作文が返されたあと、その作文をテストや何かと同じようにすぐにしまうのではなく、その内容を見てみます。そして、子供が作文に書いた内容について、お父さんやお母さんが共感してあげるのです。
その対話の仕方は、こんな感じです。
「ほう、こんなことを書いたんだ」と、まず内容に目を向けます。しかし、そのあと、「この字が違っている」とか、「この文がおかしい」などという批評はしません。また、子供の書いた感想や意見についても、「もっとこう考えた方がいい」ということも言いません。
しかし、「ほう」と感心しただけでは、そこで話が終わってしまいますから、お父さんやお母さんが、そこで似た実例を話してあげるのです。「この話については、お父さんも、昔こういうことがあったなあ」というような話題の広げ方です。似た例で話を広げていくというのが、対話を発展させる最もいい法です。
似た例には、体験の似た例と知識の似た例があります。体験は、実際にお父さんやお母さんが体験したことで、この体験実例が子供にとっては深く印象に残ります。もうひとつの知識実例は、本を読んで知っていることです。これも、エピソードを面白く話せれば、子供との話が弾みます。
実例以外の話題の広げ方は、その作文の感想に対する、新しい理由、方法、原因、対策を考えていくことです。
例えば、子供が、意見文の「○○はよいか悪いか」というテーマで、「よい」という意見の複数の理由を書いていたとします。そのときに、お父さんやお母さんが、意見そのものでディスカッションを始めるのでは単なるディベートになってしまいます。日本人の対話には、ディベートよりももっといい方法があります。それは、意見そのものには賛同した上で、子供が考えた理由に追加する新しい理由や、新しい方法を考えることです。また、子供と同じ理由で、親が新しい実例を考えることもできます。つまり、批判によって話を発展させるという欧米流の弁証法的方法ではなく、新たなものを付け加えるという創造的方法によって話を発展させるのです。
更に言えば、理由にも、Aのよい理由とBの悪い理由の二つが考えられます。方法にも、個人の心構え的な方法と社会的な方法の二つが考えられます。原因にも、歴史的原因と社会的原因の二つがかんがえられます。何だか、作文の勉強のようになってきましたが。(^^ゞ
では、意見そのものにどうしても反対したくなったときはどうするのでしょうか。そのときは、反対意見の理解という方法が使えます。
例えば、「○○はよいか悪いか」というテーマで、子供が「よい」という意見を書いていたが、お父さんは「悪い」と思っていたとします。そのときに、「おまえの言っている『よい』とう意見はおかしい。お父さんはこういう理由で『悪い』と思う」とやり出したらどうなるでしょうか。日本人は、言語脳と感情脳を左脳で一緒に処理する世界でも唯一の日本語脳を持っているので、とたんに親子とも消化不良になってしまいます。日本人には、食後の話題でディベートは向かないのです。
そこで、反対意見への理解を使います。お父さんが、「うーむ。君はよいと思うかあ。確かにこういう理由で悪いという意見もあるかもしれないけど、やはり君の言うようにこういう理由でよいという考えもあるんだろうね」。この反対意見への理解の部分が、お父さんの言いたい意見です。こういうおくゆかしい方法で、だれも批判せずに二人で新しい意見を共有できるのです。
日本の家庭には、もっと対話が必要です。しかし、その対話を欧米風の討論として行ったのでは、かえって子供が成長してから日本の社会で不適応を起こします。日本人は、討論で勝った人をあまり尊敬しません。しかし、もちろん討論に勝てない人を尊敬するわけではありません。討論に勝つ実力はあるが、そういう討論を好まない人を尊敬するのです。(つづく)
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作文の勉強は、国語の勉強の一部と思われています。また、国語の勉強は、国数英理社などのさまざまな教科の一部と思われています。しかし、本当は違います。
国語の勉強は、国数英理社などの教科と同列の勉強ではなく、それらすべての教科の土台となる理解力、思考力をつける根本の勉強です。だから、国語力のある子は、たとえ今、ほかの教科があまりできなくても問題ありません。本気になって取り組めば、ほかの教科の勉強もすぐにできるようになるからです。しかし、逆に、国語力のない子は、たとえ今ほかの教科がよくできていても、将来に不安が残ります。考える勉強になればなるほど、どの勉強にも国語的な思考力が必要になってくるからです。
ところで、国語の勉強は、日本では漢字の読み書きの勉強のように思われていますが、漢字力は国語力のごく一部です。その証拠に、漢字力が国語力として評価されている国は、世界でも日本と中国だけです。国語力の中心は、文章を読んで理解する力、つまり読解力と、考えたことを表現する力、つまり作文力です。だから、子供たちの勉強の中心は、読書と作文になるのです。
この作文の勉強を、言葉の森では、従来の「点数の勉強」としてではなく、「対話の勉強」として考えています。
作文以外の勉強は、ほとんどすべてが点数の勉強です。学校や塾でテストがあると、点数のついた答案が返されます。たいていの親は、その点数を見て、よくできていたかあまりできていなかったかを判断し、それで返されたテストはしまってしまいます。もちろん、ほとんどの子供もそうです。テストというものは、習ったことの定着度を調べるためのものですから、点数がわかればそれでいいのです。しかし、そのテストと同じような見方で作文を見てしまうのでは、作文の勉強を生かしたことにはなりません。
もちろん、言葉の森でも、作文の勉強をできるだけ客観的に評価できるように、点数の評価を行っています。例えば、森リンの点数ランキングや、毎回の作文の項目のでき具合による○×評価などです。作文の評価でこのように客観的な採点を行っているところはほかではほとんどありません。従来のほとんどの作文評価は、評価する人の主観に左右されるので、人によって点数が変わったり、あるいは同じ人でも日によって点数が変わったりしています。
しかし、言葉の森では客観的な点数は出していますが、小学校4年生以下の生徒には、あまり点数を意識させないように工夫しています。例えば、毎月の森リンのベスト10で、小4以までは上位の作品を表示していません。それは、なぜかというと、お父さんやお母さんが、その点数や作品を見て、点数の競争で子供に意欲を持たせようとすることがあるからです。「この第1位の作文に負けないように書きなさい」というような励まし方をするお父さんお母さんがかなりいるのです。
作文は、ほかの勉強と違い、がんばったからといってすぐに上手になるものではありません。作文の上達には、きわめて長い時間がかかります。それは、作文力が、その子の本当の学力とむすびついているからです。短期間の努力ではすぐに上達しない勉強を、点数の競争としてあおられると、子供はかえって意欲を失います。
そこで必要になってくるのが、対話の勉強です。作文が返却されたあとに、それをすぐにしまうのではなく、お父さんやお母さんがその作文を読んでみるのです。しかし、読んだあとに、「この字が違っている」とか、「もっとていねいに書きなさい」とか言うために読むのではありません。特に、子供と接する時間の少ないお父さんは、子供の作文を見ると批評したくなると思うので、言いたくなるのをぐっと抑えてください。子供の書いた作文を読むなり、「ここがおかしい」などと言っているようでは、作文の見方は合格とはいえません。(つづく)
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言葉の森のインターネットでの取り組みはかなり早く、1996年に既にホームページを開設していました。作文をパソコンで書くというのも、そのころから既に行っていて、当時は、小学校3年生ぐらいの子もパソコンで作文を書いていました。今でも、そのころの子供たちの作文がウェブの中にあります。
さて、インターネットはアメリカで開発された技術なので、当初、テキストが横書き中心になるのはやむをえないことでした。しかし、その後、インターネットエクスプローラが、縦書きやルビに対応したために、言葉の森のウェブの長文も縦書きに直しました。
しかし、日本人技術者が最初から深く関わっていたマイクロソフト社と違い、アップル社やグーグル社は、日本語の環境にあまり対応していなかったために、現在まで、それらのブラウザは縦書きにもルビにも対応していませんでした。ところが、ここに来てやっと、縦書きに関しては、サファリやグーグルクロムも将来的に対応する見通しが出てきました。
そこで、言葉の森の教材は、この4月から教材を縦書き中心にしていく予定です。
しかし、ウェブの基本は横書きですから、教材も縦書きと横書きが混在する形にならざるを得ません。縦書きのページを中心に横書きも途中に入るというような作りになると思います。
さて、日本語以外にも、縦書きの言語や、右から左に向かって書く言語などがあることを考えると、今後、テキストを入力する方法も、キーボードから次第に手書き的なものに変わってくるのではないかと思われます。
一太郎を開発したジャストシステムの創業者が、手書き文字認識ソフトを開発しています。キーボード入力は、既に書くことが決まっている文章を清書するには向いていますが、書きながら考えるという作業には向いていません。人間が考えながら書くためには、やはり手書きがいちばんです。
言葉の森でも、今、パソコンで作文を書いている生徒に、もっと手書きの要素を取り入れる指導をしていきたいと思っています。
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▼(小2父母)読書の習慣がなかなかつきません。暗唱が精一杯で本は気が向いたら読むという感じです。書くことは好きなので楽しく取り組んでいます。読書する時間を毎日うまくとるにはどうしたらよいでしょうか。
●読書が進まないのは、まだ読む力がないからです。その子の読む実力よりも難しい本を読んでいるのではないかと思います。次のようにしていくと読む力がついてきます。
1、面白いやさしい本を中心にする。
2、何しろ毎日読むことを続ける。
3、本人の読書と並行して、お母さんからの読み聞かせも続ける。
本人が読んでいるときに、何気なく横から、「よく読んでいるね」「本、好きなんだね」などと認めてあげる声かけをするといいと思います。
▼(小4父母)課題の中に書きたいものがなく負担になっているようです。先生と話しているときはいい雰囲気なのですが、電話のあとが続きません。
●書けないのは、課題のせいというよりも、作文の実力のせいです。小4以上は、自由な題名にすると、最初はよくてもそのうちにかえって書けなくなります。題名課題や感想文課題の作文を書くコツは次のとおりです。
1、課題が難しくなっているので、字数は短くてもよいと言う(驚くほど短くてもかまいません。例えば100字程度でもよい)。
2、書けたら、「難しいのをよくがんばったね」と認めてあげる(たとえ100字ぐらいであっても)。
3、書き出せないときは、お母さんが言ってあげたとおりに書かせてもよい。(事務局に電話をして追加の説明を聞かせてもいいです)
つまり、何しろ形だけでも書かせて、「できた」という実感を持たせることが大事です。
こういうふうにやれば、だれでも書けるようになります。簡単です。家庭だけで悩まずにご相談ください。
▼(小3父母)暗唱を、音読ではなく黙読で覚えてしまいます。毎朝やることになっていますが、たまに忘れると週末に一気に覚えるときもあります。
●小3のうちは、暗唱力もあり、文章自体も読みやすいので、そういう形でもできます。しかし、文章が難しくなるにつれて、音読でないと覚えられないようになってきます。また、毎日でないと覚えられないようになります。
毎日やるというのを子供の責任にするのではなく、子供の継続力をつけるための親の責任と前向きに考えて取り組んでいくとよいと思います。しかし、それが親にとって負担だと感じられる場合は、続けにくい自習を無理にすることはかえってよくありません。その場合は、毎日の暗唱はやめて、もっと続けやすい毎日の読書だけを確実にしていくといいと思います。
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昭和初期までの子供たちは、家で農作業を手伝ったり、家事を手伝ったりして成長しました。これらは、目に見えるノルマも報酬もない単調な仕事です。朝起きたら、当然のように、まきを割ったり、水を汲んだり、玄関を掃除したりしてから学校に行ったのです。こういう毎日の単調な仕事を続けていくことで、成人になってからも自立して持続するという根性が身についていきました。
しかし、今の時代に、このように毎日同じような家事手伝いを子供にさせることができるでしょうか。家事が合理化された現代では、子供に手伝いをさせるという必然性がありません。昔は、子供が手伝わなければやっていけないほど家事が多忙だったのです。今は、洗濯機も掃除機も冷蔵庫もあるので、子供が何かを手伝わなければ家庭生活が円滑に運営できないような状態はありません。
今の子供たちが、ひ弱なのは、このように毎日何かを続けるという習慣が家庭になくなったからです。毎日の暗唱や読書の自習は、この根性を育てるための機会だと考えて取り組んでいくことです。毎日の自習をするということであれば、子供も納得できる合理的な根拠があります。気分が乗らないときも、遊びたいことがあるときも、何しろ毎日自習を続けるということは守らせることができます。少なくとも、毎日玄関の掃除をするというようなことよりもずっと守らせやすいはずです。
そして、このように毎日しなければならないことがあると、子供の生活全体がめりはりのあるものになります。日曜日などは、大人でも朝起きてから特にすることもなくぼんやり過ごしてしまうことがあります。ところが、子供の場合、朝ご飯の前に暗唱ということを決めておけば、その暗唱をしたあとにすぐきちんとした生活を送る姿勢ができます。しかし、ここで大事なのは、自習ができたら褒美をあげるというようなやり方にはしないということです。自習がちゃんとできたら褒美をもらえるということになると、子供の自立心は育ちません。褒美があってもなくても、決めたことを黙々とやるということが自立心です。
ただし、子供の努力を認めることは大事ですから、親がときどき、「よくがんばっているね」「本をよく読んでいるね」「今日もちゃんとできてえらいね」などと言ってあげることです。このときに、父母で協力して、子供の努力を認めるということが必要です。一方の親が子供の努力を認めているのに、他方の親が子供の努力に関心がないとなると、勉強は続けにくくなります。また、一方の親が努力を認めているのに、他方の親が子供の欠点を指摘してばかりいると、やはり子供は勉強しにくくなります。子供をよりよく成長させるということは、どの親にとっても共通の目標になるはずですから、勉強のさせ方で多少の不一致点があったとしても、「いったん決めたことは続けさせる。そのためには、できていたら褒める、できていなければ叱るということを気長に続ける」ということだけは一致させておきましょう。
国語の力は、この暗唱や読書や対話のように、日本語を豊かに吸収する生活がなければ決して身につきません。国語力をつけながら、自立心も併せて育てる学習として、親の働きかけが必要な自習をむしろ肯定的にとらえて毎日の勉強に取り組んでいってください。
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国語力は、国語の問題集をいくら解いても身につきません。問題を解いたあと、先生の説明を聞いても、その説明を理解する力は、本人のもともと持っている国語力までです。
では、国語力はどのようにしてつくかというと、それは塾や学校の国語の勉強の中ではなく、日本語の豊かな家庭生活の中でつくのです。これが、国語の勉強が他の勉強と違うところです。国語力は、いろいろな教科の学力の中のひとつの学力なのではなく、あらゆる勉強のもとになっている理解力、思考力のことなのです。
国語の得意な子は、国語の問題集をしっかりやってきた子ではありません。家庭生活の中で、読書と対話の時間を多く取ってきた子です。だから、国語の勉強は、毎日の家庭での自習としてやっていくという方法がいちばんよいのです。
そこで、言葉の森では、毎日の自習として、音読、暗唱、読書、問題集読書などをするようにすすめています。
しかし、この自習というのが子供にとっては飽きるものなのです。問題を解くような形の勉強であれば、新しいプリントをやって、それまでのプリントのやったあとが残りますから、一見やりがいがあるように見えます。しかし、国語はそのようなプリントを解くような形の勉強では身につきません。国語力は、特別の教材がなくても毎日同じようにやれる自習を続けることによってつきます。
言葉の森の自習の内容を、わかりやすく暗唱と読書に絞って説明します。(年齢的に無理のない自習は、小学校5年生までは暗唱と読書、小学校6年生以上は問題集読書と読書です。また、どうしても暗唱や問題集読書が続けにくいという場合は、最低限の自習として毎日10ページ以上の読書だけを続けるようにしてください)
まず、自習に対する発想を変えていく必要があります。問題のプリントをやるような自習であれば、ノルマを決めておけば子供はある程度自動的に勉強をするようになります。しかし、暗唱や読書はそうではありません。暗唱や読書は形に残らない勉強ですから、最初の時期は親がそのつど「やりなさい」と言わなければできません。また、形に残らない勉強なので、子供はすぐに飽きてきます。そのために、暗唱などわずか10分でできることを続けられなくなる子が多いのです。
しかし、小学校低中学年のうちに、この形に残らない勉強を続けるという習慣を育てていくと、それは、将来の勉強に最も必要な自立した持続力を育てることになります。
子供の本当の学力は、中学生後半から高校生になり自覚して勉強するようになってから急速に向上します。自覚して勉強を始めると、それまでの親から言われてしぶしぶやってきた勉強の数年間分を数ヶ月で取り戻すようになります。
しかし、この中学生後半からの自覚した勉強であっても、本人の意欲はあるのに勉強が空回りしてしまうということがよく出てきます。それは、決心を持続する習慣が育っていないからです。例えば、英語の教科書を暗唱するとよいらしいという勉強法を聞いて早速始めたとします。ところが、ほとんどの子は数日で飽きてしまうのです。これでは、意欲はあっても実力は伸びません。
そのときに、小学校低中学年のうちに毎日同じことを同じようにするという勉強習慣をつけていた子は、一度決心したことを成果が出るまで長期間続けていくことができるのです。中学生後半から高校生のときに、自立しした勉強ができるようになっている子は、いったん目標が決まると自分のペースでどんどん実力をつけていきます。一方、自立した勉強の習慣のない子は、高校生になってもあいかわらず塾や予備校で先生から強制される場がないと勉強をすることができません。高校生以上になると、勉強は個人個人の個性の差が大きくなります。志望校の問題の傾向も違うし、生徒本人の得手不得手も違ってくるからです。そのときに、自分のペースで勉強できる子と、他人に強制される場がないと勉強できない子とでは、学習の能率に大きな差が出てきます。高校生になってから学力が伸びる子と伸びない子の差はここにあるのです。
小学校低中学年の毎日の自習は、単にその勉強をするためだけの自習ではありません。毎日同じことを同じように続けるという自立心をつけるための自習です。だれでも、最初のうちは、親に言われなければ、毎日の暗唱や読書はできません。また、数日、風邪で休んだり、旅行に出かけたりすれば、それまで毎日続けてきた自習の習慣もすぐに消えて、また親から言われなければやらない状態に戻ってしまいます。しかし、そこで親がまた飽きずに自習をさせるということを繰り返します。このようにして、何度も親から言われて続ける期間が長くなればなるほど、子供の心の中に持続する勉強の力がついてくるのです。
小学校低学年のうちに、毎日の暗唱を1年間続けた子であれば、高校生になったときに、自分が決心した勉強を1年間続けることができます。逆に、小学校低学年のうちに、毎日の自習に飽きて、プリントをこなすような勉強に戻ってしまった子は、高校生になっても、自分が決心した勉強を続けられずに塾や予備校に頼るようになります。
夏休みは、集中して勉強に取り組むのに最もよい時期ですが、ほとんどの高校生が自分で勉強できずに、塾や予備校の夏期講習に通います。それは、自立して勉強を続ける習慣がついていない子がほとんどだからです。しかし、ごく少数ですが、塾や予備校に頼らずに自分で勉強していける子がいます。こういう子が、高校3年生のわずか1年間で飛躍的に伸び、その後大学生になっても、社会人になっても自分で実力を向上させていける子なのです。
毎日の自習で親が言わないとやれないということをマイナスに考えるのではなく、親が言わないとやれないような単調な勉強(といっても、暗唱はわずか10分、読書も短ければわずか10分ですから、やろうと思えばすぐにできます)を続けることが、子供の自立心を育てることになるのだとプラスに考えて取り組んでいってください。
自立心は、国語のプリントを解くような形では育ちません。プリントのように他人から与えられたノルマがないとできないということになってしまうからです。暗唱や読書は、1枚の長文、1冊の本があれば、いつでもどこでもできます。しかも、いくら毎日やっても形に残らない勉強なので、プリントのようにやった結果が目に見えるという満足感がありません。こういう勉強を続けることが、子供たちの自立心を育てることになります。
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家庭での作文の学習を続けていると、なかなか思ったように勉強が進まない、と困る場面が出てきます。そういうときの対処法をご紹介します。
親の負担が大きいので大変という場合
問題を解くような形の勉強であれば、子供がある程度自主的に進めていけます。しかし、作文の場合は、そういう問題-解答形式の勉強ではありません。毎日、読書や暗唱などの読む自習を行い、毎週、自分で考えて作文を書くということで力がついていきます。(ほかの作文教室の中には、問題-解答形式で作文の勉強を指導しているところがありますが、そういう形では作文力はつきません)
一般に行われている従来の勉強は、知識や解き方を学ぶという勉強です。そういう勉強は、勉強の仕方を塾に任せ、子供が与えられた課題をやっていれば力がつきます。国語と作文は、そういう形の勉強ではありません。
国語は、毎日読む学習を続けることで、作文は、自分で考えて書くことで力がつきます。そのために、次のように勉強に対する発想を変えて取り組むことが必要です。
「対話をする勉強」と発想を変える
作文は、親子の対話を楽しむ形で進めていく勉強です。これは、小学生には特に重要です。小学校1、2年生は自由な題名ですから、毎週授業の始まる前に、「今週はどんなこと書くの」と子供に聞き、親が子供と作文に書く内容について話をします。また、書いた作文が返却されたときも、その作文の内容について家族で対話をします。この際、決して欠点を指摘して直すようなことはしないでください。欠点は、読む力がつく中でほとんど自然に直ります。欠点を指摘すると、作文を書くことが億劫になります。対話は、いつも楽しい雰囲気で行ってください。この対話のときに大事なことは、お父さんやお母さんの子供時代の似た話などをたくさんしてあげることです。そのときに、子供には、少し難しい言葉で、少し長い文で、少し難しい内容の話をするようにします。この対話によって親子のコミュニケーションが豊かになるとともに、子供の頭がよくなります。
小学校3、4年生の場合は課題が決まっているので、親子の対話は更にしやすくなります。次の週の課題を見て、お父さんやお母さんが似た話を子供に聞かせてあげてください。場合によっては、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんに取材してもよいでしょう。また、作文が返却されたときも、親子でその作文を話題にして話をするようにしましょう。この場合、やはり大事なことは、欠点を指摘して直すようなことはしないということです。作文はできるだけよいところを見て励ますようにしてください。
こういう形で小学校中学年までに親子の対話の習慣を作っておくと、その親子の関係はあとまで続きますし、その対話によって子供の頭がよくなります。理解力や思考力は、問題を解くような形の勉強では身につきません。対話と読書によって最も確実に身につくのです。ですから、対話のときは、楽しい雰囲気で、少し難しい言葉で、少し長い文で、少し難しい内容の話をするように心がけてください。
小学校高学年や中学生になると、子供が自分の作文を親に読まれるのを嫌がる面が出てきます。その場合は、作文ではなく、課題の長文をもとにして対話をしていきましょう。課題の長文は、ホームページでも読むことができますから、事前にお父さんやお母さんもその長文に目を通しておくとよいでしょう。
課題の長文をもとにした対話は、次のような形で進めることができます。まず、子供に、次の週の課題がどういう内容か説明させます。そのためには、子供が事前に長文を読んでおかなければなりません。題名だけの課題の場合は、子供がどんなことを書くつもりか考えておかなければなりません。この子供に内容を説明させるということが、子供の思考力と表現力を育てる勉強になります。子供に説明させたあと、親がその課題についての関連する話をしてあげます。親の話を聞くと、子供が自分の経験を通して考えただけの作文よりも話題が広がり、感想も深まります。
このように、作文の勉強は、そのほかの勉強とは違い、対話を楽しむ勉強だと発想を変えて取り組んでいってください。小学校高学年になると、普通の家庭ではどこでも親子の対話は少なくなります。特に、お父さんは子供との日常的な接点があまりないので、対話をするとしても勉強や成績のことばかりになりがちで、ますます対話が難しくなります。ところが、作文の勉強を通して話をすることによって、親子が毎週知的な対話を楽しむ習慣ができるのです。
作文は親の負担が大きくて大変だと考えるのではなく、親子の対話を楽しむ機会になるのだと考えて取り組んでいってください。(つづく)
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幼児教育の本質をひとことで言えば、インプリンティング(刷り込み)の教育だということです。ここから出てくる最も重要な条件は、バランスを重視しなければならないということです。学齢期の教育のように、何かを付け加える教育であれば、あとから修正することは容易ですが、インプリンティングの教育のように、枠組みを作る教育は、いったん作られるとあとから修正することがきわめて難しくなります。生まれたばかりの雛鳥は、最初に目についたものを親だと認識して、それが犬や猫であれバケツやヤカンであれ、自分が親だと考えたもののあとについていきます。同じことが、程度の差はあれ人間の幼児期についても言えるのです。
だから、幼児期には何でも吸収できるからということで、ある特定のことを吸収させると、それは幼児の人間形成の中にその特定の枠組みを作ってしまうことになります。単に付加された知識であれば、他の知識と共存することができますが、いったん作られた枠組みは、他の枠組みを排除するので、よりよいものに取り替えるということができません。この枠組み形成が、その子供の個性を作り出します。
ここから出てくるもうひとつの重要な条件は、幼児教育はその子の個性に応じて、個性的に行われる必要があるということです。しかも、その個性は、単にいくつかのパターンがあるという予測可能な個性ではなく、本質的に予測不可能な面を持っています。だから、幼児教育は、その子と密着した母親又は父親によって、常に軌道修正を行いながら進めていく必要があるのです。
本質的な予測不可能性ということから、教育の逆説というものも生じます。人間は、最良の条件だからといって最良に成長するわけではありません。逆に、最悪の条件にもかかわらず最良に成長することもあります。では、なぜ予測不可能かというと、人間の成長は、線形の成長ではなく複雑系の成長だからです。砂山に砂を一粒ずつ追加していくと、いつかある一粒によって砂山が大きく崩れます。しかし、いつ、どの一粒でそうなるかはだれにも予測することができません。ある働きかけを行えばある結果が出てくるというだけでなく、その出てきた結果がもとの土台を変容させ、働きかけの効果を変容させていきます。幼児教育には、個性に応じたシミュレーションが必要になるために、その幼児と密接にかかわる両親が教育の主体になる必要があるのです。
インプリンティングの教育とは、別の言葉で言えば、絶対感覚が育つ教育です。幼児は、単に何かを吸収するだけでなく、自分がこれから生きていく世界に適応するための自己形成を行っています。だから、幼児に与えられるものは、大人にとっては単なる教育であっても、幼児にとっては世界そのものです。
幼児教育においては、何を学ばせたいかというよりも、その子供がどういう世界に生きてほしいかということを考える必要があります。例えば、ある知識を学ばせるときに、親が叱りながら教えれば、子供はその知識を吸収するだけでなく、自分がこれから生きる世界を「叱られる世界」として適応するために自己形成していきます。親が、子供に幸福な人生を歩んでほしいと思って教えることが、そのやり方によっては子供の絶対的な不幸感覚を形成することになるかもしれないのです。しかし、人間の成長は複雑系の成長ですから、どんなに叱られてもたくましく生きていく子もいれば、ひとことの注意で深く傷ついてしまう子もいます。大事なことは、親が、子供の絶対感覚を育てているのだと自覚して教育を行っていくことです。
こう考えると、これまでの幼児教育の中には、重大な錯誤に基づいているものもあります。
例えば、幼児期の外国語学習です。外国語の枠組みを身につけることによって、母国語の枠組みが正常に育たない子供になる可能性があります。特に、日本語は、世界中の他の言語と比べて全く異質な母音言語という特質を持っています。英語圏の幼児がフランス語やドイツ語も習得するというのとは根本的に違います。日本語を母語として持つ幼児がどのようにして外国語もバランスよく身につけられるかということはまだ実験の段階にあることなのです。
また、CDやビデオなど、機械を利用した学習にも問題があります。機械によって何かを吸収することを繰り返しているうちに、人間に適応せず機械に適応した子供になってしまうことがあるのです。テレビなどをつけっぱなしの環境で育てられた幼児は、人間的な感情を持ちにくくなると言われています。面白くなくても笑い声が聞こえ、悲しくなくても泣き声が聞こえるような環境が日常的にあれば、幼児は感情を遮断して生きることによってその環境に適応しようとするからです。
また、実際の世界との関わりが希薄な中で行われる知識の教育にも問題があります。例えば、戸外に出て実際の花を見ながら、花にはめしべとおしべがあって、チョウやハチが飛んできて受粉するということを教えるのであれば、子供の世界は知識によって豊かに広がります。しかし、図鑑などで花の図を見せながら同じことを説明しても、子供の世界は豊かにはなりません。それどころか、そのような現実との関わりのない教育を繰り返していると、子供は、バーチャルな世界に生きることに適応するようになります。その子が成長して、戸外で花やチョウを見ても、その子にとっては、単に図鑑の説明が咲いていて、図鑑の説明が飛んでいるように見えるかもしれません。自然との関わりの中で喜びを感じるというのは、人間の幸福感の大きな要素ですから、知識だけの知識が先行することによってその幸福感の可能性が閉ざされてしまう可能性もあるのです。
また、逆に言語を軽視した教育にも問題があります。人間の脳が進化の最も後期になって発達させたものは、言語を駆使する能力です。だから、言語能力を発達させることによって、言語以外のほかの能力も言語に引っ張られて発達します。先天的な心身障害を持つ子供が、幼児期からの言語教育で言語能力が発達するにつれて身体の運動能力も回復したという例があるというのはこのためです。
幼児期の教育に自覚がないと、幼児は放任しておいても育つものだと考えがちです。その結果、小さいころは、まず体力をつけて、情操を豊かにして、のびのびと育てることだと思ってしまいます。そのこと自体はよいのですが、言語による教育は小学校に上がってからで十分だと考えて、言語的に乏しい環境で幼児期を過ごしてしまうと、言語以外の能力、つまり体力や情操も豊かに成長しなくなるのです。
幼児期の教育は、子供の絶対感覚を育てる教育です。その子が、どういう世界に生きるかを選択して自己形成をするための教育です。
だから、親は、子供がどういう世界に生きてほしいかという価値観を持って教育を行う必要があります。その価値観は多様ですが、大きく共通するものとして挙げられるのは、現実の自然のある世界で(バーチャルな世界ではなく)、人間とともに(機械とともにではなく)、言語を豊かに使って(腕力や雄叫びによってではなく)、愛情を持って(攻撃と防御に身構えながらではなく)、自由に創造的に(制限された柵の中でではなく)生きることだと思います。
言葉の森では、今後、幼児教育に力を入れていく予定です。その際に、以上のような観点を持って教育開発を進めていきたいと考えています。
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