世界は、これから、自然災害の多発と、戦争の危険性の拡大と、経済破綻の進行と、新しい感染症の拡大という困難な方向に進むことが予想されます。
しかし、その一方で、この大きな混乱のあとに、明るい未来がやってくるはずで、今、その準備が着々と進んでいるのだと思います。
そして、多くの人の見方によると、その新しい未来を作るキーになるのは、日本や日本文化や日本人であるらしいのです。
前回のホームページの記事「創造のコンテンツは日本から」でも書きましたが、これから来るのは、インフラの時代ではなくコンテンツの時代です。確かに、インフラは表面的には大きな比重を占めます。たとえば、アフリカ大陸を近代化するというだけでも、膨大なハードのインフラ需要が生まれます。しかし、そこで生まれる近代化した中国やアフリカの未来は、想像の枠内でもう既に織り込み済みの未来です。
それに対して、これから生まれるコンテンツの未来は、まだほとんどの人の目に明らかになっていません。
ここで大事なことは、私たちは、この未来の方向に向かって行動することを最優先していくということです。
言葉の森のホームページに、私は、3月の中旬までは地震や原発の記事を何度か書きましたが、それはそのとき、日本の歴史上最悪の危機が起こる可能性があったからです。
しかし、この危機は、3月の末には基本的に回避されたと思いました。だから、3月22日に、「日本の新しい産業(その1)」という記事を書いたのです。地震や原発の問題はこれからも継続しますが、もう最大の問題ではありません。各人の心構えと対策を決めたら、これからは、未来の方向への行動を進める時期なのです。
だから、私はもう地震や原発の話は一切どこにも書いていません。それは、その分野に詳しい人に任せておけばいいのです。日本は、いくつかの紆余曲折はあっても、原発廃止の方向に大きく進んでいくと思います。その路線をしっかり支持し、被災地の人たちのこれからの生活を日本全体で支えていけばいいのです。
さて、地震、原発の話はそういうふうに考えたとしても、多くの人の心の中に、まだ漠然と不安感や不幸な未来への予感のようなものが残っている気がします。先日、近所のファミリーマートにあった雑誌「プレジデント」を見ると、その特集が、「幸せになる練習。希望格差社会の実態」でした。こういう特集が組まれるということは、多くの人が、不安感や不幸感を持っているということだと思います。
先日も、あるサイトに、漠然とした不安を感じて仕方ないというような書き込みがありました。そういう気持ちは、だれでも、よくわかると思います。言葉で言えるはっきりした問題ではなく、漠然と、しかしかなり継続的に未来への不安を感じているという状態です。
しかし、私は、今はこう思っています。不安を感じているのは、まだ覚悟ができていないからで、いつ何がどうなってもいいという決心さえつけば、あとは明るくなるしかないのです。まだ不安を感じているというのは、これから来る未来の時代に乗りおくれているということです。今は、自分個人の不安につぶされそうになっている場合ではなく、そういう不安に負けそうな他人を励ます役割をしなければならない時期です。
こういうことを書くとノーテンキだと思われると思いますが、私はもうKY路線でやることに決めたのです。不安や心配でいっぱいで過去と現在にしか目を向けていない人には話を合わせないことにしたのです。
先日、twitterにそのようなことを書いたら、昔の生徒で今、大学四年生になっているM君が、しっかリツイートをしてくれました。
こんな内容です。
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mokaha 中根克明(森川林)言葉の森
言葉の森は、過去も現在ももうふりかえらずに、未来に向かってまっしぐらに進む路線です。今は既に、地震が、原発が、政治家が、マスコミが、と怒ったり心配したりしている時期ではありません。
もちろん、そういう怒りや心配は必要ですが、それはあくまでも二義的なもので、私たちは新しい未来を作るために前進しなければならないところに来ているのです。
これから、まださまざまな困難や混乱がやってくるかもしれませんが、そこだけにとらわれずに、その先の明るい未来をめざしてがんばっていきましょう。
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若者は、こういう感覚がわかるのだと思います。この感覚がわからない人は、気持ちの上で老人になっているのです。
さて、話をもう少し個人的なことに向けると、地震や原発の過去にこだわるのと同じ心理が、身近な人に対する人間関係にも反映します。それは、相手の過去や現在に対する不満や批判や怒りです。
なぜ身近な人に不満や批判を感じるかというと、それは、そういうことを感じる自分自身を克服するためなのです。人間は、結局だれでも同じような人生を歩んでいて、自分も過去のいつかにその不満や批判の対象となる人と同じような生き方をしてきたことがあるし、またいつか将来、その不満や批判の対象となる人と同じような生き方をするのです。そういう過去の自分と未来の自分を克服して、より新しい課題に到達するために、今目の前に嫌な人がいると考えればいいのです。
だから、その嫌な人を、嫌だと思うままでいれば、その課題はずっと続きます。その人が目の前からいなくなっても、また新しく同じような嫌な人が登場します。なぜなら、それは相手の問題ではなく、自分の課題だからです。
私は、だから、相手に不満や批判を持っている人に対しては、こうアドバイスをしたいと思います。「その課題は早くクリアして、もっと別の新しい課題に取り組んだ方がいいんじゃない」と。
以上の話に共通するのは、過去や現在に目を向けず、未来に目を向けようということです。
そして、更に重要なことは、言葉の森のこれからの活動は、新しい未来の創造にとても近いところにあるということです。
未来の日本、そして世界を支えるものは、新しい教育です。新しい教育の中で、ひとりひとりの人間が、幸福と向上と創造と貢献の人生を生きていくことが、これからの社会作りの土台になっていきます。
そして、この新しい教育の中心になるものは、新しい作文教育なのです。
これからの教育に求められる重要な4つの定義は、「受験のための教育から、実力のための教育へ」「学校や塾での教育から、家庭と地域での教育へ」「点数を目指す教育から、文化を目指す教育へ」「競争を目標とした教育から、自身の独立を目標とした教育へ」というものです。
これらの新しい教育の定義に深く結びつくのが、作文教育における「正解から対話へ」「強制から自律へ」「記憶の再現から創造の発表へ」「孤立した競争から相互の交流へ」という新しい流れです。この新しい流れを作るのが、これからの言葉の森の活動になっていくと思います。
インターネットのコンテンツは、今後、個々のホームページからソーシャル・ネットワーキング・サービスに移行していくようになると思います。
なぜかというと、クラウド化の流れの中で、自社サーバーの中にコンテンツもプログラムも全部入れてきっちりと管理運用することは時代後れになりつつあるからです。(容量の限界、プログラム開発の限界、スペックアップの限界、検索しやすさの限界などのため)
ワールドワイドのインターネットのクラウドの中に、どのコンテンツも全部投げ込んで、それを検索エンジンで探していくか、又はフェイスブックなどのつながりを拠点にして探していくかという形になってくと思います。
この流れを別の言葉で言うと、Consistency(一貫性)から、Eventually-consitency(結果オーライ)への流れということになります。
途中の過程で論理的に無矛盾の一貫性を保つ必要はなく、結果的につじつまが合えばいいということです。だから、どこかのページを探す場合も、「AからBに行ってCをクリックすれば確実に行けます」という形ではなく、「あのへんで探すか、このへんの人に聞けばわかるんじゃないかなあ」でいいということです。
こういうアバウトな発想は、日本人ではまずできなかったと思います。しかし、グーグルの処理が1日2万テラバイトを超え、百万万台のサーバーにデータを分散している状態では、途中経過の一貫性などはもう望めません。そして、こういう規模のスケールは、今後多かれ少なかれどの企業にもやってきます。
このクラウド化の流れの先にあるものは、コンテンツの創造の世界です。
インターネット技術では、日本は大きく立ち遅れていました。その最も大きな原因は、日本語処理の難しさから(文字コードが4種類もあり、どれも多少不備がある)、若い人がコンピュータの世界に入る最初の敷居が高すぎるところにあったと思います。
しかし、インターネットの技術は今後も発展していくでしょうが、もうすでにコンピュータのソフトやハードでできる世界は、量子コンピュータなども含めて見通しを想像できるものになっています。
人間は、未知のものに最も惹かれますから、たぶん世界の最も優秀な頭脳は、もうだいぶ前からコンピュータやインターネットの世界とは別の科学分野の研究を進めていると思います。
そういう優秀な頭脳を持たない人にとっても、コンピュータやインターネットのソフトとハードの世界は、もう既に日常生活のインフラになりつつあります。ちょうど、家の前に舗装道路があるとか、家の中で水道や電気が使えるというのと同じ感覚です。大昔は、自分で山の中に人の通る道を作ったり、近くの川に水を汲みに行ったり、まきを拾ったりしたのでしょうが、今はそういうことはすべて基本的なインフラとして提供されています。人間のすることは、そのインフラを前提にして豊かな生活をすることです。
ところが、その「豊かな生活」というものが、これまでのアメリカ型消費社会の発想では、豊かな消費生活でしかなかったのです。おいしいものを食べて、いい服を着て、広い家に住み、テレビでのんびりスポーツ観戦を楽しむとか、たまに家族で海外旅行に行くとかという消費生活は、確かに魅力あるものです。しかし、そういう生活のもたらす満足感には限界があります。
消費文化の国々では、内心満たされないものを感じながら、そのような消費生活を更に豊かに続けるという方向にしか進みようがありませんでした。より豊かな食事、よりきれいな服、より長い休日、より豪華な自動車や住居、あるいはより激しい刺激という方向です。
しかし、日本人は、豊かな生活のよさは認めても、その先に限界があることをすぐに理解できるだけの文化を持っています。それは、縄文時代や江戸時代の長い豊かな生活をすでに何度も経験して、その中で人間が幸福に生きる方法を模索してきた歴史があるからです。
逆に言うと、日本以外の国々では、豊かさの限界を大衆的なレベルで歴史的に経験したことがないので、いまだに豊かな消費生活の幻想から脱却することができないのです。
インターネットは、これからコンテンツの時代に入ります。
しかし、そのコンテンツの内容は、これまでの消費生活の延長にあるコンテンツではありません。言い換えれば、検索エンジンで探して手に入れるという消費のコンテンツではなく、ソーシャルサービスで自ら作り出して友達と共有するという創造のコンテンツと言ってもよいでしょう。
その創造のコンテンツの文化を世界で最も豊かに持つ国が、この日本なのです。まだ、だれもそのことに気づいていないようですが(笑)。
しかも、創造のコンテンツは、日本の過去の文化から引っ張り出してくるだけではありません。日本人は創造の文化というものを経験しているので、現代の環境に合わせた創造のコンテンツを新たに作り出していくことができます。
その創造のコンテンツを作り出すプラットフォームが、今、フェイスブックなどを中心に世界中に広がっているソーシャルサービスなのです。
(注)創造のコンテンツ
日本における創造のコンテンツとは、例えば、折り紙を折ったり、綾取りをしたり、短歌や俳句を作ったり、百人一首をしたりするような文化に象徴されるコンテンツです。
これらのコンテンツの特徴は、
(1)習得するために時間がかかるという向上の要素がある(折り紙や綾取りや百人一首には学習が必要)、
(2)決まった枠内で行うというルールのようなものはあるがその中身は自由に工夫できる(例えば、折り紙は1枚の紙で、綾取りは1本のひもで、短歌や俳句は決められた字数で)、
(3)個人が創造したものは個性や交流を楽しむ面が強く、勝敗や優劣に還元されない(百人一首も家庭で行う場合は交流のため)、
(4)一般庶民から支配階級までの格差がなくどの階層でも共通している(費用をかけて行うようなものは少ない)、
などです。
これに対して、欧米の文化は、一方で、学習や習得をあまり必要としないトランプゲームのような大衆的な娯楽があり、他方で、プロを目指して勝敗や優劣を競う学問や芸術やスポーツやビジネスの分野があるという形で文化が二極化しています。これは、欧米のこれまでの歴史のほとんどが、支配と被支配の格差に基づいたものだったからです。
このように考えると、世界に創造のコンテンツを広げるのが、これからの日本の役割になると思います。