新学期の教材は、3月16日ごろから発送していますが、東日本大震災のために地域によっては配達ができずに戻ってきているものがあります。
28日から、一部の地域について再発送しますが、まだ再発送できない地域については、下記のようにお取り扱いさせていただきます。
教材はすべてウェブで見られます(ただしマックは縦書き表示ができません)
「峰の地図(課題フォルダ)」(
https://www.mori7.net/mine/ )のページに行き、■ユーザー名、■パスワード、■生徒コード(ユーザー名と同じ)の3ヶ所だけ半角英数字で入力し、■スタートが1になっていることを確かめたうえ、表示ボタンを押してください。お送りしている教材と同じもの(全50-100ページ)が表示されます。(パソコンのメモリが不足していると、表示に時間がかかる場合があります)
課題と項目だけを簡単に見る場合は、「検索の坂」(
https://www.mori7.net/kennsaku/ )で、■ユーザー名、■パスワード、■生徒コード(ユーザー名と同じ)の3ヶ所だけ半角英数字入力してください。「岩」というところで課題集を、「苗」というところで項目表を、「池」というところでヒントを、「渚」というところでヒントの動画を、それぞれ見ることができます。
印刷する場合は、余白のサイズと文字のサイズを次のように調整してください
(1)言葉の森のホームページ(
https://www.mori7.com/ )を開き、ブラウザの「表示」→「文字のサイズ」を「最小」にします。
そのあと、「峰の地図」も同様に、ブラウザの「表示」→「文字のサイズ」を「最小」にします。
なぜ、このように二重の操作をするのかというと、インターネットエクスプローラは、Shift_JISのページ(「峰の地図」など)の文字サイズだけを最小に設定してもそのサイズが印刷に反映されず、UTF-8のページ(「言葉の森の表紙」など)の文字サイズを最小にして初めてそのサイズが反映されるためです。
(2)ブラウザの「ファイル」→「ページ設定」で、次のように設定します
・A4縦で、「背景の色とイメージを印刷する」にチェック
・余白は、上下左右ともすべて7mm
・ヘッダーとフッターは、すべて「-空ー」
(3)ブラウザの「ファイル」→「印刷プレビュー」で、印刷画面を表示させます。
・全部印刷するとページ数が多くなるので、必要なページだけを印刷しておくとよいと思います。
※ウェブでの教材の見方がわかりにくいときは、ご遠慮なく事務局までお電話でお聞きください。
必要な週の課題と長文、暗唱長文はファクスで受け取ることもできます
教材が届かないため、教材をファクスでごらんになりたいという場合は、お電話で事務局までご連絡ください(平日9:00ー20:00)。
当面の授業に必要な週の課題と長文、暗唱長文などをファクスでお送りします。
青森県、秋田県、山形県は、3月28日から発送
青森県、秋田県、山形県は、28日から発送しますが、到着までに普段よりも日数がかかることがあるそうです。
もし授業の前日までに届かない場合は、ウェブでの表示や、ファクスでの受信などで対応してください。
岩手県、宮城県、福島県は、まだ発送できず
岩手県、宮城県、福島県は、まだ発送できません。
ウェブでの表示や、ファクスでの受信などで対応してください。
再発送ができるようになりましたら、ホームページでお知らせします。
電話が不通の場合は携帯に
電話が通じない場合は、携帯電話におかけします。(震災に関する場合、携帯料金などは発生しません)
被災地の一日も早い復興を
心よりお祈りいたします。
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今回の東日本大震災に伴う福島原発の事故によって、日本全国の原発にすべて同じ危険性があることが明らかになりました。例えば、明日、静岡県に同程度の地震が起これば、浜岡原発が同じように暴走することを誰も止めることができません。
また地震ではなく、ひとりのテロリストが爆発物をしかけるだけでも原発事故は容易に引き起こせることがわかりました。日本の原発は、そのような危険性に対しては全く無防備に運転されています。
問題は、地震の規模や津波の高さが想定外だったということではありません。根本的に人間が制御できない技術を、人間の住んでいる場所で行っているところに問題があるのです。
福島原発が起こした事故の教訓から学べることは、全国の原発をただちに廃棄しなければならないということです。今は、悠長な論議をしている場合ではありません。明日、地震が起きるかもしれないから、今日、停止しなければならないのです。
この緊急の時に、国が動かないのであれば、原発のある地方自治体が自治体の権限で原発をただちに停止させる必要があります。その停止に伴うさまざまな問題があるとしても、それは、停止してから論議することです。自然災害は、人間の話し合いが終わるまで待っていてはくれません。
原発の事故から日本人の生命を守る第一の責任と権限を持つ人は、日本の首相です。しかし、第一の責任のある人がまだ動いていないとすれば、第二の責任のある人は、それぞれの原発のある場所の県知事や市町村長です。住民の生存に責任を負う行動がただちにとれるのは、権限を持つひとりの個人です。
政治の役割は、全体の利益を考え、先を読んで行動することです。福島原発の反省と後始末をやるよりもまず先に、同じ事故が起きることから日本国民を守らなければなりません。
大事なのは順序です。今ただちに、ありとあらゆる法律を駆使して、政治の実力行使によって原発を停止させ、それからゆっくりとこれからの日本のエネルギー政策についての論議をしていきましょう。
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中国電力は原発建設の方針は変えないと表明しています。
「絶対安全」はありえず、万が一にも安全ではなくなったときに取り返しのつかない未曾有の事態に陥ることが目前で起きているのに、誠に信じられません。欧州では原発反対の声が目に見えて高まっていますが、なぜか日本では静かな声に留まっているようです。
Nonoさん、コメントありがとうございます。
原発利権とマスコミが癒着しているから大きな話題にならないのだと思います。
マスコミは、こういうときこそ原発が必要かどうかの世論調査をやるべきでしょう。ついでに、マスコミが必要かどうかの世論調査もやってほしい(笑)。
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創造の喜びがある作文とは、発表する喜びのある作文です。すると、その作文の新たな定義に対応して、作文の形態も従来のものとは異なった面を持つようになってきます。これまでの作文は、原稿用紙にきれいに清書するだけでした。しかし、これからの作文はそこにさまざまな表現手段を組み合わせ、総合的な知的芸術作品として作られるようになってきます。
例えば、作品の長さは、朗読して2、3分で読める800字から1200字程度になるでしょう。youtubeの動画を想像してもらうとわかりやすいと思いますが、背景に画像が流れます。それはその作文の内容にふさわしい写真やアニメです。そして、やはりその作文の内容にふさわしいバックグラウンドミュージックが流れます。
小学校低学年までの子供は、作文の中身だけその子供が書き、画像や音楽は両親が協力して作ってあげるという形になることが多いと思います。しかし、発表の動機は創造の喜びですから、小学校中学年からは、子供たちが自分で作文も画像も音楽も選ぶようになるでしょう。そして、中学生や高校生の作文になると、作文の内容自体に価値があるものも作られてきます。
作文の価値というと、一般には、「飼っていたジュウシマツのピーちゃんが逃げちゃった」というような心情的、文学的なものを連想する人が多いと思います。しかし、中学生や高校生になると、説明文や意見文で社会的に価値のある創造も行えるようになってきます。なぜかというと、ここにやはり作文を書く人間の身体性というものがかかわってくるからです。
環境問題や資源エネルギー問題のように広範な知識を必要とする分野については、その分野にそれなりに通暁(つうぎょう)した人が提案したものでなければ社会的な価値を持つことは難しいでしょう。しかし、人間は、たとえ小中学生であっても、その個人だけがよく知っているある狭い分野については、誰にも負けない知識をを身体化しています。例えば、小学生の子供にとって、自分の家と家族と、学校への行き帰りの道と、親しい友達と、遊び場の地理と歴史は、誰よりも深く熟知しているはずです。すると、そこに、誰にも負けない知識の量をもとに、その子だけが提案できる世界を創造する条件ができるのです。
このようにして、内容的にも表現的にも高く評価できる作文が生まれれば、それらの作文をもとに毎年、あるいは毎月大規模な作文発表会や作文コンクールが各地で開催されるようになります。
私の描く具体的なイメージは次のようなものです。
例えば、港南台では、毎月10日に小学校○年生の作文発表会が南公園で開かれます。特に、4月の発表会は、年間コンクールと重なるので、盛大に行われます。その日は朝から、多くの人が南公園にゴザを広げ、ちょうど桜の花見も兼ねながら思い思いのグループで小宴会を始めます。やがて、コンクールが始まります。「お、次は○○さんちの健ちゃんだ」などという声で見てみると、ステージにyoutubeのような画面が大写しになり、音楽が公園に広がります。健ちゃんは、この日に備えてもうすっかり自分の作文を暗唱しているので、余裕の表情で出てきます。そして、自分の作文を朗読しながら、観客に手を振るようなパフォーマンスも見せてみんなを笑いに誘います。
朗読の最中、健ちゃんの家族のシートに、近所の人が遊びに来ます。「いやあ、このサンドイッチおいしいですねえ」とか「ところで、健ちゃんもおもしろい作文を書きますねえ」などと言いながら、みんなで談笑します。やがて、子供たちの発表が終わると、発表した全作品にそれぞれの内容に合わせたユニークな賞が授与されます。このユニークな賞の作り方は、そのときの審査員の腕の見せどころです。このようにして、地域ぐるみ家族ぐるみで、子供たちが小さいときから、知的に創造する喜びを共有する社会が生まれていくのです。
この作文コンクールは、国又は地方自治体が全面的にバックアップしているので、すべての作品に信じられないほど豪華な賞品と賞金が出ます。しかし、この豪華な賞品と賞金は、文化の山頂に注ぐ呼び水にすぎません。この呼び水によって、文化の山腹と裾野に豊かな緑が生い茂り、作文の発表に伴うさまざまな産業が生まれています。その産業の中にはもちろん作文教室も含まれますが(笑)、映像も、音楽も、また知識を吸収するための読書も、また、良書を紹介するサービスなどもあります。このように作文の発表会を通して多くの文化産業が成り立っているので、結局は呼び水以上の大きな経済効果が生まれ、そこから生まれる利益によって、国や地方自治体もますます豊かになっていきます。
未来の社会では、作文の学習を知的な創造産業の中核として、その周辺に多くの知的、身体的な創造産業が生まれ、それらの創造産業を支える向上産業も更に発展していきます。このような社会では、子供も大人も老人も、することがなくて退屈だからテレビでも見るか、というような時間の過ごし方をしません。テレビは、見るものではなく、自分の作品を表現するひとつの手段になっているからです。
このように、知的で、芸術的で、豊かで、創造的で、向上心に溢れた、明るい笑いと共感に満ちた社会を日本に誕生させるのが、この混迷の時代を生きる私たちの役割です。そして、それは、日本人がただそう決心しさえすれば、明日からでもすぐに可能なことなのです。(おわり)
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今後、日本で創造産業が発展するためには、国民ひとりひとりの意識が変わっていく必要があります。それは、私たちの喜びを、消費的な喜びから、創造的な喜びに向かって広げていくことです。消費の喜びには、寝食を忘れて取り組むというようなものはあまりありません。しかし、創造の喜びにはそのような情熱的な感動を伴うものがしばしばあります。
例えば、音楽を鑑賞する、スポーツを観戦する、おいしいものを食べる、どこかに旅行に行く、テレビを見る、本を読む、このような喜びは、消費の喜びです。これに対して、音楽を作る、スポーツに参加する、おいしい料理を作る、みんなを迎える観光地を作る、テレビ番組を作る、本を書く、このような喜びは、創造的な喜びです。創造的な喜びは、夢中になると文字どおり寝食を忘れて取り組むようなことが起こります。創造の喜びの魅力というものを多くの人が実感していることが、創造産業を発展させる土台となります。
創造産業を発展させるためにもうひとつ忘れてはならない大事なことは、身体的、感覚的なものよりも、まず言語的、知性的なものを優先させるということです。
創造産業の例として、最初にわかりやすく流鏑馬の話を取り上げましたが、身体的なもの、つまり、運動や音楽や芸術のようなものだけが発展し、子供たちの夢や理想が身体的なものに向かうようになると、日本の文化は知的に衰退するようになります。そして、知的に遅れた国は、やがて知的に発達した国の科学技術に後れをとるようになります。
だから、創造産業は、量的には身体的なものが多数を占めるとしても、質の面での重点は、まず言語的なものにする必要があります。言語的な創造産業とは、具体的には、学問の新しい分野を作り出すことです。アメリカで生まれた金融工学は、宇宙工学の分野で失業した人が金融界に流れて誕生したと言われるように、経済学とコンピュータアルゴリズムの融合という形で発展しました。同じようなことが、これからさまざまな学問分野で生まれる可能性があります。
なぜかというと、現在の学問は、例えば数学でも専門が少し違うだけで、互いの先端分野は理解できないと言われるように、高度に専門化して発達しているからです。そして、人間の理解というものは、コンピュータのようにただメモリの容量さえあればすべて受け入れるという単純なものではなく、長い時間をかけてその分野に精通しその分野の知識を血肉化していくという不完全な身体性を伴ったものだからです。
この身体性こそが、個性と創造性の根拠になります。例えば、数学のAという分野に精通した人が、同時に生物学のBという分野にも精通していて、その両者の先端的知識を組み合わせると、新しい数理生物学のような分野が新学問として創造されるということです。すると、その学問分野がまた新たな創造の土台となり、このようにして、知的な分野でも無数の創造が可能になるのです。
よく「遺伝学の父メンデル」とか「カオス理論の父ローレンツ」などという言い方がされることがありますが、日本に(そして、やがて世界に)無数の「○○学の父」が生まれるというのが、創造産業の知的な面での表れ方になります。
さて、ここで考えなければならないことは、身体的な分野ほど導入部分が容易であるのに対して、言語的な分野は導入部分が困難であるということです。これは、習い事の例を考えてみるとわかります。小学生の子供たちにとって、スポーツや音楽はすぐに親しめる分野です。しかし、勉強的なことは自然に任せておけば自ら興味を持って取り組む子はほとんどいません。子供たちが小さいころから塾に通っているのは、受験社会に対応する必要に迫られているからであって、決して子供たちの内的な動機によるものではありません。
なぜ、身体的なものの方が知的なものよりも入りやすいかというと、身体的なものはどんなに初期の習得段階であっても、それなりに表現する楽しさがあるからです。サッカーを習い始めたばかりの子であっても、下手な子は下手なりに楽しくサッカーのプレーに参加することができます。音楽や芸術も同様です。
しかし、知的なことは、延々と習得するだけの過程が続きます。知的な分野で何かを創造するというのは、20代や30代、場合によっては40代や50代になってから初めてできることなのです。だから、この退屈な知的習得の過程を継続させるために、本来、創造の喜びとは無縁なテストや競争や賞罰という強制力が必要になってくるのです。
ところが、ここで、テストや競争や賞罰に頼らない形の知的学習として、作文を活用がすることができます。(やっと作文の話になった。)なぜならば、作文は、子供たちのそれぞれの個性や年齢に応じて、誰もが発表の喜びを味わえる学習だからです。(つづく)
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創造産業の広がり方を、流鏑馬を例にとって説明しましたが、では、ほかにはどのような新しい創造産業の文化が考えられるでしょうか。
まず、流鏑馬に関連して、先に述べた馬の飼育、弓矢の制作などがあるでしょう。このほか、小動物の飼育に関しては、鷹の飼育(鷹匠)、ウズラの飼育、ウソの飼育、金魚の飼育、コイの飼育、猿回しの訓練、イルカの訓練、伝書鳩の訓練などもあるでしょう。江戸時代には、オカメインコやトイプードルなどはいなかったでしょうから、これからそういう新しい種類の小動物についても日本人の手による品種改良や訓練が行われるようになります。カラスは賢い鳥ですが、その鳴き声と色とゴミ箱をあさるという性質から、多くの人に迷惑がられています。しかし、これから長い時間をかけてカラスの品種改良を行い、クジャクのような羽を持ち、カナリヤのような声を持ち、人間の命令に忠実なカラスが作られれば、カラスは一種のペットとして人間と共存することができます。すると、カラス訓練士などというものも、ひとつの創造産業になる可能性があります。
植物について言えば、日本では、これまで、アサガオ、サツキ、オモト、ランなどにさまざまな品種改良が加えられ、多くの品種が作られてきました。現代の日本は、江戸時代にはなかった世界中の珍しい植物が手に入ります。すると、ここで更に個性的な植物改良が行われる可能性が出てきます。例えば、よい香りのするラフレシア、ゴキブリを専門に食べるウツボカズラ、ペットボトルのかわりになるフルーツなどです。
これまでの産業構造では、このようなユニークなアイデアは、漫画の話題になるぐらいがせいぜいでした。しかし、これから生まれる創造産業の社会では、作る本人がその内容について強い興味を持ち、その分野の専門の知識や技能をもとに創造的な作品を作り出し、その仕事を同じように面白いと思う人が、その作品や作成技能に関心を持つようになれば、そこにひとつの新しい産業が生まれます。文化というものは、初期の段階では取るに足らないようなものであっても、人間がその身体性を土台に時間をかけて技能に磨きをかけていくと、突然その分野に新しい創造が生まれることがあります。例えば、植芝盛平(うえしばもりへい)が創始した合気道は、単なる武道から質的に異なる超人的な段階にまで到達しました。似た例として、野口晴哉(のぐちはるちか)の整体、肥田春充(ひだはるみち)の強健術など、日本にはさまざまな創造文化が生まれています。
現代が江戸時代に比べて有利なのは、世界中からの新しい素材や道具が利用できるようになっていることです。工芸品として、木工細工、金細工、うるし塗り、陶芸、染物、織物などがありますが、今後、セラミック、樹脂、新素材などを利用した新しい工芸品が創造される可能性があります。また、コンピュータのプラグラムとセンサーを利用して立体彫刻を短時間で作る技術なども既に実用化されつつあるので、そういう新しい技術を利用した新しい工芸分野が生まれる可能性もあります。しかし、この場合も重要なことは、技術や方法に還元した機械的な生産に向かうのではなく、あくまでも人間の身体性に依拠した個性的な熟練を高めていく方向で、創造産業と向上産業を組み合わせていくことです。
日本で伝統的に道の文化として挙げられるものに、茶道、華道、書道などがありますが、絵画、漫画、歌、踊り、落語、講談、寸劇、衣料、美容、など、今後さまざまな分野で新たに道の文化が創られる可能性があります。茶道を創始した千利休のように、ひとつの分野に情熱を持って追求する人がいれば、どのようなものもそれ自体が道の文化になることができます。
創造の分野は、どこにも無限に広がっています。新しい楽器、新しいスポーツ、新しい芸術、新しい行事、新しいお祭り、新しい趣味、新しい文学、新しい舞踊、新しいファッション、新しい名所など、その分野に興味と関心を持つ人が考えれば、いくらでも多様化、細分化、専門化した創造産業を生み出すことができるのです。(つづく)
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国防の話を長く書いてしまいましたが、これは何をするについても大きな前提となるものだからです。私たちのささやかな日常生活における個人の夢の追求も、すべて国家が安定しているからできることです。国防は、あらゆることに優先して対処していかなければならないのです。
しかし、国防だけでは不十分です。これまでの多くの論者の日本論を見ると、日本を守らなければならないという点では共通していますが、守ったあとに何を育てるのかという内容が不在でした。日本を守れば、日本はそれから自然によくなるだろうと考えているかのような日本論がほとんどだったのです。
ここからいちばん重要なことになりますが、日本にとって大事なことのもうひとつは、新しい産業を育てることです。その新しい産業が、創造産業です。
創造とは、人間の持つ身体と言語の不完全性によって成り立つものです。不完全なものがより完全なものをめざそうとする過程で新しい創造が生まれます。ですから、創造産業の中心になるものは、さまざまな身体文化、言語文化の創造です。
しかし、この身体性を、技術や方法という機械的なものに向けてしまえば、それはこれまでの産業がそうであったように、人間の労働力をできるだけ省略して利益を上げるという方向に進みます。そのような産業では、人間は単なる消費者になり、生産者つまり創造者であり続けることはできません。身体性は、あくまでも個人の身体に依拠して発展させていく必要があります。それでこそ、創造産業は、新たな無数の雇用を創出することができるのです。
ここから具体的な話に入ります。身体ということでまず考えられるのがスポーツです。今、世界には、サッカーやバスケットボールや野球などさまざまなスポーツがあります。オリンピックには、毎回新しい種目が追加されます。このスポーツを、新しい産業として個人が自分の身体性を生かしながら創造していくことが考えられます。
例えば、鎌倉で毎年おこなわれている流鏑馬(やぶさめ)。流鏑馬に参加する人の中には、馬に乗って走りながら矢を射るということが人並み以上に得意だという人がいるはずです。その人が中心になり、流鏑馬の技を極限まで発展させて、流鏑馬を全国的なスポーツ種目に育て上げるのです。すると、まず流鏑馬教習所のような学校が各地にできます。そして、その流鏑馬の広がりに対応して馬の飼育と弓矢の改良が新たに始まります。また、流鏑馬を行うための流鏑馬場が、ちょうどゴルフ場が作られるように新たに作られ、そこに見物に来る人たちに向けた新しい商品や新しい店が作られます。家庭で流鏑馬の練習をしたいという人向けに、ゲームのソフトとハードも開発されるかもしれません。こういう一連の流れが、身体の持つ創造性で、これが創造産業の中身です。
ひとつの創造産業は、新たな創造産業の機会を次々と生み出します。流鏑馬の例で言えば、馬の飼育に長けた人は、馬の飼育を極限まで追求し、さまざまに優れた馬を生み出すでしょう。白文鳥は、日本人が開発した文鳥で、英語ではジャパニーズ・ライス・バードと呼ばれています。江戸時代には、この文鳥のようにさまざまな鳥が改良され、鳴き方のきれいな鳥(ウグイスやウズラなど)、姿形の美しい鳥(尾の長いニワトリなど)、力の強い鳥(シャモなど)などが次々と作られました。同様に、馬の飼育がひとつの技として継承されていけば、色のきれいな馬、姿形のよい馬、声のよい馬、速い馬、優しい馬、ペットになるような小馬など、さまざまな種類の馬が開発されていくでしょう。すると、この馬の飼育自体がひとつの産業になっていくのです。
このように考えると、創造産業の種は際限なく思いつきます。それらがすべて、個々人の興味、関心、趣味、特技に根ざして作られていくのですから、1億人いれば1億通りの創造産業が可能で、そのいずれもが働くことが楽しくてたまらない天職ともいえるものになります。
そして、創造産業のレベルが次第に上がるにつれて、創造産業はそこに従事しようとする人に長期間の身体的訓練を要求するようになります。再び流鏑馬の例で言えば、小学校から流鏑馬教室に通う子供たちも育っていくということです。もちろん子供の可能性は無限ですから、流鏑馬意外にさまざまな習い事をするでしょう。それらの習い事の中から次第に自分に向いているものが長く続くようになり、それが自身の将来の創造産業を作り出すことにつながっていくのです。
このように、創造産業は、その創造のレベルを支えるために、新たな向上産業というようなものを生み出します。創造と向上の中で、人間が幸福に生きることができ、それが同時に社会への貢献に結びつきます。こう考えると、ここにまさしく人間の生きる目的である、幸福、向上、創造、貢献が、ひとつの産業活動として成り立っているのを見ることができます。
創造産業は、日本独自の輸出産業にもなります。ひとつは、創造産業に従事する人を育てるための道場のようなところに、海外から研修を希望する人が留学してくることです。日本という国全体が、ひとつの巨大なカルチャーセンターのようなものになり、世界中の向上心のある人がそこに学びに来るのです。もうひとつは、創造産業の道場を海外に作り上げることです。それは、日本発の創造文化を世界に広げる機会になるでしょう。
そして、この創造産業の生み出す経済的価値は、これまでの農業や工業やサービス業が生み出すものとは比較にならないほど大きなものになります。例えば、工業製品の中で価格の高いものの代表ともいえる自動車は、せいぜい数十万円から数百万円です。ところが、ピカソの絵やロダンの彫刻は、ひとつの作品で数千万円から数億円にもなります。創造産業が発展するにつれて、日本の中に、ピカソとゴッホとマチスと運慶と快慶と正宗と千利休と芥川龍之介と島崎藤村と……無数に挙げられる独自の才能を持つ天才が数百万人の単位で生まれると考えると、この創造産業が持つ価値の大きさがわかると思います。
しかし、ここで問題になるのは、創造産業の出発点となる呼び水がどこにあるのかということです。流鏑馬が将来大きなスポーツ種目となるとしても、今、突然流鏑馬教室を始めて、人が集まるかといえばそのようなことはありません。ここで、日本が持つ巨額の使い道のない資産が生きてくるのです。日本は、国だけでなく企業でも個人でも、大きな資産を抱えています。しかし、これまではその資産の使い道がなかったために、資産はただ貯蓄されているか、アメリカの国債を買わされるか、又は、将来の展望のない場当たり的な公共投資に使われていたのです。
この資産を、新しい創造産業の創出に振り向けることができます。その方法は、国がバックアップして、創造産業の山頂にあたる部分にまず資金を投入することです。それは例えば、全国文化祭典のようなものになります。毎年、日本の中で独自の創造性を発揮した個人に、その人が一生困らないぐらいの賞金を提供するのです。最初は、その創造性はそれほど高いレベルのものでなくてもかまいません。できるだけ多くの人が自分の独自の個性を文化として生かす分野を見つけていくことが大事だからです。
そして、いったんひとつの山の山頂に資金が注がれると、その資金は山頂から山腹に向かって多くの草や木々の芽を育てます。そして、それらの草木の生長によって、山頂からの資金は更に有効に活用されるようになります。木々の生長はやがて山腹から山麓へと広がり、やがてその山は、新たな資金の投入がなくても独自に存在する緑の山となるのです。例えば、再び流鏑馬の例で言うと、流鏑馬コンクールで巨額の資金を手にした流鏑馬道の創始者は、その資金を使って流鏑馬道場を作ります。その流鏑馬道場から育っていった人が、全国各地に流鏑馬スポーツを広げていき、いつの間にか、流鏑馬はひとつの確固とした産業になって利益を生み出すようになるということです。
江戸時代の多様な創造産業も、これと同じように作られました。安定した社会の中で、富裕な武士階級が、殿様の御用達(ごようたし)のような形で、民間の優れた技術に資金を投入し、それが文化産業を花開かせる出発点となりました。しかし、やがて、国内の豊かな富は、発展する町人階級の側に移っていき、それに伴い相対的に貧困化した武士階級が、奢侈を抑制するという名目で文化産業の発達を押しとどめる側に回るようになりました。もし江戸時代に、経済の発展に対応した民主主義が成立していれば、日本の江戸時代は、当時でも世界一の知的文化的水準を持っていましたが、更にそれ以上の飛躍的発展を遂げたと考えられます。そして、日本は、今その世界最高の文化を、新たに21世紀の社会で作ろうとしているのです。(つづく)
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さて、これまで経済活動の本質や、創造の本質について長々と書いてきましたが、これから話は一挙に具体的になります。それは、何よりも日本が今後早急に新しい創造産業を生み出さなければならないという差し迫った状況があるからです。
今、日本にとって大事なことは二つあります。ひとつは国防、もうひとつは産業です。
まず、国防ということについて言えば、アメリカの支配と中国の侵略から、日本の独立を守り抜くことです。アメリカと中国は、明確な支配と侵略の意図を持つ国家で、国家が軍隊と一体となって行動しています。それに対して日本には、明確な国家戦略もそれを支える強力な軍隊もありません。
日本は、平和憲法に書かれているとおり、他国の善意に信頼して国際社会の中で生きていこうとしています。しかし、日本が考えるような善意を持つ国は、世界にはほとんどありません。日本以外の世界中のほとんどすべての国は、自国の利益のために他国を支配し侵略することに何のためらいも持っていません。日本人の持つ倫理感は、世界の標準から見ると進みすぎているのです。
これまで日本が、他国の善意に信頼して来られたのは、日本が根本的なところで、他国、特にアメリカと中国の利害に深く対立していなかったからです。しかし、いったん利害が対立したらどうなるでしょうか。アメリカはもともと、自国の利益のために、何の合理的な根拠もなくイラクに戦争をしかけ自国の支配下に置くような国です。中国もまた、自国の利益のために、何の合理的な根拠もなくチベットとウイグルを支配し続ける国です。アメリカと中国が気にするのは、国際世論でどう言われるかという外面的な建前だけであって、決して内面的な倫理感ではありません。日本の周囲の国は、すべてこのような野蛮な国々なのです。
そして、更に大事なことは、これから世界の経済が全体的に低迷化する中で、日本とアメリカや中国との利害の不一致が今後大きくなっていく可能性が高いということです。利害の対立が利害の一致よりも大きくなれば、アメリカと中国はどのような口実も作ってでも日本をイラクやチベットのように自国の支配下に置き、日本の独立と日本の資産を奪いに来るでしょう。
そのときに、アメリカや中国の動きにブレーキをかけるものがあるとすれば、それは日本人ひとりひとりが持つ独立心です。かつて日本を占領したアメリカ軍が、戦争に勝利しながら日本という国を解体することができなかったのは、それまでの硫黄島、沖縄での激戦、特攻隊の攻撃などに見た日本人の独立心に恐れを抱いていたからです。
同じことは、今でも通用します。ベトナムは、日本と同じように小さな国でありながら、アメリカの侵略をはねのけ(ベトナム戦争1960年12月-1975年4月)、その後、中国の侵略をはねのけました(1979年2月-3月)。日本人ひとりひとりが日本の独立を守る意志を持ち続けるかぎり、どのように強力な軍事力を持つ国家も日本を支配することはできません。
これから経済環境が困難を増すにつれ、日本の周囲の国々は、アメリカや中国ばかりでなくロシアも北朝鮮も韓国も含めて、日本の富を奪うために日本を支配するためのさまざまな策略をめぐらしてくるでしょう。その策略の中には、当然暴力的なものも含まれます。野蛮な国々に、日本に対する侵略を思いとどまらせるのは、日本人ひとりひとりが強い意志を持っているということを示すことです。
世界中の国が、日本人はどんな弱者に対しても優しいが、しかし決して力で屈服させることはできないということを共通の認識とすれば(そして、それは既にそうなっていますが)、日本を侵略しようとする国はなくなります。たとえ一時的に日本を侵略できたとしても、日本人のすべてが、小野田寛郎(おのだひろお)さんのように最後のひとりになっても日本を守るという意志を持っていれば(そして、それも既にそうなりつつありますが)、日本の侵略を維持できる国はありません。
大事なのは、日本が明確にこの意思表示を行うことです。日本を脅かすどのように小さな不正であっても、それを黙認せず、日本を守ることをはっきりと明言することです。
さて、日本の防衛に対して、今緊急に必要なことは、三つあります。
第一は自衛隊を日本を守るための正式の軍隊として認め、その存在に誇りと自信を持たせることです。自衛隊という名前と立場は今のままでもかまいませんが、日本国民と自衛隊が一体感を持つことが重要なのです。
しかし、それは、日本がより強力な軍隊を持ったり、核兵器を持ったりすることではありません。力に対して力で対抗しようとすることは、日本が、アメリカや中国と同じレベルの国になることです。
力の均衡という論理を前提とするかぎり、世界には永久に平和は訪れません。なぜなら、今のアメリカやロシアに見られるように、ある時期、自国の経済力に対応した軍事力を持っていた国が、やがて経済の衰退とともに、国力に不釣合いな軍隊を持つようになるという歴史の変化が必ずおきるからです。そして、その一方で、中国のように新たに経済力をつけた国がその国力に応じた軍事力を持とうとすれば、世界には、常に経済力の不均衡に見合った軍事力の不均衡が新たに生まれます。
国家間の問題の解決に軍事力は使わないという原則を打ち立てることが、地球の平和の最も確実な保障になります。そして、その原則を率先して提案できる唯一の国は日本です。核兵器を開発する科学技術も経済力も十分に持ちながら、しかし敢えて核兵器を持たないと世界に宣言している国は、日本だけです。世界中の心ある人たちは誰もが、日本が中心となって世界に平和が訪れることを期待しているのです。
第二は、既に日本の国内に潜伏しさまざまな工作を続けているはずの、中国、北朝鮮、アメリカ、ロシアなど他国の諜報機関に対して、日本独自の諜報機関を強化して対抗することです。軍事訓練を受けたプロの工作員から日本国民を守れるのは、日本側のプロの組織だけです。
第三は、海外、特に中国からの大量の移民に大きな制約を課すことです。多くの善良な移民に紛れ込む形で、必ず日本の国内工作を目的とした組織が、民間人の顔をして日本に永住しようとしているからです。
日本は、アジアの国々と政治的、経済的、文化的に深く交流していく必要があります。しかし、それは日本の玄関を開ける鍵を相手に渡すことではありません。外国人を、日本の客間に招き入れるのはいいのですが、寝室にまで入れることは拒否しなければなりません。まして、外国人が勝手に入り込んでその家の書斎や金庫を自由に使うようなことを許してはなりません。具体的には、外国人を政治やマスコミや教育の中枢に入れることについては、個々に慎重に審査し、必ず一定の歯止めをかけておく必要があります。
日本は、世界のほかの国とは違います。世界の中でただひとつだけ、国全体が人間の共感を前提として成立している家族的国家です。日本のこの独自の文化を守るためには、移民に関してグローバル・スタンダードを適用することはできません。日本は、世界中の国に門戸を開いています。しかし、それは外国人が日本の国を自由に支配していいということではありません。日本の国は、日本人を中心に、日本を心からよい国にしていこうと思う人たちだけで運営していく必要があるのです。(つづく)
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日本の未来の産業は、IT産業でも金融工学産業でもありません。もちろん、農業でも、製造業でも、サービス業でもありません。
これらの過去の産業に共通しているものは、自然や人間がもともと持っている力を拡大し、その一方でその仕事にかかわる人間の労働を省力化することによって利益を上げるという方法でした。そのため、その産業の内部での革新が行き詰まると、企業はリストラによって利益を確保するという方向に向かいました。
この方向の先にあるものは、ある意味でユートピアともいえる不思議な世界です。従来の産業が発展した先にある究極の社会は、ロボットがすべての生産活動を行い、人間はその成果を消費するだけという社会です。そこでは、ほしいものがすべて無料で手に入ります。だから、労働する必要のない人間は、無給でも困ることはありません。
しかし、この世界は、南の島でバナナを食べ放題の人たちの暮らす社会と本質的には何も変わっていません。変わったのは、バナナのかわりに、もっと多様なものが手に入るようになったということだけです。
生産力が極度に発達し、労働がすべて機械にとってかわられるようになった社会では、人間のすることは豊かな消費だけになります。この平和な停滞した社会は、もはや自らの内部に、問題を発見し新しい何かを創造するという動機を持ちません。このような社会では、人間は、機械の恩恵を受けるサルと同じような存在になっていきます。ボタンを押して機械を利用することはできますが、その機械がどのような仕組みで動いているのかは知りません。まして、自分がその機械を作ったり改良したりすることなど思いもつきません。
豊かな日本の社会では、既にこのような若者たちが生まれています。物心ついたときから、テレビも車もエアコンもあり、インターネットでいながらにしてほしいものが手に入る環境で育った子供たちは、消費には敏感ですが、自分で何かを生産するという動機には乏しいのです。
人類の未来がこのような停滞したユートピアにならないようにするためにも、これからの日本が生み出すものは、新しい創造産業でなければなりません。この創造産業を生み出すだけの経済力と文化を持った国は、世界の中でも日本しかないからです。
創造産業は、従来の産業と違い、人間の労働を減らすことによって価値を生み出すのではなく、逆に人間の特質を生かすことによって価値を生み出します。この場合の人間の特質とは、創造性です。
従来の産業が、人間の労働の省力化をめざしたのは、そこで使われている人間の労働力が創造性を抜きにした労働力だったからです。工場で歯車のねじをしめる仕事、物を運んで送り先に届ける仕事、エレベーターで開閉のボタンを押す仕事、レジで金額を計算し代金をもらう仕事、これらの仕事に求められる人間の資質は、故障のない機械に求められているものと同じです。ブルーカラー、ホワイトカラーに限らず、現在のほとんどの人が従事している仕事は、本来人間がやるよりも機械に任せた方がよい仕事です。人間は、機械に代替できる仕事ではなく、人間だけができる創造の仕事をするために生まれてきたのです。
では、人間が、他の生物やロボットが持たない創造性を持っているのは、なぜなのでしょうか。人間の創造性の土台は、逆説的に聞こえるかもしれませんが、実は人間が本来的に持つ不完全性に根ざしています。創造とは、不完全なものがより完全なものを目指すときに現れる新しい空間のことです。
機械が不完全であれば、それは単なる故障した機械でしかありません。機械は完全であることによって本来の役割を発揮します。だから、機械の中には創造へと向かう動きはありません。逆に、完全な人間がいたとしたら、その完全な人間の中にも創造へと向かう動きは存在しません。不完全さの中に生きる人間だけが、創造への強い意志を持っているのです。
未来の創造産業は、この人間が持つ創造への意志によって成立する産業です。
さて、人間の持つ不完全性は、人間の身体と言語に特徴的に表れています。
人間の身体が不完全であるために、人間は生まれつきの素質のままでは、どのようなスポーツも上手に行うことはできません。一方、他の動物は、生まれつきの素質のままで、自然の中を自由に生活していくことができます。犬や猫が、持久力や瞬発力をつけるためにトレーニングをするということはありません。しかし、人間は、この人間の身体が不完全であるがゆえに、訓練することによってある運動に熟達し、その分野で新しい技能を作り出すことができます。
身体の不完全性は、運動だけでなく感覚にも表れます。人間の感覚は、味覚も、触覚も、視覚も、聴覚も、不完全であるがゆえに、訓練によってより高いレベルに到達することができます。この身体の不完全性、したがって向上の可能性の中に、創造産業の芽があります。
人間のもうひとつの不完全性は、言語の中に表れています。動物は、一方通行のうなり声やさえずりのような言語は持っていますが、コミュニケーションの道具としての言語は持っていません。集団行動をするオオカミなどは、ある種の以心伝心の力を持っているようですが、この場合のテレパシー的な言語は、人間の持つ不完全な言語とは違って完全な言語です。
機械が持っている言語は、プログラミング言語に見られるようにやはり完璧な言語です。正しいコマンドであれば、だれが命令してもソフトは正確に動きます。しかし、つづりを1文字間違えただけでも、全く動かなくなることがあります。(私も、ただ一ヶ所の半角スペースや改行記号が抜けていたためにプログラムが動かず、原因探しに数時間かけたというようなことが何度かありました。)
人間の言語は、この動物の言語とも機械の言語とも異なっています。その特徴は、不完全な言語であるということです。しかし、人間の言語のこの不完全性こそが、創造の土台となっています。
簡単な例を挙げると、人間が、トウモロコシを間違えてトウモコロシと読んだとき、機械はそれをエラーと見なすでしょう。動物は(人間の言うことが通じる犬のような場合)それを正しいトウモロコシに還元して理解するでしょう。しかし、人間だけは、この間違いを笑いとして受け止めることができます。ダジャレの本質は、言語の不完全性が、人間の受け取り方によって笑いに転化することにあります。
正しいもの、完全なものは原則としてひとつしかありません。しかし、間違ったもの、不完全なものは原則として多数存在します。この不完全性の多様さこそが、創造の多様性の土台となっています。
言語の持つ不完全性は、ダジャレのような単純なところだけでなく、もっと大きく学問体系の創造のようなところにも表れます。ある学問分野で、これまでA→Bだと考えられていたものが実はA→B→Cであると理解が進んだとき、隣接する学問分野に、類推できる理論A’→B’があると、そこから未知のC’を創造ないし発見しようという動きが出てきます。
例えば、自然科学におけるダーウィンの進化論は、社会科学におけるダーウィニズムを生み出し、そのダーウィニズムに基づいて優勝劣敗の制度の合理化という政治経済政策を生み出しました。しかし、逆に、その優勝劣敗の制度の矛盾が明らかになってくると、今度は、もとの自然科学の分野にまでさかのぼってダーウィニズムの弱点や限界が明らかになっていくのです。このように考えると、学問の発展は、完全な真理の発見の過程ではなく、無限に続く真理の創造の過程だということができます。この無限の創造性の土台となっているものが、人間の持つ言語の不完全性なのです。(つづく)
※話がだんだん長くなっていきますが、これから次第に具体的な話に進み、やがて作文の話に戻るので、もうしばらくおつきあいください。(^^ゞ
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