今年の言葉の森新聞は、12月4週の1205号が最後になります。新年は、1206号からです。毎週定期的に発行しているので、1205週、つまり25年間も気長に発行していたことになります。
さて、今年は、大きな変化が二つありました。
一つは、言葉の森が5月からfacebook活用の取り組みを始めたことです。
もう一つは、9月から森林プロジェクトという新しい企画を始めたことです。
言葉の森が、初めて1970年代に作文教室を始めたとき、全国に作文教室という名前のものはありませんでした。
言葉の森が、初めて1990年代にホームページを開設したとき、全国でホームページを作っている学習塾はほとんどありませんでした。
その後、言葉の森が初めてPHPとMySQLで動的ページを作ったとき、そういうことをしているサイトはほとんどありませんでした。
また、言葉の森は、オリジナルな形では初めて日本語の作文小論文自動採点ソフトを作り特許を取りましたが、そういうところはまだほとんどありません。
言葉の森は、何でも独自に行うので初めてのことが多いのです。
その言葉の森が、新たに初めてのこととして取り組んでいるのが、facebookの活用と森林プロジェクトの企画です。
現代という時代の変化の特徴をひとことで言えば、マスの時代の終焉です。しかし、それは、単に昔ながらの古い手工業の時代に戻ることではありません。
ネットを使い、時空の制約を超えた新しい手工業が、経済、政治、文化、教育、コミュニケーションなどのさまざまな分野で生まれてくるのです。
この時代は、今、切り口の仕方によっていろいろな名前で呼ばれています。クラウド、メッシュ、シェア、ソーシャルなどです。99%という言葉も、この中に入るかもしれません。
私は、それを自助の文化の復活と考えています。つまり、社会のあらゆる面で、ひとりひとりの個人が主人公として主体的に物事に関わるようになってくるのです。
これは、教育についても同様です。そして、そういう教育の中で育った子供でなければ、これからの未来を切り開けないと思います。
今年は、そのための土台作りの年でした。来年は、facebookと森林プロジェクトを通して新しい方向を作り出していきたいと思っています。
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言葉の森が音読という学習方法を提案してから、言葉の森のホームページを見たり、音読を取り上げた本を読んだりして、さまざまなところが国語の勉強に音読を取り入れるようになってきました。
しかし、なぜ音読するのか、音読でどういう効果があるのかなどということがよくわからないまま、ただ声を出して読めばいいと考えている人も多いようです。
なぜ音読をするのかというと、いちばん大事なのは、音読だから繰り返し読むことができるということです。重要なのは、同じ文章を何度も繰り返し読むことであって、その手段として音読があるのです。
だから、黙読であっても、同じ文章を繰り返し読むことができればそれでもいいのです。しかし、大人でもそうですが、子供は特に、同じものを繰り返し読むことに飽きるものです。内容がわかっているものは、あらためて文字を追って読むことができないのです。たとえ読むとしても、斜め読みになってしまうので、それでは繰り返し読むことになりません。
ところが、音読であれば、同じ文章であっても繰り返し読むことができます。もちろん、同じことを繰り返すというのは飽きることですから、子供は慣れてくるとふざけて読んだり早口で読んだりします。しかし、それでいいのです。何回も何回も繰り返し読んでいるうちに、その文章の一部は暗唱できるぐらいにまでなります。そこから読解力がついてくるのです。
なぜ繰り返し読むだけで読解力がつくかというと、それは、人間にはもともと読解力があり、それが同じ文章を繰り返し読むことによって成長していくからです。
読解力をつける勉強というと、文章の内容をこと細かに説明してもらうようなことを考える人が多いと思いますが、そうではありません。そういう知識で理解する勉強に入る前に、読解力の土台をつくる必要があります。その土台を作る力が、音読を繰り返すことなのです。
貝原益軒のすすめる勉強法は、百字の文章を百回ずつ音読することでした。しかし、現代っ子には、さすがにここまではできません。
そこで、言葉の森が考えた音読は、100字の文章の暗唱です。毎日10分の勉強で1ヶ月で約1000字の文章を暗唱しますが、その回数が全部でちょうど100回ぐらいになります。そして、その文章がすっかり暗唱できるようになると、それが子供たちの読解力の土台になっていくのです。
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昨年、小学生対象の全国模試で、「さあ、競争だ!」というキャッチフレーズを打ち出しているところがありました。
競争という環境は、確かに人間の意欲を引き出します。しかし、その意欲には、二つの異なる面があります。
ひとつは、競争によって仲間との交流を深めたいいう意味での意欲です。親しい友達と同じ目標を目指しているとき、人間は連帯感を持ちます。その連帯感が意欲の源泉になります。
PISAの試験で毎回世界のトップを占めているフィンランドの教育は、大学入試まで競争というものがありません。みんなが同じように勉強し、高校を卒業する時点で、高校卒業にふさわしい学力が身についているかどうかの試験をするだけです。
このような中で、子供たちが何を意欲の源泉として勉強しているのでしょうか。それは、友達と協力し、助け合い、最後の試験まで皆で一緒にがんばろうという連帯感のようなものです。
このフィンランドの教育と対極にあるのが韓国の教育です。韓国では、小、中、高、大と何度も激しい受験競争があり、その競争で負けると社会に出ても上に上がれない仕組みになっています。社会全体が激しい競争の環境にあるので、勝てば恵まれた生活が、負ければ悲惨な生活が待っているのです。
その韓国も、フィンランドと同じように、PISAでは毎回最上位のグループに入っています。この場合も、競争が子供たちの意欲を引き出していますが、その意欲は、負けることに対する恐怖から来る意欲です。
ひるがえって、日本における身近な教育を見てみると、競争が活気をもたらす面は確かにあります。しかし、その競争がもたらす意欲を、大人が、仲間との交流から来る意欲と考えているか、負けることに対する恐怖から来る意欲と考えているかによって、競争の性質は子供たちの人間形成に大きな影響を与えます。
そして、これからの社会に求められるのは、競争を単なる勝ち負けとして考える人間ではなく、競争を仲間との交流として考える人間です。
競争と似ているものに、賞罰があります。
これも、コミュニケーションの手段としての賞罰と、コントロールの手段としての賞罰があります。
「これができたら、ご褒美だ」とか、「これができなかったら、罰金だ」というとき、大人がどういう意識を持って子供に接しているかが大事なのです。
これからの世の中は、多くの人の人間性が今よりも更に向上していきます。そういう中で、恐怖や強制はますます意欲のもとにはならなくなり、仲間との交流の喜びが意欲の中心になっていきます。
競争自体がよいか悪いかというのではなく、その競争にどういう意識で取り組むかということが大事になってくるのです。
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これは、早期教育をすすめるものではありません。低学年のころに勉強的なことをしすぎるのは、かえって問題があります。
低学年のころは、勉強の内容そのものよりも、勉強の仕方を身につける時期です。だから、決して長い時間勉強する必要はありません。というよりも、できるだけ勉強などさせずに、楽しく遊ばせておいた方がいいのです。
しかし、勉強をするときは、小1のころの勉強の仕方がその後の土台となるのだと考えて、慎重に行っていく必要があります。
では、小1の勉強の仕方では、どういうところに気をつけたらいいのでしょうか。
第一は、日本語を読む、そして聞くという学習を最重点にすることです。極端に言えば、日本語の力さえしっかりつけておけば、そのほかの勉強はあとからいくらでも間に合います。
第二は、明るく楽しくやるということです。叱ったり小言を言ったりしてさせた勉強は、すぐに忘れてしまいます。そして、暗い気持ちで勉強させられると、大きくなっても勉強が好きになれなくなります。勉強というのは、本来自分の知性が向上するということでだれにとってもうれしいものです。そういう気持ちが持てるようになるには、小1の最初のころの勉強を楽しくやっていく必要があるのです。
第三は、毎日同じ時間に同じようなことを行い、極力例外を作らないようにすることです。あるときは1時間もがんばらせ、あるときは何もしないという形では勉強の習慣ができません。平日も、土曜・日曜日も、祝日も、できるだけ同じことを同じようにやっていくことです。
第四に、親と子の間で言葉にして言ったことは必ず守るということです。
保護者からの相談でとても多いのが、「子供が親の言うことを聞かない」というものです。その原因の多くは、親が言ったことを守らなかったことによるものです。
これは、微妙なことなのでなかなか自覚しにくいのですが、次のようなことです。
親が、子供に、「そろそろテレビを消しておもちゃをかたづけなさい」と言ったとします。子供は、普通、「はあい」と言います。
ところで、ここで、子供が何も返事をしなかったり、あいまいに「うん」などと言ったとしたら、親は即座に、「返事は、『はい』とはっきり言いなさい」と教える必要があります。このひとつだけでも、その子の家庭や学校での生活態度はしっかりしてきます。
さて、子供が、「はい」と言ったあと、時間がそのまま5分、10分とたったとします。すると、ここで、子供は無意識のうちに、「返事さえしておけば、すぐにしなくてもいいんだ」「返事だけしておけば、うやむやにしてもいいんだ」ということを学習してしまうのです。
一度でもこういうことがあると、その後、子供に言うことを聞かせることは難しくなります。いい習慣はつけ続けなければつきませんが、悪い習慣は、たった一回でつくのです。
では、こういうときの言い方は、どうしたらいいのでしょうか。それは、「あと10分たったら、テレビを消しておもちゃをかたづけなさい」という言い方です。そして、時計の針がどこに来たら10分たったことになるかということを教えます。
この言い方なら、子供は負担を感じません。そして、ときどき時計を気にしながら、10分たつとしっかり自分の意志でテレビを消しておもちゃをかたづけ出します。親はそれをたっぷり褒めてあげるだけです。
しかし、もし、子供が10分たっていても忘れてしまったらどうするのでしょうか。そこは、強く叱ることです。しかし、そこで、「今度から××をさせない」などという罰を与えて、叱ることを長期化させるのはよくありません。強く短く叱って、すぐに明るくフォローするというやり方をするのです。一度だけしっかり叱れば、素直に言うことを聞く子になります。
こういう習慣ができるのが、小1の最初の時期なのです。そして、小1の時期を逃がすと、このような生活習慣は急速につけにくくなります。
だから、作文の勉強も、小1の最初のころに、言葉の森で始めておくのがいいのです。
なぜかというと、言葉の森は、小1の最初のころから、日本語の読みを中心とした単純な短い時間の自習を毎日するようにしているからです。
ほかの習い事では、日本語を読むことを中心にしていなかったり、子供の興味を引くために毎回やることが変化するプリントだったり、毎日ではなく週に何回かの練習であったり、子供が嫌になるぐらい長時間やるものであったりすることも多いからです。
小1の最初のころに、親がちょっと努力して、子供が楽しく毎日やれる勉強の仕方を工夫しておくと、そのあとの勉強はずっと楽にできるのです。
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(これは、森林プロジェクトの「学習の手引」のために書いた文章ですが、手引の方には載せないので、内容を追加して、ホームページの記事としました。)
●受験の目的は志望校に合格すること、勉強の目的は社会に貢献すること
受験の目的は志望校に合格することというのはあたりまえのことですが、長期間の勉強をしていると、その目的を忘れてしまうことがあります。
例えば、塾や予備校で勉強していると、その塾や予備校でいい成績を取ることが目的のようになってしまいます。また、模擬試験は自分の実力を見るためのテストですから、点数が悪くても問題ないのですが、模擬試験のために詰め込みで勉強してしまうような子もいます。
これまでいろいろな生徒を教えてきて、いつも驚くのは受験の直前になるまで志望校の過去問を解いたことのない子がかなりいることです。
過去問は、受験間際の力試しにためにやるものではなく、受験の1年前から勉強の方向を決めるためにやるものです。まだ解けない問題は、答えを書き込みながら解いていき、問題の傾向と自分の弱点を分析しておきます。
過去問は、勉強の軌道修正のためにときどき取り組むことが大切です。そのためには、古い年の過去問もできるだけ用意しておきます。
受験勉強は、自分のペースで取り組むことが大事です。高校入試、大学入試では、塾の勉強で他人任せに進めるのではなく、できるだけ自分で課題と予定を決めてやっていくことが大事です。中高生で、夏休みに塾や予備校の夏期講習に参加せず、自分で勉強する場合は1日7時間ぐらいの勉強が目安になると思います。
受験勉強の目的は志望校に合格することですが、勉強そのものの目的は、自分自身を向上させ、将来社会に役立つ人間になることです。志望校の合格はそのためのひとつの手段です。合格したから偉いのでも、合格しなかったから駄目なのでもないということを折に触れて親子で確認しておくと、受験後もしっかりと勉強を続けることができます。
●これからの仕事に必要とされる、得意分野と幅広い教養
これから世の中は大きく変わっていきます。一つは、新しい発明や発見によって今よりももっと便利で豊かで自然と共存できる生活になることです。もう一つは、多くの人の人間性が向上し、利己心や策略などが通用しなくなることです。
このような社会では、いい仕事の基準も変わってきます。これからの社会では、自分の個性を生かし社会から喜ばれる仕事ほど、高収入で安定していて自由度の高い仕事になります。
そのような社会に対応する勉強は、自分の興味や関心や得意技を生かすと同時に、幅広い教科を身につける勉強です。
いい学校に入るとか、いい会社に入るとか、いい仕事に就くとかいう目的のために、そこに絞った勉強をするという考えだと、目的を達成した時点で勉強も終わってしまいます。
これからは、自分の個性を生かすために、できるだけ幅広い勉強をし、また勉強に対する向上心も一生持ち続けていくことが必要になります。
●社会に出て必要になるのは、成績のよさよりも人間性
勉強を受験競争における勝ち負けのようなものだと考えると、知的な能力だけを大事なものだと考えてしまいがちです。しかし、現実の社会の中で仕事に活躍できるのは、みんなから信頼される豊かな人間性を持った人たちです。
つまり、人間性という大きな枠の中に、勇気、知性、愛、創造性などという分野があり、知性という分野の中に、国語、数学、英語などという教科があるのです。
だから、家庭での教育では、知性の教育に多くの時間を割くとしても、重要度としては、勇気も、知性も、愛も、創造性もバランスよく育てていく必要があります。
一生懸命に勉強をしていると、つい点数のところにだけ目が向いてしまいます。子供は特にそうです。小学生の子によくあるのは、自分よりもできない子を馬鹿にするような態度をとってしまうことです。
子供の言動の中にそういうものが見えたら、それは人間性の教育を行ういいチャンスです。世の中には、いろいろな人がいて、みんなが自分の力の範囲で努力して助け合っているから社会が成り立っているのだということをじっくり話すと、子供はすぐに理解します。
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作文の通信講座で、よく広告を出しているところがあります。朝日小学生新聞などに、月に何度も広告を載せています。顔写真に有名な評論家を使っているので、いかにもいい指導内容のように見えますが、それならなぜそのように頻繁に広告を出しているのかと思うでしょう。
結局、宣伝でたくさんの生徒を集めても、それらの生徒がすぐやめていくので何度も広告を出しているということです。
広告をたくさん出しているところは、一見活気があるように見えますが、実は、生徒の定着率がよくないということなのです。
現に、言葉の森の通学教室は、この何年か宣伝らしい宣伝をしていませんが、生徒はずっと増え続けています。
通学の教室の場合は、宣伝がなくても地元で実際に通っている人の評判を聞けますが、通信講座の場合は、評判がわからないからつい広告に頼るということがまだ多いのです。
また、ネットの評判というのも、匿名の場合は宣伝の一環であることが多いのであまりあてになりません。
このように宣伝に乗せられて勉強を始めてしまう子供たちはかわいそうです。
一見カラフルで楽しそうな教材で勉強を始めてみても、低学年のうちは遊びのようなことばかりで実力はつきません。言葉の穴埋め問題のようなことをいくらやっても、それはクイズのようなもので、何の実力にもならないのです。
そして、中高学年になって、実力をつける必要が出てきたときに、それまでが遊びのような教材だったので実力がついていず、続けられなくなってやめるというパターンが多いのだと思います。
そういう子供たちは、実力がつかなかったばかりか、自分は作文が苦手だという意識を持ってしまいます。
だから、作文の通信講座は、評論家の顔などにまどわされず、体験学習を実際に受けて内容をよく見きわめる必要があると思います。
なぜ、こんなことをわざわざ書いたかというと、ここのところ続けてそういう相談があったからです。
「ほかの作文通信講座でやっていたが、結局全然できなくて」
という相談です。
勉強は、低学年のときほど、最初の始め方が重要なのです。
ということで、小中学生で作文の通信講座を受ける場合の比較の基準です。
1、体験学習ができるかどうか。
(何でも、実際にやってみなければわかりません)
2、先生からの電話指導など、確実に教えられる手段があるか。
(教材だけで勉強する形だと、穴埋め問題のような単純なことしかできません)
3、書いている途中書けなくなったときに、相談の電話などがすぐにできるか。
(作文は、特に途中で書けなくなるということが多いのです)
4、家庭で毎日取り組む自習のようなものがあるか。
(国語の実力をつけるには毎日の勉強が必要です)
5、中学入試、高校入試、できれば大学入試まで同じ先生で対応できるか。
(低学年の指導であっても、将来の指導に結びついている必要があります)
教科の勉強は、教え方によってすぐに成績を上げることもできます。しかし、作文は、書き方を直すだけならだれでもできますが、実力をつけるように教えるということはなかなかできません。また、実際に作文力を上達させるには、かなり長い時間がかかります。
ところが、世間の作文通信講座や、作文教室はそのあたりをあまり深く考えていないと思います。
言葉の森が、小学校1年生から高校3年生まで作文指導をしていて、中にはずっと続けている子もいるというと、多くの人は驚きます。そして、高校3年生の子供たちは、東大、一橋大、早稲田大、慶応大などに合格しているのです。
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作文の通信教育の教材比較 その1
作文の通信教育の教材比較 その2
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作文教室、比較のための7つの基準
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戦後の経済成長期は、世界中が物不足から脱出しようとしていた時期であったために、常に需要が供給を上回る傾向にありました。
それは、なぜかというと、工業生産物そのものが発展途上にあったからです。例えば、最初はラジオであったものが、小さな白黒テレビになり、だんだん画面が大きくなり、やがてカラーテレビになるという製品自体の成長があったために、たえず新しい需要が作り出されていたのです。
しかし、現代は、もうそうではありません。
中国の13億の人口が、今、テレビの需要の巨大な吸引力となっていたとしても、それは1回限りの需要です。かつての日本が、ラジオ、白黒テレビ、カラーテレビと成長していったような需要ではなく、最初からカラーテレビを手に入れ、あとは買い替え需要しかないという完成した需要なのです。
そして、今日の工業国は、供給の側もまた完成しています。
戦後の経済成長の時代には、供給の側もたえず設備を更新し、新しい製品を開発していかなければ、消費者のニーズの変化に対応することができませんでした。
しかし、今新しく登場した工業国の供給の場合は違います。最初から完成度の高い製品を作るために、やはり最初から完成度の高い新鋭工場を新鋭設備で作ってしまうのです。だから、供給も1回限りという面を持っています。
これからの時代を、アメリカから日本に工業生産力が移動していった歴史になぞらえて、日本から中国に工業生産力が移っていくと考える人がいます。それは、事実の本質を正しく見ていません。
確かに、中国の13億という人口は巨大ですが、その人口が生み出す需要の大きさは、13億人の1回限りの需要であり、それに対応する供給は、最新設備の1回限りの供給なのです。
1回目の花火のような需要が一巡すれば、次の買い替え需要まで消費も生産も一段落します。
しかも、最新設備による最新工場は、資本さえ投入すれば、世界のどこでも人件費負担の少ないところを選んで設置することができます。ということは、需要がどれだけ巨大であっても、多数の供給者の競争によって、利益率は限りなく低くなります。
インドでは既に、20万円の自動車、3000円のパソコンが作られています。大量の消費者に対して最新の設備を使って効率よく製造された工業製品の価格は、このようになるのです。
だから、中国やインドでこれから始まる工業化は、日本がかつて経過してきた工業化と同じではありません。工業は、もはや利益を生み出さない産業になりつつあるのです。
では、農業、工業の次に、日本が目指す産業は何なのでしょうか。それは、架空の金融産業ではありません。また、本質は工業である情報産業でもありません。そこで、価値とは何かという問題が出てきます。
これからの日本は、真に価値あるものを作り出さなければなりません。その一つは植物の持つ自然の力を生かす農業です。もう一つは、人間の持つ創造的な力を生かす教育です。
この、真に価値あるものを産業の中心に据えていくことが、これからの日本の政治経済の基本方針になるのです。
では、人間が生み出す価値とは何でしょうか。例えば、子供たちをいいい子に育てることによって、その子たちが成人して穏やかな大人になり、犯罪など犯すようなことがなければ治安がよくなり、防犯のための無駄な支出が不要になります。
警察も、裁判所も、法律も要らないとなれば、これまでそういうところで仕事をしていた人は、治安を守るという後ろ向きの仕事ではなく、もっと前向きの新しい仕事にとりかかれます。
これが新しい価値の創造です。
これは、架空の話ではなく、江戸時代がまさにそうでした。
松尾芭蕉は、追はぎや強盗の心配をすることなく、日本中を旅することができました。
江戸は当時世界で最も巨大な都市でありながら、警察は驚くほど少なく、ほとんどすべて住民の自治的なつながりの中で平和な生活が支えられていました。
真の豊かさとは、こういうことなのです。
また、子供たちが、能率のよい勉強の仕方によって短時間で早く学力をつけることができれば、知識を身につける勉強以外の、考える勉強、作り出す勉強に時間を割くことができます。
そういう子供たちが成長すれば、どういう仕事をしても、その仕事の改善点を自分で発見して提案していけるようになるでしょう。
更に、新しい科学時技術を開発するような人も出てくるでしょう。
これが価値の創造です。
農業が、植物の生命力を生かした創造なら、教育は人間の向上心を生かした創造なのです。
世界の不況の根本原因は、工業に代わる新しい産業が、先進国で見つけられていないことにあります。多くの人は、過去の延長で考えているために、金融業、情報産業、医療、介護、観光、又は、海外への工業の移転、又は、国内での人件費削減のようなところに、日本の経済の打開策があるかのように論じています。
しかし、そうではありません。時代は、もっと根本的なことを要求しているのです。それは、真の価値を生み出す分野を産業の中核に据えるということです。
教育は、これまで、個人の受験競争のようなところで行われてきました。しかし、受験に勝つというようなことは、教育の枝葉の部分です。教育の本質は、人間の持つ創造性を開発することにあります。
日本がこの教育分野で新しい教育を作り、それを創造的な新しい産業に育てていくことが、世界の経済の行き詰まりを打開する道でもあるのです。
そして、日本が切り開いた経済の新しい分野に、工業化を完成させた途上国が続いて参入してきたときにも、工業のときに起きたような競争による利益率の低下は起きません。
なぜなら、第一に、そこで生産しているものは、需給の関係によって相対的に生まれた価値ではなく、農業が生み出すものと同じような真の価値だからです。
また第二に、人間の創造性が生み出すものは、工業製品に劣らない価格を持つことができるからです。例えば、パソコンが20万円で、自動車が200万円で、ピカソの絵が1億円、というような価格が可能です。
人間の創造性が生み出すものは、今の資本主義的な価格の世界でも十分に工業製品の富に匹敵する力を持っているのです。
農業は、いくらがんばっても、ダイコン1本が1万円というわけにはいきません(笑)。しかし、それは農業の生み出す価値が低いということではなく、農業が人間の生存という根本の価値に結びついているからです。
そして、第三に、これが最も重要なことですが、教育によって人間の持つ創造性を開発するという産業は、需要者が同時に供給者になるということです。
高いお金を払ってあるノウハウを身につけた人が、今度はそこに自分のノウハウを創造的に組み合わせて、より高く売る側に立つことができます。
そのサイクルを社会全体で実現しているのが創造社会の姿です。
需要と供給が分離されていずに、役割としていつでも交代できるから、工業時代にあったような過剰生産恐慌は、もう起こりません。また、過剰生産を緩和するために恒常的に行われていた有効需要政策ももはや不要になります。
無理な生産も無理な販売もなくなり、穏やかにしかし永続的に進歩する社会が未来の産業によって作られるのです。
今、全国各地で、農業を中心にした地域自給経済圏を作る動きが広がっています。これを農業という価値創造だけでなく、人間の教育という新しい価値創造に結びつけて取り組んでいくことが、日本の未来の社会を作る雛型になっていくと思います。
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