ときどき保護者の方から、教育相談のお電話をいただきます。
その中で、「(これまでは国語のテストの成績がよかったのに)、最近の国語のテストで悪い点数を取ってきた」という話がたまにあります。
つい先日、小学3年生の生徒のお父さんから、「この前の塾のテストで成績が悪かったが、どうしたらよいか」という相談を受けました。
そのときは、ちょうど私に時間があまりなかったために、一般的な説明しかできませんでした(どうも失礼しました)。しかし、こういう場合の保護者の対処の仕方は実は簡単なのです。
それは、その悪かったという国語のテストの問題を1、2時間かけて親も解いてみるのです。これは、小学生の場合だけではありません。中学生でも、高校生でも同様です。(さすがに、高校生ではそういうことはあまりないと思いますが)
英語や数学のテストと違って、国語(現代文の読解問題)は、何の準備がなくても大人ならだれでも解けます。
そして、実際に解いてみて、子供の間違ったところを見てみると、おのずからどこに問題があるのかわかってくるのです。これは、不思議とわかります。
具体的な要領は、こちらの「国語の勉強法」というところをごらんください。
https://www.mori7.com/bennkyou.html
国語の問題で高得点を上げるためには、難読と速読に慣れておく必要があります。つまり、学年相応よりも難しい文章を読むことに慣れていて、長い文章を読むことにも慣れているということです。
そのような読む力を前提にしたうえで、実際に解くときには、理詰めに解くことが大事です。例えば選択肢を選ぶ問題のときも、漠然と合っていそうなものを選ぶのではなく、厳密に、どの選択肢のどこが違っているかということを逐一挙げていき、最後に残ったものを選ぶというような解き方です。
また、入試問題は、難関校になるとかなり長い文章の問題が出されることがあります。長い文章を読ませておいて、その文章のどこかに答えらしきものがあるというような問題が出されます。その場合、最初に問題文を読むときにじっくり味わいながら読み、自分が面白いと思ったところなどに線を引いておくと、答えの場所をすぐに見つけることができます。
国語のテストは、英語や数学など他の教科のテストとは違う面があります。国語以外の教科では、知っているか知っていないか、又は、できるかできないかという黒白はっきりした答えが要求されます。
ところが、国語の場合は、浅くも読めるし深くも読めるという問題ですから、易しい問題であればだれでもできますし、難しい問題でもできないことはないという性格の問題になります。
ここで、解くときの気合いが大事になります。国語の成績のいい子に共通しているのは、「絶対にいい点を取るぞ」という気構えです。難しい問題になればなるほど、この気迫の差が点数の差になってきます。難しい問題は、浅く感覚的に読めば間違えるが、理詰めで厳密に読めば正しい答えになるという作り方になっているからです。
しかし、更に言うと、将来、こういう国語の問題はすたれていくと思います。
本当の国語力は、そういう、多少テクニックを必要とするような国語の読解問題で測られるものではないからです。それは、学力が上になるほどそうです。
本当の国語力にいちばん近いのは、作文力や対話力です。だから、将来は作文や面接や討論が国語の問題の中心になっていくと思います。
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植物が、根を広げ、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を実らせるように、
人間の成長にも順番がある。
昔から、習い事は6歳の6ヶ月からと言うが、
それは、6歳から花を咲かせることではない。
6歳は、根を伸ばし、葉を茂らせる時期。
小学校1年生は、作文を書いても2、3行、読書も大きい字の本をやっと読むぐらいです。
しかし、ここで、上手な作文を書かせようとしたり、読書だけでなく国語の問題をやらせようとしたりするのは、1年生の子に花を咲かせることを要求しているようなものです。
この時期に大事なことは、毎日することを決めることと、できたところまでで褒めることと、何をやっても楽しく済ませることです。そのためには、長時間勉強させないことも大事です。
かといって、全く勉強させないというのではありません。
単純に続けられることを毎日欠かさずやる習慣をつけておくことです。
毎日ということで、いちばん簡単なのが読書です。
そして、できるだけやっておきたいのが、同じ文章を繰り返し読む練習としての音読と暗唱。
それから、親子の対話の習慣と簡単な作文。
小学校1、2年生のころは、子供は大人の思いのままに動きます。
だから、花を咲かせようと思えば、花を咲かせてしまいます(笑)。
でも、中学生、高校生の後半になってぐんぐん伸びる子は、小学校低学年のときに根を伸ばしていた子なのです。
ということで、今日のテーマは、根と葉と花と実。
1、根葉花実についてひとこと、
又は、
2、「ね、は、み」で五七五、
又は、
3、何でも自由にどうぞ。
4月から小学校1年生になる子は、いろいろな可能性を持っています。
このころは、勉強をさせれば、みんな勉強ができるようになります。
何でもできるようになるので、ついできるだけやらせようとしてしまいがちですが、ここで親の微妙な判断が必要になります。
その微妙な判断の基準は、親がその子をよーーーーく見ることだと思います。
1月、2月は、新しいことを始めたくなる季節です。
この雰囲気がこれから春までずっと続いていくのでしょう。
それでは、今日も新しい希望の根を広げながら、いい一日をお過ごしください。
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facebookの記事を更新しました。
点数で励ませば、
点数が下がれば意欲も下がる。
共感で励ませば、
長続きする意欲が育つ。
他人との競争でがんばらせるよりも、その勉強の中身を見てあげよう。
例えば、国語の成績が返ってきたら、点数を見るよりも、どういう問題でどういう答えをしたのかを見るのです。
そこで見る子供の実力が本物です。
場合によっては、点数が悪くても、「この問題は別にできなくてもいい」ということもあります。
また、逆に点数がよくても、「これはちょっと対策を立てないと」というのもあるでしょう。
そして、子供の国語の実力は、普段、家庭で子供と話をしていればおのずからわかってくるものです。
実力がまだ足りないと思ったら、国語の問題集をやらせるよりも、まずもっと本を読ませて、もっと知的な対話に時間を使うようにすればいいのです。
そして、国語の勉強というのは、もともと全部できて当然のものであるはずなのに、今の競争社会では子供たちの間に差を作りそれで意欲を引き出そうとしています。
むしろ、国語の勉強は、作文を書かせることによって、その書かれた内容に共感する形で伸ばしていけばいいのです。
ということで、今日のテーマは、点数より共感。
1、共感についてひとこと、
又は、
2、「きょ、う、かん」で五七五、
又は、
3、何でも自由にどうぞ。
子供たちの世界は、大人の世界の縮図です。
限られたパイをめざして競争に勝つという社会から、各人が自分の創造で世の中に貢献するという社会に、今世界は大きく変化しようとしています。
子供たちの勉強も、その大きな流れの中で考えていく必要があります。
そのためには、まず大人自身が、毎日の生活の中で小さな創造と共感を積み重ねていく必要があります。
それが例えば、親子の対話です。
子供がいなかったり大きくなってしまったりした人は、facebookの対話です(笑)。
それでは、今日も対話と共感のあるいい一日をお過ごしください。
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曇りかけていた空が静かに晴れてきました。
今日も、おだやかないい一日になりそうです。
今年は、文字どおり新しい年になるでしょう。
日本も、世界も、いい方向に大きく転換するのが今年2012年です。
目の前にある困難は、大きな山や広い川のように行く手を阻んでいるように見えますが、それらが見えたということは、克服する道もこれからの人間の英知で開けていくということです。
言葉の森は、今年、森林プロジェクトという新しい企画の運動を広げていきます。
これからの社会は、ひとりひとりが自分の手で、本当に自分が求めているものを創造し、それを互いに共有することで豊かになっていく社会です。
これまでの、ゼロサムの果実を互いに奪い合う自己中心の競争が世の中を引っ張ると思われていた社会は、やがて静かに終息していくでしょう。
新しい時代のキーとなる概念は、人間の創造性を生かすということです。
植物が生まれつき光合成という能力を持っているように、人間はだれでももともと創造性という力を持っています。
その創造性は、人間が、ある意味で不自由な身体と言葉とを持っているところから来ています。
ここからは、頭の中の思考だけの話になりますが、もし人間が、自分の身体を自由に超越できていたとしたら創造性は必要ありませんでした。
例えば、遠くに欲しいものがあったとき、手がマジックハンドのようにビヨヨーンと伸びてそれを取ってこられるとしたら(笑)、人間は、交通や流通の手段を発明する必要性すら感じなかったでしょう。
だから、この不自由な身体、寒いときには服を着て、暑いときには日陰に入り、ころんでけがをしたときにはバンドエイドを貼るような不自由な身体が、創造性の不可分の前提となっています。
また、人間が思ったことを百パーセント相手に伝えられるとしたら、今日の何十万語もある言葉そのものを発明しなかったでしょうし、その言葉の組み合わせ方でよりよく伝わる工夫もしなかったでしょう。
更に、言葉と言葉を組み合わせて、本来ないものを表現する方法、例えばダジャレや冗談なども思いつかなかったでしょう。人間が笑える動物であるというのは、この言葉を通して世界を見ることと深く結びついています。
しかし、これまでの工業社会では、人間は自分の身体と言葉を、あたかも道具であるかのように使ってきました。
手足は、重いものを持ち上げたり、書類を書いたりするための道具でした。言葉は、向こうのものをこちらに伝える正確なモールス信号のようなものでした。そして、頭脳は、言われたことをしっかり記憶して必要なときに再現できるコンピューターのようなものでした。
人間の身体と言葉と頭脳は、そのようにももちろん使えますが、その使い方にとどまっていては、本来の使い方を発揮したことにはなりません。
本来の使い方とは、身体と言葉と頭脳を、新しいものを創造するための土台として使うということです。
未来の教育は、この人間の創造性を育てるということを最も大きな目的として新しく作り直されていくでしょう。
今年は、その新しいことがいろいろな形で日本中に生まれてくる年になると思います。
2012年(平成24年)が、みなさまにとってよりよい一年になりますように。
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バーチャル賞品とは、どんな商品ですか・゚・(´・ω・`)ノ
読解マラソンのアイテムのように、自分のキャラクターにいろいろものがつけられるという形です。
絵の上手な人は、自分も描いて参加することができるようにしたいと思っています。
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工業時代のニーズは消費でした。その消費のためにお金を稼ぐというのが仕事でした。
これからの文化の時代のニーズは生産です。生産と言っても、物作りのような生産とは少しニュアンスの違う文化の生産です。それが物の形をとることもありますが、本質は物ではなく文化です。だから、生産という言葉より創造という言葉の方が合っているかもしれません。
自分が何かを創造し、それを提供することによって人々が喜び、その喜びの返礼としてお金が手に入るという結果がついてきます。これが新しい経済の流れです。
最初は、小さな流れがあちこちに生まれるだけかもしれません。先ほどのスピリチュアル講座を開設した女性も、最初は近所の人の相談にのるぐらいかもしれません。しかし、やがてそういう流れの中から、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズが現れてきます。
ゲイツやジョブズは、IT(インテリジェンス・テクノロジー)という工業の世界から生まれました。だから、スタートは自分の頭の中にあるアイデアでしたが、作られたものは物であり、多くの人が消費することを前提とした製品でした。
これからの文化の時代に作られるものは、単なる物ではありません。自分もその生産あるいは創造に参加できるという新しい資格のようなものなのです。
だから、女性を中心とした多数のミニ起業家の中からやがて現れてくるのは、本当は、ゲイツやジョブズというよりも、女性の松尾芭蕉や女性の千利休といった方が近いでしょう。
俳句を作るのに、工場や機械設備は必要ありません。お茶を飲むのも同様です。占いやヒーリングや運勢改善も、基本は同じです。マインドマップや速読法や記憶術も同様です。
今の世界ではまだお金を動かすために、物という形をとることも多いのですが、やりとりされる本質は物ではなく文化です。
そして、文化の本当の楽しみは、自分も創造に参加できるということにあるのです。
iPhoneを買うのも喜びですが、自分で俳句を作るのも喜びです。同じように、自分でだれかをヒーリングするのも喜びです。そして、自分のヒーリングが売れるとなれば、あるいはヒーリング講座が売れるとなれば、それは物を手に入れる消費の喜びとは質の違った喜びになるでしょう。
時代の象徴となる人物は、工業時代には、本田総一郎や井深大でした。江戸の文化の時代には、松尾芭蕉や千利休でした。そして、もう少しさかのぼれば清少納言や紫式部でした。
いずれも、登場した最初のころは、それらの人物が担う製品や文化が社会の中で大きく育つとは思われていませんでした。
今、日本は、そういう新しい文化の時代が始まる歴史の前にいます。
言葉の森が、森林プロジェクトとして考えているのも、そういう新しい文化としての教育です。(つづく)
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私の周囲に、いろいろなセミナーに出かけ、そこで資格を取得したり技術を身につけたり、自分でも新たにそういうセミナーを主宰したりするようになっている人がいます。
物が豊かに溢れる日本の社会では、もちろんまだ欲しい物はたくさんありますが、物よりも心を引きつけるものは、自分を向上させて自分でも何かを始めるという、物以外のものなのだと思います。
豊かな消費者という目標はもはや過去のもので、消費者としての豊かさをいくら追求しても、大した喜びが得られないと思うようになってきたのです。
消費の喜びより、もっとわくわくするものは、たとえ小さなものであっても、生産者として自分を豊かにする喜びです。消費者としての豊かさから、生産者又は供給者としての豊かさを求める時代に変わりつつあるのです。
そして、このニーズがこれからの日本の経済を切り開くエネルギーになっていきます。日本が新しい経済をスタートさせるということは、世界の経済の先に進む方向が明らかになるということです。
では、それはどのような形で進むのでしょうか。
例えば、ある家庭の主婦が、ふと思い立ってスピリチュアル系のちょっと不思議な講座を受講したくなったとします。占いとヒーリングと運勢改善の講座です。その内容自体に賛成してくれる夫は少ないと思いますが(笑)、それ以上に、もしその費用が20万円もかかるとしたら、たとえその講座を受講することによって自分もその講座を主宰する資格が得られるとしても、常識ある社会人である夫は、まず頭から反対すると思います。客観的に見ても、その反対意見の方が説得力があります。
ところが、世の中の半数は女性で、ある女性が関心を持っている何かは、他の多くの女性も関心を持っています。
その女性が夫を説得し、20万円の講習を受けて、技術を身につけ、自宅でささやかにその仕事を始めたとします。
ここで大事なことは、価値は、需要から生まれるということです。
その女性のもとに、同じような関心を持つ女性たちが集まります。すると、当初の金額はわずかであるとしても、それは立派な仕事です。そして、需要が増えれば金額増えるという関係から考えれば、その女性の始めた仕事がこれからどれぐらい発展するかはだれにもわからないのです。
社会には、いろいろな資格があります。それらの資格を支えているものは、もともとのニーズです。しかし、生のニーズでは不安定なので、資格を独立した形で存続させるものとして、制度や法律や組織ができます。
会社に入るというのも、大きな意味ではその会社に入るための資格を手に入れるということです。そして、いったん資格が手に入ったら、風邪で休んで仕事ができないときでも、つまり、仕事をするという生のニーズに応えられなくても、報酬は保障されます。しかし、報酬のもとになっているものは、あくまでもニーズです。
ところが、今の日本の社会では、戦後の歴史の経過の中で、既にニーズのなくなった制度があちこちに残っています。それが、旧体制です。その旧体制のもとになっているものの多くは、物不足の工業時代に生まれた大量消費の価値観に基づくニーズです。
それらのニーズは、なくなったわけではありませんが、供給する側が圧倒的に増えたために、ニーズとして経済を牽引するパワーをもう持たなくなっているのです。
昔の物不足の時代には、物を手に入れることはわくわくすることでした。今はそうではありません。
今生まれている新しいニーズは、自分も生産者として創造に参加したいというニーズです。
そのニーズを担っているのは、主に、現実の仕事に追いまくられていない女性です。男性の多くは仕事に追われ、自分の本当のニーズがどこにあるか考える時間もあまりありません。しかし、心の奥では、定年になったら自分の力でできる何かを始めたいと思っています。
仕事に追われていない女性は、もっとストレートに、今、自分のしたいことは何かを創造することだと実感しているのです。
その最初の出発点は、スピリチュアル系でも、ヒーリング系でも、あるいは、マインドマップでも、速読法でも、記憶術でもいいのです。自分の持っている力で、たとえ女性の起業家というほどではなくても、自分が生産者として社会に参加する機会を作りたいと思っているのです。(つづく)
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昨日、山一證券のことを書きましたが、もし、今の会社で突然リストラに遭ったら、みなさんはどうするでしょうか。
当面、食べていくことは何らかの形でできるでしょう。
これまでのように、個別企業の破綻でしたら、新しい就職口を探すということで対応できます。しかし、今回の経済破綻は、再就職の可能性がないほど、経済全体が破綻することになるかもしれません。
そのときに、焼け跡の荒れ地から最初に芽を出して立ち上がるのは、徒手空拳でも、つまり肩書や資格や組織や資金がなくても、自分の力で周囲に喜びを提供できる人です。
そのときの喜びの提供の仕方は、戦後の焼け跡で闇市が立ったときのような形のものではありません。戦後の焼け跡時代に、不足していたものは物でした。食べ物も衣服も住居もなくなったところから戦後がスタートしました。だから、そのあとに訪れた高度経済成長時代は、物の経済の時代でした。
しかし、今回は、そうではありません。世界経済のバブルのお金が吹き飛んだために、資産がなくなり、その影響で仕事もなくなるかもしれません。しかし、物は豊富にあるのです。ないのは、物を回すために使っていたこれまでのお金です。
終戦直後の社会では、生産力が破壊されていました。だから、物作りからスタートしました。しかし、今度の経済破綻は、生産力の破壊ではありません。生産力は、十分にあったのです。そして、経済破局の中でもそのままあり続けるのです。それが売れないというだけです。
なぜ売れないかというと、皆が欲しがるような普通の生産物、例えば、食料品、衣料品、家電製品などは、中国をはじめとする新興国で、もっと安く大量に作られ売られるようになったからです。
かつて時代の先端を行っているように見えたパソコン生産も、電子化によってただ部品を組み合わせて箱に詰め込むような簡単な生産になりました。自動車生産も、電気自動車化によってやがてどこの国でも組み立てられるようなものになるでしょう。農業生産も、工業生産も、買いたい人よりも、作りたい人の方が多い時代になったので、物が売れなくなったのです。だから、リストラが始まったのです。
企業は、従業員の数を減らし、機械化を進め、低賃金の労働者を移民の受け入れや派遣の採用の形で雇うことによって、売れない競争に勝とうとします。そのことによって、社会全体の物がますます売れなくなっていきます。
使い道のなくなったお金だけが余り、欲しいものがないので、当面必要な安い物だけを買い合う結果、ますます物が売れなくなりお金だけが余るという状態になっているのが現代の経済です。
だから、突破口は、個々の人の再就職ではなく、みんなの欲しがるものを提供できる人が登場することにあります。今度の経済破局の焼け跡から立ち上がる最初の芽は、物資の横流しで利益を上げる闇市ではなく、文化の創造で喜びを与える光の市です。(対比の言葉が格好よすぎますが(笑))
世界の未来は、中国やブラジルやインドなどの巨大な新興国が担うわけではありません。新興国の経済は、これからも発展しますが、新興国のあとに続く国も、続々と同じ道を進んできます。その道の先端にいる日本が、不況からいちばん最初に立ち上がり、新しい経済のモデルを作っていくことが求められています。
今の世界経済の行き詰まりは、日本が工業時代のあとに続く新しい産業のビジョンを提案できなかったために起こったものです。日本が工業時代の成功で使い道のなくなったお金をためる一方、アメリカがそのお金を借りるという名目で横取りして(笑)、博打を始め最初は大儲けしたもののやがて賭けた大金を返せなくなったというのが、今の日米関係です。
アメリカに貸したと思うのではなく、もうそれは恵んであげたことにして、日本は今まだある手持ちの資金で新しい創造産業を始めればいいのです。そのために、創造とは無縁のところにとどまっている淀んだお金を一掃しなければなりません。それが、これから起こる混乱の本質です。だから、これは、混乱というよりも、新しい時代を迎えるための大掃除という意識で前向きに取り組んでいくことなのです。
新しい産業は、価値を生み出すものでなければなりません。今、多くの人が思いつく新産業の多くは、単に消費する産業です。おいしいものを食べて、いい服を着て、景色のいいところを見に行くという程度の消費では、世界経済の立て直しにはなりません。それは、今、新興国の人たちが既に始めていることです。日本は、そういう消費の喜びを超えた喜びを創造しなければなりません。それが、同義反復のような表現になりますが、創造の喜びです。
周囲の人に新しい喜びを創造することを、自分の喜びとするような仕事が、これからの時代に必要とされる仕事です。
もちろん、世の中は、それほど単純に進むものではありません。現実に起こってくる諸問題には、バランスよく対応していくことが必要があります。
世の中には、おいしいものを食べるどころではない人も大勢います。また、工業生産の多くは新興国に取って代わられずに日本国内で競争力のある生産を続けています。また、経済の混乱から弱者を守るには、今よりも強力な政治の力が必要です。
しかし、大きな目でみると、今は、新しい社会が登場する前の入口にみんなが集まっている時期なのです。入口の方向さえわかれば、やがて行列は静かに動き出し、新しい時代が日本から始まっていくでしょう。
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facebookの方のコメントで、「入口は一つではない」という話があったので、その補足説明です。
行列というのは、経済の方向です。
世界の経済のお金の使い道がわからないために、今の行き詰まりが起きています。
大きく見ると、これからの経済は工業の時代から文化の時代に移っていくと思います。
しかし、その移行の仕方は、これまでのように他人を押しのけて我勝ちに進むものでなく、周囲の人との共感の中で静かに進んでいくものです。
だから、行列は静かに動き出すのです。列を崩して殺到したり塀を乗り越えて入ったりしないということです(笑)。
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