公立中高一貫校で作文の試験がよく出されますが、その時間と字数は、普通の小学生が書くにはかなり厳しい制限になっています。中には、30分で800字の作文を書かせるところもありますが、これは大人でもそういう訓練をしていなければ書けるものではありません。
作文を書くスピードを上げるコツはいくつかありますが、その中でいちばん大事なものは、先に全体の構成を書くという書き方をすることです。
一般に文書を書くには、二つの方法があります。ひとつは、書きながら考えるという書き方です。日常生活で文章を書くときは、ほとんど、この書きながら考え、考えながら書くという書き方をしています。自分の書いた文に触発されて次の考えが浮かび、その考えをもとに文を書くと、その文に引きずられてまた考えがわいてくるという書き方です。
しかし、こういう書き方は、日記を書くようなときには自然に書けますが、作文の試験のときは、この書き方では当たり外れが大きすぎます。悪く言えば、行きあたりばったりの書き方になってしまうからです。
もうひとつの書き方は、あらかじめ全体の構成を考えてから書くという書き方です。これが、言葉の森で勉強している構成を考えて書く作文です。言葉の森では、小学校6年生の説明文あたりから、全体の構成を意識して作文を書くようにしています。第一段落はこんな話、第二段落はあんな話、そして、第三段落はこうで、第四段落はこう、という説明を聞いてから作文を書きます。こういう練習をしていると、自然に、全体の構成を考えて書くというコツがわかってきます。
作文試験の本番でも、作文を書く前に、配られた用紙の余白に小さくメモを3、4個書きます。そして、作文を書き始めたらほぼノンストップで書いていきます。もし途中で、このあと何を書いていこうかと迷ったら、すぐにメモを見て全体の方向を確認し、またノンストップで書き続けるという書き方です。
しかし、この構成を重視して書く書き方は、書いていて面白くはありません。書くということは、自分の考えを創造していく過程ですから、あらかじめ全体の構成を書いて書くというのは、清書を書いているようなものであまり面白くはないのです。
そこで、普段の勉強では、この二つの書き方、考えながら書く書き方と、考えたあとに書く書き方を組み合わせるようにしています。
考えながら書くというのは、書いていて面白いものですが、そのまま文章として書くのでは時間がかかってしまいます。そこで、構成図を書いて考えるようにします。構成図とは、自分の頭の中にある材料を散らし書き風に並べていく書き方です。この構成図で自分の思いついたことを矢印でつなげながら次々と書いていきます。これが考える過程になります。構成図はまとまった文章として書くわけではありませんから、文章を書くよりもずっと早く自分の考えを深めることができます。
しかし、この構成図だけでは、他人が読んでもよくわかりません。そこで、構成図で考えた結果を、今度は全体の構成をあらかじめ考えたうえで書いていきます。
このように、構成図で考え、構成作文で仕上げるという書き方をすれば、考える楽しさも味わえ、すばやく書くこともできるのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。構成図(25) 作文の書き方(108) 公立中高一貫校(63)
新年度が始まり、どの学年の作文も、一段階難しくなりました。
小学校3年生は、急に題名課題や感想文課題が出てきて戸惑っていると思います。毎年、何人かの方から、「題名が決まっていると書きにくい。自由な題名にしてほしい」という要望があります。しかし、やがて子供自身が題名課題に慣れてきて、どの子も課題に合わせて書くことを考えてくるというようになります。
小学校5年生は、課題そのものが急に難しくなりました。感想文の課題の週が増え、それも難しい文章を読んでの感想文ですから、どの子もしばらく苦労すると思います。しかし、5年生は、難しいことにチャレンジすることを喜ぶようになる年齢なので、この難しさも正面から取り組めばかえってやりがいのあるものになってきます。
中学1年生は、意見文の書き方で構成を重視した文章を書くようになります。これも、新しい書き方なので、最初はなかなか書きにくいと思います。しかし、慣れてくると、ひとつのパターンに当てはめて書くということがわかってくるので、将来小論文の試験があったときも、わかりやすい構成で書くことができるようになります。
さて、学年ごとにそれぞれ難しい課題になった今日、通学教室の4.2週の勉強を見ていて、生徒がみんなよく準備してきているのに驚きました。どの子も、事前に長文を読んだり、課題を考えたりしてきていました。あらかじめ構成図を書いて、お父さんやお母さんの話を取材している子もかなりいました。
事前の準備でお父さんやお母さんと対話をしてくることが、子供たちの理解力、思考力、表現力に大きなプラスになっていると感じました。家族との対話が、子供たちの学力にどういう影響を与えるかという研究はたぶんまだどこでもやっていないと思います。だから、データ的にはっきりしたことは言えませんが、子供たちの様子を見た感じとしては、対話によって生きた国語力が身についているという印象でした。それは何かというと、人の話を理解し、その話を自分なりに咀嚼し、それに対して自分なりの考えを組み立てる力です。
家族との対話で、いちばんいいと思ったのは、どの子も家庭で楽しく話しているということでした。お父さんやお母さんや兄弟と、普段話さないような分野でいろいろな実例を出し合って、時には脱線しながら話している様子が作文の中から伝わってきました。楽しく勉強しているときは、頭脳が活性化するので、勉強全体の定着率がよくなります。家族との対話は、国語の力をつけるだけでなく、勉強全体の力をつける支えてになっているのではないかと思いました。
こういう対話を毎週している子は、たぶん、将来大人になったときも、この楽しさを思い出して、子供に言葉の森を習わせるだろうと思います(笑)。毎週、勉強的なことをテーマにして家族で話をするというのは、これから作文の文化として少しずつ広がっていくのではないかと思いました。
家族との対話で、もうひとついいと思ったのは、家庭によってはかなり深い話を子供にしているということです。長文の感想文を書く場合、既にあるヒントを見て先生の説明を聞くだけでは、その範囲のところまでしか考えが及びません。しかし、家庭によってはお父さんやお母さんが、自分の体験などをもとに更に深い話をしているということがあります。身近なお父さんやお母さんが、実感を込めて話す内容は、普通に本を読んで得る知識よりもより深く子供たちの心の中に入ります。これは、人と話をしているとき、だれでもときどき感じることだと思いますが、相手に確実に何かが伝わったという感覚です。そこで伝わるものは、表面的な知識ではなく、その奥にあるお父さんやお母さんの生き方のようなものだと思います。こういう話を聞いてくる子は、考えの深い子になるだろうと思いました。
作文を書くというのは、勉強のひとつの結果です。書くこと自体にももちろん意義はありますが、最近感じるのは、書く前のところでもっと大きな得るものがあるということです。そのためには、子供が毎日長文を音読し、それをお父さんやお母さんに説明し、また、その子供の説明を聞いてお父さんやお母さんが似た話をしてあげてと、かなり回りくどい過程があります。しかし、それらの過程は、面倒だと思えばもちろん面倒ですが、その過程が楽しいと思えばまたとても楽しいものなのです。対話を生かした勉強というのは、まだ必ずしも全体に広まっているとは言えず、あいかわらず子供がひとりで授業の直前に長文を読んで、先生の説明だけで感想文を書いているということもあると思います。しかし、今日の子供たちの勉強の様子を見て、これから少しずつこの対話の面白さと勉強における意義が広がっていくと思いました。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
先日森の便りに載った作文を祖父母に見せたら、たくさん褒めてくれ、感想まで書いて送ってくれました。今週のはまだ載らないのとも催促されました。入力は大変ですが、出来るだけ読ませてあげたいです。
ちゃくちゃくさん、それはいいですね。
今度、感想文の課題を書くときなど、おじいちゃんやおばあちゃんに似た例を取材して、それを書いてあげると面白いと思います。
感想文の課題を書くことではなく、日常生活でも対話が思考力を育つ野に非常に役立つとおもいます。
それにしても、筆者が生徒たちが両親との対話を通し自分の思考力を育ち文章の中にもそれを示させるのを発見したのは、かなり珍しいものです。
作文を書くというのはひとつの結果で、その結果を出すために事前に読書をしたり対話をしたり考えたりするところが本当の勉強の中身になっているのだと思います。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。対話(45)
言葉の森は、作文や国語の塾のように思われていますが、そうではありません。
その理由は第一に、塾というのは、何かの手段(おもに勉強の成績を上げるための手段)を提供するものだからです。成績を上げる究極の目的は、志望校に合格することですから、受験のための力をつける手段を提供するのが塾です。言葉の森は、そういう手段としての勉強ではなく、目的としての勉強として作文を考えてきました。その目的とは、理解力、思考力、表現力、そして創造力を育てる勉強としての作文という意味です。
第二の理由は、言葉の森の勉強が目指しているものは文化としての勉強だからです。文化としての勉強には、ピアノ、バレエ、そろばん、書道などがあります(そろばんは、実益的な面がありますから多少性格が違いますが)。文化としての勉強は、その学習の中に進歩する目安と目指すべき目標があります。同じように、言葉の森も、作文の勉強の中に、他に依存せず言葉の森の中だけで進歩していける基準として、森リンの点数、進級制度、さまざまな賞を作っています。
確かに、作文の文化というものはまだはるかに未完成です。それは、その勉強の成果の頂点となるものが、まだはっきりと現れていないからです。また、文化として確立されるためには、もっと日本の古典に根差したものにしていく必要があります。しかし、文化としての作文という方向さえ定まっていれば、これらは時間の経過の中で必ず達成されていくと思っています。この文化としての作文の勉強をすすめていくと、その副産物として作文の試験や国語の試験に合格する、というのが言葉の森の作文と今の受験体制の中での勉強との関係です。
将来、受験体制というものはなくなっていきます。それは、選抜などしなくてもだれでも自由に学べる環境が整い、他人に評価されるための勉強ではなく、自分の向上のための勉強へと、勉強の性格が大きく変わってくるからです。言葉の森は、そういう先の展望を見ているからこそ、塾としての作文ではなく、文化としての作文を目指しているのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。言葉の森の特徴(83)
作文の勉強は、あらゆる勉強の中でいちばん難しいものだと考えてください。世間には、ドリルをやるような感覚で楽しく書けることを売り物にしている作文教室もあると思いますが、ドリル形式でだれでもできるような勉強では力がつきません。中身のある勉強をするためには、それなりの苦労が必要なのだと考えておいてください。
長続きさせることがいちばん大事です。作文の勉強が本格的に難しくなるのは小学校5年生からです。小学校1年生から4年生までは、そのための準備という面もあります。勉強は長く続けることが大切です。なかなか進歩しないように見える時期があっても、長く続けた子は必ず力がついてきます。
長く続けるために大事なことは、無理をしないことです。うまく書けなかった、自習ができなかった、何度か休んでしまった、というようなことがあっても、おおらかな気持ちで見ていくことです。決して、叱ったり注意したりしないように、いつもその子のいいところを見て褒めて励ますようにしていってください。
困ったときは、すぐに教室に相談の電話をしてください。
お母さんと子供の二人だけの関係では、うまく行かないときに勉強が行き詰まることがあります。そういうときはすぐに教室にお電話でご相談ください。
・子供が作文を書けないとき
・自習ができないとき
・時間がかかるとき などなど。
子供の書いた作文は、できるだけ直したり注意したりしないようにしてください。どの子の作文も、大人が見れば、注意するところがたくさんあります。しかし、それは、注意して直せばいいというものではありません。注意するよりも、普段の読書や対話に力を入れて、自然に注意しなくても済むようにしていくというのが基本的な考え方です。
そして、他人との比較や競争をできるだけしないようにしてください。点数や競争で意欲を持たせると、必ずあとで反動があります。点数や競争や賞罰でがんばらせると、そういうものがなければがんばれない子になってしまいます。意欲は、競争によってではなく、両親の温かい関心によって生まれるものだと考えていってください。
自習も無理をしないようにしてください。音読、暗唱、読書、問題集読書など、すべてが生活の一部としてできるようになれば申し分ありませんが、そうはならない子の方が大多数です。自習ができなくても、それで勉強が進まないわけではありません。それぞれの家庭の実情に応じて無理なく続けられるものだけを続けていってください。しかし、最低限、毎日の読書は続けていくといいと思います。低中学年では、特に、読書は勉強よりも優先して行うようにしていってください。その方が、あとで必ず実力がついてきます。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。生徒父母向け記事(61) 勉強の仕方(119)
作文の勉強ですぐに効果の表れるのは、得意な子と苦手な子です。
得意な子は、書くこと自体が考える勉強になっていますし、新しい書き方もすぐに身につけます。
一方、苦手な子は、書き方の手順さえ示してあげれば、だれでも書けるようになるので、やはりすぐに上達します。体験学習で、普段書けない子が驚くほど書けるというのは、こういう場合です。
ところが、大多数の普通の子は、作文をただ書かせるだけではあまり上達しません。自分の書ける範囲で書いているだけでは、力を伸ばすきっかけになる負荷がないからです。
世間の作文指導の多くは、赤ペンによる添削が中心になっています。添削は、最初のうちこそ効果がありますが、何回か書いているうちに、赤ペンでは直すことがなくなってきます。添削に力を入れても、作文が上達しなくなってくるのです。
そこで大事になるのが、事前の予習です。
作文の勉強は、難しくすれば力がつくかというと、そういうことはありません。難しい課題を書かせようとすれば、ただ書けなくなるだけです。優しい課題で書かせれば楽に書けるので力がつかない。難しい課題で書かせれば、書けないのでやはり力がつかない。作文指導が簡単そうに見えて簡単でないのは、こういう事情があるからです。
ところが、作文の課題の難しさは、他の勉強の難しさとは少し性格が違います。課題は日本語で書かれていますから、日本語を読み取ってそれを自分なりに理解することが難しいというのが、作文の課題の難しさです。
日本語で書かれた文章が難しい場合、どのようにその文章を理解するかというと、ひとつはその文章をわからないながらも繰り返し音読して全体の流れをつかむことです。次に、その文章で自分が読み取ったことをほかの人に説明してみることです。そして、次にその説明に合わせて、いろいろな似た例を当てはめてみることです。これが、「音読→説明→対話」の予習です。
普通の子が作文の実力をつけるためには、作文の上で添削するのではなく、作文を書く前の読む勉強に力を入れていく必要があります。
難しい長文を読んで、その内容をほかの人に説明しようとすれば、普段自分が使わない語彙を使わなければなりません。そういう語彙の使い方が、作文を書くときの語彙として生きてきます。
感想文を書くためには、似た例を思いつかなければなりません。長文の説明のあと、その長文に関して家族で対話をすれば、その対話の一部が似た例につながってきます。また、たとえ直接の似た例が見つからなかったとしても、その長文をめぐって話をしようとすること自体が考える力をつける勉強になっています。
作文の勉強は、書く勉強と思われがちですが、書くというのは結果です。結果を直そうとすることは、結果に出ている形を整えるようなことです。植物で言えば、既に咲いている花の向きを変えたり、既に伸びている枝を選定したりするようなことが、結果を直すことです。
大事なのは、結果を直すことではなく、そういう結果を生むようになった原因のところに手を入れることです。植物で言えば、根をしっかり張るようにさせて、その根に水や肥料を与えることです。
作文を見ると、その子の本当の国語力がわかります。
国語力は、国語のテストではわかりません。なぜなら、国語のテストは、点数で差をつけるために、国語力以外の注意力とその注意を向ける方法とを必要とするからです。
本当の国語力は、少し難しい文章を書く練習と、そのために、少し難しい文章を何度も音読して、その文章をもとに対話をすることで身についてくるのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。作文教育(134)
作文の勉強が他の勉強と異なる点は、主体的でないと勉強ができないということです。他の勉強は、教室に来てイスに座って先生の話を聞いて、問題が配られたらそれを見て解けば、それがひとつの勉強になっています。しかし、作文はそういうわけにはいきません。
教室に来る前に、自分なりに書くことを考えていないと、先生の説明を聞くだけではなかなか書き出せません。特に、高学年の感想文課題は難しくなるので、家で何度もその課題を音読していないと、書く前の理解さえできないことになります。そういうときは、当然似た例も出てこないので、作文も書けません。
ところが、家であらかじめ音読をして、その内容を家族に説明してくるといったときも、たぶん受け身の子がまだ多いのではないかと思います。自分で似た例を考えるのではなく、親に似た例を聞いてくるという発想の子が多いのです。つまり、自分で考えて自分で言うのではなく、他人に聞き他人に教えてもらうという受け身の勉強スタイルが、子供たちの間にかなり根強く残っているのです。
これまでの社会の勉強は、与えられたものをより多くより早く身につけるという勉強でした。現在の受験勉強でも、主に要求されるのはそういう受け身の理解力です。
しかし、これからの時代は、受け身の能力はほどほどでいいのです。あるいは、必要なときだけ使えればいいのです。なぜ、知識や理解がほどほどでいいかというと、人間が社会の中で仕事をする場合、その仕事に必要な知識の範囲はかなり限られているからです(そのかわり深くなりますが)。どのような仕事にも、一般教養は必要ですが、その教養も重箱の隅をつつくようなところまでカバーしている必要はなく、全教科の概略がわかっていればいいのです。大事なことは、自分で考え、自分から発表する能力と姿勢です。
子供たちにこういう姿勢を持たせるために、作文の予習はいい機会になると思います。子供が、お父さんやお母さんに長文の内容を説明したあと、すぐに、「この長文の似た例ある?」と聞いてきたら、それに答えようとする前に、まず、「自分はどう思う?」と聞き返してみてあげてください。大事なのは、正しい答え(のようなもの)を知ることではなく、間違っていても見当外れでもいいから、自分なりに考えて自分の意見を言うことです。
もちろん、すぐにそういう自分で考える姿勢になることはできないので、しばらくは、「やはり、わからない」という答えになるかもしれません。しかし、気長に、「自分はどう思う?」という質問を続けていけば、子供は次第に自分で考えることが大切なのだとわかってきます。家族の対話は、そういうコミュニケーションを交わす場です。
作文の勉強は、答えを見つける勉強ではなく、自分で考える勉強です。正しいかどうかではなく、自分で考えたかどうかが大事なのだということを折に触れて子供に伝えてあげてください。
知識が底辺だとすると、考える力は高さです。
/\
/考 \
/ え \
/ る \
/ 力 \
/ \
/ 広い知識 \
________________
どちらも大切なのですが、現在のテストでは、測定しやすい知識の方が重視されがちです。考える勉強だと思われている教科であっても、ある問題が解けるかどうかは、考える力よりも、同じ問題を解いたことがあるかどうかという知識の習得度に左右されます。
そのような時代だからこそ、作文の勉強の中で、考える力をしっかり育てていく必要があるのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。作文教育(134)
これまで、自分なりにいろいろな本を読んできて、本というものが大きく二つに分けられるように思いました。ひとつは、著者なりの物の見方や考え方のある創造的な本、もうひとつはさまざまな資料を駆使して卒論のようにもれなく知識が網羅されているが、特にこれといって創造的なものが感じられない本です。大雑把すぎる分け方ですが、前者が買って得した本、後者が買ってそうでない本とするとわかりやすいかと思います。そして、この区別が、それらの著者の勉強のスタイルに帰因するのではないかと思ったことがあります。
創造的なことを書く人は、自分の源泉となるような古典あるいは繰り返し読むような数冊の本を持っているようです。それに対して、資料のような本を書く人は、1冊の古典のような本と格闘するよりも、広く浅くだれからも必要とされるような本を読んでいるだけなのではないかと思いました。
これが、そのまま子供たちの勉強のスタイルにもあてはめることができるように思います。現代の勉強は、その勉強を通して何かを発見したり創造したりするためではなく、その勉強を通して何かの試験に合格するために行われているという面があります。
合格するための勉強というのが、この広く浅く必要なものをひととおりマスターしておくという網羅的な勉強です。それは、試験というものが選抜試験である以上やむを得ないものですが、問題は、そういう網羅的、資料的な勉強の仕方が低年齢化していることにあります。
世の中は、自然にしろ社会にしろ、接すればどこまでも続く無限の深みを持っています。だから、子供たちは、ある物事(遊びや趣味)に夢中になり、大人の目から見てよく飽きないと思うほど長時間集中して取り組むことができるのです。
ところが、網羅的な勉強をするときは、世界はすべてある答えの決まっている平面的なものとして子供たちの前に登場します。「日本一高い山は? はい、富士山。」「では、その高さは? はい、3776メートル。」というような調べればわかる知識が、まるで自分を取り巻く世界そのものであるかのように見なされて知識化されています。その知識を身につけることが勉強であるかのように考えられているのです。これは、もっと複雑な英数国理社の勉強でも同じです。
もちろん、子供(というか人間)は、もともと本来の知識欲がありますから、やがてただ答えが○になるだけでは満足せずに、より深く知りたいという気持ちを持つようになってきます。しかし、今日の社会では、この網羅的な勉強のスタイルが、そのまま大学入試まで続いてしまうのです。そして、そういう勉強スタイルに適応した子ほど、周囲からはとりあえず優秀な子供だと見なされているのです。
これからの社会に必要なのは、自分なりに考える力で、その考える材料として多くの知識があるべきなのですが、現状は、多くの知識自体が目的になり、それを組み合わせることが知的な作業のように思われています。
日本をよりよい国にしていくためには、このような勉強の仕方そのものを変えていく必要があります。それは、資料を網羅する力ではなく、自分の関心のあることを深く知り、そして考える力を育てていくことになると思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。言葉の森サイト(41) 生徒父母連絡(78)