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赤ペン添削よりも事前の電話指導(他の作文通信講座とは違う言葉の森の作文指導 その1) as/1231.html
森川林 2011/04/12 04:23 


 通信教育で作文指導を行うところが増えてきました。公立中高一貫校の入試で作文が重視されるようになったためです。

 今回は、そういう作文の通信講座とは違う言葉の森の作文指導の特徴を7点にわたって説明したいと思います。「作文教室比較のための新7つの基準」ということです。作文教室や国語教室を選ぶ際の参考にしてください。



 まず第1は、言葉の森では、子供が教材をこなすだけでなく、先生と生徒、子供とお父さんお母さんの対話を重視した指導をしていることです。

 与えられた教材を埋めていくだけであれば、どの教材も似ています。そして、子供が楽に取り組める教材になるように工夫すればするほど、実力をつける教材からは遠ざかっていきます。特に、作文や国語の教材では、そういうことが多いのです。

 楽に取り組める教材は、子供の理解力よりも低く作られています。子供が、難しい文章よりも易しい文章、易しい文章よりも絵の多い漫画を好むのは、自分の理解力よりも低いものの方がなじみがあるからです。

 しかし、本当の実力は、子供の今の理解力よりも少し難しいものを学ぶことによって身につきます。この「少し難しい」というレベルは、算数のような積み重ねの道筋がはっきりしている教科の場合は、スモールステップで対応することができますが(しかし、実際にはそういう対応ができている教材は「でき太くん」のようなものに限られているようですが)、国語の場合はそうではありません。

 難しい文章を理解できる子は、だれも同じように理解できますが、理解できない子は、多様な原因で理解できません。ある子は、体験が不足しているために理解できず、ある子は語彙が乏しいために理解できず、ある子は精神年齢がまだ低いために理解できないというさまざまな原因があるために、理解の深さと浅さが人によってさまざまに異なるのです。

 子供によって異なる理解の差に対応できるのは、国語の場合、教材ではなく人間です。先生やお父さんやお母さんが、子供の反応を見ながら説明することによって、その子の理解度に応じた指導ができます。言葉の森の教材は、全体にかなり難しく作られています。特に、小学校5年生からの教材は、考える要素が多くなるので、普通の小学校5年生の力ではひとりでは十分にこなすことができません。また、小学校3年生から始まる感想文の指導も、普通の小学校3年生では、決してひとりでこなすことができません。

 しかし、言葉の森では、できる子もできない子も、全員その教材ができるように指導しています。それは、実力のある子には、その実力に応じた高度なアドバイス、実力のない子には、その実力に応じたわかりやすいアドバイスが臨機応変にできるからです。

 夏休みに学校で出されることの多い読書感想文の宿題は、日本全国で小学生の子供たちを苦しめている宿題ですが(笑)、この読書感想文も、言葉の森のやり方であれば、どの子も楽に書けるように指導できます。それもすべて、その子の理解度に応じて話をするという教え方の蓄積があるからです。

 言葉の森の通信指導は、毎週の電話で先生が生徒に説明する形で行っていますが、担当の先生が生徒と直接話をするので、子供の反応を見ながら説明することができます。こういう個人対応の指導は、教材と赤ペンだけでは、どれだけ工夫しても十分にはできません。

 特に、作文指導で大事なのは、書く前のアドバイスであって、書いたあとの添削ではありません。書く前のアドバイスで、生徒の理解度に応じた説明ができなければ、書いたあとの添削でいくら個人別に対応しても、それは本当の個人対応にはならないのです。

 言葉の森以外の作文通信講座で作文の勉強をしている人は、子供が作文を書き出せないときにどうしたらいいか困ることがあると思います。書いたあとの赤ペン添削は、確かに充実していると思います。しかし、作文の勉強で大事なのは、書いたあとのアドバイスではなく、まず書き出すことができるかどうかということです。

 通信講座の中には、子供が書き出しやすいように、作文ではなく、国語の穴埋め問題のような教材を用意しているところもあります。しかし、これは経験した人ならわかると思いますが、穴埋め問題で短い文をどれだけ書いても、そのことと、ひとつのまとまった作文を書くことの間には、非常に大きな差があります。作文の力は、作文を書く中でしか身につきません。だから、子供が作文を書くという指導をすることが最も重要なのです。

 言葉の森の子供たちの作文の提出率は、毎週ほぼ百パーセントです。しかも、小学校高学年以上の課題は、中学受験の作文試験にもそのまま対応できる難しい課題がずらりと並んでいます。子供たちが、なぜそういう難しい作文を書けるのかというと、担当の先生と生徒の間に毎週の事前指導のコミュニケーションがあるからです。(つづく)


※これから7点にわたって書くつもりでしたが、第1の話の途中で、結構長くなってしまいました。(^^ゞ このあとは、できるだけ簡潔に書いていきたいと思います。

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記事 1230番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/27
原発を含め今後の災害に対する心構えと、明るい未来の展望 as/1230.html
森川林 2011/04/11 11:40 


 東日本大震災とそれに続く今回の原発事故については、既に豊富な情報が出ているので、言葉の森のホームページではしばらく書いていませんでした。

 しかし、今、原発の今後について大きな不安を感じている人も多いようです。そこで、今後の心構えについて書いておきたいと思います。



 福島原発は、これまで綱渡り状態で、更に大きな事故に発展する可能性がありましたが、私の予感では今後は安定して最終的には収束していくと思います。

 しかし、原発については、まず原子力の利権で動いていた組織をすべて解散し、日本から原発を廃棄することです。日本が原発を廃棄すれば、それが世界の潮流になります。日本は、世界をリードするそういう役割があったのだと思います。



 さて、未来に横たわる危機は大きく四つあると思います。



 第一は、原発の事故も含む自然災害です。地球の変動に伴って、今後も大地震、火山の噴火、原子力事故などが起きるかもしれません。その場合は、ただその災害が起こった場所から静かに避難することです。簡単なことです。避難するのに何を持っていこうかなどと考える必要はありません。生命されあれば何とでもなるものです。



 第二は、経済の破綻です。このあと、ドルの崩壊、日本の財政破綻、ハイパーインフレ、食料危機などが起きたとしても、日本全体では全員に十分行き渡るだけの富があります。これは、世界全体でも同じで、今飢餓に苦しんでいる人がいるのは、地球に食料が不足しているからではなく、それを行き渡らせる政治が不足しているからです。経済の破綻が起きたら、まず助け合うことです。ひとりひとりが助け合う気持ちを持てば、経済の破綻は克服することができます。
 その助け合いが自然にできるたぶん唯一の国が日本だということが今回の震災でわかったのだと思います。



 第三は、戦争やテロの勃発です。経済情勢が厳しくなると、他国への侵略によって自国の不足を解決しようとする国が出てきます。しかも、戦争は大義名分を用意してから行われるので、国と国との争いは、すぐに国民どうしの大規模な争いに発展します。このような戦争を起こさないためには、戦争への動きがあったときにまずそれを止める行動をすることです。その止める行動には、戦うことも含みます。

 特に、日本の一部が侵略されるようなことがあれば、それを黙認したり、ほかの国に助けを求めたりするのではなく、日本自身でしっかりと戦う決意を示すことです。他国を侵略しようとする国は、国内の矛盾を抱えていますから、日本が毅然として侵略を許さないという行動をとれば、かえって自国の内部の矛盾の方が大きくなります。大事なことは、日本が正義の原則を譲らないということです。



 第四は、感染症の拡大です。今後、世界の各地で新しいウイルスが発生し急速に広がるような事態もあると思います。この場合は、生物が持つ自然治癒力に信頼を置いて、明るく元気に耐えることです。人類の歴史には、これまで何百回も何千回もそのようなパンデミックがあったはずですが、人類は絶滅もせずに生き抜いてきました。医学の力を過小評価するものではありませんが、ワクチンには効果もあればそれ以上の副作用もあります。ワクチンを求めて右往左往するのではなく、まず自分の力で感染症を治すという決心をすることです。



 以上のように考えると、これからさまざまな困難があるとしても、基本的には何も心配ないことがわかります。

 そして、この動乱の何年間が過ぎたあとに、人類は今よりももっと豊かで明るい社会を作るために協力して動きはじめるでしょう。

 言葉の森は、そういう未来の社会を念頭において、新しい産業社会における、より充実した作文教育を創造していきたいと思っています。

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記事 1229番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/27
点数の教育から、文化の教育へ as/1229.html
森川林 2011/04/09 22:27 


 未来の教育の大きな戦略目標として、「受験の教育から、実力の教育へ」、「学校の教育から、家庭の教育へ」と書いてきました。今回は、「点数の教育から、文化の教育へ」という話です。

 教育は、個人の側から見れば、自己の向上です。社会の側から見れば、社会の再生産です。その両者の出合うひとつの形が点数です。社会は、社会自身を再生産する方向に向かって100点を用意します。個人は、自己の向上のバロメータとして、その100点に近づくことを向上の目標とします。

 ところが、教育の目的が、実力をつけることから受験に合格することに狭められることによって、この点数による評価が極大化したというのが現代の教育の特徴です。点数が評価の中心になるにつれて,逆に、点数化しやすいものが教育の中心になっていきました。

 例えば、小学校から高校にかけての教科には、国語、数学、英語、理科、社会、音楽、美術、体育などがあります。このうち、音楽、美術、体育などは、点数化しにくいので、一般的な受験勉強の中心にはなっていません。理科や社会は、点数化しやすい教科ですが、そこで求められる知識は比較的平板なものなので、記憶力を中心としたものになります。国語、数学、英語は、理科や社会に比べると、知識が立体的な構造を持っているので、記憶力以外に思考力が必要になります。そのため、国語、数学、英語が受験勉強の主要な3教科になり、そこに、理科、社会を付け加えて5教科の勉強が教育の中心になるという体制になっています。



 教育とは、社会の再生産ですが、その再生産が点数化されやすいものに絞られることによって、自己の向上も点数化されやすいものに絞られるようになってきました。点数が教育の評価の中心になることによって、社会と自己の両者がともに質の低い目標に甘んじるようになってきたというところに、現代の教育のひとつの問題があります。

 例としては少し飛躍しますが、例えばドッグショーという犬の評価があります。そこで評価されるものは、姿形や血統が中心です。外面からは判断しにくい、性格のよさや頭のよさは評価の中に出てきません。そして、そういう内面的なものが出てこないばかりか、外面的なものが極端に重視されると内面的なものが低下する面も出てくるのです。人間の教育も似ています。点数化しやすいものによる評価は、ある程度までは有効ですが、それが極端に重視されるようになると、かえって人間の成長と社会の発展を妨げる面も出てきます。



 社会も人間も、その多くは、点数化されにくいものによって運営されています。例えば、江戸しぐさのような文化があります。座る場所が混んでいたら互いにちょっと詰めてあげるというような文化です。道でときどき出会う人には、相手のことをよく知らなくても会釈を交わします。災害のあった場所でもそれをいいことにして物を略奪するようなことはしません。見知らぬ人どうしでも分け隔てなく相手の立場に共感してものを考えます。自然と一体感を感じ、自然を味わうことに喜びを感じます。こういうことは、すべて社会の中で再生産されている文化です。しかし、これらの中で点数化されるようなものはほとんどありません。

 こういう例は、挙げればきりがありません。例えば、言葉だけで列挙すると、親孝行、自然への信頼、祖先への尊敬、日本語脳、よい姿勢、早寝早起きの習慣、清潔に対する感覚、色彩を表す表現、昔話に伝わる文化、助け合いの文化、譲り合いの文化、自己主張のない文化、誠実さや正直さに対する価値観、道を追求する文化、八百万(やおよろず)的な考え、オープン性、平和志向、静かな文化、清貧の思想、明るさに対する価値観、手先の器用さ、謝ればすぐに水に流す文化など、こういう日本の社会に伝わる文化のほとんどは、点数による評価とは無縁のものです。

 しかし、これらの文化は、点数評価を中心とした社会の中では、軽視されるどころか否定されてしまうこともあります。例えば、テスト勉強のコツとして、子供たちが、「時間がなかったら、選択問題はとにかくわからなくても埋めておけ」というようなことを教えられたとします。しかし、これは、日本文化の中にある正直さや潔さ(いさぎよさ)に対する価値観とは対極にある考え方です。



 日本文化は、以前、無の文化だと書いたことがあります。(「新たな知のパラダイム」)。それは、西洋における有の文化とは正反対の哲学に立脚しています。西洋の有の文化とは、個人のエゴを社会の構成原理としている文化です。そして、このエゴ的なものほど、点数化されやすいという傾向があります。

 点数は、どこができていたらプラス何点で、どこができていなかったらマイナス何点だというふうに、特定の場所を基準として誰にとっても共通に客観的に採点されるので説得力があります。無味乾燥な説得力というのが、点数文化の特徴です。

 それに対して、点数化されない文化は、全体の雰囲気の中で承認や共感を受ける形で評価されます。未来の教育のひとつの大きな方向は、この「点数の教育から、文化の教育へ」という流れの中にあるのだと思います。

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記事 1228番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/27
学校の教育から、家庭の教育へ as/1228.html
森川林 2011/04/07 17:54 


 これからの教育を考えた場合、受験のための勉強から実力のための勉強へ、というひとつの流れがあると書きました。(前回の記事)

 もうひとつは、学校で先生に教えてもらうような形の勉強から、家庭で自分自身で学ぶ勉強への流れです。



 現在、教育というと、学校で先生に教えてもらうものというイメージがすぐにわきますが、実はそういう形は、決して普遍的なものではありません。学校で先生が生徒に教えるというスタイルの勉強は、近代のヨーロッパで生まれた特殊な勉強の形態がただ世界中に広がっただけだったのです。

 日本で、この学校制度が教育に取り入れられたのは明治時代からです。それまでの日本では、教育は、主に寺子屋という形で行われていました。武士階級では、藩校のようなものもありましたが、そこで行われる教育も、学校というよりも寺子屋のスタイルに近いものでした。

 寺子屋のスタイルの勉強というのは、生徒ひとりひとりが思い思いに教材を学ぶという形の勉強です。先生が一定のカリキュラムに沿って、全生徒を並べて一斉に授業をするという形の勉強ではありません。先生が、全員を集めて一斉に講義をするという形の勉強は、子供への教育というよりも、既に成人した人に対する講演のような形で行われていました。



 ところで、日本の江戸時代の識字率が70-80%だったのに対して、当時のヨーロッパの先進国の識字率は20-30%しかありませんでした。江戸時代の勉強法は寺子屋方式で、ヨーロッパの勉強法は学校で先生が教える方式でした。

 なぜこのような違いが出てきたかというと、日本では、教育が一般大衆の生活と密接に結びついていたからです。江戸時代の庶民は、毎日の生活の中で文字を使い計算をする必要に迫られていました。仕事ももちろんそうですが、かるた遊びや、短歌、俳句、手紙のやりとりなど、毎日の生活の中で文字が頻繁に使われていたのです。江戸時代の日本は、それだけ社会全体の知的水準が高かったのです。

 ところがヨーロッパの教育はそうではありませんでした。ヨーロッパでは、教育を必要としたのは社会を支配する一部の階級だけで、一般の庶民は教育とは無縁の生活を営んでいました。一握りのエリートの子弟を教える方法として、学校で先生が一斉に教えるという形がとられていたのです。



 江戸時代までの日本で、既にヨーロッパよりも優れた教育が行われていたにもかかわらず、明治政府がヨーロッパの学校制度をとりいれたのは、当時の日本人が新しく学ばなければならないヨーロッパの近代科学が、それまでの日本の文化からはかけ離れたものだったからです。子供たちが学ぶための教材自体が、新しい教科書を作らなければ用意できませんでした。そして、子供たちが新しく教科書で学ぶ知識は、親の伝統的な知識の中にはないものがほとんどでした。短期間で急速に欧米に追いつくために、日本はヨーロッパの学校制度を取り入れざるをえなかったのです。



 この学校制度も、やはり当初は大きな成果を上げました。日本は、明治時代からずっと教育の先進国でした。日本の社会全体が教育に対する関心が高く、庶民の平均的な知的水準も先進国の中で最も高かったのです。底辺が高いために、一般大衆とエリートの知的水準の違いがほとんどないというのが、日本の社会の特徴でした。

 しかし、OECDの学習到達度調査(PISA)が行われるようになった2000年ごろには、日本の教育力には、既にかげりが見られるようになっていました。今、日本における学校教育は、生徒の実力をつけるのにあまりよく機能しているようには見えません。教育関係者の多くは、その原因を先生1人が教える生徒の多さにあると考えているようですが、昭和の中ごろまでは、1学級の人数はもっと多かったのです。少人数学級になれば、教育の質は確かに充実するでしょうが、問題の根本的な解決策はそこにはありません。40人学級が30人学級になっても20人学級になっても、また、ひとりの担任から複数担任制になっても、今の学校の教育機能低下に歯止めはかからないでしょう。それは、なぜかというと、これまでの日本の子供たちの学力を支えてきたものが、学校制度ではなく、学校制度をとりまく家庭の環境や文化だったからです。



 日本の家庭には、江戸時代の昔からずっと続く伝統的な教育文化、特に優れた文字文化がありました。例えば、昔話を聞かせる、しりとり遊びをする、カルタ取りをする、百人一首をする、年賀状を書く、書き初めをする、本を読む、雑誌や新聞を読む、という文化です。このほかに、折り紙を折る、お絵かきをする、九九の暗唱、十二支の暗唱、いろはの暗唱、春の七草の知識、故事やことわざの知識など、日常生活の中で自然に行われる文化が、日本人の知性を育てることに役立ってきました。この家庭における文化によって、日本の子供たちは、学校に上がる前から既に一定の知的水準を共通に持つようになっていました。

 このような共通の知力がある子供たちに、学校の先生が宿題を出せば、ほとんどの家庭では、日常生活の延長でその宿題をこなしてきます。例えば、小学校低学年で学ぶ九九も、学校の授業だけでは到底全員に徹底させることはできません。家庭での練習が前提になって初めて、日本人の全員が九九を言えるようになっているのです。



 ところが、昭和の後半から、この家庭の文化が崩壊し始めました。それは、夫婦が共働きをせざるを得なくなるような経済環境の変化もあったと思います。しかし、それ以上に家庭の文化を崩壊させたものは、テレビ、そしてそのあとに続く、ゲーム、インターネット、ケータイなどの情報娯楽文化だったのです。もちろん、今でもほとんどの家庭は、その家庭なりの文化を保持しています。共働きで忙しくても、子供たちのテレビやゲームやインターネットの時間が多くなっても、何とか時間を捻出して親子の対話の時間を確保している家庭です。しかし、その度合いはまちまちです。

 そして、この結果、それらのまちまちの知的水準にある子供たちを受け入れる学校は、既に小学校1年生のころから、一斉に授業を進めることを前提にした教育ができなくなってきたのです。これが、公立学校に見られる学級崩壊の根本的な原因です。一斉の授業を効果的に進めるためには、子供たちの知的水準を同じ程度にしなければなりません。だから、私立小学校、私立中学校のように、テストで選抜された子供たちを教えるところでは、昔ながらの一斉授業スタイルの勉強を生かすことができます。しかし、公立小中学校のように子供たちの水準に差があるところでは、いくら少人数学級にしても、一斉指導の授業では限界があるようになってきたのです。つまり、家庭文化の崩壊が、学校教育の崩壊の本当の原因になっているのです。



 問題の根本的解決は、勉強の中心となる場所を、学校から家庭に移すことです。それは、今のほとんどの人にとってはなじみのない教育スタイルだと思います。しかし、江戸時代までの寺子屋教育は、この家庭を中心とした教育でした。寺子屋というのは、今の学校のように、生徒を集めて先生が一斉に授業をするような場所ではありません。そこでは、子供たちは思い思いに自分に決められた勉強を行い、時間が来ると家に帰りました。その間、先生はただ子供たちが羽目をはずしすぎないように見守っているだけで、子供たちの勉強が新しい段階になるときだけ、手短に次の勉強の仕方を指示しました。寺子屋というのは、家庭でもできることを、スペースや教材のうえでより能率的に行うために設けられた場所だったのです。

 現在の家庭は、インターネットや電話を利用すれば、この昔の寺子屋環境をそのまま家庭に移すことができる条件を持っています。もちろん、すぐにそのような変更はできませんが、これからの歴史の流れを大きな目で見ると、教育の中心は学校や塾から家庭に移ってきます。学校は、教育の場というよりも、集団活動や交流を楽しむ場として活用されるようになるでしょう。

 この変化は、小学校や中学校のようなところだけではなく、高校や大学にも広がっていきます。大学での勉強も、わざわざ遠くまで通って授業を聴いてレポートを書くというような学習の仕方に、多くの人は内心疑問を感じています。能率よく勉強しようと思えば、ネット環境を利用して自宅で学び、本当に会って話を聴きたい人にだけ会いにいくという形の勉強が最も合理的です。このような形が作られれば、勉強の目的は、受験のための勉強から実力のための勉強へと大きく変化していきます。そして、この勉強の目的の変化に応じて、勉強の場所も、学校から家庭へと大きく変化していくのです。

 (2011年4月8日加筆)
 勉強の場所が、学校や塾から家庭へと変化したあとに、その家庭での学習を能率化するために、ひとつの家庭に複数の子供が集まるような状態が生まれてきます。次第に多くの子がひとつの場所に集まるようになると、家庭の教育は、地域の教育に発展していきます。それが、新しい時代の寺子屋です。
 集団で学ぶという外見は、一見今の学校に似ていますが、学校が家庭から切り離されて存在しているのに対し、寺子屋的な地域の教育は、家庭での教育の延長にあります。未来の教育は、正確に言えば、学校から、家庭と地域に移っていくのです。

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受験の教育から、実力の教育へ as/1227.html
森川林 2011/04/06 18:42 


 これから、日本の教育は大きく変わろうとしています。そのひとつは、受験のための教育から実力のための教育へという流れです。



 日本の社会はこれまで、いい学校に入ることがそのままいい仕事につくことと同じ意味を持っていました。日本では労働市場の流動性が低いために、官庁などでは、入省時の学歴が一生ついて回るという仕組みになっています。このため、日本の社会では、勉強の目的が最もわかりやすい形で表れるものが、いい学校に入ること、更に言えば難関大学に入ることになっていたのです。

 この仕組みも、最初のうちはそれなりにうまく機能していました。しかし、勉強の目的が難関大学に入ることだと狭く絞られるようになると、やがて塾や予備校が、受験の合格のために特化した勉強を行うようになりました。志望校の出題傾向に合わせて点数の取れる勉強をするのですから、塾や予備校の勉強はすぐに大きな成果を上げました。すると、今度は学校側が、そういう受験テクニックを上回るような問題を出すようになりました。

 しかし、どんなにいい問題を出しても、答えのある問題は必ず知識の問題として処理されるようになります。つまり、思考力を見るような問題も、しばらくすると解き方のテクニックの知識に還元されるようになっていくのです。

 このようにして、受験問題の多くは、本当に大事なことをよりも、点数の差のつきやすいこと、うっかり間違えやすいこと、わかりにくいことを中心に出題されるようになっていきました。

 この結果、学校の勉強も、子供たちにとって大事なことよりも、点数の差のつきやすいことを中心に行われるようになりました。そのような環境で勉強を教えていると、先生の中にも、子供たちに何かを教えることよりも、テストをして点数の差をつけることを目的にしてしまう人も出てきます。そして、子供たち自身も、勉強とは自分を向上させるものだと考えるよりも、テストでいい点をとることだと考えるようになっていったのです。



 現在、日本の社会では、高校を中退する人の割合が毎年約2パーセント、人数にして約6万人ほどいると言われています。この中退の理由はさまざまですが、学力不足が背景になった勉強嫌いが根本にあるのは確かででしょう。

 これらの子供たちは、今の受験のための教育の犠牲者です。小学校から、本当に大事なことではなく、テストで差がつくようなことばかり教えられてきたために、いったん授業が理解できなくなると、そのまま勉強嫌いにならざるをえなくなってしまうのです。

 では、本当に大事なこととは何だったのでしょうか。それは、子供たちが日本語の文章をしっかり読む力をつけることだけです。そのことさえできれば、極端な話、英語が0点でも、数学が0点でも、理科や社会の知識がゼロでも、社会人として立派にやっていくことができます。逆に言えば、小学校から文章を読む力さえ確実に育てていれば、中学や高校で、英語や数学が途中で難しくなってもそれほど決定的な勉強嫌いにはならなかったはずなのです。



 こう考えると、日本の社会の今後の教育の方向がわかってきます。それは、受験のための勉強から、実力のための勉強へという転換です。

 今、首都圏では小学生の約20パーセントが中学を受験すると言われています。その子供たちを教える塾が何をいちばん大事にしているかというと、最難関校への合格者数です。大学受験の予備校の場合は、もっとはっきりしています。東大の合格者数が何人かということがそのまま予備校の評価になっています。

 しかし、そういう華やかに見える競争のかげで、もっとはるかに多くの子供たちは、塾や予備校で勉強しているとはいっても、その内実は学校の勉強の延長のようなことをやっているだけなのです。それは、結局、学校が子供たちに実力をつけるという最も大事な機能を果たせなくなっているからです。



 今後必要なのは、日常的に子供たちの実力の向上を測定する仕組みです。学校や塾や予備校の評価も、トップクラスの子がどこに合格したかでなく、生徒全体がどれだけ実力を向上させたかで行われるようにならなければなりません。

 トップクラスの子の合格結果だけを教育の目的にしているかぎり、先生は、できのよくない生徒をテストの評価でおどして勉強させるという役割を持つようになります。また、子供たちも、テストという競争の中で、友達どうしをライバルと考えて勉強への意欲をかきたてるということになりがちです。

 しかし、全体の実力を上げることが教育の目的になれば、先生と生徒は同じ目標に向かって協力するという関係になります。また、生徒どうしも、同じ目標に向かって助け合うという関係になります。勉強の目的は、他人と競争して相手よりもいい点数を取ることではなく、学ぶに値する本当に大事なことを、みんなができるように努力するということになるからです。

 しかし、受験のための勉強が、実力のための勉強に変わると言っても、それは受験のための勉強を否定することではありません。逆に、実力という大きなものを目的にすることによって、受験という小さな目的もその中に含まれていくような勉強を進めていくということなのです。

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日本人の対話と欧米人のディベートとの違い as/1226.html
森川林 2011/04/05 15:01 


 ディベートというのは、議論、論議、討論、論争などという言葉で訳されることが多いようです。この言葉に見られるように、討ったり、争ったり、論(あげつら)ったりするのがディベートです。ディスカッションも、同じです。議論の勝ち負けの要素の強いものがディベート、弱いものがディスカッションと考えてもよいでしょう。どちらも、意見を闘わせることが中心です。

 意見を闘わせるためには、自分の意見が正しいという確信が必要です。そして、相手の間違った意見を互いに論破しようとしてできないとき、そこに妥協が生まれます。この妥協のレベルの高いものが弁証法ですが、ほとんどの場合、意見の違いは力の差で決着をつけられます。その決着のひとつの方法が多数決です。

 ところが、日本には、こういう議論や多数決の伝統というものはあまりありませんでした。日本の仏教の中には他宗を批判することを特徴とする宗派もありましたが、多くの日本人は論争とは無縁の生活を送っていました。これは、今でもあまり変わりません。

 本居宣長は、インドや中国になぜ優れた哲学や宗教の理論があり、日本にそのようなものがないのかと問い、その答えとして、インドや中国は民衆のレベルが低かったために、そういう理論が必要だったのだと答えています。つまり、日本人はひとりひとりの人間性のレベルが高かったので、そのような大げさな理論は必要なかったというのです。これは、かなり都合のよい解釈のようにも見えますが、当たっていないこともありません。東日本大震災で被災者どうしが自然に助け合うような文化を持つ国では、もともと法律や罰則や警察などは必要なかったのです。



 では、日本には、議論に該当するようなものはなかったのでしょうか。宮本常一は、「忘れられた日本人」(岩波文庫)の中で、昭和25年ごろに調査した対馬のある村の話し合いのことを書いています。そこで、著者は、ある資料を見てそれを一時借りられないだろうかと村の責任者に相談します。すると、村の人が三々五々と集まり、何時間も話をし、その日のうちに結論が出ないと再び翌日も集まり何日も話をします。その話は、最初のテーマから脱線したりもとに戻ったり、賛成になったり反対になったりしながら延々と続き、やがてみんなが自然に全員一致になるような雰囲気でひとつの結論が出たというのです。この、納得するまで話し合いをして、自然に全員が一致するという話の仕方が、日本に伝統的にある議論の方法です。これは、議論というよりも対話の方法と言った方がよいでしょう。



 では、その対話の本質は何でしょうか。西洋の議論が、自分の側にある正しさを主張することだったの対して、日本の対話は、相手の話をとりあえず全部肯定するところから始まります。そして、相手を肯定したうえで、そこに自分の似た話を付け加えていくのです。いろいろな人が次々と、相手の話を肯定し、自分の話を付け加えていく中で、次第に同じような話が濃く重なる部分が出てきます。その濃い部分がみんなで共有されるようになると、そこに全員一致の意見が生まれるというわけです。

 西洋の、違うものを削っていってあとに残ったものを正しい意見とする方法と、同じようなものを付け加えていって濃くなったものを正しい意見とする方法と、結論は似ているかもしれませんが、途中の過程は正反対です。



 さて、家庭での対話というものを考えた場合も、西洋的な議論と日本的な対話の両方が可能です。子供が長文を音読して自分の感想を述べたとき、親が、「それは、なぜか」と質問したり、「その意見は、違うと思う」と反論したりするのは、西洋の議論です。日本の対話は、子供の言った言葉をそのまま肯定して、そこに親なりの似た話を付け加えていきます。そして、互いの似た話を共有することによって自然に双方が豊かな考えになっていきます。

 人類がゾウやイルカに比べて頭がよいように見えるのは、相手を批判する思考力を身につけてきたためです。しかし、本当に必要な思考力は、相手を肯定するところから生まれてきます。否定を重ねるところから生まれる創造力ではなく、肯定と重ねるところから生まれる創造力がこれからの時代には必要になってくるのです。

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匿名 20160401  
ディベートに欠点はあるし対話はメリットばかりに聞こえるけど、むしろ同調圧力で肯定して間違った意見を発展させるような性質もあるんじゃないか。

それは私達の国民性の問題点として取り上げられるし社会問題も生んでいる。例えば労働問題

結局ディベートの勝敗、対話の肯定、どっちに偏っても良くないんじゃないだろうか

森川林 20160401  
 ディベートは、頭の訓練のようなもので、新しいものを生み出すのには向いていないと思います。
 ああ言えばこう言うという練習をいくらしても、創造には結びつかないと思っています。

RIO 20240711  
ディベートは方法論なので、それを学ぶ価値はあります。確かに、日本人には欠けています。
最近は、ここで紹介された昔の方法論もなくなり、一方で、西洋的な議論もできない、という状態だと思います。

ディベートを学ぶことで、自分は知らないということを知るはずなんですが。

森川林 20240713  
 ディベートは、役に立つと思います。
 ただ、相手への共感に基づいたディベートをすることが大事です。

よろしく 20240805  
日本人は上に都合がよい対話と言う名のいいくるめ、現状維持、それぞれと言うものであり、江戸時代から変わらない。意義、主張を持たない、一所懸命に生きる、島国根性です。欧米に比べて、閉鎖的であると思います。

森川林 20240806  
ヨーロッパの対話は、正反合という弁証法の考え方を前提にしています。
日本の対話は、AとBの異なる意見が互いに共感し合ってCを生み出すという対話です。
似ているけど違うのは、否定を動機としないところです。

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対話(45) 

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国語の記述問題にどう取り組むか as/1225.html
森川林 2011/04/04 14:10 


 小学校高学年の生徒のお父さんやお母さんからときどき質問されるのが、記述問題の勉強の仕方です。塾の模擬試験などを受けると、記述問題の答えは一応書けているが小さな減点のあることが多く、親がどういうふうに説明していいかわからないというのです。

 しかし、これは、実は採点している人もよくわかっていないことが多いのです。模擬試験の記述問題の採点や小論文の採点は、かなり割り引いて考える必要があります。

 高校生の場合、入試直前に小論文の模試を受けて、それが予想以上に悪い点数だとかなり落ち込んで見せに来ることがあります。しかし、そういう子が入試の小論文の本番ではほとんど合格しています。模試の採点の仕方を見ていると、文章全体の構成力(思考力)よりも、ちょっとした表現の巧拙から感じられる雰囲気で点数がつけられているような感じがします。

 中学入試の問題の場合は、単純に、親が説明できないようなことは、子供ができなくても大丈夫と考えていくぐらいでいいと思います。



 先日は、小学6年生の生徒本人から、「記述問題がうまく書けない」と質問がありました。東京都のある公立中高一貫校の昨年の問題と模範解答がインターネットに載っているのですが、その模範解答のような文章が書けないというのです。そこで、インターネットでその模範解答を見てみると、その子の書いた文章よりも模範解答の方がレベルが低かったのです。なぜそういう解答が載っているのかわかりませんが、この模範解答ではかえって減点されるだろうと思いました。

 同じようなことは、大学入試の場合はもっと頻繁にあります。東大の国語の入試問題は、すべて50字や100字の記述問題です。東大の過去問ですから、模範解答にも力を入れているはずですが、実際には教室で勉強している高校3年生が書いた解答の方が、模範解答の文章よりも優れているということがときどきあります。



 では、記述の勉強は、家庭ではどのようにしていったらいいのでしょうか。

 第一は、読む力をつけることです。読む力をつけるためには、入試問題に出てくる文章を読みなれておくことが必要です。できれば、その文章を読んで親子で対話して理解を深めておくといいでしょう。

 第二は、書く力をつけることです。これは、書きなれるということです。例えば、国語の問題文を読み、それについて、50字なら50字と決めて、すばやく感想を書くというような練習です。この場合、あれこれ考えたり、読み返したり、書き直したりせずに、一気に50字書く力をつけていきます。この、すばやく必要な字数まで書くというのは、考える力があるだけではできません。やはり、書きなれていることが必要になります。

 子供が書いた記述の解答を親が見るときに、どういう点に注意しておくかというと、まず内容が大体合っているかどうかです。次に、密度濃く書いてあるかどうかです。これは、同じ表現や同じ内容が繰り返されていないということです。そしてもうひとつは、必要な字数の最後の方まで埋めているかどうかです。記述問題の解答で半行以上スペースが空いているのは、文章力がないということになります。

 記述問題の練習は、書きなれることが大事ですから、質よりも量で勉強していきます。ですから、親が見るときもあまり細かいところまで見る必要はなく、大体の内容、密度の濃さ、文字数をどこまで埋めたかという三つの基準で簡単に見ていくといいと思います。

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公立中高一貫校の勉強は家庭の対話で as/1224.html
森川林 2011/04/02 11:18 


 公立の中高一貫校を設置する県が年々増えています。

 この入試は、塾で受験用の勉強をしないと入れないような問題は出さないという方針で行われています。だから、問題を作成する方は大変だと思いますが、考える力を試す良問がかなりあります。

 公立中高一貫校の作文試験も、最初のころは、初歩的な題名課題が出されていましたが、最近は、複数の文章や資料をもとに、短い時間で長い文章を書かせるような形のかなり難しいものになっています。



 この公立中高一貫校の試験対策は、どのようにしたらいいのでしょうか。

 いちばん大事なことは、考える力を見る入試問題に対応できるような思考力をつけるということです。そして、難度の高くなった作文試験に対応するために、時間内に必要な字数の作文を書く練習をしておくことです。作文力のもとになるのは思考力ですが、作文試験対策はただ考える力があるだけでは不十分で、やはり書きなれておくことが大切です。



 思考力をつけるような勉強は、学校や塾の一斉授業ではなかなかできません。それは、思考力というものが、それぞれの子供の個性に根ざした個人的なものだからです。

 ある程度パターンの決まった勉強であれば、「こういう問題は、こういう解き方で考える」というような教え方ができます。しかし、公立中高一貫校の試験は、考える力を見るために、あえてパターン化できないような問題を出しています。

 ここで生きてくるのが、家庭での対話です。一般に、両親とよく話をする子は、同年代の子供と比べて思考力が高くなります。特に、小学校時代は、本を読むよりも親と話をする方が考える力が育ちます。それは、親が子供の理解度に応じて話をすることができるからです。大人との会話の中で、自分の知っている知識の周辺により高度な語彙があるのを知ることが思考力を育てることになります。



 したがって、中高一貫校の試験対策は、家庭で次のように取り組むことができます。

 まず、全国の中高一貫校の入試問題の過去問を買ってきます。全国ですから、かなり分量があります。その中から1問ずつ取り出し、親子で読み合わせてディスカッションをするのです。しかし、親と子だけの話では、親が一方的に話すことが多くなり、対話の密度が薄くなります。できれば、父親と母親と子供(兄弟がいればもちろん兄弟も)で、いろいろな立場から意見が交わせるようにします。

 父と母がそろう時間がなかなかとれない場合は、近所の同じ学年の子供と親で集まって話をしてもいいと思います。こういう対話は、慣れてくると、知的で創造的で人間どうしの交流も図れる楽しい時間になります。

 そして、このようにして育った子供は、成長して大人になったときに、やはり自分の子供に対していろいろな対話のできる親になっていきます。家族での対話は、子供の思考力を育てるとともに、家庭の文化をつくるという役割も持っているのです。

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