■インターネットの本質
人間は、コミュニケーションのツールをさまざまに発展させてきました。コミュニケーションとは、ある人が他の人に何かを伝えることです。伝える方法は、声が主なものでしたが、やがてその音声を伝える喉が、拡声器になったり、狼煙(のろし)になったり、手旗信号になったり、電話になったり、マスメディアになったりする形で発達していきました。
社会の歯車を作ることが教育の主要な目的であった時代は、コミュニケーションの送り手は一方的に送り手のままで、コミュニケーションの受け手はいつも受け手のままでした。能率のよい伝達のために、同じ教材を同じ年齢の生徒に同じように教えるというプランテーションのような教育が求められていたのです。
しかし、今、時代は大きく変わろうとしています。これからの教育に必要なものは、個人の個性に合った多様なニーズであり、そのニーズに対応するための多様なシーズです。Aを欲する人にはAを提供できる人が対応し、Bを欲する人にはBを提供できる人が対応するという多様なコミュニケーションが成立する社会では、教育は、雑木林(ぞうきばやし)のような姿になります。その雑木林の教育を可能にするコミュニケーションのツールがインターネットという新しい表現手段です。
インターネットは、これまで、情報を検索するツールや、情報を発信するツールとして使われてきました。それも確かにインターネットの重要な役割ですが、今後はそれ以上にSNS的なコミュニケーションのツールとしての役割が増大していきます。つまり、大量の情報を収集する役割や、大量の情報を発信する役割以上に、多様な情報を相互に多様にやりとりするという役割が大きくなってくるのです。
■インターネットと教育
プランテーションの農業は、最適の作物、最適の肥料、最適の栽培サイクルを、人間が高度に管理できるという発想で運営されています。その発想は、過去の工業時代の考え方です。
これに対して雑木林では、あるところではハチが蜜を集め、あるところでは鳥が果実をついばみ、あるところではキノコが朽ちた木を分解しています。丈の高い木と低い木が混在し、日当たりのいいところに生える植物と日陰を好む植物が棲み分けをしています。そこに見られる生き物相互のコミュニケーションは、あまりにも多様なのでだれも管理することはできません。そして、縄文時代の日本人は、このような雑木林の中で自身も多様なひとつの生物として生活を営んでいました。
雑木林のような教育とは、全体を管理する中枢を必要とする教育ではなく、教育の多様な需要と供給が相互のやりとりの中で最適の折り合いをつけていく教育です。
しかし、ここで問題になるのは、既に成長した社会人は多様性を自己責任で取捨選択できるとしても、成長の途上にある子供たちは、多様性の中に放置することができないということです。それは、人間が動物とは違って、もともと不完全であるが故に創造的であるという特殊な性質を持つ存在だからです。
例えば、わかりやすい例で言えば、もし子供たちに、「人間は自分の好きなことをして成長していくのがいちばんいいのだから、学校では自由に何をしてもいい」という教育を行うとしたらどうなるでしょうか。一部の子供は、そこで自分の個性を生かした自己学習をするかもしれませんが、大多数の子供はいつまでも娯楽の中に埋没し、自己教育の土台となる基礎的な知識や技能を身につけることはできないでしょう。
アメリカのサドベリー・バレー校は、子供たちに何も教えない学校として知られています。そこでは、子供が自ら何かを学びたいと言ったときだけ、先生がその何かを教えるという方法をとっています。しかも、何を学ぶかは子供たちの選択に任されています。だから、十代の半ばまで遊び続ける子もいます。しかし、子供たちはいつか必ず自分からあることに関心を持ち、その関心を生かすために学び始めるというのです。
サドベリー・バレーは、勇気のある実験ですが、この方法を未来の教育の中心的な方法とすることはできません。サドベリー・バレーの教育が可能だったのは、その学校が社会から隔絶された環境にあったからです。縄文時代の環境の中で、縄文時代に必要な生活を営むのであれば、特に体系化された教育の方法論は必要ありません。
しかし、現代の社会では、子供たちは、ゲームやテレビやスポーツや音楽などの多様な娯楽に囲まれた環境で暮らしています。しかも、現代は、社会生活を送るのに必要な知識も、学問上の知識も年々増えている時代です。このような社会に生きるためには、自由な多様性の中核となる教育の方法論が必要になるのです。
その方法に欠かせない要素は、第一に知的であることです。感覚や運動という要素は大切ですが、それらは知性の土台があってこそ人間的な感覚や運動の能力になるからです。
第二に創造的であることです。単に理解することや単に多数の知識を持つことは、与えられた役割を果たすための教育であって、それは自分が主体になる教育のひとつ前の段階の教育だからです。
第三に成長対応的なものであることです。成長対応とは、例えば幼児は幼児なりに、小学生は小学生なりに、中学生高校生大学生も、それぞれの年齢に応じて学び進歩できるものであることです。
これら三つの要素を兼ね備えているものが作文教育です。
だから、未来の教育は、作文の学習を中核として、作文の勉強を進めるために、読書も、他の教科の学習も、感覚も、運動も、多様な経験も必要になるという総合的なものとして行われていきます。そして、作文のような個性的なものを教えるためには、工業時代の一律の教育ではなく、顔の見える個人による対話の教育が必要になります。その多様な対話をコミュニケーションの面から支えるツールが、インターネットのSNS的な性格を発展させたものになるという関係にあるのです。
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4.4週は、清書と読解問題ですが、「山のたより」の読解問題に書かれている「『○○○○』の長文を読んで……」の「○○○○」の部分が、読解マラソン集の長文の題名対応していないものがありました。
内容は同じですから、そのまま問題をやっておいてください。
(今学期は、長文を縦書き化にしたのに伴い、これまでの長文を部分的に削ったため、このような題名の変更が生じてしまったようです)
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インターネットと教育について考える際に大事なことは、今のインターネットと教育を考えることではありません。インターネットと教育が今後どういう方向に進むのかという未来の視点から考える必要があります。そして、ドングリの本質が将来大きく成長するシイやナラの樹木であるように、インターネットと教育の今ある本質の中に、その未来の姿が既に現れています。
■教育の本質
教育とは、人間的なものです。
犬や猫などの動物は、教育を必要としません。それは自然に任せているだけで完全な成長を達成します。確かに、親犬は子犬に生きていくのに必要なルールを教えるかもしれません。しかし、その親の持っている知恵自体がもともと自然に成長してきたものです。
一方、機械は、動物とは別の意味で教育を必要としません。それは、最初から誕生とともに完成されていて、時間の変化とともに減価償却していくだけのものだからです。
ただ人間だけが教育を必要とするのは、なぜでしょうか。それは、人間がもともと不完全性な存在だからです。自然のままに任せていてはその不完全を克服することができないので、人間は自身の生存のために創造を行います。
例えば、人間は動物と違い、暖かい毛皮も硬いうろこも持っていないので、寒さや怪我から身を守るために衣服を作り出さなければなりませんでした。しかも、衣服を作るためのノウハウは、学ぶことによってしか獲得できませんでした。この本質的な不完全性こそが、人間の持つ優れた特質だったのです。
ところが、これまでの社会では、不完全を克服するための完全の理想は、個人の側にではなく社会の側にありました。ちょうどマスゲームの美しい演技が目標となる完全の姿で、個人はその美しい完全な演技を作るための歯車としての完全を目指すことが求められていました。
優れた歯車になることが個人の目標とすべき完全さだという考えからは、優れていない歯車は社会に不要だという考えが生まれてきます。これが、今日の「地球には人間が多すぎる(優れた人だけが少数いればいい)」という考え方につながっています。
しかし、真実はそうではありません。優れていない歯車という不完全さもまた、人間にとっては創造の土台となっているのです。
あるピアニストは事故で片手を失ったあと、その片手でしか弾けないという不完全さを、片手で弾ける曲の創造という方向に向けました。手が1本しかないことがハンディだと思われるのは、ほとんどの人が手を2本持っているからです。もし、手が4本の人が多くいれば、今度は2本しかないことがハンディになります。しかし、だれもがそう思わないのは、手が4本ある人の作曲した曲がないからです。
片手で弾ける曲は、両手で弾ける曲の2分の1の価値しか持たないのではありません。それは、墨1色の水墨画が多くの色を塗り重ねた油絵の何分の1かの価値しか持たないではないのと同様です。片手で弾ける曲があれば、両手の人は、そこから、一方の手でピアノを弾き、もう一方の手でドラムを叩くというような新しいジャンルの演奏を創造することができるかもしれません。人間においては、不完全はすべて創造のきっかけに転化させることのできるものなのです。
人間の持つ不完全性をもとにして完全に向かうための創造が教育の本質であるとすれば、未来の教育とは、その完全の理想を、社会の側から個人の側に取り戻すことだと言えるでしょう。社会の側が用意した完全の枠に合わせる教育ではなく、個人個人の不完全を生かす創造の教育が未来の教育の姿です。
このような創造の教育に必要なものは、画一性や強制性ではなく、多様性や自主性です。その多様性と自主性の教育において欠かすことのできないものが対話です。(つづく)
※次は、「インターネットの本質」です。
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インターネットの本質は、コミュニケーションです。その特徴は、手軽で、広範囲で、整理しやすく、リアルタイムなのに、相手の邪魔になりにくい、というところにあります。
だから、インターネットは、特別なものではなく、電話や葉書やファクスの発達したものとして考えられます。今はまだ古い世代はそのリテラシーがありませんが、やがて全世代が、電話やメールのような日常的なプラットフォームとしてインターネットを利用するようになるでしょう。
従来の教育は、ひとつの解答に向かって全員が狭い道を競争し、速さと正解数を競う知識の勉強でした。こういう形の知識の勉強は、これからも残りますが、未来の教育の中心になるものは、単なる知識の勉強ではなく、その知識を土台とした創造の勉強になります。
従来の教育でインセンティブ(意欲刺激)になっていたものは、強制、競争、賞罰でした。今でもほとんどの先生、親、子供が、そういうものが勉強の本質的な要素であるかのように考えています。しかし、それは歴史的なものにすぎません。
未来の教育でインセンティブになるものは、発表、交流、賞賛です。この賞賛のやりとりのひとつとして、「いいね」ボタンのようなものがあるとも考えられます。インターネットは、オープンソース思想などのように未来の社会の先取りをしている面があります。
知識の教育は、解答がひとつでしたから、大勢の生徒に対して、教材もひとつで(細分化してはいても)、先生もひとりで(少人数学級であっても)、一斉指導という能率のよい勉強ができました。知識の教育は、マスプロ的なやり方の方がうまくいっていたのです。
しかし、創造の教育は、創造する内容がひとりひとり違うので、その個人と対話できる特定の先生、特定の親、特定の人間が必要になります。
知識の教育においては、勉強の予習は試験範囲を覚えることで、復習は答えあわせをすることでしたから、任意の先生による一斉指導が可能でした。
創造の教育においては、予習は対話で、復習も講評という形の対話ですから、特定の先生と保護者による手作りの教育しか対応できません。
知識の教育で生徒に点数をつけて成績順に並べるだけならば、どの先生でも多数の生徒を教えられます。今、行われている作文指導のほとんどは、このような知識教育時代の方法に依存しています。その典型的な例が、作文コンクールや感想文コンクールです。
しかし、コンクールのように上手な作文を表彰して、その作文をひとつの模範解答と見なす指導法によって作文の力がつく子はまずいません。創造の教育では、もっと個別化した対話の指導が必要になるのです。
創造の教育で子供の作文を読んでコメントを付け加えることができのは、その子供に関心のある親がいちばんで、次が担任の先生で、次がその子供をよく知っている友達です。つまり、創造の教育では、特定の個人との対話が勉強の重要な要素になってきます。
言葉の森の作文指導でこれから最も力を入れていく分野は、対話の教育です。その対話とは、生徒と先生の対話、生徒と親の対話、生徒どうしの交流の対話です。」
そこで、今後その対話の教育のために、対話のツールとしてのSNS(mixi、twitter、facebook、ブログ)を本格的に活用していく予定です。
言葉の森は、ホームページの開設が19966年だったことにも見られるように、もともとインターネットの利用が早く、メーリングリスト、掲示板、チャット、生徒や先生の個人別のページなど、SNSの方向で通信教育の教室作りをしていました。
今後は、独自のホームページ作りを進めるとともに、既存のSNSをホームページに組み込む形で、生徒や保護者との対話の学習を充実させていきたいと思います。
しかし、対話の本質はコミュニケーションそのものであり、インターネットはあくまでもそのための手段です。ですから、当面、敷居の低い電話でのコミュニケーションを充実させ、次に携帯メールなどのコミュニケーションを充実させ、その延長でSNSのコミュニケーションに発展させていきたいと考えています。
リアルとバーチャルという言葉で考えると、これまで、通学の教室はリアルな教室で、通信の教室はバーチャルな教室のように思われてきました。しかし、リアルとは、相手の意思がわかる関わり方であって、場所と身体を通しての関わり方に限るわけではありません。
その証拠に、通信の教室では、電話によるコミュニケーションだけで、一度も会ったことのない生徒と先生が深いコミュニケーションを築いています。
今、facebookやtwitterなどの新しいSNSの登場によって、インターネットのリアル性が更に増してきました。近い将来、通信教室と通学教室の区別はあまり意味のないものになり、リアル化されたインターネットによって、より充実した対話の教育が可能になると考えられます。
言葉の森は、今回facebookで会社のファンページを作りました。今後、twitterとfacebookを言葉の森のホームページに連動する形で対話のある教室を運営していきたいと思っています。
twitter
http://twitter.com/#!/kotomori
(正式アドレスは上記のとおりです。
4/27追加情報)
http://twitter.com/#!/kotobanomori_j
facebook
http://www.facebook.com/kotobanomori
(正式アドレスは上記のとおりです。
4/22追加情報)
http://tinyurl.com/3qn6cjh
(facebookの上記のURLは一時的なもので、正式のアドレスは後日お知らせします)
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作文の勉強で、課題が難しくなってくると、予習が必要になってきます。
小学校1、2年生のころは自由な題名ですから、予習と言っても、「今度は、何を書くの」と、お母さんが聞き、子供が、「えーと、この前友達とサッカーしたことにするかなあ」などと考えるというのが予習になります。
この小学校低学年でも、このようにあらかじめ何を書くか決めておくことが大事です。低学年のころは、毎回、「今日のこと」というような題名になることもありますが、それでも、その「今日のこと」の中身を、通信指導の先生から電話の授業がある前に考えておくことが大事なのです。
もし、小学校低学年の子が、書くことをあらかじめ決めていないと、その場の思いつきで自分のいちばん興味のあることを書くことになります。すると、次のような作文になってしまうことがあります。
ひとつは、「明日は、○○があるから楽しいなあ」というような、未来のことを作文に書こうとしてしまうことです。まだ起こっていない話は、作文には書きにくいものです。自分の関心はその出来事に向かっているとしても、関心があることと書きやすいこととは違います。実際に自分の経験したことがないと、作文は書きにくくなるのです。
もうひとつは、「ゲームをしたこと」というような題名です。ゲームで動いているのは、画面の中の登場人物であって、子供自身は指先を動かしているにすぎません。作文に書きやすいのは、自分の体験したことですから、ゲームの作文は体験にはならないのです。だから、ゲームの話は、だれが書いても同じような内容になり、その子らしい個性が出てきません。
ゲームの作文と似ているのが、「映画を見たこと」「テレビを見たこと」「○○を見たこと」などの作文です。これも、子供自身は興味があって書きたいことかもしれませんが、自分自身の動きが少ないので、作文に書く個性的な中身がなかなか出てこないのです。
この「見たこと」の作文でも、そこに自分のしたことを入れると、見ただけの話よりも書きやすくなります。例えば、映画を見るために出かけた途中のこと、そこで自分の話したこと、帰り道のことなどです。しかし、本当は、最初から自分のしたことで作文に書く話を決めておいた方がいいのです。
低学年の作文の予習は、子供が書くことを決めておき、お母さんがその話を聞くということになります。そのときに、子供が、未来の話やゲームの話を書こうとしていたら、その気持ちは尊重しながらも、自分のしたことの方が書きやすいということを静かに教えてあげます。
しかし、ここで少し注意しておくことは、その1週間の間に子供がすごく書きたいと思う大事件があった場合です。子供は、お母さんやお父さんに、自分の書きたい話を一生懸命説明しようとします。ところが、そこで、お母さんやお父さんがその話をたっぷり聞いてしまうと、子供はそこで話をしたことに満足して、作文に書こうとする精神的なエネルギーをなくしてしまうのです。
だから、子供が絶対に書きたいというすごくいい話があった場合は、親は全部は話させずに、「じゃあ、続きは作文に書いておしえてね」という形でとどめておくといいのです。
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言葉の森の作文指導の特徴を7回にわたって書いてきました。
その内容を、他の作文通信講座との比較でわかりやすく表にしました。
これを見ると、より客観的に言葉の森の作文指導の特徴がわかると思います。
他の作文通信講座とは違う言葉の森の作文指導 |
他の作文通信講座 | 言葉の森 |
主に小学生の間だけの指導 | ○小学生から中学生、高校生、社会人まで指導 |
顔の見えない赤ペン添削 | ○担任の先生による親しみのある指導 |
教材が送られてくるだけ | ○担当の先生が毎週電話で説明 |
隔週制や締切なしで習慣がつかない | ○毎週決まった時間の電話で習慣がつく |
低中学年は、短文作成や穴うめ形式の易しい教材なので提出率が高い | ○低中学年から、作文や感想文などの難しい教材だが提出率が高い |
高学年で受験用の難しい課題になると書けなくなる | ○高学年の難しい課題でも低学年からの高い提出率が続く |
人間による評価だけなので中高生は納得しにくい | ○人間による評価と森リンによる評価なので中高生も納得できる |
森リン(もりりん)とは、言葉の森が独自に開発した作文小論文の自動採点ソフトで特許を取得しています。
大事なのは、低中学年で楽しく書くことではなく、低中学年の楽しい作文を高学年の難しい作文に結びつけることです。
参考:作文通信教育のD社と言葉の森の比較
2011年4月現在 |
| D社 | 言葉の森 |
提出回数 | 月2回 | 月4回 |
月謝 | 5,300円 | 8,200円 |
小1の字数 | 50-200字 | 100-200字 |
小2の字数 | 70-200字 | 200-400字 |
小3の字数 | 100-400字 | 300-600字 |
小4の字数 | 100-400字 | 400-800字 |
小5の字数 | 200-600字 | 500-1,000字 |
小6の字数 | 400-600字 | 600-1,200字 |
課題提出率 | 80% | 91.6% |
提出回数も約2倍、字数も約2倍なのに、言葉の森の方が提出率が10%以上も高くなっています。
言葉の森の生徒が、ほとんど毎回作文を提出しているのは、毎週の電話指導があるからです。
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言葉の森の作文指導の特徴は、小学生から始めて、中学生、高校生と一貫して作文の勉強を継続できるシステムになっていることです。実際に、小、中、高と休まずに続ける子もいますし、途中でいったん休会して、しばらくしてまた再開する子もいます。
最近よくあるのが、小学生のとき受講していて、中学生になり塾や部活が忙しくなったためにいったん退会したあと、高校生で大学入試の小論文があるために再開するというケースです。「小学生のときに教わった○○先生で、また教えてほしい」などということがよくあります。
言葉の森の作文指導は、小学校1年生(又は幼稚園年長)からスタートして、中学生、高校生へと進んでいきます。小学校低学年のころの課題は簡単なので、よくできる子供の保護者の中には、もっと難しいことを教えてほしいという人もいます。しかし、
言葉の森では、低学年のころには難しいことはあまり指導しません。難しい課題は、あとでいくらでも出てくるからです。
言葉の森の高校生の作文の課題は、そのまま、国立大学の後期の小論文試験や、早稲田大、慶応大、上智大などの小論文試験の課題と同じかそれ以上のレベルです。そして、そういう大学に毎年何人かが必ず合格しています。しかも、その小論文指導のわかりやすさとレベルの高さは、たぶんどこの予備校の指導よりも上回っていると思います。
言葉の森の作文指導は、そういう将来の展望のある指導です。決して、小学生の時期に小学生レベルの作文が上手に書ければいいというのではありません。小学生が、中学生、高校生と続けていったときに、次第に思考力の必要な作文を書くということを念頭において小学生の段階から指導しているのです。
小学生の作文の勉強を考える場合、そのように高校生までのつながりのある勉強ができるかどうかがひとつの基準になります。つまり、その作文教室、又は作文通信講座で、高校生まで勉強を続けられるかどうかということです。
言葉の森では、子供たちが社会人になったときのことを考えて作文の指導を行っているので、小学生のころに上手に書かせる工夫をするよりも、将来に役立つ思考力の必要な作文を書かせるようにしています。
言葉の森は、作文指導を、単なる教育としてではなく日本の文化のひとつとしてとらえています。だから、子供たちの作文は原則としてできるかぎりサーバーの中に蓄積しています。
将来、小学生のころに受講していた子供が成長し、父親や母親になったときに、「うちの子も、小1になるから、そろそろ言葉の森でも始めようか」という話になることがあると思います。そのときに、ホームページをのぞくと、昔の自分のコードとパスワードで、父親や母親が小学1年生だったころに書いた作文が読めるという仕組みを考えています。
こういう世代間のつながりが広がれば、日本が本当に知的な文化国家として世界に登場することになるでしょう。小1のときの作文を親子で共有できる国は、日本以外にはありません。小学1年生で作文が書けるのは、音声と文字の一致したひらがなという独特の言葉を持つ日本語だけの特長だからです。
言葉の森が、小、中、高と一貫した作文指導を続けているのは、作文教育を日本の作文文化に発展させ、日本を、豊かな知性と創造性と、家庭での対話と共感のある国にしたいと考えているからでもあるのです。
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かわいそうな本に感動しながら↓感想文を書いているところ。
言葉の森がスタートしたのは1980年代ですが、それ以前に言葉の森の前身となる作文教室は1970年代に始まっていました。
当時は、もちろん作文教室などというものが何もなかった時代です。そのころに、既に作文教育の可能性を考えて創設されたのです。「作文教室」という名前で、当時の雑誌に広告を出したのは言葉の森が初めてでしたから、日本でいちばん古い作文教室だと言ってもいいでしょう。言葉の森は、今のように入試で作文試験や小論文試験が出されるようになってからそれに間に合わせる形で作られたのではありません。
しかし、言葉の森は、ただ年数が古いというだけではありません。言葉の森が、日本の作文教育の骨格となる概念を作り上げてきた面もあるのです。
今、さまざまな作文通信講座や学校や学習塾で行われている作文指導の中で、言葉の森が作ったものがかなりあります。
例えば、夏休みの読書感想文の指導法は、言葉の森が雑誌でくわしく発表するまでは、系統的な指導というものはほとんどありませんでした。
また、作文の要素を、構成、題材、表現、主題、表記などと分け、それぞれについて指導する項目を指定するという指導も、言葉の森が独自に考案したものです。
また、作文の自動採点ソフト「森リン」を独自に開発して特許を取得し、それを中学生、高校生の作文指導に活用しているのも言葉の森だけです。
こういうさまざまなオリジナルな方法によって、それまでのただ書かせて添削する指導から、事前に説明して書かせる指導に作文教育の指導法が向上しました。
言葉の森は、このほかに、構成の仕方に関する工夫、表現の仕方に関する工夫、題材の広げ方に関する工夫など、多くのノウハウを開発しています。そして、今も独自の指導法を開発し続けています。例えば、暗唱の方法、付箋読書の方法、問題集読書の方法、四行詩の方法など、新しいノウハウを独自に開発して、だれもが使えるようにオープンに提供しています。
言葉の森の特徴は、ほかの教室に真似されることはあっても、決してほかの教室の真似はしないというところにあります。この独創性を大切にする教室文化が、作文というやはり独創性を大切にする学習を30年間も継続して指導してきた要因になっています。
作文の需要があるから作文教室に取り組むという経営的な動機ではなく、需要があってもなくても、自分の目指すことを続けるという路線で、これからも作文指導を通して日本の教育を支える仕事をしていきたいと考えています。
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