにふさわしい、説明文や意見文の優れた本が少ないということでした。
そこで、現在考えているのは、教材となる長文をオリジナルに作成していくことです。
既に、前学期と今学期の小学1・2・3年生の読解マラソン用の長文は、言葉の森の講師が作成しました。作成する長文の条件は、勇気と知性と愛とユーモアです。読んでいて明るくなるもの、科学的なもの、愛情に溢れたもの、面白いもの、ということです。
作成の仕方は、既にある優れた内容の本や記事を参考に、作成者が内容も表現もすべて新しく組み立てなおして書くという形です。今のところは、現代のものが中心になっていますが、日本には優れた内容の古典で埋もれているものが数多くあります。将来は、それらの古典も現代的な内容と表現で再生したいと思っています。日本語の文章は、日本文化のローカリティを反映したものであるべきだと思うからです。これは世界中のどの言語にとっても同様です。
さて、オープンソースと名づけたのには、二つの理由があります。
一つは、読者の声を聞きながら、常に内容や表現を改善していくということです。これまでの本の著作権は、作者のもので、作者の同意がなければ、文章を変更することはできませんでした。しかし、書かれた文章の本来の権利は、読み手にあります。特に言葉の森の長文は、読解マラソンなどで子供たちが音読することが多いので、その子供たちが喜んで読めるようなものに日々改善していけるようにしたいと思います。これを、ウェブを利用した公開された場で行っていく予定です。
オープンソースのもう一つの理由は、これらの長文をだれもが自由に利用できるようにするということです。現在、学校や学習塾が、国語の教材や国語の問題として日本語の文章を利用しようとするときにネックとなっているのが著作権の問題です。文章を書く人の権利は尊重されなければなりませんが、言葉の森の長文に関しては、そういう堅いことは言いません。だれでもフリーで利用できるものにしたいと思っています。
また、この長文をもとにした国語問題もオープンソースで作っていきたいと思っています。
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「子供」と「子ども」とどちらが正しい書き方なのかという質問を受けました。
しばらく前までは、昭和25年の文部省の基準で「子どもという仮名書きが望ましい」となっていたために、「子ども」の方が一般的な表記でした。しかし、その後常用漢字表の中でも「子供」の例が挙げられるようになり、現在では、「子供」の方が一般的な表記になっています。グーグルによる検索でも、「子供」は「子ども」の倍以上使われています。私(森川林)自身も、昔は「子ども」を使っていましたが、今は「子供」を使っています。
したがって、答えは、「子供でも子どもでも、そんなことはどちらでもいい」です(笑)。大事なのは、文章の中身であって、その中身を伝えやすくするために違和感の少ない書き方をした方がよいということです。
さて、本題。
子供の成長を願わない親はいません。ところが、この成長ということ自体がわかりにくいために、親はつい成績=成長と考えてしまいます。成績と成長は関係の深いものですから、大体はこの考え方が通用します。しかし、成績と成長はもちろんイコールでは結べませんから、時に、成績のために成長が阻害されたり、成績にも関わらず成長するという状態が生まれます。
登場人物は、森男(もりお)君と林子(りんこ)さんです(同名の人がいたらごめんなさい。しかし、最終的に二人ともハッピーエンドになりますから、安心して読んでいってください。ただし、ストーリーは森男君と林子さんが社会人になるまで続く予定です)。
森男君と林子さんは、小学校1年生です。二人とも、学校の成績はどの教科もよくできています。特に家や塾で長時間勉強をさせているわけではありません。むしろ、同年代のほかの子よりものびのびと遊んでいますが、成績はいいのです。楽しく遊んでいて、勉強もよくできる。理想的な小学1年生です。
しかし、低学年のうちの成長は、成績では評価できません。一見どの教科もよくできているその背後で、大きな変化が進行しているのです。
森男君のお母さんと林子さんのお母さんは、それぞれ、何か習い事でも始めようかと考えました。今のままでも問題はありませんが、この先学年が上がって、勉強が難しくなったときにも対応できるように、将来役に立つ習い事をさせておこうと思ったのです。
そして、森男君は言葉の森で作文の勉強を始めることになりました。林子さんは英語と算数と国語の教室に通うようになりました。さて、二人はそれぞれ楽しく勉強をしていきます。(つづく)
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今回は、受験直前の取り組みの説明です。
まず、作文小論文の試験では、どういう課題が出るかわかりません。ここがいちばん不安なところです。この不安をなくすには、次のように考えることが大切です。「運がよければ、いい課題が出るだろう(笑)」。
書きやすい課題が出れば自分の普段の心がけがよかったからだと考えます。しかし、書きにくい課題が出たときは、「こんなに書きにくいのだから、ほかの人もみんな苦労しているだろう。だから自分は自分のベストを尽くせばいいのだ。ラッキー」と思えばいいのです。
さて、直前までの勉強の中心は、これまでに書いた自分の文章です。どんな参考書よりも自分の書いた文章がいちばんの財産です。書いたものを何度も読み直し、自分なりによく書けているところに赤ペンで線を引いていきます。それを試験の直前まで続けていってください。よく書けているところとは、切れ味のいい表現、感動のあるエピソード、味のある会話などのあるところです。
試験の当日には、自分の書いた文章のファイルと1冊の本を持って出かけます。本は、空いている時間などに読みましょう。小説よりもノンフィクションの方がいいでしょうが、自分の好きなものでかまいません。これは、面接のときも同じです。何気なく手に持っていった本が、作文試験や面接のときに意外と使えることがあるります。
試験の会場でも、時間があれば、これまで自分が書いた文章のいいところだけを読んでおきましょう。
試験が始まったら、課題を見て、これまでに書いた文章の使えそうなところを簡単にメモします。作文に、その使えそうなところが三つも入れば大成功です。もちろん、使えそうなところが何もなくても大丈夫です。これまでに書いたものが頭に入っているので、書いている間に自然に続きが出てきます。
書いたあとは、もちろん読み返し。1、2文字の訂正なら消しゴムで、それ以上の長い訂正は消しゴムを使うと汚くなるのでなるべく訂正をしないように工夫していきましょう。原則として消しゴムは使わないつもりで書いていきます。これは普段の練習のときも同じです。
試験までにまだ時間があり、もう少し書く練習をしたいという場合は、自分がこれまでに書いたものと同じテーマで同じ内容を時間内に書く練習をしていってください。新しい課題に取り組む必要はありません。書く時間が取れないときは、頭の中で構成を考えるだけでも練習になります。
それでは、試験まで、これまでに書いたものを何度も読み返してがんばってください。
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今、受験に取り組んでいる人は、目の前の試験で頭が一杯だと思います。しかし、当たり前のようですが、親は、合否の先にあるものを見ておく必要があります。
受験が過酷であればあるほど、親はつい、「合格さえすれば、あとはどれだけ遊んだっていいんだから」というような励まし方をしてしまいます。しかし、たとえ言葉の上でであっても、こういう発想をしてしまうと、子供はそれを真に受けてしまいます。
受験は、確かに人生の一大イベントですが、この先に、将来社会に出て活躍するというもっと大きなイベントが待っています。いい学校に合格するかどうかということは、登山口に差しかかったというところで、まだ本格的な登山はこれからです。
親が長期的な視野でものごとをとらえて、折に触れてそういうことを話していれば、子供も自然にそういう長期的な視野を身につけます。
先のことは合格してから考えればいいという人は、人間の心理の仕組みをよくわかっていません。貝原益軒は、「予め」ということを教育論の骨子にしていました。まだものごとが差し迫った課題になるずっと前から、予めそのものごとについての捉え方を考えておくと、実際にそのものごとが生じたときに、スムーズに対処していくことができるのです。
例えば、禁煙教育などは、子供が中学生や高校生になってから始めても手遅れです。子供が遊び半分でタバコを吸い出したころに禁煙教育を始めても効果がないのです。タバコなどに全く縁のない小学生のうちに「予め」しておく必要があります。合格も同じです。合格後のことは、合格する前に考えておくか、少なくとも合格してすぐに考えることが大事です。
子供は、よく冗談で、「合格したら、たっぷり遊ぶぞ」と言います。親も、微笑ましくうなずきます。しかし、実際に、たっぷり遊ぶのは二、三日もあれば十分です。それ以上、何週間も遊んでいると、だんだん精神が堕落してきます。遊ぶ喜びよりも、もっと深いものは、自分を向上させる喜びです。
親は、いつも一歩先を見て行動しておく必要があります。それが、子供よりも年をとっている親の責任になると思います。
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新年にあたって、勉強の方向を考えるために、今回はちょっと難しく作文の意義について書いてみます。
書くことは、最初はただ自分の現実を表すことにすぎません。「今日の朝ごはんは納豆と玉子焼きでした」というような文です。
しかし、多くの経験を積み、多くの本を読むことによって、自分の現実そのものが次第に豊かになってきます。また、自分の使える言葉も、次第に豊かになってきます。
書くことと現実の間には、もともと小さな隙間があります。それは、作文は現実の一部分しか表すことができないからです。朝ごはんの納豆にはカラシやしょうゆもついていたはずです。しかし、その調子で細かく書いていくときりがありません。
しかし、現実と表現の両方が豊かになるにつれて、やがて、作文と現実の間に新しい隙間ができてきます。それは、書くことによって、まだ現れていない現実を明らかにするような意味での隙間です。このとき、書くことは、現実を表すことから一歩進んで本質を表すことにつながっていきます。
作文が創造的であるというのは、このような意味です。それは、表現の創造であるとともに、あるべき未来の創造でもあります。豊かな創造を生み出すためには、経験や読書という自分の現実そのものも豊かにしていく必要があります。その上で、書くことを通して、自分の現実をより一層豊かにする方向を見つけていくのです。
今年も、大きな展望を持って言葉の森の勉強をがんばっていきましょう。
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あけましておめでとうございます
年末から年始にかけて、いろいろ本を読みました。
そのひとつが、「インドの聖者アマチ」の本です。これは、日本ではあまり知られていませんが、マハトマ・ガンジーやマザー・テレサと同じような人です。
その本を読みながら考えました。
インドでは、アマチのように、自分のエゴを克服して大きな愛で世界に貢献している人がいます。その裏づけとなっているものは、インドの思想です。同じようにマザー・テレサの裏づけとなっているものは、キリスト教です。
アマチは、言います。「私たちには聖典があります。日本人も自分たちの聖典を大事にしてください」
しかし、日本にある聖典とは何でしょうか。日本のオリジナルなものということで言えば、古事記や万葉集です。しかし、そのどこに、人類に対する愛の大切さが書いてあるでしょうか。あるいは、四書五経も日本人の聖典に入るのかもしれません。しかし、本居宣長は言いました。「日本に、インド仏教や論語孟子のような大思想が生まれなかったのは、日本の人民のレベルが高かったので、そういう思想をわざわざ必要としなかったからだ」と。
では、どうして、聖典のような思想的な裏づけを持たない日本人が、愛と調和のある社会を築いてこられたのでしょうか。そこに、私は、家庭教育における生活習慣の教育を見たのです。
インドでは、愛を説く思想を学ぶ人が、カースト制度のもとで暮らしています。食べたあとの食器を片付けるのはスードラ(奴隷)の仕事です。ごみを片付けるのもスードラの仕事です。愛を学ぶ一方で、自分の足元で身分制度の差別に虐げられている人を前提とした生活をせざるを得ないのです。
日本では、人類に対する愛を唱える思想はありません。しかし、親は子供に言います。食べたものは自分で片付けなさい。そして、レストランに行ったときでも、レストランの人が片付けやすいように食器を整えてイスをしまって出てきます。旅館に泊まるときでも、泊まった部屋を片付けて出てきます。これは、旅館の従業員が仕事をしやすくするためです。決して、スードラのする仕事だから散らかし放題でいいとは思いません。
思想として愛を学ぶことと、日常の生活として思いやりを学ぶことの違いがここにあります。
人類に宗教が必要なのは、人類のレベルがまだ劣っているためです。一人ひとりが日常生活に思いやりの気持ちを持てれば、宗教のような大思想は必要ないのです。
キリストは、「あなたたちの中で罪のない人は、石を投げなさい」と言いました。こういう偉大な言葉が必要だったのは、その当時の社会で、罪人に平気で石を投げる人が多かったからです。今、私の身の回りを見渡してみると、罪人に平気で石を投げるような人はほとんどいません。たとえいても、周囲の大多数の人が止めます。だから、キリストはもういなくてもいいのです。
あるホームページで、「私たちは愛51%エゴ49%にならなければならない」という記事を読みました。そのときは、なるほどと思いましたが、あとから考え直しました。愛とエゴは、限られたパイを取り合うゼロ・サムの関係にあるのでしょうか。愛が52%になったら、エゴは48%になるのでしょうか。
日本には、だれでも知っているすばらしいことわざがあります。「よく学び、よく遊べ」。愛もエゴもできるだけ豊かに生きる。おいしく食べて心から感謝する。そういう生き方の方が、より明るくより建設的なものなのではないかと思ったのです。
しかし、話はここで終わりません。
宗教のような大思想を必要としない社会が来たあとに、人類が必要とする新しい大思想は別の形であるはずです。
それを考えるのが、これからの人間の課題だと思います。
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読解力をつけるための最短コース
「読解マラソン」
「読解力をつけるにはどうしたらよいでしょうか。」
「塾の授業はまじめに受けているのに国語だけ成績が上がりません。」
「毎日、国語の問題集を解いているのに、点数に結びつきません。」
↑
言葉の森では、これまでに、このような相談を何百件も受けてきました。
残念ながら、塾の授業を受けても、問題集を解いても、読解力はつきません。
では、どうしたらよいのでしょうか。
それは、ひたすら読むこと。
「ええ、それだけでいいの?」と驚かれるかもしれませんが、まずはそれだけやってみてください。
記述問題の書き方、空欄補充問題の考え方、選択肢問題の選び方など、確かにコツはありますが、それらは読解力さえついてしまえばたいしたことではありません。まずは、ひたすら読みましょう。読む量を増やさないことには話になりません。
なぜなら、読解力がないのは、読む量が不足しているからです。
中には読書は好きなのに、国語のテストはできないというケースもありますが、これも同じく読む量が不足しているのです。
なぜなら、物語のような読みやすいものばかり読んでいても読解力は育たないからです。
言葉の森は、25年以上にわたって、小学生から高校生までの国語の指導にあたってきました。中心となる勉強は作文ですが、作文も含めて国語の勉強の基盤は読むことなのです。
そこで、言葉の森では、これまでも、書く勉強と並行して、少しむずかしいくらいの文章を繰り返し読む勉強を勧めてきました。まじめにやった生徒は、学校や塾の国語の成績に結果を出しています。
しかし、中には、勉強法があまりに単純すぎるせいか、問題を解くような勉強に戻ってしまったり、途中で飽きて挫折してしまったりする生徒も少なくありませんでした。
また、「ひたすら読む」とは言っても、何をどうやってどれくらい読んだらよいのかわかりにくい面もありました。
そこで、この読む勉強をシステム化して、勉強しやすくしたのが「読解マラソン」です。
「読解マラソン」では、学年相当より少し難しい長文の音読を毎日繰り返し、最終的には一冊の長文集を4回以上読むことを目標としています。1日の音読時間は10〜15分ぐらいです。
「読解マラソン」を始めて、数ヶ月経つころには、音読の効果が現れてくるはずです。(もちろん、まじめに毎日続けていればの話ですが……。)
読解力は、国語のみならず、すべての教科に必要なものです。また、読解力は、暗記して身につけるような力ではないので、一度身につけてしまえばずっとその力を維持できます。読解力に自信があれば、受験前の追い込みの時期に国語の勉強をする必要がないので、他の科目の勉強に集中できるというメリットもあります。
さらに、読解力は、子供たちの今後の人生のさまざまな場面で役に立つものです。
読解力は成長とともに自然に身につくものではないという点は注意が必要です。放っておくと、ますます差がついてしまいます。もちろん、一夜漬けも効きません。
「読解マラソン」で一生の宝となる読解力を身につけましょう。
言葉の森では、作文の勉強と並行して読解マラソンの勉強をすることができます。
電話指導だから自宅で受講できる無料体験学習受付中
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熊本市の成松です。兄弟でお世話になっています。四月から読解マラソンが始まり、朝食前と夕方に計三話ずつ読むことを習慣にしました。最初は抵抗があったようですが、ここは長期戦で構える覚悟で臨みました。学校の宿題に読解マラソンだけという日も多々ありました。それまでは、国語のテストの苦手意識、または教科書内容に沿わない文章題の問題は途中で投げ出すことも多かったのですが、上の子が最近二回ほど、こう言うのです。国語のテストが分かるようになった、文の意味がすぐ分かる、国語が好きになったと。それまでは文章題のドリルを一日一枚しても苦手意識があり、解いて、答え見たら終わりだったのが、それを止め読解マラソンに切り替えただけで・・。
先日、私も四年の兄のを読んでみました。結構難しく、脳を連動させながら口に出すという感じで、これは文章の内容の濃さを語ってるなあと感じました。只、これは子供任せより、親の目配り気配りが効果をアップさせるのではと思います。これからも読解マラソンを何はともあれ一番で取り入れていこうと思います。宝が隠されている文集フォルダですね。
コメント、ありがとうございます。
次学期の読解マラソン集は、ルビ付きとルビなしの両方を入れてあります。ルビ付きが2ヶ月ほどで読みなれてきたら、あとの1ヶ月はルビなしに挑戦されると、更に高度な勉強になります。
難しいものをやりとげると、子供にも自信がついてきます。お母さんの役割は、やらせ続けることと褒め続けるになります。実は、お母さんがいちばん大変です。
がんばってください。
<<え2006/302jみ>>
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今学期から、長文集が横書きになったことについて、数件のご意見がありました。内容は、「横書きよりも縦書きの方が読みやすかった」というものです。
縦書きの方が読みやすいというのは、私(森川林)も同じです。日本人は、縦書きの方が目が早く動くようになっているようです。これは、もちろんふだん接する文章に縦書きが多いからでしょう。
では、なぜ長文集を横書きにしたかというと、それは「父母の広場」にも書きましたが、次の理由からです。
(1)縦書きは、普段の生活で十分に接している
(2)入試の作文小論文の課題では、横書きの課題文が多くなっている
(3)現在のインターネット技術で、縦書きルビふりを枠内に収めることは不可能
いちばん大きいのは、(3)の技術的な問題ですが、考え方の土台として、縦書きか横書きかは好みの問題で、読みやすさはそれほど大きくは変わらないということをが今回の横書き化の前提となっています。つまり、縦書きか横書きかは、それほど大きな問題ではないという考えです。
さて、ここで問題にしたいのは、縦書きがいいか横書きがいいかということではなく、そういうことにこだわる親の姿勢です。
言葉の森の長文については、これまで、次のような苦情を受けてきました。
「縦書きと横書きが同じ課題フォルダの中に混ざっていて読みにくい」
「縦書きの長文の行間が狭いので読みにくい」
「長文の内容に興味がわかないので読みにくい」
「長文にふりがながふっていないので読みにくい」
「長文の字が小さくて読みにくい」
「長文が内容が難しくて読みにくい」
「長文の漢字が多くて読みにくい」
そのとおりです。こういう批判は、技術的・時間的に可能なかぎり対応してきました。
しかし、私が問題にしたいのは、このような苦情を言うお母さんが、自分の子供が長文を音読するときにいつもにこにこ、「よくできたね」と褒めているでしょうか、ということです。「長文が読みにくい」とわざわざこちらに言ってくるお母さんは、自分の子供が長文を音読しているときにも同じように、「どうしてもう少しすらすら読めないの」などと言っていると思います。
つまり、問題は、読みにくい長文という外側にあるのではなく、そのお母さんの物事を見る姿勢という内側にあるのです。
大変失礼な言い方になっていると思いますが、子供の教育を考えるときに、長文が読みやすいか読みにくいかということは枝葉末節のことです。肝心の幹となる部分は、親が子供のいいところを見て、明るく前向きに接しているかどうかということです。
批判の多いお母さんの子供は、小学校中学年のころまでは素直にいい成績を取っています。しかし、高学年になるとだんだん親に反発し親の言うことを聞かなくなってきます。これは当然です。人間は短所を直して成長するのではなく長所を伸ばして成長するからです。
そして、もっと大きい問題は、批判を受けて育った子供は、親に反発しながらも、やがて自分が大きくなったときに自然に周囲を批判するような大人になっていくということです。親や先生が教える勉強の中身は限りがあります。勉強の中身よりももっと大きく影響を与えるものは、子供が勉強を教わることを通して学ぶ、親や先生の生き方です。子供が幸福な人生を歩めるように教育をするのであれば、教える中身よりも教え方にこそ注意を向ける必要があります。
いろいろなお母さんと接していて思うのは、欠点を見つけて悪いところを直そうとする方があまりにも多いということです。言葉の森の指導と運営に対する批判は大いに歓迎しますが、その際に、同じような批判を子供に対してもしていないかということをぜひふりかえっていただきたいと思います。
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初めての投稿です。言葉の森の受講者でもなく、長文の表示方法についてどちらが良いなどと意見できる立場ではないのですが、森川林先生の記事を読み、まさに私が今感じていることについて、ご指摘があったので思わずキーをたたいています。(ペンをとりました、と書きたいところですが・・・)
私は3人の子供を持つ母です。PTA活動などを通じて、いろいろなお母さん方と接していますが、みなさんの関心が先生や学校に対する批判や苦情に集中しがちなことをとても残念に思っています。私たちの学校では、子供たちを親と教師がどう支え導いていけるかを模索する場として、トーク集会を時おり企画するのですが、普段先生や学校に言えない不満や疑問をぶつけ合うだけで終わってしまうことがよくあります。もちろん、我が子が1日の大半を過ごす場所ですから、心配や要望があることは私自身もよくわかります。ただ、マイナスの面ばかりに気をとられて、プラスの面を大事にし、さらにふくらませていくことになかなか目がいかないことは、本当にもったいないと思うのです。「**先生の宮沢賢治についての授業のこと、卒業して3年になる子供は今でも話題にしますよ。」、「**先生が今日教えてくださった昔の言い伝え、家に帰るとすぐ、私に教えてくれましたよ。私も知りませんでした。」私はこんなことも話したいのです。
森川林先生のご指摘に、批判を受けて育った子供は大きくなったときにやはり周囲を批判する大人になる、とありました。これも本当にそのとおり、と思います。大人になるまでもなく、子供のころからも、友達の欠点ばかりに目がいくようになるのではないでしょうか。私達家族は、主人の仕事に伴い海外で生活した経験がありますが、海外で子供達がお世話になった学校では、まさに、良いところをどんどんほめる教育がされていました。そのおかげで子供達がどれほど自信をつけ伸びていったか、私はそれを目の当たりにしていますので、森川林先生のお話には心から共感します。自分の長所、頑張りを認められた子供達はまた友達の長所、頑張りを認めることができるのです。私の子供達も、友達からどれだけ「頑張ったね。」、「おめでとう。」の声をかけられたことでしょう。今日本の学校に欠けていることは、そういうことかもしれません。子供達が互いの良いところを認め合い、良い意味での競争でそれを高め合っていければ、これほどすばらしことはありません。そしてそれは、そんなに難しいことではないと思うのです。
私達親はつい、子供の欠点に目が行きがちです。学校へ出す書類などによく、子供の長所、短所を記入する欄がありますが、私はこれにどうも抵抗があり、いつも「子供の性格」と書き直して記入しています。いわゆる長所がマイナスに、短所がプラスにはたらくこともありますし、短所といわれるものは必ずしも直さないといけないものとも思わないからです。
長々とえらそうな事を書いてきましたが、我が家の現実はというと、子供への小言も日常的・・・なかなか理想どおりにはいきません。ただ、何事も悪い面に気をとられ、それにいつまでもひっかかっているのではなく、いいこと、楽しい事を見つけてどんどんやってみましょう、という姿勢で毎日を過ごしています。子供の勉強についても、よくできたところをほめ、もっと伸ばしていけるように手助けする、伸びていけない理由があるのなら、ちょっと立ち止まって一緒に考えてあげられる親をめざしています。小さな欠点にとらわれるより、よい面をどんどん大きくしていきましょう、森川林先生がおっしゃっているのはそういうことですよね。私も日々反省して前進します!
ちょうど同じような事を考えていたところに、この記事を目にしたので投稿しました。横書き長文についてのコメントではありませんが、読んで下さってありがとうございました。(このHPはとても面白いので時々拝見しています。)
貴重なご意見ありがとうございました。
人間は、心地よいことよりも、心地悪いことの方に敏感なので、つい欠点を直すという方向に目が向きやすいのでしょうね。
私のうちの子供も、子供時代にはそれなりにいい面を見て褒めて明るく育ててきたつもりですが、今考えると、もっと優しくしてやればよかったと思うこともあります。優しい親に育てられた子は、人生に対する幸福感を持てるようです。
私の場合は、仕事が暇だったので^^;子供と接する時間がかなりありましたが、普通の家庭では、母親の役割が最も重要だと思います。
礼儀やしつけについては厳しくてもいいと思いますが、勉強や成績については細かいことを言う必要はありません。勉強のことで、親も子も暗くなっている家庭があまりにも多いと思います。しかも、その場合の勉強というのは、ほとんどがテストの成績に現れた数値だけです。
よく保護者から、「テストの成績が悪くて」などと相談を受けますが、その保護者が実際にそのテストの中身を把握していることはまずありません。実際に保護者が自分で解いてみれば、そんなに暗くならなくてもいいということがよくわかるはずです。親が見て子供がまともに育っていれば、他人につけられた点数など気にする必要はないと思います。
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