言葉の森のfacebookページには、いろいろなグループがあります。今日は、その中から「親子で遊ぼうワンワンワン」というグループの話題を介します。
親が忙しいと、普段は子供と遊べないので、たまに休日が続くと、無理をして遠出をしてくたびれて帰ってくるというパターンになりがちです。
そういう無理な遊び方(も、たまにはいいけど)ではなく、日常的にちょっとした工夫で面白く遊べることを考えてみるといいと思います。
そのキーワードのひとつは、自然です。
キャンプのようなおおげさなものでなくても、近所の公園や近くの野原で遊べるものがたくさんあります。
そういういろいろな工夫を話していきたいと思います。
(グーグルの画像から借りてきたものですが)
私が公園でよく遊んでいたのがこれ。太いロープが1本あれば、どこでもブランコができます。
でも、サクラやカキのように折れやすい木でやるのは危険。だから、親が勉強してからやる必要があります。
http://www.facebook.com/photo.php?pid=130727&l=262907e144&id=100002312073035
影絵遊び。準備がたいへんだけれど、いっしょに作れば楽しさ倍増。一度作った人形は何度も使えるし。厚めの黒の色画用紙、セロファン、割り箸で作れます。
コツはあまり細かく切り込み過ぎないこと。昔話だけでなく、TVの戦隊もののヒーローや、人気のキャラクターも作ればおお喜び。声色を変えて演じれば、お部屋は劇場に。
雨の多いこの季節、昼間から部屋を暗くして、近所の子供も呼んでいっしょに遊びましょう! ちょっと神秘的で、印象深く、美しい思い出になること間違いなし。
絵をかくのが好きなお父さんやお母さんにおすすめの遊び。裏ジグソーパズル。
市販のジグソーパズルを裏返しにして、その裏側に自分の好きな絵をかくのです。
世界でひとつしかないジグソーパズルになります。
私もいくつか作ったけど、今、どこにあるのかなあ。
ペープサートって知ってる?
紙に人や動物の絵を書いて、張り合わせ、棒につけます。裏表に絵を書くんです。それを動かしたり、裏返したりして、劇をします。簡単にできて、自由に作れてとっても楽しいです。
人気があるのは、違うお話のキャラクターを融合させて遊ぶこと。柔軟な発想でいくらでもひろがる世界です。
雨の日こそ、傘とカッパ・長靴でお出かけしましょう☆
家の中でじっとしていると、子どもも大人もストレスが溜まってしまいがち。
お外でかたつむり探しや、水たまり遊び、屋根から落ちる雨だれを傘で受けたり、普段とは違う遊びがありますよ。
汚れてもいい服でお出かけ→家に帰ったらお風呂やシャワーにすると、親も気が楽です(笑)
親子で遊ぶ最も素朴な方法。おしゃべり(笑)。
野原で横になって空を見ながら、くだらないことを面白おかしくおしゃべりします。
その際、できるだけ知的に、しかし、面白く話すことが大事です。
同じようなことですが、アドリブ物語作り。夜寝るときに、子供に物語を聞かせてあげますが、最初は、浦島太郎のような話で始めて、次々に話が脱線していき、最後は全く別の話になるというストーリー。登場人物の中に、近所の子などを入れると更に面白くなります。
アドリブが難しいときは、あらかじめストーリーを考えておいてもいいと思います。
▽記事の続きは、言葉の森のfacebookページでごらんいただけます。
http://www.facebook.com/kotobanomori
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シェアという概念が広がっています。所有から共有へという考えは以前からありました。しかし、それが社会生活のさまざまな分野に広がり、新しい経済活動を生み出すまでになったというのが現代の特徴です。
シェアのひとつの例として挙げられるのが、カー・シェアリングです。カー・シェアリングは、当初の予想に反して、アメリカで急速に広がりました。
ところで、これまでのシェアの概念は、個人の所有に基づいた共有の概念で、一種のギブ・アンド・テイクでした。
これに対して、日本に昔からあったシェアの概念は、お裾分けという言葉で表されるもので、テイクを期待しないギブでした。それは、譲り合い、分かち合い、助け合いという考えに近いもので、英語ではそれに該当する言葉はありませんでした。お裾分けを漢語で言い換えると、譲与になりますが、この譲与も、英語にはぴったり該当する言葉がありませんでした。
では、共有と譲与は、どこが違うのでしょうか。
譲与の前提になっているものは、私的所有ではなく余剰です。(ダジャレのようですが)。つまり、譲与とは、自分のところに、誰かからもらいすぎたか、何かが取れすぎたかしために、ありあまっているものがあるので、それを周囲の人に分け与えるという言葉です。
共有の前提になっているものが私的所有で、譲与の前提になっているものが余剰だとすると、その余剰を生み出しているものは創造です。「畑でトマトがたくさん取れすぎたから、近所の人にお裾分けする」。これが、日本的な感覚のシェアです。
資本主義は、私的所有に基づいて富を奪い合うシステムでした。資本主義の発展期には、この奪い合うことが動機となって、科学技術も経済も発展しました。しかし、今、それが環境の面でも、金融システムの面でも、行き詰まりつつあります。奪い合うことでは、これ以上豊かにならないということがわかってきたのです。
共有というシェアの考え方が、この資本主義の枠内で資本主義に改良を加えていく考えだとすれば、譲与というシェアの考え方は、資本主義の先にある、資本主義を超えた考えだと言っていいでしょう。資本主義の先にある社会は、創造に基づいて富を与え合うシステムです。
創造というものの最もわかりやすい形は、農業生産です。トマトは、太陽と水と空気だけで食べられる赤い実をつけます。農業の本質は、植物の持つ創造性の利用です。
では、工業の本質とは何でしょうか。工業は、例えば、これまで人間が手作業で丸一日かかって織っていた布を、機械の力で数分で織ってしまうということです。それは、科学技術という方法が持つ創造性を利用したものです。
工業と農業に共通するものは、この「方法」です。トマトの創造性とは、トマトが太陽と水と空気で光合成をして実をつけるという方法だからです。
なぜ、人類が過去から未来に向けて、たえず豊かになってきたかというと、方法は、作り上げるまではコストがかかるが、いったんできてしまえば永久に無料で利用できるという性質を持っていたからです。
そして、この方法が、農業、工業から、人間に向けて作られつつあるのが、これからの社会です。人間の持つ創造性を発揮させる方法が教育であり、その新しい教育が、これから日本的なシェア文化の中で作られつつあるのです。
言葉の森では、今、次のような計画を考えています。それは、教材をオープンソースで作ってシェアし、課題や解説や指導法をシェアし、発表や交流をシェアするというシステムです。この場合のシェアは、もちろん所有を共有し合うことでではなく、創造を譲与し合うことです。
言葉の森では、これらの新しいシェアをfacebookの中で作るとともに、それを地域社会の中にリアルに広げる仕組みを作っていきたいと考えています。
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言葉の森作文ネットワーク(facebookページ)のグループに、「高校大学入試小論文の岸」があります。
ここは、公開グループなので、どなたでも参加できます。
今回は、そのグループの記事の一部を紹介します。
もう、ここでバンバン、小論文のコツを教えちゃおう。ただで。
しかし、試験をする側の高校の先生も大変だろうから、森リンを使えばいいのになあ(笑)。
とりあえず、よくあるパターンから。
まず、書きようがないテーマ。これが実はいちばん書きやすい。
例えば、「あ」なんてテーマが出たら、君はどうする。これで800字か1200字を書けなんて言われても困る。しかし、こういうテーマが実は簡単。
それは、次回のお楽しみに。ヽ(`◇´)/
「あ」というような書きにくいテーマが出されたときのコツは、「人間の生き方に結びつける」です。
例えば、「私は、『あ』という言葉のように、何でも率先していちばん最初に出てくるような前向きな人生を歩みたい」というような主題です。
そして、その主題に合わせて展開する中断は、もう、。「あ」とは関係なく進めていって、そして、最後の段落で、また。「あ」という言葉に戻ってまとめるという形です。
この書き方は、うまく決まると、自分でも驚くほどいい文章になります。
小論文の採点は、実はかなり大変です。
文章力に一応自信のある生徒がそれぞれ力作を書くのですから、読む方もかなり頭脳を使います。
そのときに、明らかに上手でなさそうな作文を見ると、ほっとするというのが、正直なところだと思います。
その上手でなさそうな作文の条件は、
1、誤字が2か所以上あること
2、字数が短いこと
3、文章が途中で終わっていること
です。
誤字というのが実は、通常の漢字力とはかなり違います。中学校で習う漢字が完璧にできている子でも、小学生のころに習った漢字を勘違いして覚えていることがかなりあります。
作文の誤字は、一般的な漢字の勉強では見つけることができません。実際に作文を書いていみて初めてわかるものです。
ですから、勉強法は、実際に作文を手で書いて、身近な人に見てもらうことです。毎週1回作文を書いて、そのつど誤字を直して、最終的に誤字がすべてなくなるのは、1年ぐらいたってからです。
次回は、逆に、上手な小論文のコツを。
さて、今日は、上手な小論文のコツ。
それは、結びの10行を盛り上げることです。
読む人は、文章の最初の部分で、大体その文章の実力をつかみ、途中はどんどん飛ばし読みをして、結びの部分で全体の印象を決めます。
だから、結びの10行がしっかり書いてあれば、途中多少こけていても、高評価が得られます。
そのコツは、光る表現を入れること。
これは、その場でももちろん思いつきますが、普段の練習でいくつも自分の得意な技(というか表現)を作っておき、それを応用することです。
文章のうまい子は、自然に、この結びに力を入れるというコツがわかっているようです。
※そのほかの記事は、「高校大学入試小論文の岸」で。
http://www.facebook.com/home.php?sk=group_118561001561769
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言葉の森のfacebookページでは、いろいろなグループが運営されています。
今回は、そのひとつ。「読書の好きな子になる庭」の話題を紹介します。(以下、投稿された記事のみ。関連するコメントは省略)
子供を読書の好きな子になるにはどうするか、また、読書の好きな子にはそのあとどう対応していくか、ということを話します。
具体的な本の紹介などもしながら進めていきたいと思います。
読書好きな子を育てる方法は、ある意味で簡単です。
1、読み聞かせをして、耳から聞く言葉をたくさん入れておくこと
2、しかし、テレビやビデオのような機械的なものではなく、必ず生身の人間が関与すること
3、大人から見てややくだらないと見えても、子供にとって面白いものを優先すること
4、何しろ毎日読む時間を確保すること
5、折に触れて、「本を読むのが好きだねえ」と言って、子供に自然な自覚を持たせること
これで、小学校時代は完璧です。
しかし、中学生、高校生の場合は、またちょっと違うと思います。
お母さんから質問がありました。
「小2になる子供が本を読まない。母親が読んできかせてあげるから、自分で読めなくなったのではないか」
ということでした。
これは、逆で、読み聞かせが足りなかったから、自分で読む力が育っていないのです。
こういう子に対しては、
1、今からでも、親が毎日読み聞かせをする
2、マンガぐらいの易しい面白い本でいいから、毎日読むようにする
ということになります。
低学年の場合は、マンガも読書力にとってプラスになるのです。
かつて、言葉の森子供たちに、一斉で感想文の書き方を教えたことがあります。
でも、ちゃんとした作品に仕上げるためには、小4までは、かなり優秀な子でも、大人の必要以上のアドバイスが必要でした。
だから、小5になるまでは、感想文の勉強は不要だというのが持論になりました。
小4までは、感想文を書く意味はありません。だから、そういう宿題はやらないのがいちばんです(笑)。
でも、それでもどうしても書きたいという子には、いい書き方を教えますね。
長女が小1のころ、PTAのお仲間に頼まれ、近くのマンションの集会所をお借りして読み聞かせの会を開いていました。紙芝居や読み聞かせに向く本をいくつか用意し、2時間程度の会。本にあまり興味がない子も来るので、国旗ゲームやカルタも用意し、読み聞かせのあとのお楽しみタイムもちょっぴり作ったりしていました。懐かしい思い出です。
みんなが大好きだったのは、めっきらもっきらどおんどん。
毎日の読み聞かせ、大体寝る前に2冊読んでいます。基本娘(年中)の好きなものを持ってこさせていますが、私が選ぶときには少しだけ内容が難しいものを選んで読むようにしています。最近読んであげたは、小学生の時教科書で読んだがまくんとかえるくんのシリーズ。絵が全て内容に合っているわけではないので、最初は戸惑っていましたが、今では大好きになりました。少しだけ背伸びをするような本が欲しいなと思っているので、他に小学1年生くらいを対象としたオモシロイ本があれば知りたいです。
皆さん、読書好きなお子さんばかりで羨ましい・・・わが娘は高1なのですが、恥ずかしながら、読書嫌いなんです。2つ上にもう一人娘がいますが、こちらは本の虫と呼ばれるくらいの本好きです。幼い頃は2人とも同じように読み聞かせをし、図書館にも連れて行きました。なのに、次女が読書をしている姿って見たことないんです(涙) 長女との違いといえば、次女は体育会系、そして国語より数学が好き(つまり理系)。 読書を強制させようとすると不貞腐れます。そして、そのせいか、かなりのボキャ貧です・・・。もう、高校生、これから読書好きにさせるのはやっぱり難しいでしょうか?
読書は、自分の好きな本を、毎日読むというのが基本ですが、そのほかに、だれでもが夢中になる良書というものが確かにあります。
これまで、ほぼひとりの例外もなく、小学生(小3ぐらいから中高生や大人でもOK)が夢中になって読んだ本が、「宇宙人のいる教室」でした。たいていの子が、読み始めてからすぐに止まらなくなり、1日で全部読み終えてしまいました。
http://tinyurl.com/432bn5u
今、アマゾンで見てみたら、中古品はなんと1円からありました(笑)。
読書は何冊か並行して読んでいくとはかどります。
よく、こういう子がいます。
親から、名作をすすめられたが、面白くないのでなかなか進まない。しかし、その本を読み終えるまでほかの本を読むのには抵抗がある。
こういうとき、何冊かの本を並行して読んでいっていいのだとわかると、子供は、面白い本から先に読み出します。その勢いで難しい本にも進む場合もあるし、そうでない場合もあります。
大事なことは、ブレーキのかかる本は保留にしておいてもいいのだと、子供に教えてあげることです。
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5月清書分の森リン大賞の中から、小6~中3の代表3作品を掲載します。
毎月の森リン大賞は、ホームページの「森リンの丘」に掲載されています。
https://www.mori7.net/oka/moririn_seisyo.php
小6の部(120人中)
日本語ッテムズカシイデス
かこちゃん
どこの言語も初めは内輪の言語、部族言語だが、それが外国に広まりだすと、外の視点が入ってきて言語の刈りこみが行われてくる。だから、日本語を世界へ広めるためには、まず、外の視点を取り入れた日本語辞典をつくることだ。そのためには、日本はこらからどうやって日本語を刈りこんでいったら、国際普及の日本語になるかということを考えなければならない。わたしがこの話を読んで、一番そうだなと思ったのは、日本語を世界に広めるためにはもっと分かりやすくしなければならないといううことだ。なぜなら、テレビでも外国人が
「日本語ッテムズカシイデス。オモシロイノデスガ、複雑デス。」
と言っているのを見たことがあるからだ。
わたしの通っている英語教室の先生は、外国人だ。日本語は少しくらいなら話すことができる。ある日、英語の文章を日本語に訳したときのことだ。「No,itisn’t.」 という文章を先生が、日本語でこういう意味だということを教えようとしてくれた。先生は慣れない日本語で、
「いいえ、そうですまん。」
と言った。わたしと一緒に習っている友人は、急いで頭をフル回転させて、先生は何を言いたいのか考えた。そして声をそろえて、
「いいえ、ちがいます。(?)」
と言った。先生は、
「そうそう、そう。日本語はムズカシイ。」と困った顔をした。
また、外国人が日本語を学ぶとき、困ってしまうと思うのが方言である。なぜなら、方言というものは、一部の地いきで使われるもので、日本中で使われるものではないからだ。ある日わたしは、「はじめての秋田弁」というマンガを読んだ。秋田県へ引っ越してきた女子高校生が、周りの友達や先生から秋田弁を教わるというストーリーだ。よく使われるのが、「がっこ」、「せば」、「けれな(けねが)」だ。
「がっこ」とは単に、「漬け物」のことだ。「せば」というのは、「そうしたら」という意味だ。例としては、
「これをどうする?」
「せば、こうするか。」
という感じだ。「けれな」は、「~してね!」という意味だ。「けねが」は、「~してくれないか?」という意味だ。例として、
「わたしに何でも頼んでけれな!」
「せば、これを持っていってけねが?」
という感じだ。おもしろくてどんどんマンガを読んでいくうちに、これは日本語なのか!?と疑ってしまうような言葉まであった。
わたしはこの話を読んで、日本人にとって日本語というものは、地方によっていろいろな方言があって、とてもなじみのあるものだと思う。しかし、それを広めていくとすると、もっと分かりやすく、外の視点を取り入れていかなければならないものだと思った。
中1の部(97人中)
個人と集団
ミス・バニー
小さな個人の集まりが、大きな社会を作っているということはつまり、個人をなしにして大きな社会はないということである。しかし砂粒集まって砂山を作り、動物や植物の体が無数の細胞から出来上がっているのと同じではない。一人一人の人間は、喜ぶことや悲しむことができ、自分が中心になって他のものまで動かすことができる。それが人の個人の集まりであって、喜ぶことも悲しむこともできない砂粒や、生きていても自分で考え行動することのできない細胞とも違うのである。
私は去年、小学校の時の運動会で「心を一つに」の真の意味をはじめて知った。それまではただ、「心を一つに」を運動会などの団体で協力する場でキャッチフレーズに入れるとかっこいいと思っていた。そして去年のリレーチームの目標として「心を一つに」を入れた目標をクラスで立てた。表面上は、響きもいいし様になっているので私たちクラスメイトは満足していた。しかしそこで、当時担任の金八先生の様なTeacherが、「それじゃあ、お前たちは心をもぎ取って合体させるんだな?」といってきた。もちろん私たちは困惑した。そんなことを言う先生とは初めて出会ったし、大概の先生はこんな目標を立てたら「やっぱり○組は違う!すごい!」と絶賛してくれていたからだ。そこで、Teacherがあるゲームをしてくれた。そのゲームで分かったことが、何かの目標に向かってお互いが努力した結果、心が一つになるということであった。はじめから心を一つにすることが目標ではなく、努力して頑張ったら心が一つになるということをTeacherは言いたかったのだ。
学級では毎日とはいかなくとも、話し合いや討論の時間があるだろう。討論をするにあたって一番良いのは一人の意見がもっとも最適なものであることだ。しかし、実際そううまくいくことはめったにないし、一人の意見を採用するのであれば誰かが決めるのと同じで、討論とはいえないだろう。ではなぜ討論をするのか。それは一定の考え方の個人個人の意見を知り、自分の思いもよらない奇想天外な意見から自分の考えを客観的に見るためだと思う。三人寄れば文殊の知恵。個人では堅い考え方を集団は柔らかくする。
人間にとって集団社会というのは、ひろい考え方ができる場所だ。一人一人の力は弱く、小さい。しかし、一人が二人に、二人が三人の集団になることによって、強い大きな力が生まれる。日頃すべてを集団社会で暮らせということではなく、固い考え方の殻を破って沢山の考え方を知り、する事ができる集団生活の場も大切にしていきたい。
中3の部(56人中)
原石に輝きを
さくら
人々が毎日のように出すゴミは本当にもう役に立たないものなのだろうか。不要なものなのだろうか。空のペットボトルから私たちが着る洋服に変化したり、古紙が新しいコピー用紙にできるようになった今、ゴミも大切な資源の一つになっているのだろう。もう何にもリサイクルできないように見える生ゴミでさえ、堆肥として使えるということを総合の授業を通して改めて実感した。後日、家庭科の調理実習で調理した総合学習の一環として生ゴミを混ぜて作った土から収穫できた野菜は新鮮だった。人工的に作られた肥料を大量に使うより、環境にとっても良いのではないか。わたしはゴミや美しくない原石に輝きを与えられるような人になりたい。
第一の方法としてはそこにあるものの良い面を見つけようとする心構えでいることだ。球技大会でクラス内で作ったソフトボールチームは、スポーツが得意な人が多いとはお世辞にも言えなかっただろう。むしろ苦手な人が多く、最初からベンチ入りを希望する人が何人もいる程だった。しかし、ルールさえ知らない人が多かった私のチームが、年上の、最終的には優勝したチームと互角に戦えるようになることができたのはなぜか。それはメンバー全員がほかのメンバーそれぞれの良い面を探すことができたからだ。悪い面を探すことは簡単で、人は悪い面が先行してしまうが、その裏には、必ず良い面が隠れている。チームの空気も最初は微妙な空気が漂っていたが、本番が近づくにつれ、一致団結していったと思う。ある人は走ることは得意でなかったが、送球された球を取るのが得意だった。したがってその人のポジションは一塁になった。これは話の一部分でしかないが、私は個人の力が最大限に発揮できるようなチームになりたいと思っていた。結局、ゲームは無念に終わったが、何ヶ月も経った今、後悔はあまりない。
第二の方法として、マイナス面を見つけては直す減点主義の教育のような今の社会風土を変えていくことだ。あの偉大な発明家エジソンは幼い頃学校の先生に些細なことで質問することを繰り返して、授業の妨げになったため、学校を辞めることとなった。しかし彼の発明は世界各国の人々を幸せにしたであろう。これは幼少期の不明な点はどこまでも追及していくといった彼の探究心のおかげだと思う。学校ではエジソンはマイナスな評価をうけていたが、エジソンの行動が本当の意味でのマイナスであったか、と考えるとそうではないだろう。結果的に文明の発展に貢献した彼の人生でに発明をみると、その行動は世界の人々にとってプラスであったといえる。
確かに今ある悪い面を直すことは大切である。しかし「勝負に勝つためには、苦手をなくすことよりも、得意技を持つことである。」という名言があるように、もともとある良い面を伸ばすことはそれ以上に大切なことだ。その方法をいかに上手にするかが問題であると思う。私は一見ゴミのように見えるものの役割を見出し、豊かに発展させていけるような人になりたい。原石は時間をかけて磨きつづけて初めて美しい宝石になるのだから。
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原発の安全を一体だれがどういう根拠で保証できるというのか。
だれにも安全が保証できないことが今回の事故でわかっていながら、
夏場の電力を確保するという目先のことだけの動機で
原発の再開を認める政治家がどこにいるのか。
このような愚かな選択を認めるならば、日本人は何も学ばなかったことになるだろう。
補足説明「言葉の森と政治」(2011年7月1日追加)
言葉の森は、作文教室です。子供たちの個性、知性、感性を育てることを目的にしています。
だから、子供たちの未来が脅かされる可能性については、教育の分野を超えることであっても意見を明確にしたいと思っています。
しかし、既に多くの人が述べている事柄については、それ以上自分の意見を追加するつもりはありません。それは政治団体がすることだからです。
玄海原発については、まだほとんどの人が自分の考えを述べていないうちに、政治の意向だけが表明されました。
政治的な力を持っている人は、議論をするよりも自分たちに都合のよい既成事実を積み重ねようとします。
たとえそれが実行されたとしても、そこで国民が声を上げれば、その事実を黙認したことにはなりません。
歴史は、左右に揺れ動き、時に逆流しながら進歩していきます。
政治的な立場は人それぞれに違いますが、日本がよりよい社会になるようにオープンな議論の中でともにがんばっていきましょう。
【参考「玄海関係のニュース」】
http://news.google.co.jp/news/search?pz=1&cf=all&ned=jp&hl=ja&q=%E7%8E%84%E6%B5%B7
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言葉の森のfacebook会員が五千名以上になりました。(6月30日現在5737名)
http://www.facebook.com/kotobanomori
言葉の森のサイトの特徴は、facebookを単なるウェブサイトのひとつとしてではなく、つながりのあるメッシュのひとつとして位置づけていることです。
これから、このfacebookを利用して、従来のインターネットではできなかった新しい教育のシステムを作っていきたいと思っています。
今回は、その応用例のひとつとして、「対話の教育」を取り上げます。
親子の対話というと、親と子がただお喋りをするだけのように聞こえると思います。実際、そういう面もありますが、それだけではありません。
親子の対話は、年齢と話の質との関係で、話をすることがきわめて強力な学習の要素を持つことがあるのです。
その最も顕著な例は、幼児期に表れます。
0~2歳の幼児期は、まだ対話を交わすようなレベルではありません。しかし、この時期に実は、対話の核となる能力が急成長しています。
幼児期に、親との生きた会話のかわりに、テレビやCDの音声が流れている環境で成長すると、対話の能力が阻害されるおそれがあります。おもしろくもないのに笑い声が聞こえてきたり、悲しくもないのに泣き声が聞こえてきたりすると、幼児は、対話を感情のないものとして学習してしまうのです。
いったん最初の学習が成立すると、あとは、人間が話しかけても、その話を感情のないものとして聞くようになります。こういう子供が人間との人間らしい対話の能力を回復できる時期は、3歳ぐらいまでと言われています。
幼児期の対話というのは、それほど重要なものなのです。
音楽の世界では、幼児期に絶対音感を育てる方法があります。同じことが、音楽だけでなく言葉についてもあてはまります。
幼児期は、絶対語感の育つ時期です。この時期に、親が実物とかかわりのある状態で、いろいろな話しかけを行うと、子供の思考力が大きく成長します。
しかし、その場合に大事なのは、できるだけ実物との関連を持たせて話をするということです。その点で、絵本の読み聞かせよりも、実際に何かをきっかけにして話をすると方が話の中心になります。
読書の場合は、それぞれの年齢に応じた発達段階があります。
好きなものを読むのが基本と言っても、年齢相応よりも易しいものを読み続けると、逆に読む力が低下する場合があります。例えば、漫画は小学校低学年では、読む力を育てる面の方が強いのですが、高学年になると逆に読む力を低下させます。
それは、ちょうど、やわらかいものばかり食べているとあごが丈夫にならないと同じようなことです。絵の助けを借りて読めるようなものばかり読んでいると、文字だけの文章を読む力が育ちません。
高校生以上になると、本をよく読んでいるといっても、それが小説のような本ばかりであれば、やはり読む力はあまり伸びません。
同じことが、対話の場合にもあてはまります。
対話というのは、ただ親子でお喋りをすればいいというのではなく、考える喜びを育てるという面を重視して話していく必要があります。
だから、子供が小学校低学年から中学年、高学年とだんだん成長していったときに、その子供の成長に応じて、親が考える楽しさを伝えられるような話をしていくことです。
そういう話が自然にできる人もいます。しかし、ほとんどの人は、準備や努力なしにそういう話をすることができません。
しかし、いったん中身のある知的な対話を親子でできるようになると、それは、その家庭の文化となり、その子供が大人になったときにも受け継がれていくようになります。
食事中にみんなでテレビを見ながらごはんを食べるというようなこともひとつの文化です。そういう環境で育った子供は、自分が大人になり親になったときにも、やはり同じように子供たちにテレビを見せながら食事をするでしょう。
逆に、食事中に、年齢の違う親子がそれぞれ自分なりに話をしながらごはんを食べるということができればそれもひとつの文化です。
子供の教育のほとんどは、この家庭の文化の中で行われます。家庭の文化が崩壊している中で育った子が、学校や塾の教育で成長するというのは難しいのです。反対に、学校や社会環境がどんなに悪くても、家庭の文化さえしっかりしていれば、子供はのびのびと成長します。
その家庭の教育文化を作ることに、facebookが活用できます。
今、言葉の森のfacebookサイトには、「読書」や「遊び」や「季節の行事」のグループがあります。グループというのは、参加者が自由に投稿やコメントを交わせる掲示板のようなものです。
このグループの中に、今後、課題の長文をもとに子供が作文の勉強をする際に、親子でどういう対話ができるかという情報交換のページを作っていく予定です。
対話というのは、対話自体と目的として行うものではありません。そういう対話ができるのは、よほど趣味や関心が一致している場合ですし、その場合も毎日話せば話題はなくなってしまいます。
作文の勉強という毎日の新しい課題があって、その課題に沿って対話をするということができれば、話題は尽きることはありませんし、何よりも考える喜びの感じられる知的な対話ができます。
幼児期の語りかけのあと、子供が小学生になったら、その年齢に応じて自然に知的な対話が交わしていけるような発展性のあるサイトをこれから作っていきたいと思っています。
※5月からfacebookサイトの更新に取り組んでいたため、ホームページの更新が遅れていました。
言葉の森のfacebookは、ほかのサイトにはないユニークな取り組みがいくつもあります。まだ会員になっていない方は、ぜひ言葉の森のfacebookページの会員になってくださるようお願いいたします。
http://www.facebook.com/kotobanomori
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言葉の森では、facebook(フェイスブック)を情報提供の場としてだけでなく、コミュニケーションの場として活用していきたいと思っています。そこで、現在、行っているのは、さまざまなグループ活動です。
これは、facebook内に、メンバー制によるグループを作り、その中で日常的に話ができるようにしていく仕組みです。グループに参加すれば、自分の関心のある分野に特化した情報でコミュニケーションを交わすことができます。
今あるのは、36グループです。活発なところもそうでないところもありますが、自分の気が向いたときに、グループの記事を読んだり書いたりすればいいので気が楽です。
そして、そういうゆるいつながりで参加しているグループであっても、そのグループでのやりとりは、ときどき自分のウォール(自分用の掲示板のようなもの)に表示されるので、つながりが切れてしまうことはありません。
日本では、まだfacebookが広がっていないので、参加する個人や団体の中には、毎日きわめて頻繁に記事をアップロードするところと、ほとんどfacebookを開かず何日かに一度見にくるだけのところとの両極端があるようです。
アメリカのようにfacebookが普及して日常的なプラットフォームになれば、1日1、2回定期的にチェックするというような使い方が多くなってくると思います。そういう無理のない生活に溶け込んだ使い方がされるようになって初めて共通のプラットフォームとして使いやすくなっていくと思います。
さて、ここで、facebookの持つコミュニケーションの特徴を少し考えてみたいと思います。
インターネットは、これまで一部の人や組織でなければできなかった情報発信を、誰の手でもできるように解放しました。
その典型的なブログやyoutubeです。情報を提供するということは、それまでは新聞社やテレビ局のようなところでなければできませんでした。しかし、技術の制約とコストの制約が急速になくなった結果、今では誰もが特別の苦労なしに、自分で創造した情報を世界中の人に向けて発信できるようになりました。
しかし、これらの情報を自由に情報を発信する人や組織が増えた結果、今度は、求めている情報がどこにあるかを探すための検索エンジンの必要性が増してきました。
ところが、検索エンジンの利用が広がるにつれて、検索エンジンのアルゴリズム(計算方式)の裏をかくSEO対策が現れてきました。
単に裏をかくSEO対策に対応するだけなら話は簡単です。しかし、問題は、そういうSEO対策を意識的に行っているあまり品質のよくないサイトと、SEO対策をほとんど行っていない品質のよいサイトとが混在していることです。
そのため、現在、googleやYahoo!の検索の上位に来ているサイトは、必ずしも上位にふさわしいサイトではないという結果になってきました。
こうなると、インターネットで何かを探す人は、検索エンジンが登場する以前の世界に戻ってしまったことになります。
情報は年々増えていく。しかし、検索エンジンはあまり使えなくなってきた。このような状態で頼りになるのは、信頼できる個人のクチコミです。そこで、facebookのような特定の個人とつながることのできるコミュニケーションサイトが価値を持つようになってきたのです。
googleの検索結果を上位にするためには、被リンク数をかせぐ必要があります。つまり、検索結果の上位に来るのは、ほかのサイトからリンクされている数の多いサイトだということです。
しかし、今は匿名でいくらでもブログが作れる時代ですから、例えば、ある人がいろいろな名前で100個のブログを作り、そこから自分のサイトにリンクをはれば、一挙に100ヶ所のサイトからリンクされたホームページが登場することになります。
そこで、このSEO対策に対応するために、検査エンジンの側が、今度は被リンク数だけでなく、中身のコンテンツの量を評価するようにしたとしても、コンテンツは、いくらでもコピー&ペーストで作ることができます。
バーチャルな世界を前提にするかぎり、人間が作ったアルゴリズムであれば、人間が裏をかくのは容易なのです。
ところが、facebookには、実名制というリアルな世界が結びついていました。これまでのインターネットが、金(きん)の裏づけのないマネーシステムだとすると、facebookは一昔前の金(きん)の裏づけのあるマネーシステムに戻ったというふうにも言えると思います。
実名の裏づけのある個人が評価しているサイトは、匿名のブログから多数のリンクされているサイトよりも評価が高いはずです。(今はまだfacebookも過渡期なので、そうは言いきれない面もあると思いますが)
こうして、多くの人が、googleやYahoo!の検索結果よりも、facebookでの知人の評価の方を信頼するようになっていったのです。
金本位制が復活したら、金(きん)の裏づけを持たないマネーをいつまでも持っていようと思う人はいません。同じ金額が表示されているなら、金(きん)と交換できるマネーを持ちたいとだれもが思うはずです。
facebookがこれから脚光を浴びると思われるのは、こういう時代の大きな流れが背景にあるからなのです。
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この記事に関するコメント
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横浜市教育委員会、学校給食会は、放射線量も測らず小学校の給食に福島県の計画避難区域内の牛肉をたべさせています。
誠実な市議でも時間がかかっております。
中根先生の作文でなんとか横浜を説得できないでしょうか。
ヒントを下さい。
お返事遅れてすみませんでした。
国民の大多数は、正しい情報があれば正しい判断をすると思います。
しかし、今はまだ、マスメディアが情報をゆがめ、政治が判断をゆがめるという状態が続いているようです。
その原因は、利権と脅迫です。
そのことに、多くの人が気づきはじめたので、これから世の中は大きく変わっていくと思います。
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