これまでの経済は、マネーを持っている人の意向が反映した経済でした。それは、政治の面では金権政治という形で現れていました。
しかし、経済危機が深化する中で出てくるのは、マネーの意志ではなく、国民の集合意識としての国家の意志です。今の世界経済の中では、国家の意志は単独で自国の利益を追求するよりも、ブロック化された枠内で自国の利益を追求していくようになるでしょう。
ヨーロッパは、EUの分裂ではなく、EUの更なる統合強化の方向に進むでしょう。アジアも、アジアの中での結びつきを強化していく方向に向かうでしょう。
ブロック経済の結びつきの強化と並行して、国内では統制経済が進行するように見えます。しかし、今日のネットワークの時代に、統制が長期間徹底できるとは考えられません。
統制経済は、最初のうちこそ、預金封鎖、資産課税、配給制度などの形で現れますが、架空の需要のもとになっていた規制に支えられた古い体制が勢いを失ったあとは、統制の役割はなくなります。
統制が新たな利権の温床になる前に、統制とは異なる原理を経済の中心に据えなければなりません。それが、ネットワークの中で生まれる自助の文化です。
自助の文化とは、一人一人が、消費者としては本当に欲しいものを求め、生産者としては自分が他の人から本当に求められているものを作る文化です。だから、未来の社会で人間が生きていく条件は、自分がみんなに喜ばれるような何かを提供することができるかどうかにかかってきます。資産の量ではなく、貢献の量が問われる社会になっていくのです。
教育もまたそうです。勉強は、受験に合格するために行うものではなく、自分が将来社会に何かを貢献するために行うものになっていくでしょう。
これまでの勉強の基本は、志望校の過去問に合わせたものでした。だから、志望校の試験科目が英、国、社だけで、数、理がなければ、数、理の勉強はしなくていいと思われていました。そして、点数を上げるためには、受験する教科の重箱の隅の知識もしっかり身につける必要があったのです。
しかし、自分の将来の仕事のために勉強するとしたら、勉強の仕方も当然変わってきます。新しい勉強のスタイルは、全教科を万遍なく、しかし、重要なポイントをしっかり身につけ、そして自分の興味関心のあることについては徹底してこだわるようなものになるでしょう。
バブル崩壊の影響で山一證券が倒産したとき、優秀な大学を出た優秀な社員がたくさんいましたが、多くの人が再雇用に苦労しました。そのときに言われた言葉が、「優秀な人なら、いくらでもいる。欲しいのは自分の持ち味のある人だ」ということでした。
肩書に支えられた社会は、今回の経済危機で大きく後退するでしょう。それは、明治維新が、武士階級の小さな肩書の差を一掃したことと似ています。古い社会の無駄がなくならなければ、新しい社会の芽は出てこないのです。
新しい時代は、新しい需要を作り出す人によって作られていきます。新しい需要とは、これまでの規制下の制度で作られた架空の需要ではなく本当の需要に根差したものです。
新しい需要を作り出せる人は、同時に、自分が新しい何かをしたいと思っている人です。
これからの子供の教育で大事なことは、いつも新しい何かをしたいと思っている子供たちを育てることです。そして、子供たちは模倣によって成長する存在ですから、何よりも身近な大人が新しい何かを求めて生きていくことが大切になってくるのです。
教育の分野にも古い体制は残っています。教育の本来の目的は、子供たちの実力を育てることですが、実力以外のものが目的のように遂行されている面があります。そのひとつは、受験に合格させることを目的にした教育です。
もちろん、実力をつけた結果として合格するのであれば問題はありませんが、受験をめぐる情報が精緻になるにつれて、実力以外の要素が合否を分けるような面が大きくなっています。
例えば、ある試験に合格するためには、その試験の過去問の分析が欠かせません。しかし、受験する子供には、分析のためのデータや方法がありません。すると、そういうデータを利用できる子供の方が利用できない子供よりも、合格する可能性が高くなります。このため、教育は、不必要にお金のかかるものになっています。
新しい教育とは、教育を本来の実力をつけるための教育に戻すことです。そのための方法のひとつは、子供たちの教育を家庭と地域を基盤としたものにすることです。教育を学校だけに任せるのではなく、学校と家庭が連携したものにしていく必要があるのです。
他人に委託する教育から、自分たちで工夫する教育、つまり自助の教育に変えていくことが、これからの新しい教育に求められてくると思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
最初に書いた記事で、「リーマンショックの影響で山一証券が」となっていたのを訂正しました。
以下は、言葉の森新聞に書いた補足説明です。
バブル崩壊(1990年ごろ)→山一證券(1997年)→リーマンショック(2008年)です。
と書いていてふと思ったのが、後世の歴史は、1990年の日本のバブル崩壊と、その後のアメリカのITバブル崩壊と、その後のリーマンショックと、今起きつつある経済危機を、同じ流れのものとして記述するだろうということです。
共通しているのは、生産活動に使うのでは使いきれなくなったマネーをギャンブルにつぎこんで、最初はうまく行っているような気がしていたものの、結局返せなくなったということだからです。
この出口は、ひとつしかありません。それは、使いきれなくなったマネーを新しい産業の創造にふりむけることです。
その新しい産業とは、昔ながらの公共事業の延長にはありません。タヌキしか通らないような道に高速道路を作っても仕方ないのです。(タヌキさんごめんね)
新しい産業は、上からの指示で作られるような大きな産業ではなく、ひとりひとりの人間がその産業に従事することを喜びとするような、下から作っていく産業です。
私は、そのひとつとして森林プロジェクトを考えています。人間が、その地域で、周囲の人に喜ばれながら自分の提供する何かを受け取ってもらえるような仕事です。
そして、それを受け取った人が、自分も同じように周囲の人に喜ばれる何かを提供できるのだと気づくような仕事です。
その芽は、実は既にいろいろな形で現れています。その具体的な話を、今後書いていきたいと思います。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。政治経済社会(63) 教育論文化論(255)
ヨーロッパ発の経済危機が起きた場合、日本の証券会社や銀行も、ヨーロッパの国債デフォルトに関わるCDSを取り扱っているようですから、ヨーロッパの破綻は、日本の金融機関の破綻にもつながってきます。
日本の大手証券会社や大手銀行が破綻しそうになったとしたら、国は、その金融機関を救済するために、資本注入で乗り切ろうとするでしょう。そのときの原資は、印刷されたマネーです。
その一方で、預金の引き出し額制限などの対策をとるでしょう。
また、銀行は、手持ちの資金を確保するために、これまで貸付をしていた企業や個人から、貸し剥がしを始めるでしょう。
こうして、銀行の経営危機が、産業界全体の活動の低下を引き起こすのです。
しかし、日本は、既に1990年のバブル崩壊のときに銀行の貸し剥がしを経験していますから、産業界に対する影響は、世界の中では比較的軽症にとどまるでしょう。
けれども、社会全体が不況に向かうことは避けられません。
その一方で、銀行を救済するために印刷されたマネーによって物の値段が高騰していきます。
これが、不況下のインフレです。
なぜこういう事態が起きてきたのでしょうか。
社会の富の本質は、人々の需要です。欲しいものがあるから買いたいという気持ちが、富の源泉です。
だから、人々が本当に欲しいものが需要となり、それが生産されていれば、社会は豊かになり発展していきます。
ところが、工業化時代の終わりごろから、先進国では、そのように人々が心から欲する需要が少なくなっていったのです。
自動車、クーラー、カラーテレビは、かつては豊かな生活の象徴で、人々の憧れの対象でした。しかし、いったんそういうものが所有されてしまうと、もう2台目の需要はありません。もっと高性能のものが出てきたとしても、それは最初の需要ほど強いものではありません。
こうして、先進国では、富の源泉が次第に枯渇していったのです。
しかし、先進国には、これまで蓄積したマネーがありました。このマネーの使い道を作るために、別の需要を作らなければなりませんでした。
そこで、国がケインズ政策という大義名分で作り出した需要は、人々の本当の需要に基づいていない架空の需要でした。その架空の需要が消えないようにささえる枠組みが、利権システムでした。
更に、その架空の需要は、リアルな経済を離れ、マネーがマネーを需要する金融工学として発展していきました。
人々の生きた需要よりも、人為的に作られた架空の需要の方が大きくなり、それを富だと勘違いしていた時代がしばらく続きました。
今起きている経済危機は、その勘違いが明らかになり、破綻しようとしていることなのです。(つづく)
※クリスマスイブにふさわしくなさそうな話を始めてしまいましたが(^^ゞ、最後は明るい話にする予定です。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。政治経済社会(63)
言葉の森では、教育相談として、保護者から随時電話による教育相談を受けつけています。
言葉の森での勉強の仕方に関する質問が多いのですが、作文や国語に限らずもっと幅広くいろいろな相談が寄せられます。
最近、共通して感じるのは、子育ての初歩的なところを勘違いしているように思われる相談が多いことです。もちろん、私自身も、というか親はだれでも子育ては初めての経験ですから、さまざまな試行錯誤を繰り返します。
しかし、最近受ける電話相談の中には、「そんな当然なこともしていないの」と思うようなものも結構あるのです。
そのひとつは、子供に言うことを聞かせられない、あるいは、子供が言うことを聞いてくれないという相談です。これが、小学校低中学年の子供でそうだというところに問題があります。
もうひとつは、その反対に、小学校低中学年のうちに子供が苦痛を感じるほどの分量の勉強を強制して、時間が足りないなどという相談です。
現れてくる現象は正反対ですが、共通しているのは、バランスのとれた自然な親子関係、人間関係ができていないのではないかということです。
理想的な親子関係は、親の権威が確立していて、子供は親の言うことを素直に聞くが、親はほとんどを子供の自主的な行動に任せているという関係です。
なぜ、そういう自然な親子関係ではなく、やや不自然な関係が生まれているのかと考えて、ふと思ったのが、親である現代の大人が持っている人間関係でした。
今の親の世代は、子供時代に集団で遊んだ経験が少ないのではないかと思います。
小さな子供たちが自由に遊ぶとすれば、そこに自然な上下関係ができます。これは、大人に管理された遊びや勉強の中ではあまり生まれません。
自由な遊びの中で、年齢の差や体力の差などにより自然な上下関係が生まれると、それは親分子分の関係になります。子供時代にガキ大将に率いられた子供たちは、自分たちもまたガキ大将になり、いい親分を演じられるようになります。
親分というのは、年下の子対して権威のある存在です。ドラえもんに出てくるジャイアンのようなわがままな親分ではだれもついてきませんから、自然に人徳で年下の子供たちを引っ張るような練習をしていきます。
そういう子供が成長して、社会や家庭で、同じようにいい親分、子分の役割を果たすことができるようになるのです。
親子の関係というのも、基本的には親分と子分の関係です。学校の先生と生徒の関係も、親分と子分の関係を基本にしていればスムーズに進みます。
しかし、親が親分を演じることに慣れていないと、子供と対等の関係を作ろうとして子供のわがままを止められなくなったり、逆に子供に頭から命令するような関係で言うことを聞かせようとしたりしてしまうのではないかと思います。
健全な親分子分の関係ができている家庭では、子供はのびのびとしていて、しかも素直に言うことを聞きます。
大事なことは、子育ての前に、親が自分を育てる練習をすることです。そのためには、親が、まず自分が親分になるのだという自覚を持つことです。
父親がいざというときの大親分であり、母親が日常的な親分です。子供のうち上の子から順に、子分1、子分2……となるような有機的な関係を作ることがこれから必要になってくるのだと思います。
「ピンポーン」
「あ、大親分が帰ってきた。子分1、玄関開けてきて」
「へい。行ってきやす」(言葉づかいまで変えなくていいんだって)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。子育て(117)
私が子供のころの遊びで、面白くて熱中したのが、小さい木切れを使っていろいろなものを組み立てることでした。近所に大工さんがいたので、形が微妙に違う小さな木の切れ端がよく手に入ったのです。
先日、小学校4年生の生徒の「小さいころから大切にしているもの」の作文を読み、そこに、レゴブロックのことが書いてあったので、ふとそんな昔のことを思い出しました。
レゴの面白さは、組み立て方を創造する面白さです。だから、想像力によって何にでも見なせるものが面白いのであって、車輪や人物など、その用途にしか使えないものがあると、かえって作る意欲が薄れてしまうようです。
今度、中学の技術科でプログラミングが必修になるという話を聞きました。
プログラミングの面白さも、やはり創造の面白さです。特定の結果だけが出てくるアプリケーション・ソフトの使い方(例えば、ワードやエクセルの使い方など)を学んでも、何も面白くはありません。単純なレゴのブロックのようなものが与えられて、何でもいいから自由に作ってみようという勉強なら、中学生の子供たちは熱中すると思います。
勉強の面白さは、創造の面白さです。しかし、現代の教育では、勉強の過程の面白さよりも、早く成果を出すことが要求される面があります。
成果を出すというのは、出来合いのアプリケーションの使い方を学ぶということと似ています。
しかし、日本の将来を支えるのは、アプリケーションを使える人ではなく、プログラミングを楽しめる人です。
結果を出すのではなく、過程を楽しむというのが、これからさまざまな分野で求められてくると思います。
話は変わりますが、私がもうひとつ、男の子だったら面白がるだろうと思うのが電子工作です。コンピュータの中のプログラミングでなく、実際に形があって動くものを作るということになると、たぶん男の子は熱中すると思います。(女の子は、熱中するかどうかよくわかりませんが。(^^ゞ)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
プログラムの授業はやっていて面白い。しかし,数学以上についてこれない生徒が多い。
プログラムは、数学よりも数学的発想をうまく教えられるような感じがします。
数学は、得意な子の中にも、計算の作業としてやっている子も多いと思います。
プログラムは、応用範囲の広い基本的な関数だけ教えて、レゴのブロックのように、これで自由に遊んでごらんと、作品の発表会をすると面白そうです。
今小学生ですが、レゴを使ってロボットを作りプログラミングしたマイコンで動かすということをやっておりますがすごく楽しそうです。男の子です。教室もやはり男の子ばかりですね。
プログラミングは当然まだ全然できませんが、これから勉強の楽しさを知る糧になってくれれば良いなあと思うばかりです。
ぽかさん、そうなんです。
これまではプログラミングだけだったのですが、これからはプログラミング+電子工作の時代です。
子供たちが遊びながら電子工作をいろいろ試すという時代になると思います。
ちょうど、昔の子供たちが、凧作りとかプラモデル作りに熱中したような手作りの時代になると思います。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)
今年の言葉の森新聞は、12月4週の1205号が最後になります。新年は、1206号からです。毎週定期的に発行しているので、1205週、つまり25年間も気長に発行していたことになります。
さて、今年は、大きな変化が二つありました。
一つは、言葉の森が5月からfacebook活用の取り組みを始めたことです。
もう一つは、9月から森林プロジェクトという新しい企画を始めたことです。
言葉の森が、初めて1970年代に作文教室を始めたとき、全国に作文教室という名前のものはありませんでした。
言葉の森が、初めて1990年代にホームページを開設したとき、全国でホームページを作っている学習塾はほとんどありませんでした。
その後、言葉の森が初めてPHPとMySQLで動的ページを作ったとき、そういうことをしているサイトはほとんどありませんでした。
また、言葉の森は、オリジナルな形では初めて日本語の作文小論文自動採点ソフトを作り特許を取りましたが、そういうところはまだほとんどありません。
言葉の森は、何でも独自に行うので初めてのことが多いのです。
その言葉の森が、新たに初めてのこととして取り組んでいるのが、facebookの活用と森林プロジェクトの企画です。
現代という時代の変化の特徴をひとことで言えば、マスの時代の終焉です。しかし、それは、単に昔ながらの古い手工業の時代に戻ることではありません。
ネットを使い、時空の制約を超えた新しい手工業が、経済、政治、文化、教育、コミュニケーションなどのさまざまな分野で生まれてくるのです。
この時代は、今、切り口の仕方によっていろいろな名前で呼ばれています。クラウド、メッシュ、シェア、ソーシャルなどです。99%という言葉も、この中に入るかもしれません。
私は、それを自助の文化の復活と考えています。つまり、社会のあらゆる面で、ひとりひとりの個人が主人公として主体的に物事に関わるようになってくるのです。
これは、教育についても同様です。そして、そういう教育の中で育った子供でなければ、これからの未来を切り開けないと思います。
今年は、そのための土台作りの年でした。来年は、facebookと森林プロジェクトを通して新しい方向を作り出していきたいと思っています。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。言葉の森サイト(41)
言葉の森が音読という学習方法を提案してから、言葉の森のホームページを見たり、音読を取り上げた本を読んだりして、さまざまなところが国語の勉強に音読を取り入れるようになってきました。
しかし、なぜ音読するのか、音読でどういう効果があるのかなどということがよくわからないまま、ただ声を出して読めばいいと考えている人も多いようです。
なぜ音読をするのかというと、いちばん大事なのは、音読だから繰り返し読むことができるということです。重要なのは、同じ文章を何度も繰り返し読むことであって、その手段として音読があるのです。
だから、黙読であっても、同じ文章を繰り返し読むことができればそれでもいいのです。しかし、大人でもそうですが、子供は特に、同じものを繰り返し読むことに飽きるものです。内容がわかっているものは、あらためて文字を追って読むことができないのです。たとえ読むとしても、斜め読みになってしまうので、それでは繰り返し読むことになりません。
ところが、音読であれば、同じ文章であっても繰り返し読むことができます。もちろん、同じことを繰り返すというのは飽きることですから、子供は慣れてくるとふざけて読んだり早口で読んだりします。しかし、それでいいのです。何回も何回も繰り返し読んでいるうちに、その文章の一部は暗唱できるぐらいにまでなります。そこから読解力がついてくるのです。
なぜ繰り返し読むだけで読解力がつくかというと、それは、人間にはもともと読解力があり、それが同じ文章を繰り返し読むことによって成長していくからです。
読解力をつける勉強というと、文章の内容をこと細かに説明してもらうようなことを考える人が多いと思いますが、そうではありません。そういう知識で理解する勉強に入る前に、読解力の土台をつくる必要があります。その土台を作る力が、音読を繰り返すことなのです。
貝原益軒のすすめる勉強法は、百字の文章を百回ずつ音読することでした。しかし、現代っ子には、さすがにここまではできません。
そこで、言葉の森が考えた音読は、100字の文章の暗唱です。毎日10分の勉強で1ヶ月で約1000字の文章を暗唱しますが、その回数が全部でちょうど100回ぐらいになります。そして、その文章がすっかり暗唱できるようになると、それが子供たちの読解力の土台になっていくのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。音読(22) 暗唱(121)
昨年、小学生対象の全国模試で、「さあ、競争だ!」というキャッチフレーズを打ち出しているところがありました。
競争という環境は、確かに人間の意欲を引き出します。しかし、その意欲には、二つの異なる面があります。
ひとつは、競争によって仲間との交流を深めたいいう意味での意欲です。親しい友達と同じ目標を目指しているとき、人間は連帯感を持ちます。その連帯感が意欲の源泉になります。
PISAの試験で毎回世界のトップを占めているフィンランドの教育は、大学入試まで競争というものがありません。みんなが同じように勉強し、高校を卒業する時点で、高校卒業にふさわしい学力が身についているかどうかの試験をするだけです。
このような中で、子供たちが何を意欲の源泉として勉強しているのでしょうか。それは、友達と協力し、助け合い、最後の試験まで皆で一緒にがんばろうという連帯感のようなものです。
このフィンランドの教育と対極にあるのが韓国の教育です。韓国では、小、中、高、大と何度も激しい受験競争があり、その競争で負けると社会に出ても上に上がれない仕組みになっています。社会全体が激しい競争の環境にあるので、勝てば恵まれた生活が、負ければ悲惨な生活が待っているのです。
その韓国も、フィンランドと同じように、PISAでは毎回最上位のグループに入っています。この場合も、競争が子供たちの意欲を引き出していますが、その意欲は、負けることに対する恐怖から来る意欲です。
ひるがえって、日本における身近な教育を見てみると、競争が活気をもたらす面は確かにあります。しかし、その競争がもたらす意欲を、大人が、仲間との交流から来る意欲と考えているか、負けることに対する恐怖から来る意欲と考えているかによって、競争の性質は子供たちの人間形成に大きな影響を与えます。
そして、これからの社会に求められるのは、競争を単なる勝ち負けとして考える人間ではなく、競争を仲間との交流として考える人間です。
競争と似ているものに、賞罰があります。
これも、コミュニケーションの手段としての賞罰と、コントロールの手段としての賞罰があります。
「これができたら、ご褒美だ」とか、「これができなかったら、罰金だ」というとき、大人がどういう意識を持って子供に接しているかが大事なのです。
これからの世の中は、多くの人の人間性が今よりも更に向上していきます。そういう中で、恐怖や強制はますます意欲のもとにはならなくなり、仲間との交流の喜びが意欲の中心になっていきます。
競争自体がよいか悪いかというのではなく、その競争にどういう意識で取り組むかということが大事になってくるのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)
これは、早期教育をすすめるものではありません。低学年のころに勉強的なことをしすぎるのは、かえって問題があります。
低学年のころは、勉強の内容そのものよりも、勉強の仕方を身につける時期です。だから、決して長い時間勉強する必要はありません。というよりも、できるだけ勉強などさせずに、楽しく遊ばせておいた方がいいのです。
しかし、勉強をするときは、小1のころの勉強の仕方がその後の土台となるのだと考えて、慎重に行っていく必要があります。
では、小1の勉強の仕方では、どういうところに気をつけたらいいのでしょうか。
第一は、日本語を読む、そして聞くという学習を最重点にすることです。極端に言えば、日本語の力さえしっかりつけておけば、そのほかの勉強はあとからいくらでも間に合います。
第二は、明るく楽しくやるということです。叱ったり小言を言ったりしてさせた勉強は、すぐに忘れてしまいます。そして、暗い気持ちで勉強させられると、大きくなっても勉強が好きになれなくなります。勉強というのは、本来自分の知性が向上するということでだれにとってもうれしいものです。そういう気持ちが持てるようになるには、小1の最初のころの勉強を楽しくやっていく必要があるのです。
第三は、毎日同じ時間に同じようなことを行い、極力例外を作らないようにすることです。あるときは1時間もがんばらせ、あるときは何もしないという形では勉強の習慣ができません。平日も、土曜・日曜日も、祝日も、できるだけ同じことを同じようにやっていくことです。
第四に、親と子の間で言葉にして言ったことは必ず守るということです。
保護者からの相談でとても多いのが、「子供が親の言うことを聞かない」というものです。その原因の多くは、親が言ったことを守らなかったことによるものです。
これは、微妙なことなのでなかなか自覚しにくいのですが、次のようなことです。
親が、子供に、「そろそろテレビを消しておもちゃをかたづけなさい」と言ったとします。子供は、普通、「はあい」と言います。
ところで、ここで、子供が何も返事をしなかったり、あいまいに「うん」などと言ったとしたら、親は即座に、「返事は、『はい』とはっきり言いなさい」と教える必要があります。このひとつだけでも、その子の家庭や学校での生活態度はしっかりしてきます。
さて、子供が、「はい」と言ったあと、時間がそのまま5分、10分とたったとします。すると、ここで、子供は無意識のうちに、「返事さえしておけば、すぐにしなくてもいいんだ」「返事だけしておけば、うやむやにしてもいいんだ」ということを学習してしまうのです。
一度でもこういうことがあると、その後、子供に言うことを聞かせることは難しくなります。いい習慣はつけ続けなければつきませんが、悪い習慣は、たった一回でつくのです。
では、こういうときの言い方は、どうしたらいいのでしょうか。それは、「あと10分たったら、テレビを消しておもちゃをかたづけなさい」という言い方です。そして、時計の針がどこに来たら10分たったことになるかということを教えます。
この言い方なら、子供は負担を感じません。そして、ときどき時計を気にしながら、10分たつとしっかり自分の意志でテレビを消しておもちゃをかたづけ出します。親はそれをたっぷり褒めてあげるだけです。
しかし、もし、子供が10分たっていても忘れてしまったらどうするのでしょうか。そこは、強く叱ることです。しかし、そこで、「今度から××をさせない」などという罰を与えて、叱ることを長期化させるのはよくありません。強く短く叱って、すぐに明るくフォローするというやり方をするのです。一度だけしっかり叱れば、素直に言うことを聞く子になります。
こういう習慣ができるのが、小1の最初の時期なのです。そして、小1の時期を逃がすと、このような生活習慣は急速につけにくくなります。
だから、作文の勉強も、小1の最初のころに、言葉の森で始めておくのがいいのです。
なぜかというと、言葉の森は、小1の最初のころから、日本語の読みを中心とした単純な短い時間の自習を毎日するようにしているからです。
ほかの習い事では、日本語を読むことを中心にしていなかったり、子供の興味を引くために毎回やることが変化するプリントだったり、毎日ではなく週に何回かの練習であったり、子供が嫌になるぐらい長時間やるものであったりすることも多いからです。
小1の最初のころに、親がちょっと努力して、子供が楽しく毎日やれる勉強の仕方を工夫しておくと、そのあとの勉強はずっと楽にできるのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。小学校低学年(79)