創造の喜びがある作文とは、発表する喜びのある作文です。すると、その作文の新たな定義に対応して、作文の形態も従来のものとは異なった面を持つようになってきます。これまでの作文は、原稿用紙にきれいに清書するだけでした。しかし、これからの作文はそこにさまざまな表現手段を組み合わせ、総合的な知的芸術作品として作られるようになってきます。
例えば、作品の長さは、朗読して2、3分で読める800字から1200字程度になるでしょう。youtubeの動画を想像してもらうとわかりやすいと思いますが、背景に画像が流れます。それはその作文の内容にふさわしい写真やアニメです。そして、やはりその作文の内容にふさわしいバックグラウンドミュージックが流れます。
小学校低学年までの子供は、作文の中身だけその子供が書き、画像や音楽は両親が協力して作ってあげるという形になることが多いと思います。しかし、発表の動機は創造の喜びですから、小学校中学年からは、子供たちが自分で作文も画像も音楽も選ぶようになるでしょう。そして、中学生や高校生の作文になると、作文の内容自体に価値があるものも作られてきます。
作文の価値というと、一般には、「飼っていたジュウシマツのピーちゃんが逃げちゃった」というような心情的、文学的なものを連想する人が多いと思います。しかし、中学生や高校生になると、説明文や意見文で社会的に価値のある創造も行えるようになってきます。なぜかというと、ここにやはり作文を書く人間の身体性というものがかかわってくるからです。
環境問題や資源エネルギー問題のように広範な知識を必要とする分野については、その分野にそれなりに通暁(つうぎょう)した人が提案したものでなければ社会的な価値を持つことは難しいでしょう。しかし、人間は、たとえ小中学生であっても、その個人だけがよく知っているある狭い分野については、誰にも負けない知識をを身体化しています。例えば、小学生の子供にとって、自分の家と家族と、学校への行き帰りの道と、親しい友達と、遊び場の地理と歴史は、誰よりも深く熟知しているはずです。すると、そこに、誰にも負けない知識の量をもとに、その子だけが提案できる世界を創造する条件ができるのです。
このようにして、内容的にも表現的にも高く評価できる作文が生まれれば、それらの作文をもとに毎年、あるいは毎月大規模な作文発表会や作文コンクールが各地で開催されるようになります。
私の描く具体的なイメージは次のようなものです。
例えば、港南台では、毎月10日に小学校○年生の作文発表会が南公園で開かれます。特に、4月の発表会は、年間コンクールと重なるので、盛大に行われます。その日は朝から、多くの人が南公園にゴザを広げ、ちょうど桜の花見も兼ねながら思い思いのグループで小宴会を始めます。やがて、コンクールが始まります。「お、次は○○さんちの健ちゃんだ」などという声で見てみると、ステージにyoutubeのような画面が大写しになり、音楽が公園に広がります。健ちゃんは、この日に備えてもうすっかり自分の作文を暗唱しているので、余裕の表情で出てきます。そして、自分の作文を朗読しながら、観客に手を振るようなパフォーマンスも見せてみんなを笑いに誘います。
朗読の最中、健ちゃんの家族のシートに、近所の人が遊びに来ます。「いやあ、このサンドイッチおいしいですねえ」とか「ところで、健ちゃんもおもしろい作文を書きますねえ」などと言いながら、みんなで談笑します。やがて、子供たちの発表が終わると、発表した全作品にそれぞれの内容に合わせたユニークな賞が授与されます。このユニークな賞の作り方は、そのときの審査員の腕の見せどころです。このようにして、地域ぐるみ家族ぐるみで、子供たちが小さいときから、知的に創造する喜びを共有する社会が生まれていくのです。
この作文コンクールは、国又は地方自治体が全面的にバックアップしているので、すべての作品に信じられないほど豪華な賞品と賞金が出ます。しかし、この豪華な賞品と賞金は、文化の山頂に注ぐ呼び水にすぎません。この呼び水によって、文化の山腹と裾野に豊かな緑が生い茂り、作文の発表に伴うさまざまな産業が生まれています。その産業の中にはもちろん作文教室も含まれますが(笑)、映像も、音楽も、また知識を吸収するための読書も、また、良書を紹介するサービスなどもあります。このように作文の発表会を通して多くの文化産業が成り立っているので、結局は呼び水以上の大きな経済効果が生まれ、そこから生まれる利益によって、国や地方自治体もますます豊かになっていきます。
未来の社会では、作文の学習を知的な創造産業の中核として、その周辺に多くの知的、身体的な創造産業が生まれ、それらの創造産業を支える向上産業も更に発展していきます。このような社会では、子供も大人も老人も、することがなくて退屈だからテレビでも見るか、というような時間の過ごし方をしません。テレビは、見るものではなく、自分の作品を表現するひとつの手段になっているからです。
このように、知的で、芸術的で、豊かで、創造的で、向上心に溢れた、明るい笑いと共感に満ちた社会を日本に誕生させるのが、この混迷の時代を生きる私たちの役割です。そして、それは、日本人がただそう決心しさえすれば、明日からでもすぐに可能なことなのです。(おわり)
今後、日本で創造産業が発展するためには、国民ひとりひとりの意識が変わっていく必要があります。それは、私たちの喜びを、消費的な喜びから、創造的な喜びに向かって広げていくことです。消費の喜びには、寝食を忘れて取り組むというようなものはあまりありません。しかし、創造の喜びにはそのような情熱的な感動を伴うものがしばしばあります。
例えば、音楽を鑑賞する、スポーツを観戦する、おいしいものを食べる、どこかに旅行に行く、テレビを見る、本を読む、このような喜びは、消費の喜びです。これに対して、音楽を作る、スポーツに参加する、おいしい料理を作る、みんなを迎える観光地を作る、テレビ番組を作る、本を書く、このような喜びは、創造的な喜びです。創造的な喜びは、夢中になると文字どおり寝食を忘れて取り組むようなことが起こります。創造の喜びの魅力というものを多くの人が実感していることが、創造産業を発展させる土台となります。
創造産業を発展させるためにもうひとつ忘れてはならない大事なことは、身体的、感覚的なものよりも、まず言語的、知性的なものを優先させるということです。
創造産業の例として、最初にわかりやすく流鏑馬の話を取り上げましたが、身体的なもの、つまり、運動や音楽や芸術のようなものだけが発展し、子供たちの夢や理想が身体的なものに向かうようになると、日本の文化は知的に衰退するようになります。そして、知的に遅れた国は、やがて知的に発達した国の科学技術に後れをとるようになります。
だから、創造産業は、量的には身体的なものが多数を占めるとしても、質の面での重点は、まず言語的なものにする必要があります。言語的な創造産業とは、具体的には、学問の新しい分野を作り出すことです。アメリカで生まれた金融工学は、宇宙工学の分野で失業した人が金融界に流れて誕生したと言われるように、経済学とコンピュータアルゴリズムの融合という形で発展しました。同じようなことが、これからさまざまな学問分野で生まれる可能性があります。
なぜかというと、現在の学問は、例えば数学でも専門が少し違うだけで、互いの先端分野は理解できないと言われるように、高度に専門化して発達しているからです。そして、人間の理解というものは、コンピュータのようにただメモリの容量さえあればすべて受け入れるという単純なものではなく、長い時間をかけてその分野に精通しその分野の知識を血肉化していくという不完全な身体性を伴ったものだからです。
この身体性こそが、個性と創造性の根拠になります。例えば、数学のAという分野に精通した人が、同時に生物学のBという分野にも精通していて、その両者の先端的知識を組み合わせると、新しい数理生物学のような分野が新学問として創造されるということです。すると、その学問分野がまた新たな創造の土台となり、このようにして、知的な分野でも無数の創造が可能になるのです。
よく「遺伝学の父メンデル」とか「カオス理論の父ローレンツ」などという言い方がされることがありますが、日本に(そして、やがて世界に)無数の「○○学の父」が生まれるというのが、創造産業の知的な面での表れ方になります。
さて、ここで考えなければならないことは、身体的な分野ほど導入部分が容易であるのに対して、言語的な分野は導入部分が困難であるということです。これは、習い事の例を考えてみるとわかります。小学生の子供たちにとって、スポーツや音楽はすぐに親しめる分野です。しかし、勉強的なことは自然に任せておけば自ら興味を持って取り組む子はほとんどいません。子供たちが小さいころから塾に通っているのは、受験社会に対応する必要に迫られているからであって、決して子供たちの内的な動機によるものではありません。
なぜ、身体的なものの方が知的なものよりも入りやすいかというと、身体的なものはどんなに初期の習得段階であっても、それなりに表現する楽しさがあるからです。サッカーを習い始めたばかりの子であっても、下手な子は下手なりに楽しくサッカーのプレーに参加することができます。音楽や芸術も同様です。
しかし、知的なことは、延々と習得するだけの過程が続きます。知的な分野で何かを創造するというのは、20代や30代、場合によっては40代や50代になってから初めてできることなのです。だから、この退屈な知的習得の過程を継続させるために、本来、創造の喜びとは無縁なテストや競争や賞罰という強制力が必要になってくるのです。
ところが、ここで、テストや競争や賞罰に頼らない形の知的学習として、作文を活用がすることができます。(やっと作文の話になった。)なぜならば、作文は、子供たちのそれぞれの個性や年齢に応じて、誰もが発表の喜びを味わえる学習だからです。(つづく)