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言葉の森のクラウド論4 as/1266.html
森川林 2011/05/08 06:13 


 クラウド論は、3で終わるつもりでしたが、最後の方の創造の部分がわかりにくいと思いましたので、追加の話を書くことにしました。



 クラウドの本質は、よく言われるように、自社サーバーで行っていた仕事をアマゾンやグーグルが提供するサーバーの中に移し替えるという、形の上だけの話ではありません。

 クラウド化の本質は、インフラの共通化という雲に包まれることによって、それまであった境界が消失し、それに伴って差異も消失していくということです。

 このクラウド化は、インターネットによって加速されていますが、決してインターネットの世界に限られたものではなく、今日の文化、経済、政治も含めた大きな歴史的動きなのです。



 共通化の雲という言葉から連想するのは、ワン・ワールドという概念です。世界は、これまで一貫して境界と差異の消失という方向で発展してきました。自由化というのは、経済における境界と差異の消失です。英語が世界の共通語として広がっているのは、言語コミュニケーションにおける境界と差異の消失です。

 インターネットの世界では、今、ショッピング、検索エンジン、ソーシャルサービスなどの分野で多くの企業が競い合っています。リアルの世界では、場所や人という境界に基づく差異から、ナンバー1の企業ばかりでなく、ナンバー2も3も4も、そしてはるかに下位の企業も、それなりに存在する余地がありました。

 例えば、鮮度という商品の性格から消費者に近接したところでないと成立しない八百屋や魚屋は、昔はひとつの街に必ず1軒はありました。鮮度によって、場所が境界となっていたからです。しかし、現在では宅配便などの流通産業の広がりによって、より大きな商圏でナンバー1にならないと生き残れない状況が生まれています。



 インターネットの世界では、そこでやりとりされるコンテンツが主に情報的なものであるという理由から、競争は更に過激になり、現在では世界中でナンバー1の1社しか生き残れないという状態になりつつあります。そして、更に、ショッピングのナンバー1と、検索エンジンのナンバー1と、ソーシャルサービスのナンバー1が、相互の境界を消失させて、ひとつのクラウドの中でインターネットそのもののナンバー1を競う状況がこれから生まれてきます。

 競争の世界で圧倒的なナンバー1が生まれることは、競争自体の消失を意味します。ワン・ワールドというのは、言語も、文化も、政治も、経済も、ひとつに統合された世界の構想です。これまで空想の中だけで考えられていたひとつの世界国家、世界政府という構想が、インターネットの発達によって現実的な可能性を持つようになってきたのです。



 ところが、境界と差異の消失した世界で、人間の歴史の前史は終わり、本史が始まると単純に考えることはできません。

 人間以外の生物は、もともと境界と差異のない世界で暮らしていました。イルカやクジラは、人間と同様に高い知能を持つ生物ですが、争いも奪い合いもない世界で、平和なワン・ワールドを築いていました。しかし、その平和は究極の平和ですから、これから何億年たっても、何十億年たっても、イルカやクジラはたぶん今のイルカやクジラのまま平和に暮らしているだけでしょう。

 これに対して、人間が、このイルカとクジラと同じように、ひとつの世界政府のもとで永遠の平和を享受すると考えることはできません。なぜなら、人間は、イルカやクジラと違い、世界から分離する自由を持つ生物としてこの世界に登場したからです。



 イルカやクジラは、何億年平和が続いても、その平和に飽きることはありません。人間以外の生物は、すべてそうです。

 忠犬ハチ公は、帰らぬ主人を迎えに行くために何年間も同じ時刻に同じ駅に通い続けました。私たちは、その話を聞くと、人間の感覚でハチに同情します。世界から分離する自由を持つ存在である人間は、あるべき姿と現実を比較することができるので、葛藤を感じたり、退屈したり、変化や刺激を求めたり、向上を目指したりします。

 しかし、動物たちにとって、現実は、あるべき理想とのギャップを持つ何かではなく、ただあるがままの隙間のない即時的な事実そのものに過ぎません。ハチ公は空虚な気持ちで主人の帰りを待っていたのではなく、待つという行動を日々充実して生きていたのです。

 ところが、人間には、動物たちのような即時的な生き方はできません。人間は、境界と差異の消失したひとつの大きなクラウドの中で、必ず新たな境界と差異を作ろうとします。ワン・ワールドは、究極の平和の始まりではなく、新たな支配と抑圧の出発点になるのです。

 人間の歴史は、過去にこのようなことを何度も繰り返し、時にはそのために最初からすべてを破壊して出発するようなことを行ってきました。

 境界と差異のないワン・ワールドが永続するためには、その世界の内部に先験的な境界と差異が組み込まれている必要があります。例えば、インドのカースト制度のようなものがそうです。未来の社会でワン・ワールドが成立する場合も、このカースト制度を模したものが作られるでしょう。

 あるいは、長期間にわたって豊かさと平和を維持した古代マヤ文明に見られるように、生贄制度などの非人間的な文化が社会の存続に不可欠の要素として組み込まれる可能性もあります。

 境界と差異のない世界が存続するためには、人間の社会では、その社会の内部に、例外的で強固な境界と差異を残しておく必要があるのです。

 そして、これまでは、この理不尽なビジョンに対して違和感を持ちつつも、そのビジョンに対抗できるほどの明確な展望を持つ人はいませんでした。それはちょうど、社会ダーウィニズムにおける弱肉強食の合理化や、マルサスの人口論における人口抑制の不可避性に対して、対案を持つ人がいなかったのと同様です。

 だからこそ、カースト制度は、賛同者よりも批判者の方がはるかに多いにもかかわらず生き残り、古代マヤ文明は、だれもが求めていない非人間的な制度を自助努力によって廃止することができなかったのです。



 しかし、そうでない歴史も人間には可能です。それは、境界と差異のない世界で、ひとりひとりの人間が日々新たな創造と発見によって境界と差異を絶えず作り出していくような世界です。

 このような世界に近い社会が、かつての日本の歴史にはありました。それは、日本の縄文時代と江戸時代です。この二つの時代は、いずれも長期間にわたって平和と繁栄が続きましたが、他の文明にあったような極端な身分格差や抑圧制度は見られませんでした。それは、この二つの時代に、それぞれの社会の中に日常的で大衆的な創造と発見があったからです。

 ところが、縄文時代や江戸時代の文明を、現代に復活させることはできません。なぜなら、現在は、日本人の間だけではなく、世界中の人が納得できるような強固な文明を提案できるのでなければ、世界的な広がりを持つワン・ワールドに対応することはできないからです。

 言い換えれば、縄文時代や江戸時代の創造文化では、世界基準になるには力不足であったからこそ、日本が、明治、大正、昭和、そして平成の現代にかけて世界との摩擦を経験する中でエゴイズムの文化に染まる必要があったとも言えるのです。つまり、今の日本であれば、世界基準の提案をできるだけの世界性がすでにあるのです。

 人間社会の未来は、社会の構成員のすべてが創造と発見の生き方をすることによって、どのような格差も抑圧も必要としない文明を、世界的な広がりで築けることができるかどうかにかかっています。



 そして、話は再び身近な現実に戻りますが、この創造と発見の生き方を、ソーシャル・ネットワーク・サービスにおける交流の基盤とすることができるかどうかが、今後問われていきます。

 SNSに代表される、消費者レベルにおけるクラウド化の広がりにおいて、参加者の交わす交流が、各人の創造と発見を基盤としたものであるならば、未来のワン・ワールドの展望は明るいでしょう。

 しかし、もし人間どうしの交流のほとんどが、新たな創造と発見に結びつかないものにとどまるならば、未来のワン・ワールドは新しいカースト制度を必要とするようになるでしょう。



 すでに、コミュニケーションのクラウドは、急速に世界中に広がっています。日本でも、ブログ、twitter、facebookなどで交流の輪が次第に広がっています。

 今はまだ、コミュニケーション自体を目的とした交流が中心ですが、やがて、日本におけるSNSの交流は、他の国とは異なり、各人の創造と発見に基づいたものを中心にしていくでしょう。

 それは、日本語によるブログの情報発信量が言語人口比で世界一であることに見られるように(2006年調査)、日本には、創造と発見を日常生活の中で追求する独特の文化があるからです。

 ソーシャル・ネットワークにおけるクラウド化の技術は、アメリカで生まれました。しかし、そこに、今後大衆的なレベルで創造的なコンテンツを盛り込んでいけるのは、日本以外にはたぶんありません。交流のツールとして生まれた技術が、これから国境を越えて創造のツールに進化していくのです。



 コミュニケーションで大事なことは、交わすことそのものではなく、何を交わすかというコンテンツの価値です。価値は、過去の時代では、主に境界と差異によって作られていました。しかし、これからの境界と差異の消失の時代の中で、最後まで残る価値は、新たに創造されたものだけです。

 これまで、マスメディアの情報に価値があったのは、知らない大衆と知っているメディアとの間に画然とした境界があったからです。しかし、インターネットの時代に、その差異はきわめて小さくなっています。そのような時代に価値ある情報とは、他人より先に知った情報ではなく、自分が新たに創造した情報です。

 クラウド化を新しい容器とすると、そこに新しい水を注ぎ込むのは、日本人を中心とした創造の文化を持つ無数の一般大衆です。

 クラウド化を生かせるかどうかは、クラウド化の本質をどう考えるかにかかっています。クラウド化とは、インフラの共通化による境界と差異の消失ですが、その消失を不毛なワン・ワールドではなく、新たな豊かさの条件とするためには、私たちひとりひとりが創造の文化を作り出す必要があります。そして、それは、私たちがかつてそういう文化を持った時代があったということを思い出すことが出発点になるのです。



 インターネットの発達は、情報の世界化、情報のポータル化、情報の検索化、情報の発信化、情報の交流化という形で進んできました。この流れを具体的な名前にあてはめれば、ネットスケープ、インターネットエクスプローラ、ヤフー、グーグル、ブログ、mixi、twitter、facebookなどとなるでしょう。この変化が、境界と差異の消失というクラウド化の進化を表していました。

 だから、今、インターネットを活用するということは、単に情報を発信するだけではなく、交流を交わすということでもあるのです。しかし、交流が交流を目的としたものだけにとどまるならば、それは、アバターがあちこちの仮想空間でコミュニケーションを交わすという以上の話にはなりません。大事なのは、交流することではなく、その交流に創造を載せていくことです。

 インターネットに象徴されるクラウド化のインフラを、単に交流のためのインフラにとどめるのではなく、日常的で大衆的な創造を交流させるためのインフラにするという観点を持つことによって、クラウド化はもう一段階新しいステージに進化することになるのです。

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言葉の森のクラウド論3 as/1265.html
森川林 2011/05/06 15:14 



 連休中は、クラウドの話ばかり考えて、頭がクラウド状態でした。という冗談はさておいて。


 クラウドというと、定義があいまいなこともあって、多くの人は、自社サーバーで行っていたサービスを、アマゾンやグーグルなどのサーバーを使う形に切り替えるぐらいに思っているのではないでしょうか。

 表面的には、そういう現れ方をしていますが、前回にも書いたように、クラウドの本質はもっと別のところにあります。

 それは、これまで境界があり、その境界によって差ができていた世界が、クラウドに包まれることによってその境界をなくしてしまうことを意味しています。


 これまでの社会では、差というものが経済活動の動因になっていました。差を生み出していた人為的な境界がとりはらわれることによって、人間の社会がより自然に近い社会に近づいているというのがクラウドの意味です。

 例えば、インターネットの技術の発達によって、これまでアメリカなどの本国にあったコールセンターがインドに移ったとします。アメリカの消費者が電話をして説明を聞くところは、アメリカではなくインドなのですが、その違いは消費者には感じられません。このことによって、アメリカのコールセンターに勤めていた人はインドの人に合わせて賃金が低下し、インドの人はアメリカの人に近づく形で賃金が上がります。通信技術というクラウドが、アメリカとインドという場所の境界を消してしまったということです。


 この考えを延長すると、今まさに政治と経済の大きな地殻変動の起きる前夜にいることがわかります。例えば、インターネット書店の最大手はアマゾンです。アマゾンは、本以外の物品も販売するようになりました。楽天もヤフーショッピングも、インターネットで物品を販売しています。

 これまでは、どの会社がどれだけのシェアを持っているかということが重要でした。しかし、クラウド化が進行すると、1位と2位の差の意味がなくなってきます。消費者はクラウドの雲の中で、ひとつの物品を買おうとします。しかし、その消費者は、楽天で買おうとかアマゾンで買おうとヤフーで買おうとかいう選択をすることなく、ただ物品を購入するという行動をとるのです。消費者には、その物品がどこから提供されているかという違いはわからないし、わかる必要もありません。

 そして、更に言えば、消費者は、インターネットの商店で商品を検索したあと、近所のお店でその商品を買う可能性があります。アフターサービスの必要な商品などは、顔の見えないインターネットショッピングで買うよりも、近所の商店から購入した方が安心できるからです。


 このように考えると、言葉の森が今行っている学習指導のような仕事もクラウド化の影響を受けてきます。

 言葉の森は、オリジナルな教材を豊富に持っています。また、指導法や指導のシステムもオリジナルです。しかし、そのオリジナリティは、クラウド化の雲の中で、もはや差にならなくなっていくのです。消費者は、どこの教室で学ぶかということを意識せずに、ただ作文を学ぶという選択をするようになってきます。もちろん、教育の分野は、物品の分野に比べて、すぐには境界がなくなることはないでしょう。しかし、時代の流れは、境界の消失、差の消滅の方向に確実に向かっていきます。


 クラウド化は、経済の分野だけでなく政治の分野にも及びます。これまで人間社会で、支配する側と支配される側の差があったのは、両者の間に、金力の差、知力の差、武力の差などの差があったからです。しかし、クラウド化の進展の中で、これらの境界と差が次第になくなっていきます。

 例を挙げれば、これまで社会に影響を与えるほどの情報を発信できるのは、資本と人材と技術とブランドのある大手のマスメディアに限られていました。しかし、今すでに、影響力という点で大手のマスメディアと小さなグループや個人との差は急速に縮まってきています。場合によっては、ひとりの個人の影響力の方がマスメディアよりも大きくなることさえあります。このような、境界と差の消失が、社会のあらゆる面で広がりつつあるのです。


 しかし、クラウド化がどれだけ進展しても、最後まで残る差があります。それは、人間の個人個人が持っているリアルな時間に基づいた差です。facebookなどのソーシャル・ネットワーク・サービスは、世界中の友達とつながる可能性を提供しています。しかし、ひとりの人間が日常生活の中でつながりを持てる人数は、せいぜい50人や100人でしょう。twitterなどで20万人のフォロワーがいるという有名人もいますが、それは一方的にフォロウされているだけで、相互に交流のある関係としてつながっているわけではありません。


 だから、クラウド化の時代に、クラウドによって打ち消されない輪郭を持つものは、個人の交流です。AさんとBさんが交流する場合は、Aさんは、人間ならだれでもいいと思って交流しているわけではなく、ほかならぬBさんという個性を選んで交流しているからです。


 しかし、交流が、クラウド化の中で最後まで残るものかと言えば、そうではありません。人間は、単にコミュニケーションを欲しているのではなく、個性的なコミュニケーションを欲しています。そのためには、AさんとBさんの双方に、ほかの人にはない独自性があるのでなければなりません。つまり、AさんにAさんでなければできないような創造性があり、BさんにBさんでなければできないような創造性があるから、AさんとBさんの交流は、二人にとって意味を持つのです。


 これを、ビジネスの分野にあてはめても同じことが言えます。ある企業が存在する意味を持つのは、その企業が創造的であるからです。創造をやめたときに、その企業の価値はクラウドの中に消失してしまうでしょう。多様な創造と交流が社会のすべての成員に求められる社会というのは、決してストレスの多い社会なのではなく、毎日が新鮮な刺激に満ちた魅力のある社会でしょう。クラウド化の先には、そういう世界が広がっているのが予感できるのです。



 言葉の森のfacebookサイト「言葉の森作文ネットワーク」は下記のページです。(「いいね!」ボタンを押すと参加できます)
http://www.facebook.com/kotobanomori


 サイトの中には、現在、二つのコミュニティのグループがあります。


(1)教育の丘相談所(公開グループ。メンバーと発言を公開)
http://www.facebook.com/home.php?sk=group_170116223042821


(2)教育の丘コミュ(非公開グループ。メンバーのみ公開)
http://www.facebook.com/home.php?sk=group_163406370385262


 教育に関する相談は、何でも受け付けています。お気軽においでください。

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通信教育 20110509  
デザイン資格の通信教育
http://www.designlearn.co.jp

森川林 20110510  
 デザイン資格って。あまり関係ないんだけど(笑)。
 まあ、いいや。がんばってください。

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記事 1264番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/12/29
5月5日19:02にファクスを送られた方 as/1264.html
森川林 2011/05/06 09:03 
 1枚だけなので、体験学習のお申し込みではないかと思いますが、裏面を送られたようで白紙でした。
 お心当たりの方は、再度送信お願いいたします。

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生徒父母連絡(78) 

記事 1263番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/12/29
言葉の森のクラウド論2 as/1263.html
森川林 2011/05/05 14:38 



 初めに、昔の話です。



 私が最初に使ったワープロは、発売されたばかりの東芝トスワードJW-10で、たぶん数十万円でした。日本語ワープロの国産第1号機だったようです。モニターは24ドットで2行、カーボンリボンでジジジジと打っていくのですが、動きはかなり遅く、当時でも表を書くときは時間がかかるのでほかの仕事をしているほどでした。更に、その消耗品が横浜関内の東芝の会社まで行かないと手に入りませんでした。個人でこの機械を買った客は、あまりいなかったのでしょう。

 ちなみに、その前に使っていたものは、機械式のひらがなタイプと英文タイプと和文タイプでした。だから、最初に覚えたのは、ローマ字入力とひらがな入力の両方でした。



 そのあと、ワープロの機種がだんだんそろってきて、仕事用に本格的に使ったのがキャノンの業務用ワープロで、最高機種がハードディスク20MB、次の機種が10MBで、かなりの価格差がありました。

 その後、一太郎、ワードなどのパソコン用ワープロソフトが、ワープロのハードに負けないぐらい高性能になってきたので、富士通のFMWを購入。ワードで文書作成をすることにしました。当時のFMWは故障だらけで、あとで聞くと、最初のころの製品はほとんど不良品だったそうです。



 当時、一太郎とワードの両方で文書を作っていましたが、ワードは、表計算のエクセルとデータベースのアクセスとを統合した、今で言うオフィス製品の方向に進んでいました。一太郎も同じ路線に取り組んでいましたが、総合力では、ややマイクロソフトの方がまさっていたので、ワードに一本化することにしました。(本当は、一太郎にがんばってほしかったところですが仕方がありません)

 当時のワードは、アメリカの英文作成ソフトをそのまま日本語に移し替えただけで全く使いにくく、日本語ではありえないようなミスが随所にありました。その点では、一太郎の方がずっと洗練されていました。しかし、時代はやはり総合力の方に進み、やがてワードが一太郎のシェアを上回るようになりました。



 ワード文書をたくさん作り始めたとき、こんなに文章が次々とたまっていくとどうなるだろうかと考えました。そして、当時、データベースで情報を管理する方向があることを知り、早速、すべての情報をマイクロソフトのアクセスというデータベースで作り直す方向に切り替えました。

 つまり、ワードで文書を作るのではなく、データベースのレコードの中にテキストデータを入れ、それを必要に応じて印刷レイアウトに変えるというやり方です。これが、印刷レイアウトだけでなく、HTMLレイアウトにもできる機能があったので、子供たちの作文を毎週、大量にHTML文書にしてウェブアップロードしました。それは、今でも「作文小論文の花」というページで見られます。こういうことをしているところはほかにありませんでしたが、インターネットに接続している家庭自体が少なかったので話題にもなりませんでした。



 さて、ここからがクラウド論の本題です。



 最初にあったのは、個々のワード文書でした。

 それが、ひとつのデータベースの中に統合されたというのが、文書情報のクラウド化-3(マイナス3)でした。



 しかし、その情報は、会社のパソコンのデータベースの中にあるのですから、ウェブには手動でアップロードしなければなりません。HTMLファイルを作ってFTPでアップロードするという作業を毎日やるとしても、情報のタイムラグは当然出てきます。しかし、タイムラグは多少あっても、インターネットにアップロードすれば、全世界の人がその情報にアクセスできるという点で、これはクラウド化-2とも言えるものでした。



 情報のタイムラグを克服するため、あるとき、データベースを会社のパソコンから、ウェブサーバーの中に移すことにしました。使ったのは、MySQLというフリーのウェブデータベースと、PHPというやはりフリーのプログラミング言語です。

 データベースがウェブにあるので、情報はリアルタイムで反映されます。また、全国の講師がその情報をリアルタイムで見たり書き込んだり削除したりすることができます。こうしてクラウドは、個々の家庭や会社のパソコンを出て、ワールドワイドに広がっていきました。これがクラウド化-1でした。



 ところが、このデータベースが存在するのは、個々の会社のサーバーの中です。会社の中では整合性がとれた処理ができますが、他のサーバーとのつながりはありませんでした。

 情報量は、最初のころは、メガバイトのレベルでしたが、やがてギガバイトになりました。このまま行けばテラバイトレベルになるのは時間の問題です。情報量に応じて、サーバーのスペックを上げていくのでは、コスト的にもパフォーマンス的にもすぐに限界が出てきます。

 ここでgoogleが採用した情報処理システムが、複数のサーバーにデータを分散させて、それらをクラウドとして管理する方法でした。これが、現在言われているクラウド化です。



 個々の企業では、googleのように大量の情報を扱うわけではないので、ここしばらくは、自社サーバーに何もかも入れて運用する状態が続くでしょう。しかし、やがて自社サーバーの中のデータと、外部のデータがつながっていないことがネックになる事態がやってきます。

 例えば、個人の生活は、mixiやブログやtwitterやfacebookに見られるように、外部とのデータのつながりをますます深く持つようになってきます。言葉の森の講師のプロフィールも、これまで「先生の里」という自社サーバーの中に作ったページで見られるようにしていましたが、インターネットの技術革新に応じてこういうページを改良する仕事など、いつまでも続けているわけにはいきません。それよりも、それぞれの講師が自分のブログにプロフィールをアップロードし、そこで最新の情報を更新する方が、講師にとっても、保護者や生徒にとっても、言葉の森にとっても最もいい方法です。

 しかし、そうなると、自社サーバーにある講師の情報と、そのブログとのつながりが作れません。



 そこで今考えているのは、自社サーバーには最小限の情報を入れるだけにして、それ以外の情報のほとんどは、言葉の森の持つコンテンツ自体も、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の中に移していくということです。ソーシャルサービスは、例えば、facebookがtwitterの情報と連携をとれるように、サーバーの境界を超えたつながりをアプリケーションで作ることができます。

 この流れは、やがて、facebookとamazonとgoogleとyahoo!と楽天を横断するような情報連携の雲となっていくでしょう。これは、インターネット企業の大きな地殻変動を予想させます。例えば、情報のクラウド化が進むと、楽天とヤフーショッピングとアマゾンと、どこがシェアが多いかということ自体が無意味になっていきます。(それはまだ先の話でしょうが)



 ここからは、想像力で考えていくしかありませんが、言葉の森は、このクラウド化の流れを生かしたサイト作りをし、そして更に、今後は、クラウド化+1(プラス1)の流れのひとつを作っていきたいと思っています。

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言葉の森のクラウド論 as/1262.html
森川林 2011/05/04 21:36 



 クラウドの定義は、次第に広がっています。

 クラウドは、最初は情報の雲でした。企業や情報発信の技能を持つ個人が、自分の持っている価値ある情報を世界中に発信しはじめたのが出発点です。インターネットさえあれば、世界のどこでもその雲の中に入れるようになったというのが最初のクラウドです。

 その情報の雲に対応したのが、ポータルサイトです。ヤフーなどのポータルサイトは、世界中から発信される膨大な情報をわかりやすく整理して、クールボタンなどをつけて利用しやすくしました。しかし、そういう情報のポータルが人力の作業で運営できたのは、膨大とはいってもまだその情報の広がりが見渡せるほどだったからです。

 言葉の森が最初にインターネットを利用したのは、1996年ですから、この情報の雲が広がり出したころです。そのころ、日本全国で学習塾のカテゴリーに入るサイトは、ほんの数えるほどでした。



 このときの情報を提供する方法は、自分のパソコンにあるさまざまなデータをhtml化して、FTPソフトでアップロードするというやり方が主流でした。しかし、これでは、ウェブに表示される情報と実際の生の情報の間にタイムラグが出てしまいます。

 そこで、言葉の森では、それまでアクセスというパソコンのデータベースソフトで管理していたデータを、MySQLというウェブデータベースに移し変え、そのウェブデータベースをPHPというプログラミングソフトでhtml化して表示するというサイト作りに切り替えました。当時、こういうウェブ作りをしていた日本のサイトは、ほとんどなかったと思います。

 このように、同じ情報でも、タイムラグのある情報からリアルな情報へと情報の質が変化することによって、情報の量自体も爆発的に増えました。何しろ、データベースにある情報をすべてプログラムで必要に応じて表示できるので、FTPソフトでアップロードする情報に比べて桁違いに多くの情報が提供できるようになったのです。

 そこで、ポータルサイトに代わって出てきたのが検索エンジンです。googleに代表される検索サービスは、膨大な量の情報を独自のアルゴリズムで正確に評価することができました。クラウドが、単なる情報の雲から、リアルなデータの雲に変化することによって、検索サービスの時代がやってきたのです。



 しかし、検索サービスは、次第に行き詰まるようになってきました。それは、検索エンジンの裏をかくさまざまなSEO対策が登場するようになったからです。例えば、自分のサイトが検索の上位に来るように、アフィリエートなどを利用して多くのブログからリンクされるようにしたとします。検索エンジンは、そのSEO対策に対応するために、リンクの質に偏りがあるサイトの評価を下げるとします。すると、そういうSEO対策など何もせずに地道に身近な人からのリンクを受けていた高品質なサイトが下位になるという事態が生まれてくるのです。

 この結果、今では、googleの検索サービスで上位に表示されるサイトは、必ずしも質の高いサイトではなくなっています。ひとことで言えば、良質のサイトよりも、やり方のうまいサイトが上位に来ているという面の方が強くなっているのです。



 情報のクラウド、リアルなデータのクラウドの次に来たのは、ブログやmixiなどに代表される個人の情報発信のクラウドでした。それまでのインターネットは、主に情報を取りに行くところで、情報を発信できるのはある程度の技能を持つ人に限られていました。その技能というのは、htmlを書くこと、FTPを操作することぐらいですから特に難しいことではありませんが、だれもが情報発信するというところまではなかなかいかなかったのです。

 ところが、ブログやmixiなどのソーシャル・ネットワーク・サービスは、情報発信の敷居を大きく引き下げました。だれもが自宅で気軽に毎日情報発信できる状態になってから登場してきたのが、コミュニケーションのクラウドです。情報は、検索するものから、交流するものへと質的に変化していったのです。

 そして、その多様なコミュニケーションの必要性に合わせてブログなどのRSS技術が発達していきました。言葉の森のサイトも、ブログが出はじめたころに、すぐにホームページをブログ化しました。今、ホームページが更新されるたびにRSSを配信しているサイトは、情報発信を専門とするサイト以外はそれほどないと思います。

 このコミュニケーション、つまり、交流の雲に対応しているものが、今のfacebookに代表されるソーシャルサービスです。



 クラウドが登場して、身の回りがクラウドに包まれる前まで、世界はばらばらに存在していました。ばらばらな世界で人間生活に大きな影響を与えるものは差異でした。これまでのビジネスの多くは、社会に存在する差に基づいて成り立っていました。情報の差、技術の差、資源の差、立地の差、価格の差などが、ビジネスの成立の大前提でした。

 しかし、クラウドに包まれることによって、差は次々に埋められていくようになりました。



 今、私たちが直面しているのは、クラウドによって差がなくなりつつある社会です。それは、ある意味で、自然の中に生きる動物たちの生活に似た社会です。人間の英知が、自然に制約された動物の世界を抜け出て大きく一回りをして、また自然の中に生きる動物たちの世界により高い次元で戻ってきたというのが現代なのです。



 では、現在生まれつつある交流のクラウドの次に来るものは何でしょうか。それは、ひとことでは言いにくいのですが、敢えてひとことで言えば創造のクラウドです。しかし、その創造のクラウドに行く手前にもうワンクッション、別のクラウドが待っています。



 言葉の森のサイトは、今、このクラウド論をもとにして新たに大きく作り直していこうと思っています。

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記事 1253番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/12/29
ソーシャルネットワークの魅力 as/1253.html
森川林 2011/05/03 14:34 


 facebook(フェイスブック)というソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が広がりを見せています。



 facebookには、登録に実名を使うという原則があります。これが実は、プライバシーの安全を保障しています。

 ひとつには、ほかの人も実名なので、自分が相手を確実に友人や知人だと知ることができ、その中でつながりを持ちたい人とだけつながりを持つことができるからです。

 そして、自分のプライバシー設定を何段階にも分けて設定することができるので、自分の名前以外は、友達関係も、趣味も、経歴も、投稿欄も、すべてプライバシーを保つ状態にしておくことができます。

 ただし、逆にあまりプライバシー設定を強固にすると、ほかの人とつながりを持ちにくいということも出てきます。



 このfacebookのような新しいSNSによって、インターネットの役割は大きく変化しようとしています。

 これまでのインターネットは、交流という要素もありましたが、検索や情報発信という要素の方が主に利用されていました。

 検索の精度を保証するものは優れたアルゴリズム(数式)と大きなシェアですから、これまでは、googleやYahoo!がインターネットの代表企業でした。

 「検索のインターネット」に対応して、情報発信する企業や個人は、SEO対策(いかに自分のページがgoogleやYahoo!で上位に表示されるようにするかという対策)に力を入れていました。その結果、検索の上位に来るものは、次第に、本来上位に来るような中身のあるサイトから、資金力と営業力にたけたサイトになっていきました。



 今後のインターネットは、検索から交流へ、ソフトから人間へ、アルゴリズムからクチコミへ移行すると考えられます。しかし、これまでのソーシャル(社会的なつながりの)サービスは、技術的な限界からまだその役割を十分には果たしていませんでした。

 ところが、ここに来て、facebookなどのソーシャルサービスが、「ソフトから人間へ」という役割を担えるようなプラットフォームになってきました。これからのインターネットは、「検索のインターネット」から「交流のインターネット」へと大きく変化していくと思われます。



 メールや掲示板に見られるこれまでのソーシャルサービスと、新しいfacebookなどとの簡単な比較をしてみました。

メール、掲示板facebook
相手の返事や反応に時間がかかるリアルタイムで反応があることが多い
アプリを起動して件名を入れて、と手間がかかるいつでもすぐに操作できる
文字中心のやりとり文字中心だが動画なども簡単に利用できる
屋外で大声で叫ぶ形のコミュニケーション室内で静かに対話する形のコミュニケーション


 日本を代表するソーシャルサービスであるmixiは、相手のページを訪問すると足あとが残るとか、自分が受けたコメントに関しては律儀に返信するような文化があるとか、比較的ウェットな人間関係が特徴でした。一方、facebookは足あとも残らないし、コメントも簡単なものや「いいね!」ボタンで済むなど、比較的ドライな点が特徴になっています。

 匿名で参加できるSNSは、コミュティの参加者の間でやりとりが激しくなって炎上することもありますが、facebookは実名で段階的なプライバシー設定ができるので、そういう可能性はあまりありません。



 facebookに代表される新しいSNSの利用によって、今後、言葉の森の勉強の仕方も大きく変わっていきます。ひとことで言うと、作文の勉強がより容易になるとともに、より充実するだろうということです。なぜかというと、言葉の森の行っている作文の勉強は、ほかの教科の通信教育に比べると、教材を渡しただけでは済まない人間的な工夫が必要だったからです。

 作文の勉強というものは、教材がどれだけ充実していても、教材だけで子供に勉強をさせることはできません。教材だけで勉強できるのは、作文の勉強に入る前段階の国語的な勉強までです。このため、言葉の森の勉強は、活用すれば大きな成果がありますが、実際には使いこなせない場合もあったのです。

 家庭によっては、子供にとっても親にとっても負担が大きく、なかなか力がつかないように見えるというところもあれば、逆に、毎日楽しく勉強できて、ぐんぐん力がついているというところもありました。同じ教材で勉強する同じ学力の子供であっても、大きな差が出てくることがあるのが作文の勉強でした。

 この大きな差を生み出す微妙な人間的な工夫が、新しいソーシャルサービスによって実現できるようになります。ソーシャルサービスを使った新しい通信指導は、従来の通信教育や通学教育ではできなかったきわめて細やかな対応を実現すると思います。



 現在、書店では、facebookに関する本が多数発行されていますが、下記の本がビジュアルでわかりやすいと思います。

「これ1冊で完全理解facebook」(日経BP社2011年3月19日発行)980円
(facebookは変化が速いので、用語など一部変わっているところもあります。例えば、ファンページ→facebookページなど)


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競争の教育から、独立の教育へ3 as/1252.html
森川林 2011/05/02 12:33 



 新しい創造産業社会が生まれる条件は、既にいくつかあります。

 第一は、従来の工業時代の消費-労働サイクルの行き詰まりです。生産力の発展の究極の姿は、人間の労働を必要とせず、したがって雇用を必要としません。世界中で今、働く場所のない若者が生み出されています。不足と競争で回転していた社会がうまく回転を続けられなくなり、そのために今の回転とは異なる新しい回転を必要としているのです。

 第二は、豊かな生産力を持つ社会の登場です。かつて、自然の提供する豊富な木の実や貝や魚をとって暮らしていた縄文時代人のような生活が、今、工業生産力の発達によって復活しつつあります。まだそれが実現していないのは、これまでの人類の富のほとんどを、一部の国の一部の人間が膨大な軍事費に転用していたからです。

 第三は、ソーシャル社会(人間どうしの社会的な関係を中心に営まれる社会)の誕生です。独立起業ということを考えたとき、今までは資金力が大きなネックになっていました。それは、ひとつには、工業時代の産業には大きな資金を必要とするものが多かったからです。また、明治の勃興期や、終戦後の初期のころならいざ知らず、いったん経済が軌道に乗り出すと、工業社会では新たな参入の余地はほとんどありませんでした。サービス業も、初めのうちは資金力を必要としない分野が残されていましたが、大手の企業が生まれてくると、やはり宣伝や営業という資金力の部分で新たな参入は困難になっていきました。

 資本主義社会は、資本を動かせない者にとっては資本がネックになり、資本を動かせる者にとっては資本がキーになる社会ですから、資本の多寡によって固定化と独占化が進みがちな社会です。

 しかし、これに対して、人間どうしの社会的関係を基盤にしたソーシャル社会は、金銭を介した雇用契約や売買契約のかわりに、家族や友人や知人という人間のつながりに基づいて営まれています。

 ソーシャル社会でネックになり、またキーになっているものは、資本でも、また単なるソーシャルリテラシー(人間関係の技能)でもありません。自分とのつながりのある人たちに、新しい価値あるコンテンツを提供できるかどうかが最も大きなキーになっています。言い換えれば、ソーシャル社会の登場によって、だれもが、コンテンツさえあれば自分の仕事を創造できるようになってきたのです。



 以上のような条件によって、これまでの限られたイスを取り合う競争の社会から、自分の今いる場所で新しいイスを創造する独立の社会への転換が進もうとしているのが現代の状況です。

 しかし、ソーシャル社会で個人が提供する新しい価値あるコンテンツは、その人がそう決心しただけでは持つことはできません。これまでの競争教育の中で普通に勉強に励んでいるだけでは、あるポジションをめぐって人に勝つことはできても、オリジナルに自分のイスを作る力は育たないのです。

 社会が、競争社会から創造社会に移行することに伴い、教育も、将来独立して社会に新しい何かを創造する人間になることを目的としたものに変わっていかなければなりません。もちろん、小中学校の基礎教育の多くは、競争教育においても、独立教育においても、それほど大きくは変わらないでしょう。しかし、教育の目的が変わることによって、いろいろなところで変化が起きてきます。

 例えば、子供の励まし方を例に挙げると、競争教育においては、これまでは苦手な教科があると、「それができないと、みんなに負けるから、いいところに入れない」という脅迫的な励まし方が中心でした。独立教育においては、苦手な教科があったときも、「それができると、将来の自分の仕事に使えるから、自分らしくがんばろう」という創造的な励まし方になります。

 これまでは、我慢する勉強に適応できる子供が、いい成績をおさめていました。しかし、我慢に適応できるというのは、しばしばバランスがとれていないことも意味していました。勉強がよくできる人の中には、勉強しかできないという人もかなりいたのです。

 これからの勉強は、将来、その勉強を自分の仕事に生かすという喜びの勉強が中心になります。その喜びの勉強を通してバランスのとれた人間を育てることが教育の目的になっていくのです。



 これまで、教育の四つの大きな変化を書いてきました。それは、「受験の教育から、実力の教育へ」、「学校の教育から、家庭の教育へ」、「点数の教育から、文化の教育へ」、「競争の教育から、独立の教育へ」という四つです。

 これから起きるこれらの大きな変化を担えるのは、学校や塾も含めて、従来のままの教育関係者ではありません。未来の教育を担えるのは、大きな理想のために自己否定できる教育関係者です。

 そして、言葉の森も、その一員となってこれからの時代の変化に取り組んでいきたいと思っています。

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競争の教育から、独立の教育へ2 as/1251.html
森川林 2011/05/01 12:17 



 これまでの工業時代における消費産業においては、消費したいものを消費者が買うので、その物財が売れることによって生産者が豊かになり、それが労働者の賃金という形で消費者に再び還元されるという仕組みでマネーが回っていました。

 これからの創造産業においては、そうではありません。まず創造したいものを創造者が作るので、その創造物の価値を賞賛するために、他の創造者がその創造物を買うという形でマネーが社会の中を回ります。マネーの流れの源泉が、欲求をもとにした消費から、新しい価値の創造をもとにした賞賛に変わってくるのです。ちょうど、文化祭の模擬店で、面白いものを買ってあげるためにチケットを使うというような形に似た経済と考えるといいでしょう。

 そして、その面白いもの、つまり新たに創造されたものが、新しい需要を作り出します。つまり、既存の需要を奪い合う社会から、新しい価値の創造によって新しい需要を創造する社会へ向かう途上に、現在の日本はあるのです。

 その新しい社会がまだ実現していないのは、お金を持っている人が、その使い道がないために、マネーの流れをとどめているからです。そして、そのことによって日本中が互いに貧しくなっていることに多くの人が気づいていないからです。

 だから、まずお金のある人が、新しい価値の創造を賞賛するために、そのお金を使うことから始めなければなりません。



 ケインズ経済学の本質は、供給力の過剰によって社会にたまったお金を、社会が再び使わざるを得ない仕組みを作ることにありました。ケインズは、有効需要を作るためには、ピラミッドを作ることでも、大きな穴を掘ってそれを再び埋めることでも何でもよいと言いました。需要が新たに作られさえすれば、それが無駄な需要であってもかまわないと考えたのです。しかし、その延長に、「その無駄は戦争であってもいい」ということも成り立ちました。



 日本がこれから目指す新しい需要は、そのようなものではありません。ケインズが、有効需要は無駄な需要であってもよいと考えたのは、当時の欧米の社会では、大衆はそれぐらいしかできないと思われていたからです。これに対して、日本では、ブルーカラーの労働者も職場でのカイゼンに参加するだけの知的創造性を持っています。社会全体の知的平均値が高いというところに、日本で世界初の創造産業社会が誕生する条件があるのです。



 これまでの社会では、生産技術の未発達による生産力の不足が、需要-生産-労働のサイクルを作り出し、それが、不足に対する競争を生み出していました。その競争の仕組みが、社会のすべての分野に浸透していた結果、教育も競争の中で行われるようになっていたのです。

 しかし、その結果、勉強の目的が競争に勝つことになり、何のための競争かということよりも、どれだけ激しい競争で相手に勝つかということが重視されるようになりました。

 勉強の真の目的は、自分を向上させ、社会に価値ある創造を付け加えることによって社会に貢献することであるにもかかわらず、勉強の過程で競争が重視されるようになった結果、受験のための教育や点数のための教育が広がるようになっていったのです。

 この競争教育は、ふたつの問題を生み出しています。

 ひとつは、競争に勝つような優れた能力を持った人たちの勘違いです。優れた能力を持つ人は、その個性を生かして社会に役立つ仕事をしようとするのでなければなりません。それが、できるだけいいイスを取って自分が安泰に暮らすための人生を送ることを目標にするようになってきたのです。このことが,社会全体の大きな損失を生み出しています。

 もうひとつは、競争に負けたと思う人たちの自信喪失です。人間は本当はだれでもが自分の個性を生かした創造ができる存在です。にもかかわらず、自信を持たない人は、自分でその可能性を閉ざし、消費と労働の世界に安住してしまうのです。ここにもまた、社会全体の大きな損失があります。

 競争教育は、競争に勝った人の私利私欲の価値観と、競争に負けた人の早めの自信喪失を生み出しています。

 多くの人は、月曜から金曜までは我慢して働き、土日は休んで英気を養うというような日々の送り方をしています。土日の休養と消費生活のために、月曜から金曜の労働があるという生活です。

 競争に勝った人も、同じ罠にはまっています。だれもが、より豊かな消費生活とより多い休養のために、いかに割りのよい労働に携わるかということを人生の目標にするようになっているのです。



 競争ということを考えるとき、私は、30代のころ、房総半島の磯で見た光景を思い出します。激しく波の打ち寄せる岩場で、たくさんの小さな海草が岩場にしがみついていました。ある海草は、波の穏やかな日当たりのいい場所に根をはっていました。ある海草は、波の荒い日陰に小さく根をはっていました。しかし、それぞれの海草が、自分の今いる場所で自分にできるかぎりの光合成という創造を営んでいました。

 人間社会も、本来はそうであったはずです。人よりもいい場所を取ることを目的にするのではなく、自分の今いる場所で自分なりの新しい価値を創造することが本当は自然な生き方です。

 ところが、今まさに、そういう社会が生まれる条件ができつつあるのです。(つづく)

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