人間社会の富の源泉は、方法にあります。
例えば、人間が最初に作り出した富は、農業的なもので、自然の植物を栽培しそれらを自分たちの食糧として確保したというのが始まりです。
その植物は、太陽の光と水と空気という自然の素朴な力を光合成という方法によって炭水化物に変えています。つまり、人間が農業において生み出した富のもともとの源は、植物における光合成という方法だったのです。
人間は、その光合成という方法を土台として、その上に、農業の道具や栽培の仕方など新たな方法を積み重ねて、より大きな富を蓄積してきました。
方法がなぜ富を生み出すかというと、方法はいったん作られるとその維持のためにかかるコストがゼロになるからです。しかし、その方法によって増した生産力は、永久にその増した状態を維持します。だから、方法こそが富を増大させる本質的な要素なのです。
しかし、方法というものはそれ自体では動き出しません、方法を動かすためには、エネルギーが必要です。そのエネルギーのひとつは人間の労働です。そして、もうひとつは牛や馬やガソリンや電気など動力となるものです。最初に富の源泉が方法だと書きましたが、正確に言えば、富を作り出すもとになるものがエネルギーで、富を増大させるもとになるものが方法なのです。
農業時代のあとに来た工業時代においても、富を増大させたものは、工業の方法でした。例えば、今、私たちの生活は自動車や電車などの輸送機関の利用を抜きにしては考えられません。それらの輸送機関は、現代の社会の豊かさの重要な要素です。では、その自動車なら自動車がもたらしている大きな富はどこから来るのでしょうか。それは、自動車というものが工業的な方法が何重にも積み重なった高度な方法の複合体であるところから来ているのです。
ところが、方法はいったん作られれば、そのコストはゼロになるはずです。それなのに、自動車が1台何百万円もするのはなぜかというと、方法はゼロなのに、工業生産物においてはその方法を動かすときにエネルギーが必要となるからです。そのエネルギーの中には、もちろん人間の労働も含まれますが、それよりも大きいのは動力機関を動かすもとになる電気化されたエネルギーです。だから、自動車とは、方法化されたエネルギーの複合体だとも言えるのです。
しかし、今後、人類は、エネルギーの低コスト化、更には無料化に向けて科学を発達させていくでしょう。石油や石炭や原子力などを使わずに、よりコストの低いエネルギーを作り出す方法がやがて見つかると思います。もし仮に、エネルギーのコストが限りなくゼロに近くなったとすれば、今、社会を埋め尽くしている農業と工業の生産物、つまり、食料品、衣服、自動車、住宅など、方法化されたエネルギーの複合体である生産物のコストは、すべて限りなくゼロに近くなっていきます。光合成という方法のコストがゼロであるように、自動車を作る方法のコストももともとはゼロだからです。
こうして、農業や工業の生産物がほとんど無料で手に入るようになったとき、次の時代の富の創造の場所はどこになるのでしょうか。その場所が教育なのです。
人間の能力は無限に発展する可能性を秘めています。それは、世界中に古今東西、多様な天才が生まれてきたことでわかります。しかし、そのような才能は、偶然先天的に生まれたものだと考えられていました。ところが本当はそうではありません。例えば、ヨーロッパで長い間、先天的な能力だと思われていた絶対音感は、日本のある一定の音楽教育によって誰もが習得できる教育的な能力だとわかってきました。同様のことが、今後、あらゆる分野で明らかになってくると思います。
すると、そこで焦点になるのは、教育における方法です。工業生産物においては、ある方法の上に別の方法が組み合わさるという形で方法の複合化が起こっていました。教育においては、ある人間のある年齢で身につけた方法の上に、次の年齢での方法が積み重なるという形で方法の複合化が起こります。そして、すべての人が人間の能力を全面的に開花させて成長するというのが、工業時代のあとに来る豊かな社会の富の姿なのです。
その最先端にいるのが日本です。日本では、大衆化されたカルチャーセンターや趣味の教室の広がりに見られるように、庶民が自己の向上と個性の開花に高い関心を持つ世界でも珍しい国です。この不思議な民族性が、江戸時代における道の文化を生み出してきました。今は、この江戸時代の文化のDNAが、日本の社会で新しく開花し、新たな創造的文化産業の時代が生まれようとしている前夜だとも言えるのです。
クラウドという言葉は、もう古いと思う人もいるかもしれませんが、これは、今もなお、これからの社会を特徴づける根本的な概念です。
クラウドというのは、単に自社サーバーで行っていた業務を、アマゾンやgoogleのサーバーを借りて行うというようなものではありません。単にこれまで切り離されていた情報がネットワークを介してつながるというだけではなく、もっと根本的に、情報の主体と客体がそれぞれクラウドの雲の中でつながってしまい、境目がなくなるということなのです。
今、私たちは、インターネットで本を買おうとすれば、アマゾンで買うか楽天ブックスで買うかという選択をまず最初にすると思います。しかし、そういう選択をしなければならないのは、クラウド化がまだ十分に進展していないからです。クラウド化の完成された社会では、本を買うという選択だけがあり、その選択がどこの書店で行われるかということはクラウドの中に隠れて見えなくなります。これは、アマゾンにとっても楽天ブックスにとっても同様です。書店もクラウドの中にあり、顧客もクラウドの中にいます。
そういう状態が嫌だからといって、自分の周りの雲だけをきれいに吹き消して見通しをよくするということは、言い方を変えれば、オープンからクローズドになることです。そして、オープンなクラウドの雲はますます広がり発展していくのに対して、クローズドな透明性はますます狭く小さくなり衰退していきます。
これは、具体的には次のようなことです。ある人が、アマゾンで本を注文したとします。しかし、それがアマゾンの中で品切れであった場合、アマゾンはその注文を楽天ブックスに回します(今はまだそうなっていません。これは、クラウド化が進展したあとの話です)。すると、買い手は、どこで買ったという意識なく本を手に入れることができます。これは、買い手が楽天ブックスで買った場合も同様です。
ところが、ここで、アマゾンが注文を楽天ブックスに回すのはもったいないからと、自社の品切れが解消するまでその注文をとどめておいたらどうなるでしょうか。これは、自分だけクラウドの雲の中に境を作って売上を確保しようとすることです。しかし、そのようにして境を作った途端、買い手はその境のある売り手を選択しなくなるのです。
これを今のソーシャル・ネットワーキング・サービスにあてはめると、どうなるでしょうか。
googleがfacebookに対抗して、新しくgoogle+というソーシャルサービスを開始しました。facebookをやっている人の中には、既にmixiもやっているし、ブログも複数運営しているし、twitterもやっている、というが多いと思います。この上更に、google+も始めるとなると、これらのソーシャルサービスをどう使い分けたらいいのかと頭を悩ます人も出てくるでしょう。しかし、そこで頭を悩ますのは、まだこれらのソーシャルサービスがクラウド化が十分に進展していない過渡期の状態にあるからです。
クラウド化の進んだ社会では、個々のソーシャルサービスはクラウドの雲の中にのみこまれます。既にいま、twitterの投稿を自動的にfacebookに連携させたり、ブログの記事をやはり自動的にfacebookのノートに連携させたりすることができるようになっています。記事を投稿する個人の関心は、記事を書くことにあるのであって、どこに投稿するかということではなくなっています。
これまでは、さまざまなソーシャルサービスを使い分けるという考えがありました。同じ記事をあちこちのソーシャルサービスにコピーするのは、読者に対して失礼だという感覚もあったと思います。また、検索エンジンに検索されやすくするために、同じ記事をコピーしたり、同じようなリンクを多数のブログにつけたりするのは、ルール違反だという感覚もありました。
しかし、これからはそうではなくなってきます。ある記事を書いた個人は、その記事を多数のソーシャルサービスに同じように発信します。それは意図してそうするというよりも、ソーシャルサービスの中で自動的にそのような連携が行われるようになってくるからです。
facebookの操作になじんでいる人は、facebookから情報を発信するでしょう。すると、それがブログにも、twitterにも、google+にも連携されて同じように発信されます。その情報を読む人は、やはり自分が操作的になじんでいるところからその情報を読み取ります。ある人はブログから読み取り、ある人はtwitterから読み取り、ある人はgoogle+からその情報を読み取ります。そして、コメントを返すときは、それぞれのソーシャルサービスから、その情報に対して返信をするのです。書く人はfacebookから、読む人はgoogle+で、そして、読んだ人がgoogle+で返信したコメントは、書いた人がfacebookで読み取るという形になります。もちろん、こういう状態になるにはまだしばらく時間がかかるはずですが、大きな方向はもう変わりません。
このようなクラウドの状態に置かれるのが嫌だからといって、自社のソーシャルサービスにいる会員の情報を囲い込みするところは、クラウド化の発展から取り残されていきます。個人の関心は、どこのソーシャルサービスを使うかということではなく、どういう情報を発信するかというだけになるからです。
個人は1人で、使えるソーシャルサービスは多数あります。これは、1軒の家に多数の玄関があるのと同じです。だれでも、どの玄関からでもその家に入れます。そして、どの玄関から出るのも自由です。しかし、もしある玄関から入った場合に限り、出るときもその玄関からしか出られないとすれば、人はすぐにその玄関を使わないようになるでしょう。よほど、その玄関に愛着があれば別ですが、普通の人間の関心は家に入ることであって、玄関を通ることではないからです。
iphoneのOSかアンドロイドのOSかというのも、この選択に似ています。玄関の大きさに10倍ぐらいの差があれば、人はたとえクローズドの不便な玄関であっても、その不便さを我慢するでしょう。しかし、2倍以内の差であれば、多くの人はたとえ小さくてもオープンな玄関の方を選ぶはずです。クラウド化の進展とは、こういうことなのです。
そして、このクラウド化は、ソーシャル・ネットワーキング・サービスの世界に留まりません。これからの社会は、政治も、経済も、教育も、文化も、遅い早いの違いはあれ、すべてこのクラウド化の雲の中にのみこまれていきます。もちろん、タイミングというものは必要で、雲がまだ広がっていない分野で、自分だけオープンになるというのは賢い決定とは言えません。しかし、いずれどの分野にも、この雲が押し寄せるとしたら、考え方だけはクラウド化に対応したオープンなものに切り換えておく必要があります。
しかし、クラウド化がどれだけ進展しても、クラウドの雲の中にのみこまれないものももちろんあります。実は、そこに人間の本質があるとも言えるのです。
クラウドは、人間の生活を確かに便利にします。しかし、人間は便利さのために生きているのではありません。便利さの雲の中に解消しないものが人間の本質で、それは身体性とも言うべきものです。
ある個人がある特定のことに好みや関心を持ち、特定の過去の経験を持ち、特定の人に出会ったり、特定の行動をとったりするところに、人間の身体的な特質があります。
将来、教育のコンテンツは限りなくクラウド化していきます。知識や方法は抽象的なものですから、クラウド化されればされるほど便利になっていくのです。しかし、例えば、ある子供がいるということは、その子供を育てた特定の家庭があり、その子供が生活する特定の地域があり、その子供と長い時間かけて接する特定の先生や友達がいるということです。
この特定の家庭や、特定の地域や、特定の先生や友達が、クラウド化の進展にもかかわらず、決して雲の中にのみこまれることのない確実な地面として残ります。ところが、その地面は、過去の時代のように孤立した地面ではありません。広がる雲によって世界につながる地面になっているのです。
言い換えれば、クラウド化によって限りなく便利になったソーシャル・ネットワークのプラットフォームを使って、世界中で最も優れた教育コンテンツをフルに利用して、家庭と地域の協力で小さな寺子屋教育が行われるというのが、未来の教育の姿になっていくだろうということなのです。