無の文化における方法論の主なものは、自然、喜び、反復などです。
日本人は、解決しがたい大きな問題にぶつかると、自然の中に戻って答えを探そうとする傾向があります。人や文献に頼るのではなく、自分で直接、自然や現場に赴いてその問題と一体となろうとするのです。
また、日本人は、暗いことは悪いことで、明るいことがよいことだというもともとの価値観があります。だから、議論をして勝つようなことは、議論すること自体に暗さを感じてしまうのです。
多数決で決めることも同じです。多数決で少数者の声を否定して決めざるを得ないことに、本来の姿ではないものを感じるので、日本人の最も理想とする決定の仕方は、満場一致になります。決をとるのではなく、全体の雰囲気で決まるともなく決まるというのが理想の決まり方です。この根底にあるのは、だれもが明るく納得することがよいという価値観です。
日本の無の文化にあるもうひとつの特徴的な方法論は、反復の重視です。道元は、只管打坐という座禅の方法を確立しました。理屈による理解や技術の段階的な修得という方法ではなく、ただ黙って最初から最後まで座り続けるという方法を方法論として定式化したのです。
日本の仏教に見られる念仏も同じです。念仏においては、同じ言葉を唱え続けることが方法なのです。欧米の有の文化が、修行を何かを得るためのものと考えているのに対し、日本の無の文化は、修行を曇りや汚れを拭いとるものと考えています。このため、無の文化の方法は、ただ拭うために繰り返すことになるのです。
これは、日本の運動やスポーツの技能に対する考え方にも生かされています。例えば、日本では、野球でも剣道でも素振りという練習をよく行います。相撲でも、四股を踏むという繰り返しの練習が行われます。
テニスの練習法の素振りは、欧米の人にとっては、なぜそういう練習をするのか理解に苦しむところがあるようです。欧米の有の文化ででは、運動とは技能を身につけるものですから、技術を理解し修得する練習が中心です。日本の無の文化では、同じ動作を繰り返すことによって不純物を拭い去り、その運動に必要な本来の自分の姿を明らかにするということが中心になるのです。
学習についても同様です。日本では江戸時代の国語教育の中心となった方法は、素読と手習いでした。素読とは、同じ文章を何度も声を出して読み、暗唱するまで繰り返し読むことです。手習いとは、手本となる文字をなぞり書きし、紙が墨で真っ黒になるまでそのなぞり書きを繰り返すことです。
有の文化では、文章は一度読んで理解できたらそれでよしと考えます。文字は書き方を理解し書けるようになったらそれで練習は終わりです。なぜなら、文章も文字も、自分の外側に「有る」ものですから、それが自分の身についたら学習は完成なのです。
日本の無の文化では、読めるようになるとか書けるようになるとかいうこと自体が教育の目的なのではありません。文章や文字は、自然と同じように本来人間と一体のものであるはずだからです。ところが、人間は生きる過程で曇りや汚れをつけてしまうので、自分の中に本来ある文章や文字が自分のものとして出てきません。だから、同じものを繰り返し読み、繰り返し書くことによって、自分の表面にある不純物を拭い去り、その文章や文字との一体感を取り戻すということが教育の目的になっているのです。
日本人は、念仏にしても、素振りにしても、写経にしても、千羽鶴にしても、同じ動作を繰り返すことが好きです。それは、なぜかというと、同じことを繰り返すことによって何かが浄化されていくという感覚があるからです。
有の文化は、自分が「有り」、対象が「有る」ことを前提にして、自分がその対象を獲得することを目的とします。これは、誰でもわかる論理です。デカルトの「我思う。故に我あり」は、デカルトの青年期の思索の結果でした。だから、欧米の有の文化の論理は、よく言えば青年の論理、悪く言えば子供の論理なのです。
無の文化では、自分というものは世界のさまざまな面から既定された関係であって、それ自体が実体のある何かではないということを暗黙の前提としています。同様に、対象も実体ではなく関係にすぎません。色即是空という言葉は、日常生活で使うことはあまりありませんが、日本人は誰でも心の中で物の実体は空であることを感じています。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」という方丈記の一節に多くの人が共感するのは、河や人生は実体ではないという感覚を持っているからです。
ところで、日本の江戸時代では、教育における反復の手段に、素読や手習いという主に言語的なものを使っていました。素読は、読む力、聞く力、話す力を必要とします。手習いは書く力を必要とします。これだけで国語教育がすべてカバーできていたのです。(つづく)
公立中高一貫校の入試では、「特殊な受験勉強を必要としない入試」という原則から、考えさせる問題を出しています。
そのひとつが作文の課題です。
その作文の課題も、最初のころは、身近な書きやすい課題が出ていましたが、最近はだんだん難しくなり、複数の文章を読ませて書かせる課題などもよく出ています。
また、どういう切り口で書いたらいいかわからない問題もよく出されます。
今回は、東京都のある公立中学の問題をもとにして、切り口の必要な作文課題の書き方を説明します。
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次の詩を読んで考えたことを、あなたの経験を例にあげて、分かりやすく書きましょう。
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顔ってね
ないた顔 おこった顔
笑った顔 ねぼけた顔
いろいろあるの
人間は
そのいろいろな顔のおめんを
次々にかぶったり
ぬいだりしているの
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「子どもの詩」より
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作文の課題が出されたときには、まず要求されているポイントが何かということをつかんでおくことが大事です。
この課題の場合は、「あなたの経験を例にあげて」「顔」「おめん」などです。
採点する人は、たくさんの作文を次々に読まなければならないので、このような言葉を使いながら書いていった方が読み手に親切です。
例えば、自分の経験を書くときは、「私にも、似た経験がある。それは……」などと書くのです。
この「詩の感想」のような課題のことを、言葉の森では、「象徴的なテーマ」と呼んでいます。はっきりした意見の是非を求められているのではなく、どのような書き方でも書ける課題だからです。
こういう課題のときは、人間の生き方に結びつけて書いていくと意見を絞りやすくなります。
例えば、(人間は、いろいろな表情をするけど、それはおめんだとも考えられる。だとしたら、悲しい顔、怒った顔をするよりも、できるだけ明るい優しい顔をして生きていけたらいいなあ)などと考えます。
この場合の意見は、難しく考える必要はありません。よく、意見で独創性を出そうとする人がいますが、それは大人でも文章を書くプロでも難しいことです。人間の考えることは、だれでもほとんど同じです。意見で個性を出すのではなく、意見は平凡でもいいから、その裏づけになる実例と、文章を書くときの表現で個性を出していけばいいのです。
そして、意見は、できるだけひとことで短く簡潔に言えるものにします。例えば、「私は、いい顔をして生きていきたい」などという意見です。このぐらい単純でいいのです。
さて、作文は、いくつぐらいの段落に分けて書くか、最初に見通してを立てます。それぞれの段落は、同じぐらいの長さで書いていきます。
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第一段落は、身近な実例と意見を書きます。「私も、毎日いろいろな顔をしている。お母さんに叱られたときは、ちょっとすねた顔、友達と会うときは、明るい顔、難しい問題を解くときは真剣な顔。しかし、何もしていないときは、どんな顔をしているのだろう。もしかしたら……(などと実例)。私は、いつも明るい顔をして生きていきたい。(などと意見)」
第二段落は、その意見を展開していきます。「そのために、ひとつには、いつも自分をふりかえる余裕を持つことだ。私は、前に、こんな経験をしたことがある。友達と学校からの帰り道に口げんかをして、そのまま家に帰ってきたときだ。母は私を見ると、『どうしたの。今日はそんなにこわい顔をして』と笑い出した。私は、そのとき……(などと実例)」
第三段落は、展開のその2。「もうひとつは、顔の表情をおめんのようにとりかえるだけではなく、自分の心の中がそのままいい顔として表れるように、自分の中身を磨いていくことだ。『年をとったら自分の顔に責任を持て』ということを聞いたことがある。私は、まだそんなに年をとっていないが……(などと実例)」
第四段落は、まとめ。「人間は、動物と違っていろいろな顔の表情ができる。それは、言葉だけではなく、表情によっても相手とコミュニケーションをしたいと思っているからだろう。だとしたら、顔は、自分のためだけでなく、相手のためにもあると考えることができる。私は、これから……」
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結びの段落は、いちばん印象に残るところなので、いくつか重要なコツがありますが、最低限、最初の段落の意見とずれていないことだけを確認しておきましょう。
作文の書き方で大事なことは、以上の説明のように、構成をはっきりさせて書くことです。
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ここで、話は変わって。
今度は、子供の作文の書き方ではなく、大人の文章の書き方です。
日本人の大人の人は、何か文章を書くときに、ぶっつけ本番で1行目からおもむろに書き出す人が多いと思います。
この書き方だと、文章がうまく進むときと、そうでないときの差が大きくなります。趣味で書く場合にはそれでいいのですが、締切期限までにどこかに提出する文章なども同じような書き方で書くと、出来不出来に差が出て実力が不安定になります。
あらかじめ書きたいことを何点かメモしておき、そのメモに沿って書いていくと、当たり外れなく書けるようになります。
書き出す前に、最後の見通しまで考えてから書くのが過不足なく書くコツです。
さて、小学校低学年の子で、長く書くことに異常に執念を燃やす子がいます。字が間違えていようが読みにくかろうが気にせずに、書けるぎりぎりまで書いてきます(笑)。
長く書くのは意欲の表れですが、読む方は大変です。
ところで、大人でも、このように長く書く人が結構います。日本の文化の中では、短い文章よりも長い文章の方が相手に対して誠意があるように見えるのかもしれません。
しかし、現代のようにさまざまなコミュニケーションが飛び交う世界では、文章が長いということはあまり歓迎されることではありません。
書いたあと、中身を少し削ってから送信するぐらいがちょうどいいのです。(この文章も長すぎたか (^^ゞ)