言霊という感覚は、日本的なものです。欧米では、言霊に匹敵する言葉はあまりないように思います。
欧米のディベートの文化では、言葉は意思を伝える手段ですが、言語は手段以上のものではなく、その手段をいかに有効に使うかということに考えが進みます。ディベートの前提は、自分が正しいと思うかどうかにかかわらず、ある立場に立って論じるということですが、この発想は、日本人には苦手です。
国際舞台での交渉事は、テーブルの上でにっこり笑って握手をしながら、テーブルの下では相手の足を踏むというようなことが行われるようですが、こういうことを平気でできる日本人はあまりいません。日本人にとって、言葉とは心がこもってしまうものですから、自分の感情を抜きにして理屈の上だけで話をするというのは苦手なのです。
そこには、日本語と日本人の特殊な事情が二つあるようです。
第一は、日本語の音声です。日本語は、世界でも、日本とポリネシアにしか存在しないと言われる母音言語です。この母音言語の環境に6-8歳のころに置かれると、自然の音を言語と同じ左脳で処理する日本語脳が形成されます。ですから、日本で成長した日本人はほぼ全員日本語脳です。
この日本語脳の特徴は、自然音だけでなく、感情も左脳で処理してしまうことです。
例えば、「梅干し」という言葉を聞くと唾液が出てきます。日本語脳でない外国人との比較の調査はまだありませんが、この言葉によって情動が影響されるというのが日本人の特徴だと思います。
だから、「さわやかな青空」という言葉を聞くと、その言葉だけで、気持ちもさわやかになってくるのです。
心身統一合気道の創始者である藤平光一氏は、自分の脈拍を自由に速くしたり遅くしたりできたそうです。その秘密は、脈拍をコントロールしようとするのではなく、自分の気持ちをすごく焦っているときの気持ちにしたり、逆にすごくゆったりしたときの気持ちにしたりすることによって、結果的に脈拍をコントロールするという方法でした。しかし、それを聞いて納得した海外の学者が同じことをやろうとしても、だれでもできなかったそうです。
藤平氏は、合気道の達人でしたから、脈拍を自由にコントロールするレベルまでできましたが、似たようなことを多くの日本人がやっているように思います。そのときに使われているのが、日本語と日本語脳の組み合わせが生み出す言葉の情動性なのです。
さて、日本語脳というのは、主に音声の面での特徴です。ところが、第二に、日本語には音声だけでなく、文字においても情動性を喚起する力があるようです。
日本語には漢字とひらがな(カタカナ)がありますが、漢字を処理する脳の部位と、ひらがな(カタカナ)を処理する脳の部位が違うことがわかっています。漢字は、イメージや音楽と同じ部位で処理されていて、ひらがなやカタカナの処理される部位とは異なっています。
絵は、言葉に比べると、情動に影響を及ぼす度合い高く、言葉だけで聞く(あるいは見る)よりも、画像の助けを借りた方が理解が早くなることが知られています。言葉の持つ記号性の更に純化したものが数字だとすると、情動に対する影響力という点で、画像>言語>数字という関係が成り立つように思います。
こう考えると、漢字を画像的な象形文字として認識する日本語は、表音文字だけで記述されるアルファベットよりも、人間の気持ちを動かしやすいのだと思います。
では、漢字だけで成り立つ中国語はどうかというと、中国語ではすべての文字が画像になっています。それに対して、日本語は、画像としての漢字と漢字の間に、その漢字の関係を表す助詞や助動詞がひらがなとしてはさまっています。このひらがなが、動きの役割を果たします。
例えば、「感謝」という言葉だけを見ると、感謝のイメージは画像として浮かんでくるような気がします。しかし、ここに、「感謝する」「感謝します」「感謝したい」というひらがなの助動詞がつくと、このイメージが動きをもって心に迫ってくるような感じがすると思います。
つまり、日本語は、表意文字と表音文字の組み合わせによって、先ほどの、画像>言語>数字の関係に、更に、動画を付け加えた関係になっているようなのです。(動画>画像>言語>数字)
日本語は、音声の面からも、文字の面からも、単なる伝達手段としての言語という無機的なものではなく、人間の心に影響を及ぼす生命力を持ったものになっています。しかし、それは、日本語と日本語脳が組み合わさったときにそうなるのです。そして、この心への影響というものは、たぶん、人間の潜在意識により深く影響を及ぼすものです。これが、日本語において言霊という感覚が成立しやすい条件になっているのだと思います。
もちろん、日本語に限らず、言語にはもともと情動に影響を及ぼす面があります。アルファベットにも、当然そのような言霊の力はあるはずですが、それを感じとるためには、感受性を高める必要があります。
しかし、日本語の場合は、普通の人でもすぐに言語の情動性を感じ取れるような特徴があり、それが個人の意識だけでなく、日本人という集団の集合意識にも影響を及ぼす面があるのではないかと思われるのです。
エントリーシートや志望理由書の書き方にはコツがあります。
小中学生の場合、志望理由書は本人が書くことが原則になっていますが、本人任せでは書けません。親がアドバイスをして親子の合作で書いていく必要があります。
手書きで書く場合は、最初に、エントリーシートの枠に1行普通に書いてみて、その字数を数えます。そして、手書きで書く字数と行数に合わせて、パソコンの字数行数のセットをし、パソコンで内容を修正しながら書いていきます。パソコンで完成したものを、手書きできれいに清書するという書き方です。
文章を書くときは、構成をわかりやすく書くのが大事です。志望理由書で自分のアピールできる点を書く場合でも、論点をいくつかに整理して、それぞれの論点について同じ長さぐらいの字数配分で書いていきます。
ある段落は長すぎ、ある段落は短すぎという書き方にならないように、全体の目配りをしながら書いていきましょう。
エントリーシートに書く内容は、自分のアピールできる点です。できるだけ具体的な固有名詞や数字を入れて、裏付けのはっきりしたものを書きます。例えば、「本を読むのが好きです」と書くよりも、「毎週2、3冊は必ず読みます」などと書いた方が説得力があります。何かをがんばって続けた場合でも、「○年○ヶ月続けた」と書きます。ほかに、「○人集まった」とか、「○円の業績があった」のように、できるだけ数字がわかるように書いていきます。
内容は、全体に明るくなるように心がけます。苦しい経験も人間を成長させますが、苦しいことをのりこえたという明るい点を中心に書いていきます。
また、他人を批判するような内容は、文章の力を弱くします。批判はできるだけ避けて、物事のプラスの面を中心に書いていきましょう。
エントリーシートでアピールするのは、自分が挑戦したことですが、大学生の場合、4年間をふりかえってみると、人に自慢できるような挑戦は意外と少ないものです。
アルバイトや部活などはだれでもそれなりにがんばっていますが、だれが書いてもあまり大きな差が出ません。それよりも、むしろ、勉強面でがんばったという話は、意外と好感を持たれます。
しかし、その勉強も、資格試験をとるためにがんばったという実利的なものよりも、研究や調査で、特に何かの見返りを期待するわけではなくがんばったというようなものの方が印象に残ります。
アピールできる点があまりない場合は、説明風に書くと字数が埋まりません。その場合は、そのときのエピソードを描写的に書いていくといいでしょう。
書き終えたあと、自分が書いたものを必ず他人にも読んでもらい、読みにくいところを指摘してもらいます。家族でも友達でもかまいません。他人に読んでもらうことによって、自分では気がつかないことがわかります。
高校生や大学生になると、自分で書いて読み返してそのまま提出という形になりやすいのですが、提出する前に必ずほかの人に読んでもらいましょう。
言葉の森の「質問の広場」という掲示板に、いろいろな人が書いた志望理由書と添削例が載っています。そのようなサンプルを参考にすると書きやすいでしょう。
言葉の森の保護者の方から、よく質問や相談があります。
その中で、ときどき出てくるのが、「先生が褒めてばかりいるのですが、これでいいんですか」というものです。
その答えは、決まって、「それでいいのです」です。
その理由1.直す指導では、長続きしないからです。
小学校低中学年のころは、褒める指導よりも直す指導の方がしやすい時期です。特に、低学年になればなるほど、直すことが多くなってきます。
しかし、その場合の「直すこと」の大部分は、直さずにそのまま放っておいても学年が上がれば自然に直るものです。なぜ自然に直るかというと、学年が上がり文章を読む量が増えてくると、自分で直そうと思わなくても自然に正しい書き方が身についてくるからです。
例えば、小学校低学年でよくある「わとは、おとをの区別」「会話の改行」などは、最初はみんなできません。できなくて当然です。日常の話し言葉でそういう区別がないからです。
しかし、文章を読む機会が増えてくると、自然にそういう区別があることがわかるようになります。そして、大部分の子は、だれに教わらなくても年齢が上がるにつれ自然に正しい書き方になっていきます。
正しい書き方を教える場合でも、小1のころに10回言わなければわからなかったことが、小3では1回でわかります。読む量の土台ができていれば、説明はすんなり入るのです。
ところが、多くの真面目なお母さんや先生は、小1のころに10回説明して直そうとしてしまいます。
その結果、どういうことが起きるかというと、まず、子供は書くことが苦手になります。お母さんは、年中子供に注意するようになります。
この状態にがんばって耐えた子は、小学5年生ぐらいになり自我が確立してくると、もう親の言うことを聞かなくなります。小さいころに教え込みすぎた子は、必ずバランスをとるために大きくなって反発するようになるのです。
高学年のいちばん重要な時期に親の言うことを聞かなくなるので、親は子供の勉強を塾に丸投げするようになります。
高学年になっても、親が楽しく子供の勉強を見てあげられるようになるためには、低学年のときにできるだけのんびりと楽しく褒めながら教えていくことが大切なのです。
理由2.褒める指導で続けられるのは、指導のカリキュラムがしっかりしているからです。
ときどき、褒める指導だけで作文を書かせるのなら簡単だから、家庭でもできるという人がいます。
ところが、家庭で親が子供に作文を教えるようになると、すぐに勉強が行きづまります。低学年のときなら、それでも無理に続けることはできかもしれません。しかし、小学校3、4年生になっても作文の勉強を家庭で行うというのは、たぶんどの家庭でもほとんどできないと思います。
作文の通信教育講座の中には、楽しそうな教材だから家庭でもできるとうたっているところがありますが、楽しくできるのは、国語のクイズのような易しいレベルの間までです。本格的に作文を上手に書くレベルになると、教材の楽しさだけで勉強することはできません。
言葉の森の指導が、褒めること中心でありながら上達していくのは、指導の枠組みが上達するようにできているからです。
他のほとんどの作文教室では、小学校の間だけとか、せいぜい中学生の間までの指導カリキュラムですが、言葉の森は高校3年生の大学入試の小論文までの長期的なカリキュラムで指導をしています。
しかも、高3の小論文入試では、最難関校に合格できるだけの指導を行っています。これは、高校生の生徒が増えすぎても困るので宣伝はしていませんが、言葉の森の大学入試小論文指導は、現在、どの予備校よりもレベルが高くわかりやすい指導をしていると思っています。それは、受験作文小論文のページの開設を見るとわかります。ほかの予備校で、このように理路整然と書き方を説明しているところはないと思います。
言葉の森の講師が、子供たちをのんびり褒めているだけのように見えるのは、しっかりしたカリキュラムで指導しているからなのです。
理由3.作文の上達には、時間がかかるからです。
ところで、作文の上達には時間がかかります。
数学や英語であれば、夏休みの集中学習で一挙に成績を上げて得意教科にするというようなこともできないわけではありません。これは、それなりに大変ですが、やり方さえ守ればだれでもできます。
ところが、作文の勉強は、短期間の集中学習で上手にさせることはできません。
もちろん、言葉の森の体験学習の最初のころは、目覚ましく上達するということはあります。しかし、その後の進歩は、時間のかかるものなのです。
他の教科の勉強は、単元が進んだり、テストの点数が返ってきたりするので、勉強が進歩している感じがします。しかし、作文の場合は、毎回同じような作文を書いていて、それが題材によってはかえって下手になったように見えることもあるのです。
このときに、親がどう対応していくかということが大事です。
ひとつには、作文の勉強の進歩は時間のかかるもので、気長に読む勉強を続けながら褒めていると、忘れたころに上達していたことがわかるものだと考えることです。
この場合に、重要なのは、褒めることとともに、読む勉強を続けることです。それは、昔は長文の音読ということでやっていましたが、今は、長文の暗唱、又は、問題集読書、又は、普通の読書です。
家庭で行う自習の仕方は、今度わかりやすく整理したものをお送りする予定ですが、当面は、最低限、毎日の読書さえしっかりできていれば、それが読む勉強になると考えておいてください。
「忘れたころに、上達していたとわかる」というのは、自動採点ソフト森リンの点数グラフの推移からも言えます。どの生徒も、年間を通して数ポイント進歩しているだけです。決して、1ヶ月や2ヶ月で目に見える進歩があるという勉強ではないのです。
高校2、3年生で大学入試のために新たに作文の勉強を始めるような生徒は、勉強に対する意識がかなり高いはずですが、そういう生徒でも、自分なりに上達が実感できるのは1年ぐらいたってからです。勉強に対する意識がそこまで高くない小中学生の生徒については、上達にはもっと時間がかかるというのが普通なのです。
上達していないように見える時期は、作文の勉強をしているのでなく、その子のその時代の思い出となる作文の記録を残しているのだというぐらいにのんびりと考えておくことです。毎回同じような作文を書いていたとしても、それを進歩がないと考えるのではなく、記念の作文がたくさんたまっていくというふうに考えれば、親も子も負担がなくなります。
そうして、ふと気がついたときに、「いつの間にか、ずいぶん上手になっていたね」ということになるのです。
理由4.子供の意欲を活性化させる大きな要素は、家庭の対話だからです。
勉強は、意欲的に取り組んでいるかそうでないかによって、同じ時間をかけても上達の度合いがかなり違ってきます。
子供たちがいちばん意欲をもって勉強できるのは、受験に作文試験があるときです。実際に、受験前の子供たちは、かなり難しい課題でもがんばって取り組んでくるので、この期間はみんな作文力が向上します。
しかし、受験という差し迫った目標がないときは、作文の勉強というものは、きわめて意欲化しにくい勉強なのです。その理由のひとつは、はっきりした点数がつかないからです。
この意味で、小学校高学年以上の生徒は、できるだけパソコンで作文を書き、毎週森リンの点数を勉強の目標にしていくといいと思います。
言葉の森の通学教室では、小学校5年生以上の生徒はほぼ全員パソコンで作文を書いています。子供たちの適応力は高いので、家庭で毎日10分でもブラインドタッチ(タッチタイピング)の練習をすれば、数週間で、手で書くよりも速く楽にパソコンで書けるようになります。(ブラインドタッチは、ソフトなどで練習する必要はなく、自分の好きな歌を歌いながらその歌詞を打つ練習をしていくという形でやるのがいいと思います)
ところで、森リンの点数で意欲を持たせるというのと、もうひとつ異なるアプローチが、対話によって意欲を持たせるという方法です。もちろん、作文の力が上達してくると、いい作品を書き上げること自体が、苦しいながらも楽しいというレベルにまでなります。しかし、そこまで行くのは、よほど上手になったあとです。ほとんどの子は、書くことが苦しいという気持ちがほとんどで、それでもがんばって勉強していると思います。
ここで大事なのが対話です。
他の教科の勉強では、特に予習などをしていなくても、教材を見て先生の説明を聞けばそこから勉強をスタートさせることができます。しかし、作文の勉強はそうではありません。
もちろん、予習をしていなくても作文の勉強を始めることはできます。しかし、予習をしている生徒と比べると、勉強に取り組む意欲の差は歴然としています。
私もしばらく前までは、教える側の工夫で意欲を持たせることができると考えていました。しかし、どんなに面白く意欲化できるように教えても、作文を書きだした途端にすぐに意欲がしぼんでしまう子がいます。一方、どんなときでも、書きだしから書き終わりまでがんばる子がいます。
その差は、作文を書くまでの家庭での事前の対話と、作文が返却されたあとの家庭での対話だったのです。
いつでも意欲的に取り組む子は、家庭でお父さんやお母さんと、次の週の課題について話をしています。子供が、自分から進んで、両親に似た話を取材するというケースが多いと思いますが、その取材に対して、お父さんやお母さんが対話を楽しむ形で熱心に答えているのです。
この対話によって、子供の思考力が活性化します。また、親が子供に知的な話をじっくりできる機会が生まれます。他の教科の勉強は、子供が教材を見て自力で進めていくのが理想ですが、作文の勉強はその反対で、親子が課題についてたっぷり対話をする中で進めていくのが理想なのです。
このように、作文の課題について事前に両親と対話している子は、作文を書いているときに、作文用紙の上でやはり両親と対話をしながら書いているのだと思います。そして、そのようにして書いた作文が返却されたとき、両親がその作文の返却を楽しみに待っているとしたら、意欲的にならない方がおかしいのです。
この作文の勉強における対話の意義ということを、言葉の森では今後、どの家庭でも実行しやすい形で提案していく予定です。
簡単に言うと、毎日の家庭での対話のメニューを作ることです。
また、家庭での親子の対話だけでは、慣れないうちは話題が息づまることもあるので、その対話をfacebookの活用でバックアップすることを考えています。
まとめ.褒める指導と対話を結びつける。
作文の勉強は、真面目に直す指導として行うこともできます。
しかし、その結果は、長続きせず、作文が苦手になり、親が年中怒るようになり、高学年になって親子の対話ができなくなるということにつながります。
作文の勉強は、特に低学年のうちは、そのように生真面目に取り組んではいけないのです。
一方、作文の勉強を褒めるだけで行うことは、その褒める指導の背後に明確な方法論がなければ、やはり、長続きさせることはできません。
褒める指導は、直されて苦手になるよりもずっといいのですが、やはり褒めるだけでは限界があるのです。
いちばんいいのは、褒める指導を基本にしながら、
(1)明確なカリキュラムに基づいて指導する(言葉の森の方法です)。
(2)親が進歩を気長に見てあげる。
(3)その一方で、読む勉強としての自習を続け、
(4)高学年からはパソコン入力で点数も目標にする。
(5)そして、家庭での事前の対話と事後の対話で意欲を持たせる。
という方法を組み合わせることです。
この中で、これから最も力を入れていく分野は、家庭での対話です。
言葉の森の指導も、家庭での対話を支えることを今後の重点にしていきたいと思っています。