言葉の森では、今、教育分野にソーシャルサービスを利用する計画を立てています。その際、ソーシャルサービスの性格の違いが、今後の活用の仕方の違いにつながってきます。そこで、facebookとgoogle+の違いについて考えてみました。
------------------------------------------------------------
facebookの世界のユーザー数は、8月に7億人を超えたようです。(アメリカは約1億5千万人、日本は7月14日の時点で385万人)
一方、同じような実名制のソーシャルサービスであるgoogle+は、リリース1ヶ月で世界のユーザー数が2500万人に達したそうです。google+は、まだ本格的にサービスを開始していませんが、googleの他のサービスと連動することを考えると、これから更に多くのユーザー数を獲得していくと思われます。
http://www.asahi.com/digital/cnet/CNT201108040020.html
ソーシャルサービスは、これからも更に発展していくと考えられますが、ブログもmixiもtwitterもfacebookもgoogle+もやるとなると、ユーザーの時間管理が大変です。特に、ほかの人からのコメントがよく入るfacebookやgoogle+は、うまく活用すれば役に立ちますが、場合によってはソーシャルサービスに自分の生活が振り回される面も出てきます。
新しいメディアが登場したときは、いつでもこのような問題が出てきますが、これは時間が経つにつれて次第に無理のない対応の仕方ができるようになってくると思われます。
さて、facebookとgoogle+は、実名制で、自分が選んだ相手の投稿がストリーム形式で流れてくるという共通点があります。
一見、同じようなサービスと思われそうですが、もともとの性格に大きな違いがあります。
facebookは、友達とのコミュニケーションを中心としたソーシャルサービスです。だから、現実の友人関係がネット上で再現される面が強く、情報の収集や発信という目的は前面に出てきません。
これに対してgoogle+は、twitterと同じように、自分がフォローしたい相手をいくらでも自分のサークルの中に分類して取り込んでいけます。友人とのコミュニケーションというよりも、関心ある人物の発信する情報を合理的に収集することを目的にしたサービスと言ってよいでしょう。
それは、googleが目指しているものが、検索サービスの強化だからです。
facebookには、共通の関心をテーマにしたグループというコミュニティサービスがあります。このグループは発言内容が非公開のものが多く、当然そこで交わされた投稿やコメントは、検索結果には出てきません。発言の目的が友達とのコミュニケーションですから、検索される必要がないのです。
このようにして、膨大な価値ある情報が、検索の光の当たらないコミュニティに隠れてしまうことを、googleは危惧したのだと思います。検索できない情報空間が増えるということは、検索と連動した広告というgoogleのビジネスモデルを覆すものだからです。
ところが、facebookにとっては、情報が非公開グループの中に隠れていても、全く問題はありません。facebookの広告は、ユーザーの属性に応じて、非公開グループの中にも正確に表示されるからです。
だから、google+は、facebookのようなソーシャルサービスで交わされる情報を、検索エンジンの側に取り戻す試みだと言ってもよいでしょう。
こう考えると、今、一見似たようなサービスに見えるfacebookとgoogle+の今後の発展の仕方の違いが浮かび上がってきます。
facebookは、ますます友達とのコミュニケーションというコミュニティーの要素を強めていくでしょう。google+は、今後、個人の発信する情報の収集と管理という要素を更に強めていくでしょう。
このソーシャルサービスの性格の違いが、これからfacebookやgoogle+を利用する際の重要な判断要素になってくるのです。
ロシアから久しぶりに帰国した北野幸伯(きたのよしのり)さんが「PRE(ロシア政治経済ジャーナル)2011/8/8号」で、日本に来て感動した出来事を書いています。
http://archive.mag2.com/0000012950/20110807025305000.html
・レストランへの道を、わざわざ一緒に歩いて教えてくれた若いサラリーマン
・路上の電話ボックスでの電話が終わったあと、近くでの工事の騒音を謝ってくれた女性の労働者
・屋外のレストランで暑そうにしていると、自分の方にある扇風機の風を向けてくれた年配の客
いずれも、ごくあたりまえのことのように見えますが、日本標準ではあっても世界標準ではありません。
日本の新しい産業の芽は、こういうところにありそうです。
しかし、それはもちろん単なる観光業やサービス業ではありません。日本のよさを、より高い次元で昇華した産業を創造することがこれからの課題になると思います。
さて、こういう日本文化を育ててきたものは、何なのでしょうか。それは、学校でも、宗教でもないでしょう。民族のDNAのようなわけのわからないものでもないでしょう。文化を支えるものは言語ですから、日本語が影響力を持つことはあるでしょうが、それもはっきりとはわかりません。
もし日本文化を形成するものが直接形のあるものとして指摘できるのであれば、それは世界中で採用することができるでしょう。そうすれば、イギリスの暴動なども、ソーシャルサービスを制限するというようなやり方ではなく、もっと直接的に対策を立てられるはずです。しかし、そういう形あるものではないようです。
欧米では、治安のよい社会を作るために、テレビの暴力番組を規制するなどいろいろな政策を立てています。一方、日本では、フランスで暴力番組と見なされた「ドラゴンボール」を何年か前の子供たちは嬉々として見ていました。しかし、それで日本の子供たちに暴力性が高まったとは思われていません。
日本文化のよさが何に由来するのかということは、まだよくわかっていないのです。
教育でも政策でも、何かの問題に対しての対策を立てるとき、専門的な知識のある人は、目につく欠点を先に直そうとします。目立つ欠点を直せば、自然にいいものができると誰でも考えがちなのです。
しかし、本当の専門家は、そのようなことはしません。欠点を直し始めると、次々と欠点の原因にさかのぼっていき、最後には欠点を直すことによって、最初にあったもっといい長所をなくしてしまうことを知っているからです。
日本社会の今の閉塞状況を打破するために、多くの人がさまざまな対策を提案していますが、その多くは目についた欠点を直そうとするものです。欠点を直すよりも前に、日本の長所がどこにあるのかを考えなければなりません。
その長所の根は、文化の中にあることは確かです。例えば、2月の節分という行事では、どこの家でも「鬼は外、福は内」と豆を投げると思いますが、この無意識のうちにやっている豆まきの行為の中で、子供たちは日本的な優しさを自然に身につけているように思います。
「福は内」はどこの国でも共通だと思いますが、日本では、「鬼は外」、つまり、鬼を滅ぼすのではなく、鬼は、「ちょっと悪いけど、外の方に行ってて」という程度なのです。こういう身近なところに流れている文化の総体が、日本というものを形成しています。
世界の人々のニーズは、今、物から心へと大きく変化しようとしています。確かに、世界にはまだ飢えに苦しむ人が10億人もいますが、飢えからも争いからも解放されたとき、多くの人が望むのは、豊かな消費生活で、その豊かな消費生活の次に来るのが穏やかな生活なのです。
アメリカは、衰退した製造業のあと、IT産業と金融業で新しい経済を作りました。日本は、中国などの新興国に追い上げられて空洞化しつつある製造業のあとに、どのような産業を作っていくべきなのでしょうか。
このときに、日本の長所を生かすという発想を持つことです。世界の先進国の人々のこれからのニーズは、日本人のような生活をしたいということです。高級乗用車に乗り、高級住宅に住んで、暴動におびえて暮らすよりも、普通に動く自動車と、普通の住宅でいいから、穏やかな生活をしたいというのが、これからの世界の先進国の人々のニーズです。そのためには、いくらお金を出してもいいと多くの人が考えつつあるのです。
この経済の流れを素直に見れば、世界のこれからの成長産業は文化で、その中でいちばん売れそうな商品が日本文化なのだということがわかってきます。
しかし、これは、何度も言うように、観光業やサービス業のような産業ではありません。そういうものに接するというのも確かにニーズのひとつですが、世界の人々のもっと根本的なニーズは、自分たちも日本のような生活をしたいということです。
しかし、それは日本に来て暮らすということではありません。自分の住んでいる国で、日本のような文化と暮らしを実現したいということです。
それが日本のこれからの輸出産業です。ところが、ここで何を輸出したらいいのかが、肝心の日本人にもわかっていません。それは大きく言えば教育のようなものでしょう。しかし、その教育の中身は、今の教科書でも学校でも教育制度でもありません。もっと、日本人の家庭と地域の生活の中で自然に行われているものです。
その日本文化を抽象化して、世界に通用するものにしていくことがこれからの課題なのです。