これまでの経済は、マネーを持っている人の意向が反映した経済でした。それは、政治の面では金権政治という形で現れていました。
しかし、経済危機が深化する中で出てくるのは、マネーの意志ではなく、国民の集合意識としての国家の意志です。今の世界経済の中では、国家の意志は単独で自国の利益を追求するよりも、ブロック化された枠内で自国の利益を追求していくようになるでしょう。
ヨーロッパは、EUの分裂ではなく、EUの更なる統合強化の方向に進むでしょう。アジアも、アジアの中での結びつきを強化していく方向に向かうでしょう。
ブロック経済の結びつきの強化と並行して、国内では統制経済が進行するように見えます。しかし、今日のネットワークの時代に、統制が長期間徹底できるとは考えられません。
統制経済は、最初のうちこそ、預金封鎖、資産課税、配給制度などの形で現れますが、架空の需要のもとになっていた規制に支えられた古い体制が勢いを失ったあとは、統制の役割はなくなります。
統制が新たな利権の温床になる前に、統制とは異なる原理を経済の中心に据えなければなりません。それが、ネットワークの中で生まれる自助の文化です。
自助の文化とは、一人一人が、消費者としては本当に欲しいものを求め、生産者としては自分が他の人から本当に求められているものを作る文化です。だから、未来の社会で人間が生きていく条件は、自分がみんなに喜ばれるような何かを提供することができるかどうかにかかってきます。資産の量ではなく、貢献の量が問われる社会になっていくのです。
教育もまたそうです。勉強は、受験に合格するために行うものではなく、自分が将来社会に何かを貢献するために行うものになっていくでしょう。
これまでの勉強の基本は、志望校の過去問に合わせたものでした。だから、志望校の試験科目が英、国、社だけで、数、理がなければ、数、理の勉強はしなくていいと思われていました。そして、点数を上げるためには、受験する教科の重箱の隅の知識もしっかり身につける必要があったのです。
しかし、自分の将来の仕事のために勉強するとしたら、勉強の仕方も当然変わってきます。新しい勉強のスタイルは、全教科を万遍なく、しかし、重要なポイントをしっかり身につけ、そして自分の興味関心のあることについては徹底してこだわるようなものになるでしょう。
バブル崩壊の影響で山一證券が倒産したとき、優秀な大学を出た優秀な社員がたくさんいましたが、多くの人が再雇用に苦労しました。そのときに言われた言葉が、「優秀な人なら、いくらでもいる。欲しいのは自分の持ち味のある人だ」ということでした。
肩書に支えられた社会は、今回の経済危機で大きく後退するでしょう。それは、明治維新が、武士階級の小さな肩書の差を一掃したことと似ています。古い社会の無駄がなくならなければ、新しい社会の芽は出てこないのです。
新しい時代は、新しい需要を作り出す人によって作られていきます。新しい需要とは、これまでの規制下の制度で作られた架空の需要ではなく本当の需要に根差したものです。
新しい需要を作り出せる人は、同時に、自分が新しい何かをしたいと思っている人です。
これからの子供の教育で大事なことは、いつも新しい何かをしたいと思っている子供たちを育てることです。そして、子供たちは模倣によって成長する存在ですから、何よりも身近な大人が新しい何かを求めて生きていくことが大切になってくるのです。
教育の分野にも古い体制は残っています。教育の本来の目的は、子供たちの実力を育てることですが、実力以外のものが目的のように遂行されている面があります。そのひとつは、受験に合格させることを目的にした教育です。
もちろん、実力をつけた結果として合格するのであれば問題はありませんが、受験をめぐる情報が精緻になるにつれて、実力以外の要素が合否を分けるような面が大きくなっています。
例えば、ある試験に合格するためには、その試験の過去問の分析が欠かせません。しかし、受験する子供には、分析のためのデータや方法がありません。すると、そういうデータを利用できる子供の方が利用できない子供よりも、合格する可能性が高くなります。このため、教育は、不必要にお金のかかるものになっています。
新しい教育とは、教育を本来の実力をつけるための教育に戻すことです。そのための方法のひとつは、子供たちの教育を家庭と地域を基盤としたものにすることです。教育を学校だけに任せるのではなく、学校と家庭が連携したものにしていく必要があるのです。
他人に委託する教育から、自分たちで工夫する教育、つまり自助の教育に変えていくことが、これからの新しい教育に求められてくると思います。
ヨーロッパ発の経済危機が起きた場合、日本の証券会社や銀行も、ヨーロッパの国債デフォルトに関わるCDSを取り扱っているようですから、ヨーロッパの破綻は、日本の金融機関の破綻にもつながってきます。
日本の大手証券会社や大手銀行が破綻しそうになったとしたら、国は、その金融機関を救済するために、資本注入で乗り切ろうとするでしょう。そのときの原資は、印刷されたマネーです。
その一方で、預金の引き出し額制限などの対策をとるでしょう。
また、銀行は、手持ちの資金を確保するために、これまで貸付をしていた企業や個人から、貸し剥がしを始めるでしょう。
こうして、銀行の経営危機が、産業界全体の活動の低下を引き起こすのです。
しかし、日本は、既に1990年のバブル崩壊のときに銀行の貸し剥がしを経験していますから、産業界に対する影響は、世界の中では比較的軽症にとどまるでしょう。
けれども、社会全体が不況に向かうことは避けられません。
その一方で、銀行を救済するために印刷されたマネーによって物の値段が高騰していきます。
これが、不況下のインフレです。
なぜこういう事態が起きてきたのでしょうか。
社会の富の本質は、人々の需要です。欲しいものがあるから買いたいという気持ちが、富の源泉です。
だから、人々が本当に欲しいものが需要となり、それが生産されていれば、社会は豊かになり発展していきます。
ところが、工業化時代の終わりごろから、先進国では、そのように人々が心から欲する需要が少なくなっていったのです。
自動車、クーラー、カラーテレビは、かつては豊かな生活の象徴で、人々の憧れの対象でした。しかし、いったんそういうものが所有されてしまうと、もう2台目の需要はありません。もっと高性能のものが出てきたとしても、それは最初の需要ほど強いものではありません。
こうして、先進国では、富の源泉が次第に枯渇していったのです。
しかし、先進国には、これまで蓄積したマネーがありました。このマネーの使い道を作るために、別の需要を作らなければなりませんでした。
そこで、国がケインズ政策という大義名分で作り出した需要は、人々の本当の需要に基づいていない架空の需要でした。その架空の需要が消えないようにささえる枠組みが、利権システムでした。
更に、その架空の需要は、リアルな経済を離れ、マネーがマネーを需要する金融工学として発展していきました。
人々の生きた需要よりも、人為的に作られた架空の需要の方が大きくなり、それを富だと勘違いしていた時代がしばらく続きました。
今起きている経済危機は、その勘違いが明らかになり、破綻しようとしていることなのです。(つづく)
※クリスマスイブにふさわしくなさそうな話を始めてしまいましたが(^^ゞ、最後は明るい話にする予定です。