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学校の教育から、家庭の教育へ as/1228.html
森川林 2011/04/07 17:54 


 これからの教育を考えた場合、受験のための勉強から実力のための勉強へ、というひとつの流れがあると書きました。(前回の記事)

 もうひとつは、学校で先生に教えてもらうような形の勉強から、家庭で自分自身で学ぶ勉強への流れです。



 現在、教育というと、学校で先生に教えてもらうものというイメージがすぐにわきますが、実はそういう形は、決して普遍的なものではありません。学校で先生が生徒に教えるというスタイルの勉強は、近代のヨーロッパで生まれた特殊な勉強の形態がただ世界中に広がっただけだったのです。

 日本で、この学校制度が教育に取り入れられたのは明治時代からです。それまでの日本では、教育は、主に寺子屋という形で行われていました。武士階級では、藩校のようなものもありましたが、そこで行われる教育も、学校というよりも寺子屋のスタイルに近いものでした。

 寺子屋のスタイルの勉強というのは、生徒ひとりひとりが思い思いに教材を学ぶという形の勉強です。先生が一定のカリキュラムに沿って、全生徒を並べて一斉に授業をするという形の勉強ではありません。先生が、全員を集めて一斉に講義をするという形の勉強は、子供への教育というよりも、既に成人した人に対する講演のような形で行われていました。



 ところで、日本の江戸時代の識字率が70-80%だったのに対して、当時のヨーロッパの先進国の識字率は20-30%しかありませんでした。江戸時代の勉強法は寺子屋方式で、ヨーロッパの勉強法は学校で先生が教える方式でした。

 なぜこのような違いが出てきたかというと、日本では、教育が一般大衆の生活と密接に結びついていたからです。江戸時代の庶民は、毎日の生活の中で文字を使い計算をする必要に迫られていました。仕事ももちろんそうですが、かるた遊びや、短歌、俳句、手紙のやりとりなど、毎日の生活の中で文字が頻繁に使われていたのです。江戸時代の日本は、それだけ社会全体の知的水準が高かったのです。

 ところがヨーロッパの教育はそうではありませんでした。ヨーロッパでは、教育を必要としたのは社会を支配する一部の階級だけで、一般の庶民は教育とは無縁の生活を営んでいました。一握りのエリートの子弟を教える方法として、学校で先生が一斉に教えるという形がとられていたのです。



 江戸時代までの日本で、既にヨーロッパよりも優れた教育が行われていたにもかかわらず、明治政府がヨーロッパの学校制度をとりいれたのは、当時の日本人が新しく学ばなければならないヨーロッパの近代科学が、それまでの日本の文化からはかけ離れたものだったからです。子供たちが学ぶための教材自体が、新しい教科書を作らなければ用意できませんでした。そして、子供たちが新しく教科書で学ぶ知識は、親の伝統的な知識の中にはないものがほとんどでした。短期間で急速に欧米に追いつくために、日本はヨーロッパの学校制度を取り入れざるをえなかったのです。



 この学校制度も、やはり当初は大きな成果を上げました。日本は、明治時代からずっと教育の先進国でした。日本の社会全体が教育に対する関心が高く、庶民の平均的な知的水準も先進国の中で最も高かったのです。底辺が高いために、一般大衆とエリートの知的水準の違いがほとんどないというのが、日本の社会の特徴でした。

 しかし、OECDの学習到達度調査(PISA)が行われるようになった2000年ごろには、日本の教育力には、既にかげりが見られるようになっていました。今、日本における学校教育は、生徒の実力をつけるのにあまりよく機能しているようには見えません。教育関係者の多くは、その原因を先生1人が教える生徒の多さにあると考えているようですが、昭和の中ごろまでは、1学級の人数はもっと多かったのです。少人数学級になれば、教育の質は確かに充実するでしょうが、問題の根本的な解決策はそこにはありません。40人学級が30人学級になっても20人学級になっても、また、ひとりの担任から複数担任制になっても、今の学校の教育機能低下に歯止めはかからないでしょう。それは、なぜかというと、これまでの日本の子供たちの学力を支えてきたものが、学校制度ではなく、学校制度をとりまく家庭の環境や文化だったからです。



 日本の家庭には、江戸時代の昔からずっと続く伝統的な教育文化、特に優れた文字文化がありました。例えば、昔話を聞かせる、しりとり遊びをする、カルタ取りをする、百人一首をする、年賀状を書く、書き初めをする、本を読む、雑誌や新聞を読む、という文化です。このほかに、折り紙を折る、お絵かきをする、九九の暗唱、十二支の暗唱、いろはの暗唱、春の七草の知識、故事やことわざの知識など、日常生活の中で自然に行われる文化が、日本人の知性を育てることに役立ってきました。この家庭における文化によって、日本の子供たちは、学校に上がる前から既に一定の知的水準を共通に持つようになっていました。

 このような共通の知力がある子供たちに、学校の先生が宿題を出せば、ほとんどの家庭では、日常生活の延長でその宿題をこなしてきます。例えば、小学校低学年で学ぶ九九も、学校の授業だけでは到底全員に徹底させることはできません。家庭での練習が前提になって初めて、日本人の全員が九九を言えるようになっているのです。



 ところが、昭和の後半から、この家庭の文化が崩壊し始めました。それは、夫婦が共働きをせざるを得なくなるような経済環境の変化もあったと思います。しかし、それ以上に家庭の文化を崩壊させたものは、テレビ、そしてそのあとに続く、ゲーム、インターネット、ケータイなどの情報娯楽文化だったのです。もちろん、今でもほとんどの家庭は、その家庭なりの文化を保持しています。共働きで忙しくても、子供たちのテレビやゲームやインターネットの時間が多くなっても、何とか時間を捻出して親子の対話の時間を確保している家庭です。しかし、その度合いはまちまちです。

 そして、この結果、それらのまちまちの知的水準にある子供たちを受け入れる学校は、既に小学校1年生のころから、一斉に授業を進めることを前提にした教育ができなくなってきたのです。これが、公立学校に見られる学級崩壊の根本的な原因です。一斉の授業を効果的に進めるためには、子供たちの知的水準を同じ程度にしなければなりません。だから、私立小学校、私立中学校のように、テストで選抜された子供たちを教えるところでは、昔ながらの一斉授業スタイルの勉強を生かすことができます。しかし、公立小中学校のように子供たちの水準に差があるところでは、いくら少人数学級にしても、一斉指導の授業では限界があるようになってきたのです。つまり、家庭文化の崩壊が、学校教育の崩壊の本当の原因になっているのです。



 問題の根本的解決は、勉強の中心となる場所を、学校から家庭に移すことです。それは、今のほとんどの人にとってはなじみのない教育スタイルだと思います。しかし、江戸時代までの寺子屋教育は、この家庭を中心とした教育でした。寺子屋というのは、今の学校のように、生徒を集めて先生が一斉に授業をするような場所ではありません。そこでは、子供たちは思い思いに自分に決められた勉強を行い、時間が来ると家に帰りました。その間、先生はただ子供たちが羽目をはずしすぎないように見守っているだけで、子供たちの勉強が新しい段階になるときだけ、手短に次の勉強の仕方を指示しました。寺子屋というのは、家庭でもできることを、スペースや教材のうえでより能率的に行うために設けられた場所だったのです。

 現在の家庭は、インターネットや電話を利用すれば、この昔の寺子屋環境をそのまま家庭に移すことができる条件を持っています。もちろん、すぐにそのような変更はできませんが、これからの歴史の流れを大きな目で見ると、教育の中心は学校や塾から家庭に移ってきます。学校は、教育の場というよりも、集団活動や交流を楽しむ場として活用されるようになるでしょう。

 この変化は、小学校や中学校のようなところだけではなく、高校や大学にも広がっていきます。大学での勉強も、わざわざ遠くまで通って授業を聴いてレポートを書くというような学習の仕方に、多くの人は内心疑問を感じています。能率よく勉強しようと思えば、ネット環境を利用して自宅で学び、本当に会って話を聴きたい人にだけ会いにいくという形の勉強が最も合理的です。このような形が作られれば、勉強の目的は、受験のための勉強から実力のための勉強へと大きく変化していきます。そして、この勉強の目的の変化に応じて、勉強の場所も、学校から家庭へと大きく変化していくのです。

 (2011年4月8日加筆)
 勉強の場所が、学校や塾から家庭へと変化したあとに、その家庭での学習を能率化するために、ひとつの家庭に複数の子供が集まるような状態が生まれてきます。次第に多くの子がひとつの場所に集まるようになると、家庭の教育は、地域の教育に発展していきます。それが、新しい時代の寺子屋です。
 集団で学ぶという外見は、一見今の学校に似ていますが、学校が家庭から切り離されて存在しているのに対し、寺子屋的な地域の教育は、家庭での教育の延長にあります。未来の教育は、正確に言えば、学校から、家庭と地域に移っていくのです。

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受験の教育から、実力の教育へ as/1227.html
森川林 2011/04/06 18:42 


 これから、日本の教育は大きく変わろうとしています。そのひとつは、受験のための教育から実力のための教育へという流れです。



 日本の社会はこれまで、いい学校に入ることがそのままいい仕事につくことと同じ意味を持っていました。日本では労働市場の流動性が低いために、官庁などでは、入省時の学歴が一生ついて回るという仕組みになっています。このため、日本の社会では、勉強の目的が最もわかりやすい形で表れるものが、いい学校に入ること、更に言えば難関大学に入ることになっていたのです。

 この仕組みも、最初のうちはそれなりにうまく機能していました。しかし、勉強の目的が難関大学に入ることだと狭く絞られるようになると、やがて塾や予備校が、受験の合格のために特化した勉強を行うようになりました。志望校の出題傾向に合わせて点数の取れる勉強をするのですから、塾や予備校の勉強はすぐに大きな成果を上げました。すると、今度は学校側が、そういう受験テクニックを上回るような問題を出すようになりました。

 しかし、どんなにいい問題を出しても、答えのある問題は必ず知識の問題として処理されるようになります。つまり、思考力を見るような問題も、しばらくすると解き方のテクニックの知識に還元されるようになっていくのです。

 このようにして、受験問題の多くは、本当に大事なことをよりも、点数の差のつきやすいこと、うっかり間違えやすいこと、わかりにくいことを中心に出題されるようになっていきました。

 この結果、学校の勉強も、子供たちにとって大事なことよりも、点数の差のつきやすいことを中心に行われるようになりました。そのような環境で勉強を教えていると、先生の中にも、子供たちに何かを教えることよりも、テストをして点数の差をつけることを目的にしてしまう人も出てきます。そして、子供たち自身も、勉強とは自分を向上させるものだと考えるよりも、テストでいい点をとることだと考えるようになっていったのです。



 現在、日本の社会では、高校を中退する人の割合が毎年約2パーセント、人数にして約6万人ほどいると言われています。この中退の理由はさまざまですが、学力不足が背景になった勉強嫌いが根本にあるのは確かででしょう。

 これらの子供たちは、今の受験のための教育の犠牲者です。小学校から、本当に大事なことではなく、テストで差がつくようなことばかり教えられてきたために、いったん授業が理解できなくなると、そのまま勉強嫌いにならざるをえなくなってしまうのです。

 では、本当に大事なこととは何だったのでしょうか。それは、子供たちが日本語の文章をしっかり読む力をつけることだけです。そのことさえできれば、極端な話、英語が0点でも、数学が0点でも、理科や社会の知識がゼロでも、社会人として立派にやっていくことができます。逆に言えば、小学校から文章を読む力さえ確実に育てていれば、中学や高校で、英語や数学が途中で難しくなってもそれほど決定的な勉強嫌いにはならなかったはずなのです。



 こう考えると、日本の社会の今後の教育の方向がわかってきます。それは、受験のための勉強から、実力のための勉強へという転換です。

 今、首都圏では小学生の約20パーセントが中学を受験すると言われています。その子供たちを教える塾が何をいちばん大事にしているかというと、最難関校への合格者数です。大学受験の予備校の場合は、もっとはっきりしています。東大の合格者数が何人かということがそのまま予備校の評価になっています。

 しかし、そういう華やかに見える競争のかげで、もっとはるかに多くの子供たちは、塾や予備校で勉強しているとはいっても、その内実は学校の勉強の延長のようなことをやっているだけなのです。それは、結局、学校が子供たちに実力をつけるという最も大事な機能を果たせなくなっているからです。



 今後必要なのは、日常的に子供たちの実力の向上を測定する仕組みです。学校や塾や予備校の評価も、トップクラスの子がどこに合格したかでなく、生徒全体がどれだけ実力を向上させたかで行われるようにならなければなりません。

 トップクラスの子の合格結果だけを教育の目的にしているかぎり、先生は、できのよくない生徒をテストの評価でおどして勉強させるという役割を持つようになります。また、子供たちも、テストという競争の中で、友達どうしをライバルと考えて勉強への意欲をかきたてるということになりがちです。

 しかし、全体の実力を上げることが教育の目的になれば、先生と生徒は同じ目標に向かって協力するという関係になります。また、生徒どうしも、同じ目標に向かって助け合うという関係になります。勉強の目的は、他人と競争して相手よりもいい点数を取ることではなく、学ぶに値する本当に大事なことを、みんなができるように努力するということになるからです。

 しかし、受験のための勉強が、実力のための勉強に変わると言っても、それは受験のための勉強を否定することではありません。逆に、実力という大きなものを目的にすることによって、受験という小さな目的もその中に含まれていくような勉強を進めていくということなのです。

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日本人の対話と欧米人のディベートとの違い as/1226.html
森川林 2011/04/05 15:01 


 ディベートというのは、議論、論議、討論、論争などという言葉で訳されることが多いようです。この言葉に見られるように、討ったり、争ったり、論(あげつら)ったりするのがディベートです。ディスカッションも、同じです。議論の勝ち負けの要素の強いものがディベート、弱いものがディスカッションと考えてもよいでしょう。どちらも、意見を闘わせることが中心です。

 意見を闘わせるためには、自分の意見が正しいという確信が必要です。そして、相手の間違った意見を互いに論破しようとしてできないとき、そこに妥協が生まれます。この妥協のレベルの高いものが弁証法ですが、ほとんどの場合、意見の違いは力の差で決着をつけられます。その決着のひとつの方法が多数決です。

 ところが、日本には、こういう議論や多数決の伝統というものはあまりありませんでした。日本の仏教の中には他宗を批判することを特徴とする宗派もありましたが、多くの日本人は論争とは無縁の生活を送っていました。これは、今でもあまり変わりません。

 本居宣長は、インドや中国になぜ優れた哲学や宗教の理論があり、日本にそのようなものがないのかと問い、その答えとして、インドや中国は民衆のレベルが低かったために、そういう理論が必要だったのだと答えています。つまり、日本人はひとりひとりの人間性のレベルが高かったので、そのような大げさな理論は必要なかったというのです。これは、かなり都合のよい解釈のようにも見えますが、当たっていないこともありません。東日本大震災で被災者どうしが自然に助け合うような文化を持つ国では、もともと法律や罰則や警察などは必要なかったのです。



 では、日本には、議論に該当するようなものはなかったのでしょうか。宮本常一は、「忘れられた日本人」(岩波文庫)の中で、昭和25年ごろに調査した対馬のある村の話し合いのことを書いています。そこで、著者は、ある資料を見てそれを一時借りられないだろうかと村の責任者に相談します。すると、村の人が三々五々と集まり、何時間も話をし、その日のうちに結論が出ないと再び翌日も集まり何日も話をします。その話は、最初のテーマから脱線したりもとに戻ったり、賛成になったり反対になったりしながら延々と続き、やがてみんなが自然に全員一致になるような雰囲気でひとつの結論が出たというのです。この、納得するまで話し合いをして、自然に全員が一致するという話の仕方が、日本に伝統的にある議論の方法です。これは、議論というよりも対話の方法と言った方がよいでしょう。



 では、その対話の本質は何でしょうか。西洋の議論が、自分の側にある正しさを主張することだったの対して、日本の対話は、相手の話をとりあえず全部肯定するところから始まります。そして、相手を肯定したうえで、そこに自分の似た話を付け加えていくのです。いろいろな人が次々と、相手の話を肯定し、自分の話を付け加えていく中で、次第に同じような話が濃く重なる部分が出てきます。その濃い部分がみんなで共有されるようになると、そこに全員一致の意見が生まれるというわけです。

 西洋の、違うものを削っていってあとに残ったものを正しい意見とする方法と、同じようなものを付け加えていって濃くなったものを正しい意見とする方法と、結論は似ているかもしれませんが、途中の過程は正反対です。



 さて、家庭での対話というものを考えた場合も、西洋的な議論と日本的な対話の両方が可能です。子供が長文を音読して自分の感想を述べたとき、親が、「それは、なぜか」と質問したり、「その意見は、違うと思う」と反論したりするのは、西洋の議論です。日本の対話は、子供の言った言葉をそのまま肯定して、そこに親なりの似た話を付け加えていきます。そして、互いの似た話を共有することによって自然に双方が豊かな考えになっていきます。

 人類がゾウやイルカに比べて頭がよいように見えるのは、相手を批判する思考力を身につけてきたためです。しかし、本当に必要な思考力は、相手を肯定するところから生まれてきます。否定を重ねるところから生まれる創造力ではなく、肯定と重ねるところから生まれる創造力がこれからの時代には必要になってくるのです。

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匿名 20160401  
ディベートに欠点はあるし対話はメリットばかりに聞こえるけど、むしろ同調圧力で肯定して間違った意見を発展させるような性質もあるんじゃないか。

それは私達の国民性の問題点として取り上げられるし社会問題も生んでいる。例えば労働問題

結局ディベートの勝敗、対話の肯定、どっちに偏っても良くないんじゃないだろうか

森川林 20160401  
 ディベートは、頭の訓練のようなもので、新しいものを生み出すのには向いていないと思います。
 ああ言えばこう言うという練習をいくらしても、創造には結びつかないと思っています。

RIO 20240711  
ディベートは方法論なので、それを学ぶ価値はあります。確かに、日本人には欠けています。
最近は、ここで紹介された昔の方法論もなくなり、一方で、西洋的な議論もできない、という状態だと思います。

ディベートを学ぶことで、自分は知らないということを知るはずなんですが。

森川林 20240713  
 ディベートは、役に立つと思います。
 ただ、相手への共感に基づいたディベートをすることが大事です。

よろしく 20240805  
日本人は上に都合がよい対話と言う名のいいくるめ、現状維持、それぞれと言うものであり、江戸時代から変わらない。意義、主張を持たない、一所懸命に生きる、島国根性です。欧米に比べて、閉鎖的であると思います。

森川林 20240806  
ヨーロッパの対話は、正反合という弁証法の考え方を前提にしています。
日本の対話は、AとBの異なる意見が互いに共感し合ってCを生み出すという対話です。
似ているけど違うのは、否定を動機としないところです。

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