言葉の森の体験学習を希望される保護者の方から、「国語だけが苦手なんです」というような質問をよくいただきます。
国語力を向上させるコツはあるのですが、多くの人が勘違いした勉強の仕方をしています。なぜ勘違いするかというと、今、学校や塾で評価される国語力というものが、問題を解くような形で行われていることと関係があります。
国語のテストを受けて、その点数が低かった場合、ほとんどの人は、その点数に目を向けて、点数をよくするためにはどうしたらよいかということを考えます。その結果、国語の問題を解くような形の勉強をしてしまうのです。
数学や英語や他の教科の勉強であれば、問題を解くような形の勉強がそのまま次のテスト対策にもなりますが、国語の場合はそうではありません。国語の問題を解いて、それができたからといって、次の国語の問題ができるとは限らないからです。
つまり、国語の実力というのは、もともと問題を解くテストのような形で測られるものではないということです。
では、国語の実力は、どういう形で測られるかというと、いちばん確実なのは、話を交わすことによってです。こちらの言っていることを的確に理解して、自分なりの考えを述べられる子は、国語力のある子です。それは、口数が多いということとは別で、話すことは少なくても、しっかりと受け答えのできる子は国語力のある子なのです。
しかし、学校ではそういう形のテストはできません。そこで、やむをえず問題を解く形のテストをしているということなのです。他の教科は、問題を解くことがそのまま勉強の中身ですから、問題を解く形の勉強でいいのですが、国語は、問題を解く勉強をしても、実力はつかないのです。
では、どういう形で実力がつくかというと、それは、読書と対話によってです。しかし、易しい読書と易しい対話では、その易しさのレベルまでしか力はつきません。難しい読書と難しい対話になるにつれて、その難しさに応じて国語力がついてくるのです。
人間の頭は、難しいものでも、繰り返し接することによって自然にその内容を消化する力を持っています。この繰り返しというのが勉強の基本です。しかし、それは繰り返しやって何かを覚えるという勉強ではありません。
子供に読書をさせるとき、お母さん方の中には、ちゃんと読めているかどうか問題を出したがる人がいます。そういうふうに、何かを覚えているかどうかというのは、国語力ではなく、もっと表面的な単なる記憶力です。
国語力というのは、難しい文章を繰り返し読むことによって、その内容を丸ごと理解する力です。理解したものごとは、必ずしもその内容を正確に反復できるわけではありません。逆に、自分なりの言葉で解釈しながら説明するので、書いてある内容のとおりではないことの方が多いのです。
国語力をつけるいちばんいい方法は、家庭で毎日、難しい文章を読み、できればそれをもとにお父さんやお母さんと難しい対話をすることです。国語力は、家庭生活の中でついていきます。
言葉の森の勉強法は、この家庭学習を生かす形で行う作文の勉強です。だから、作文力をつける中で国語力もついてくるのです。(つづく)
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言葉の森は、森林プロジェクトを通して、子供たちによりよい教育をしていきたいと思っています。
そして、この森林プロジェクトを通して、参加者のみなさんにより面白い経験をしていただきたいと思っています。
更に、この森林プロジェクトを通して、地域に貢献し、よりよい日本を作っていきたいと思っています。(日本をよくすることはもちろん世界をよくすることにつながっていますが)
そのために、この森林プロジェクトは、お金の流れがあります。
このお金にかかわることについて抵抗があるかもしれませんので、そこだけ最初に説明します。
森林プロジェクトの企画は、コストがゼロになることを目指していますから、例えば、参加者や教わる生徒の中に費用負担ができない人がいれば、無料でサービスを提供する予定です。
しかし、最初から原則的に無料という形にすると、手を抜いてしまう人が増えるのです。
例えば、自分の子供を教える場合でも、近所の子供を教える場合でも、もし教材が無料だったり、受講料が無料だったりすると、いつ始めてもいつやめても変わらないので、結局長続きしなくなります。
だから、原則的に有料にします。
しかし、その有料化で利益が出れば、それは社会にまた還元する必要があります。お金は、社会の中で流れることに意義があるからです。
では、森林プロジェクトの利益はどういう形で社会に還元するのかということですが、私は、グラミン銀行のような形を考えています。
今、仕事をしたいのに仕事がないという人が増えています。しかし、地域には、地域独自のさまざまなニーズがあります。また、地域には、さまざまなシーズを持っている人がいます。
これは、挙げればきりがないほどたくさん考えつきますが、例えば、ひとつだけ例を挙げると、
○家の中で退屈しているお年寄りがいる(ニーズ)
○手品や面白いコントを提供できる若者がいる(シーズ)
この両者が結びつけば、そこに新しいサービスが生まれます。
未来の社会は、このように、地域の中で需要と供給が生まれ、そのお金の流れが土台となって、より大きな社会のお金の流れにつながるという形の経済になっていくと思います。
最初の出発点は小さなものであっても、地域の中でお金が流れる仕組みができれば、若者に仕事がないという問題は徐々に解消されます。そして、地域の中で流れるお金の量を増やせば、そこで豊かな社会が生まれるのです。
これが、江戸時代まで日本にあった豊かな社会の仕組みです。
だから、豊かな社会を作るために、お金を回す必要があり、そのために、コストは無料であっても、価格は有料という形にする必要があるということなのです。
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この記事の中で紹介しているグラミン銀行とは、ムハマド・ユヌスが故郷のバングラデシュで、貧しい人々の自立のために始めた無担保少額融資を行う銀行です。
「貧困のない世界を創る」
http://www.amazon.co.jp/dp/415208944X
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7月に、言葉の森の生徒の保護者のみなさんに、家庭での自習や予習の仕方を説明するプリントをお送りしました。
この予習法の要点は、次の週に書く課題を子供が事前に読んでおき、家庭で子供がお父さんやお母さんにその内容を説明するというものです。
このやり方で予習を取り組む家庭が増え、子供たちの作文が充実してきました。
言葉の森の感想文課題は、かなり難しいので、感想文の週には事前にその長文を何度か読んでいないと、先生の説明を聞いてもなかなかうまく書くことができません。事前に、家庭で子供からお父さんやお母さんに説明する形にしておくと、それだけで長文の理解が深まります。他人に説明するということは、自分なりに全体像を把握していないとできないことだからです。
子供からの説明を聞いたあと、お父さんやお母さんがその説明に対して、似た例などのアドバイスができればなおいいのですが、そこまでしなくても、子供が自分の言葉で説明するだけでも、内容理解は格段と深まります。
そして、こういう形での親子の対話というのが実に楽しいのです。普通、親子で話す話題というと、学校の勉強のことや近所の話題など身近なことが多く、考えながら話すということはあまりありません。ところが、長文をもとに似た例や感想などを考えて話すと、親子の間で知的な対話が生まれるのです。この知的な対話の時間は、知的な読書の時間と同じ意味があります。こういう対話を毎週繰り返していけば、子供たちの思考力はかなり深まります。
なお、言葉の森ではfacebook上で、学年別の予習室というグループを作り、似た例のヒントとしてどんな話をしていくかという話題を交換しています。これは、課題のヒントとは別のもので、対話のヒントというようなものです。
例えば、中1の9.1週の課題では、次のような記事を載せています。
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中1の9.1週「私はは二十年ほど前から」は、現代の管理化された社会を考えるいい機会になると思います。
お父さんやお母さんが似た話を話す場合は、こんな感じです。
「昔は今ほど、社会が管理化されていないから、もっとのびのび暮らしていたような気がするなあ」
例えば、子供時代にいろいろないたずらをしたと思いますが、社会がそういう子供のいたずらを大目に見る風潮がありました。
今は、大人の社会でも、例えば「シートベルトの着用義務」とか、「喫煙の制限」とか、「個人情報の保護」とか細かいルールが多くなりました。
ルールがあること自体はいいことですが、裁判員制度も含めて、国民を家畜化しようとしている感じがしないでもありません。
もっと自由にのびのび生きられる社会にしたいですね。
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同じく9.2週の対話のヒントはこんな感じです。
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9.2週の課題は、「何ごとぞ花見る人の長刀(感)」です。
お花見をする習慣というのは、日本と北朝鮮の一部にあるようです。世界中で花見をする文化というのは限られているのでしょう。
ということで、ひとつはお花見の思い出です。花見とは名ばかりで、最初は「わあ、きれい」などとひとことぐらいは言いますが、あとは花はそっちのけで飲めや歌えやになっていたと思います。そして、そのうち桜の木に登る人がいて(笑)。桜と柿は、折れやすい木の代表選手ですから、この機会に、子供に「桜の木には登らないように」と言っておくといいと思います。ことわざにも、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」というのがあります。桜は剪定などしなくても、どんどん枝を落としていくので切る必要はないということです。
と脱線しましたが。(^^ゞ
日本人どうしは、同じものを見るという形で心を共有します。テレビを見る、夕焼けを見る、映画を見る、初日の出を見る、月や星を見る、というように、並んで見るだけで心が通じ合います。お父さんやお母さんの最初のデートの場面を思い出してみましょう(笑)。
でも、欧米人は違います。面と向かってしゃべり合わないと、コミュニケーションができないのです。かわいそうですね。ってことないか。
相撲の見物などもそうです。取組を見るよりも、その間の仲間どうしのお喋りが楽しいというところがあります。
今、学校で私語が多くて先生が困っているそうですが、これも、日本文化だからこそなのかもしれません。
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facebookの予習室の中で、お父さんやお母さんどうしの対話が生まれるというのが、この予習室の目指しているイメージです。
家庭の予習では親子の対話、facebookの予習室では親どうしや親と先生の対話、そして、将来計画しているfacebookの発表会では、子供どうしの対話が生まれるようにしていきたいと思っています。
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無の文化は、経済や教育だけでなく、政治にもあてはめて考えることができます。
しかし、この話は手短に書きたいと思います。
政治体制の分類の仕方のひとつとして、アリストクラシー(貴族主義、血統主義、身分主義)と、メリトクラシー(能力主義)という分け方があります。
アリストクラシーの欠点は、支配が固定化することによって腐敗が生まれ、その結果、社会の中に不合理が蓄積し、やがてそれが抗争に発展するということです。
その点、能力主義は、能力のある者がリーダーとなる点で一見合理的な仕組みのように見えます。しかし、この能力主義は、容易に、能力ある者による血統主義に転化するのです。
ところが、この矛盾を解決するヒントが、日本の政治の仕組みの中にあります。
それは、身分の高い者がその身分に伴う倫理観を持って行動するということです。例えば、乃木希典は、高い地位にありながら常に謙虚な人間性を保ち続けました。明治維新の際、支配者であった武士階級は、自主的に禄を辞退し農民になりました。天皇の最も重要な仕事は、民の幸福を祈ることだと言われています。
有の文化における政治では、支配する者と支配される者があり、力のある者と力のない者がヒエラルキーを形作っています。その両者をつなぐものは、命令と強制と賞罰です。この仕組みが強固であることが理想の政治のひとつの形となっています。
そして、これが、現代の会社、学校、団体のさまざまな組織の原理となっているのです。
これに対して無の文化における政治では、命令や強制などの作為がないこと、自然のうちに調和していること、リーダーがなくても全体がまとまっていることなどが、理想の姿と考えられています。
支配する者も、支配される者もいず、ただみんなが集団全体の意志のようなものを感じ取る感性を持っていて、その集団の意志が求める役割を各人それぞれに果たすというのが理想の政治なのです。
これは、ちょうど、鳥の群れや魚の群れが、誰がリーダーとなって指示するわけでもないのに、集団全体を一つの形として動いていくのと似ています。
こういう集団では、リーダーはエゴを持たないことが第一に求められます。また、リーダー自身も、エゴを持たないことが正しい判断を下す条件であることを暗黙のうちに了解しています。
身分間の移動はありますが、基本的には身分主義が社会の前提になっていて、各人はその身分の中で、自分が集団全体の意志によって求められている役割を果たすために自分を磨くという仕組みの社会になっているのです。
有の文化の政治は、個人のエゴイズムを前提にしているので、多数決、三権分立、二院制など、エゴを抑制する仕組みを追加していかなければ制度を維持することができません。これが、現在の政治の複雑化と混乱の文化的要因です。
これに対して、無の文化の政治は、リーダーとなる人がエゴを抑え、大衆に奉仕する気持ちを持ち続けることによって制度を維持するという一種の王道政治を目指しています。
これをきれいごとと思うかもしれませんが、実は、日本の歴史ではかなりの期間、このような王道政治が行われていました。徳川幕府は300年間続きましたが、これだけの長期間の権力の固定化にもかかわらず、他の国のように、権力者が暴君になるとか腐敗するとかいうことがほとんどありませんでした。
仁徳天皇が、民のかまどから煙の立ち上るのを見て安心したという逸話は、日本の民衆の中に、リーダーのあるべき姿の例として生きています。
このように考えると、日本の政治の根本理念は、権力を持つ者の倫理観ということに集約されるように思います。
日本が将来、世界に提案する新しい無の文化の政治は、民主主義に支えられた清潔な君主制になると思います。
そのような倫理観を育て継承するのが、実は、社会科教育の本来の役割です。地理や歴史や政治経済の知識は、知識そのもののためではなく、人間が社会的にどのように生きていくかを学ぶための知識として教えられる必要があるのです。(おわり)
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欧米の有の文化では、教材とカリキュラムを充実させることによって、教育が一部の裕福な人たちだけのものになりました。教える「物」が前面に出ると、持つ者と持たざる者の格差が生まれるのです。
これに対して、日本では、教える方法が重視されました。「物」ではなく「事」が中心になることによって、貧富の差も男女の差もなく、誰もが自由に享受できる教育になったのです。
これが、欧米と日本で教育の普及に大きな差が生まれた要因です。
今、インターネットの普及によって、教える教材としての「物」は、物の性質を弱め、情報の性質を強めつつあります。これは確かに社会の進歩です。現代では、インターネットの情報に関する限り、持つ者と持たざる者の差は生まれにくくなっています。しかし、教材が書物の形からデジタル情報の形になったとしても、教材という「物」を教育の中心とする限り、その教育は有の文化の延長にあります。
対象を重視するのが有の文化で、方法を重視するのが無の文化です。この二つの文化の違いは、欧米と日本の宗教の違いにも表れています。(ここで、少し話が横道に入りますが)
中世のキリスト教は、ラテン語の聖書によって聖職者だけに独占されていました。このラテン語の聖書を、大衆の理解できるドイツ語の聖書に翻訳したのがルターの宗教改革の意義でした。
このルターの改革を現代の教育にあてはめると、教材をだれでも利用できるようにインターネットで公開することと同じ意味を持っていると思います。教材や教典の大衆化というのは、社会の進歩のひとつのあり方です。
しかし、無の文化の進歩は、そうではありません。日本では、宗教の大衆化は、教典の大衆化という方向ではなく、実践の大衆化という方向に進みました。それが、念仏であり、托鉢であり、トイレ掃除のような下座行の日常化でした。
知識や思考は頭の一部を使うだけですが、実践は人間の全体を使います。実践という全体の反復によって曇りや汚れを拭い取り、本来の人間が持つている仏性を開花させるというのが、日本の宗教の改革者たちが目指した方向でした。
教典の大衆化が有の文化の宗教の進歩だとすれば、実践の大衆化が無の文化の宗教の進歩だったのです。
それは、何度も繰り返しますが、有の文化が、個人が「有り」、教典という対象が「有り」、個人がその教典を摂取するという考えを前提にしていたからです。
無の文化は、これに対して、個人は「無く」、教典も「無く」、すべてはもともと備わっている全体の一部であり、その全体を明らかにするために更に自分も教典も無化して全体につながると考えるのです。
この無の文化の伝統は、教育にも生きています。教材という知識を身につけることを目的にするのではなく、反復という全体的な実践を目的とし、その結果として教材が自然に身につくという方法を、江戸時代の教育は実現していたのです。
反復という方法は、日本の型の文化とも深く結びついています。反復によって身につけるものは、反復している当のものであるよりも、その対象を入れる枠組みとなる型です。
型を身につければ、中身は自ずから満たされるというのが、日本人の教育方法に流れている人間観だったのです。(つづく)
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暗唱は、暗唱の対象よりも、むしろ暗唱するという方法そのものに意味があります。暗唱という方法で、根の吸収力を高めるというのが、この方法の特徴なのです。
有の文化では、吸収すること自体を教育の目標とします。そのために、スモールステップで、吸収しやすいような教材作りをします。無の文化では、吸収力を高めることを目標とします。吸収力が高まれば、スモールステップなどがなくても丸ごと吸収できると考えているからです。
本多静六は、家が貧しかったために、家の仕事を手伝いながら勉強をしました。その勉強法は、米をつきながら、暗唱した文章を繰り返すというものでした。
机に向かって数学の問題を解くというような時間を取れなかったため、今の大学入試にあたる入学試験では、数学は全くできませんでした。しかし、作文だけは得意だったので国語の点数で合格することができたようです。
入学後、数学はやはり全然できず、1年目についに落第という結果になりました。深い挫折感のあと一念発起した静六は、数学の問題を解法ごと丸暗記する勉強に取り組みました。
数学に詳しい先生であれば、これは最悪の勉強法だと考えるでしょう。数学でつまずいたら、カリキュラムをさかのぼり、わからなくなったところまで戻るというのが勉強の基本です。しかも、数学は考えて理解する勉強ですから、問題と解法を丸暗記する勉強で力がつくわけがないと考えるのが普通です。
しかし、静六はひたすら丸暗記を続け、ついに数学が学年でいちばんできるようになり、卒業するころには、数学の先生から、数学の天才とまで呼ばれるようになったのです。
スモールステップ法が、山のふもとからこつこつ積み上げていく方法だとすれば、解法丸暗記法は、山の頂上から丸ごとカバーしていく方法です。目指すところは同じですが、積み上げ方式が誰でもできる方法であるのに対して、丸暗記法は、丸暗記の力がなければできません。
本多静六が、数学の丸暗記を実行できたのは、それ以前に文章の暗唱という吸収力を高める練習をしていたからです。数学の丸暗記も文章の暗唱も、共通するのは、同じものを反復するという方法です。
丸暗記というと、ほとんどの人は覚えることに意味があるように考えると思いますがそうではありません。暗記は目的ではなく結果です。では、何が目的かというと、何度も繰り返し反復することによって、比喩的に言えばその数学の問題と一体化することなのです。
ところで、この反復という方法には、重要な条件があります。それは、細分化された部分を反復するのではなく、全体を丸ごと反復するということです。
全体の丸ごと反復という点で、バイオリンのスズキメソッドを連想する人も多いと思います。スズキメソッドの特徴は、一曲丸ごと反復するという全体性にあります。部分の組み合わせで全体があるのではなく、最初に全体があり、そのあと必要に応じて部分に分けることができるという考えなのです。
絶対音感の教育では、単音を聞かせるのではなく、和音を聞かせることが最初になります。和音という全体が先にあり、それを丸ごと把握することによって、やがて必要に応じて単音を把握することができます。決して個々の単音をマスターしてからそれを組み合わせて和音という全体を聞く力をつけるのではありません。
文章の暗唱も同じです。最初に、内容のある全体があります。その文章の中には、まだその学年で習っていない漢字や、その学年では理解しにくい難しい内容が盛り込まれているかもしれません。しかし、それらの漢字を覚えたり、内容の解説を聞いたりするよりも先に、まず全体をすらすら読めるようにすることが暗唱の方法です。
このように、全体を丸ごと反復するという方法だから、特別な教材もカリキュラムも先生も学校も要らないのです。(つづく)
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個人的にほぼ毎日少しずつ読んでいる本があります。2千頁強あるので、暗記は無理だと思っているのですが、あの辺にあんなことが書いてあったなくらいは分かります。中根さんの文章を拝読して、これは続けて意味のあることなのだなと安心致しました。
新しい本を次々と読むと知識は増えますが、自分の考えの芯のようなものにはならないようです。
一方で繰り返し読むような精読の本があり、他方で次々と読むような多読の本があるというのがいいのでしょうが、繰り返し読む本はなかなか見つけにくいようです。
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もし、私たちが今突然、学校も先生もいない中で、もちろんお金もなく、一日中働きながら子供の教育をしなければならなくなったらどうするでしょう。私だったら、自分の頭の中にある文章を、子どもにも同じように唱えさせる形で子供の教育を行っていきます。
実は、これが古代からどの民族も行ってきた原初的な教育法なのです。古代の民族は、口から口へと伝承を伝える形で子供たちの言語教育、つまり人間として成長するための教育と、民族の文化教育を行ってきました。伝承するテキストは、ひとつはその民族の昔話で、もうひとつは宗教の教典でした。
有の文化の教育が成立する前は、どこでも自然に無の文化の教育が行われていたのです。
ところが、有の文化の発想は、反復するという方法よりも、何を反復するかという教材の方に目を向けます。しかも、その教材が宗教の教典になると、教典の内容を覚え理解することが教育の目標のようになってきます。
そのようにして、世界の無の文化の教育の多くは、有の文化の教育によって駆逐されていきました。しかし、広大なインドや中国の一部と、海によって隔てられた島国の日本には、無の文化の教育がそのまま残っていったのです。
それでは、無の文化の反復する教育には、どのような効果があるのでしょうか。それは、有の文化の理解し身につける教育よりも効果があるのでしょうか。
寺子屋時代の教育風景を当時の絵で見ると、子供たちはふざけて遊んでばかりいたようです。教える先生は、自分の好きな本を読んでいるだけで、特に教えたり注意をしたりすることはありません。このような雑然とした教育環境で、素読と手習いという反復学習が行われていました。
これに対して、当時の欧米の教育風景は、子供たちが真面目な顔をして並び、先生は手にムチを持っています。
この光景の違いを見ると、欧米では日本よりも教育の仕方が徹底していたように見えます。しかし、実際は正反対で、日本の子供たちの方がはるかに優れた教育を受けていたのです。
優れたというのは、ひとつは量的にということです。江戸時代の日本人の大多数は読み書きができました。しかし、当時のヨーロッパ人の大多数は逆に読み書きができませんでした。しかし、それとともに大事なことは、日本の教育にはムチが必要なく、どの子も笑顔で教育を受けていたということです。
同じものを反復するという教育法が、さまざまなものを身につけるという教育法よりも優れているのは、比喩的に言えば、反復の教育が根を育てる教育であるのに対して、理解し身につける教育が花を咲かせる教育だからです。
反復する教育は、反復して何かを身につけるというところに目標があるのではありません。反復することによって曇りを取るというところに目標があります。だから、反復する教材は、特に固定したものでなくてもよいのです。
塙保己一は、青年のときに般若心経を千日間暗唱する誓いを立てました。しかし、暗唱する教材は般若心経でなくてもよかったのだと思います。
空海は、青年期に虚空蔵求聞持法の真言を暗唱しました。しかし、これも実は、暗唱する言葉は何でもよかったのです。
有の文化の見方で見ると、暗唱する教材そのものに何か意義があるように見えますが、実は暗唱するという方法にこそ意味があるのです。(つづく)
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暗記することだったんですね。暗記するということは、潜在意識に入れるということでしょうか。習うより慣れろという結論でよろしいのでしょうか。
暗記というのは結果なので、暗記自体が目的ではなかったようです。
目的は、反復することだったのだと思います。
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素読には、孔子の「読書百篇意自ずから通ず」と同じような学習法がとりいれられています。大事なのは、繰り返し読むことであって、読んで理解できないところを誰かに解説してもらうという学習法ではありません。
読んでわからないところを解説してもらうと、わかったような気がしますが、その理解は表面的なものにとどまります。
繰り返し読むことによって全体を把握し、それが自分の成長ととともに次第に深まっていくというのが素読の学習法です。
江戸時代の寺子屋の学習の中心は、日本語の読み書きの学習でした。今の教科で言えば、国語の時間がほとんどで、そこに算盤という計算の練習が加わったような形でした。
読み書きというのは、社会生活を行う上で欠かせないものですが、特に読み書き教育が重視されたのは、それが人間の成長と深く結びついていたからです。
教育において、言語教育を重視するのは、言語脳が人間の進化の最もあとから発達した機能だからだと考えられます。
教育の分野には、音楽教育、運動教育、絵画教育などもあります。しかし、それらの教育では、個々の分野の教育にとどまり、全人的な教育には広がりません。
言語教育は、言語の習得にとどまらず、人間の成長全体に影響する教育になります。それは、最も新しい言語機能が活性化することによって、脳の他の機能も活性化するからです。
アメリカの教育実践で、脳に先天的な異常があり身体の動作が不自由だった子が、幼児期に読み書きの練習をすることによって身体機能までも回復したという報告があり、再現性が確認されています。
「赤ちゃんに読みをどう教えるか」
http://www.amazon.co.jp/dp/4925228013
言語の教育は、それだけ教育の重要な柱なのです。
ところが、これまでの欧米流の有の文化の言語教育は、一般に次のような形で行われていました。
まず最も単純で易しい文字を覚えます。次に、単語を覚え、短い文を読み、その文が理解できるようになったら、長い文章を読み、次第に難しい文章を読んでいくという流れです。易しいものから難しいものへ少しずつ進んでいくという方法です。
これに対して、無の文化の言語教育は、正反対とも言っていいものです。
まず、難しい漢字が使われていて内容も難しい論語などのテキストを、そのまま丸ごと音読します。そして、それを暗唱できるまで繰り返し読んでいくのです。文章の内容の理解とは無関係に、ただ声を出して読み続けることが素読という学習法です。
手習いも同じです。ただ手本となる文字を何十回何百回となぞり書きするだけです。その手本となる文字は、ひらがなについては「いろは」、漢字については千字文という中国の詩などでした。内容が子供向けかどうかという配慮などはなく、大人の社会に通用しているものをそのまま丸ごと自分のものにすることが求められたのです。
欧米の有の文化の教育法では、子供向けの教材が必要になります。そして、その教材をどういう手順で発展させていくかというカリキュラムが必要になります。すると、そこで、教材とカリキュラムに精通した先生が必要になり、先生の教える場所としての学校が必要になります。
その結果、欧米の教育は、金銭的な余裕のある一部の上流階級の子弟だけに限られたものになりました。欧米では、教育を受けた人だけが社会を動かすエリートで、教育を受けない人は家畜と同じようにただ受け身で命令を聞く存在であればよいと思われていたのです。そして、その文化は、今も続いています。
これに対して、日本の無の文化の教育は、教材もカリキュラムも先生も学校も必要ありませんでした。大人は、自分が子供のころ習って身についている「いろは」や論語を、同じようにただ子供に伝えればいいだけでした。ただ、ある程度分業した方が能率がいいからという理由だけで、寺子屋というシステムができていたのです。決して、寺子屋方式という教材、カリキュラム、先生、教室が教育に欠かせなかったわけではありません。これが、欧米の教育と日本の教育の大きな違いで、この違いが、欧米と日本の大衆の識字率の驚くほど大きな差を生み出していたのです。
日本の教育では、教育はエリートだけではなく、誰もが等しく同じように受けられるもので、反復して曇りを拭い取るという同じ教育法によって、誰でも同じように本来の人間としての能力を発揮できるようになると考えられていました。
欧米流の有の文化の教育は、今の世界の教育の主流です。子供が学びやすいように、学年別に細分化された教材を作ります。子供がつまずくところは更に細分化して教材を完備します。そのようにして、大量の複雑化した教材に囲まれて勉強する形なので、学校と先生がなければ教育が行われないと考えてしまうのです。
日本の無の文化の教育は、学校や先生がなくても成り立ちます。吉田松陰は、下級武士の子で貧しかったので、山の畑で父の農業を手伝いながら勉強しました。
欧米では、学校に行けないということは、そのまま教育を受けられないことを意味していました。日本では、学校に行こうが行くまいが、家庭の生活の中で教育を受けることができたのです。(つづく)
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