学校や塾などの集団指導は、低い方に合わせる形になりがちです。(あるいは高い方に合わせて低い方は見捨てる形に)
個別指導は、不自然にコストがかかります。行きつく先は1人の生徒に何人もの先生ということになるでしょう。自然界にこのような能率の悪い仕組みはありません。
江戸時代の寺子屋は、そのどちらでもない集団の中での自習指導でした。だから、親も生徒も先生も楽、生徒は自分のペースで勉強して実力をつけ、短時間で勉強が終わるからたっぷり遊ぶこともできました。
しかも、コストはほとんどかかりません。月謝を払えない家庭では、その家の畑で採れた野菜を持っていって済ませるということもかなりあったようです。
しかし、現代の自習指導は、次々とプリントを配りプリントをこなすことで対価を得る方式ですから、教育で最も大事な「できないところだけを繰り返す」ということがなかなかできません。
その結果、勉強に時間がかかるわりに実力がつかない学習スタイルになっています。
江戸時代の300年間は、実はまだ発見されていない多くの宝物が眠っています。
その江戸時代の教育方法をただ現代に復活させるだけではなく、現代的にアレンジして再生していくことが大事だと思いました。
その試みのひとつとして今取り組んでいるのが「森林プロジェクト」です。
http://www.facebook.com/groups/shinpro/
世界に通用する日本発の新しい教育を作っていきたいと思っています。
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今日の教育における二つの問題、学力格差の拡大と、学力以外の要素の欠落についての話の続きです。
原因の第三は、教育の目的が学力の向上だけに絞られ、それ以外の要素が教育というものの守備範囲の中に入っていないことです。
教育には、学力以外の教育、例えば、道徳の教育や身体の教育もあります。知識を育てること以外に、社会生活を行う上で大切なものが数多くあります。勇気、正直、思いやり、弱い者への親切、困難に対して闘う力、金銭に対する教育、日本の歴史や伝統に関する知識、将来の仕事を考えること、さまざまなしつけ(道にごみを捨てない、席を立ったらイスをしまう、人に会ったらあいさつをする)など、知識教育以外のきわめて広範な教育の分野がありますが、それらが、今は個人の主観の問題として個々人の自由な判断に任されています。個人の自由というと聞こえはいいのですが、実際には、子供たちが将来日本の社会で生活する際の民度の水準を低め合っているのです。
日本は、落し物が戻ってくる国です。しかし、これを生まれつき日本人に備わっているものではありません。日本の文化的伝統が支えている教育の成果なのです。意識して育てていかなければ失われる美徳なのだということを自覚する必要があります。そして、現在、これまでの教育のサボタージュによって、年齢が下がるほど日本人の民度が下がっている印象があるのです。
今、あらゆる教育機関は予備校化しています。学習塾や予備校は当然最初からそうですが、小中学校も、より上の高校や大学に行くための予備校になり、最後のゴールである大学も、次のゴールである就職の予備校のようになっています。この予備校の評価の尺度は学力です。どの教育機関も、トコロテン式に次のステージに子供を送り出すためのものになり、その際の基準が学力になっているのです。
学力が教育の中心であることは当然ですが、この学力だけをほぼ唯一の尺度として子供を評価する結果、学力の低い子は人間全体の評価が低いように見なされ、それが更に学力の低下に拍車をかけます。一方、学力の高い子は、その反対に学力の高さに優越意識を持ち学力の低い子を見下すようになりがちです。本来は、学力の高さを生かして社会に貢献しなければならないのを、学力の高さを自分個人が得をするための手段のように考えてしまうようになるのです。
学力を社会のために生かすか個人のために生かすかという意識の差は、社会に出てからの向上心の差を生み出します。個人の利益を中心に考えると、自分個人の利益がそこそこ手に入ればそれ以上努力する必要はなく、あとは獲得したポジションを維持することにだけ気を配るだけになります。それが、日本の社会全体の学力の低下と倫理観の低下を生み出しているのです。
では、どこがこの状態を改善する責任を持つかといえば、それはやはり教育です。教育とは、英、数、国、理、社の教育にとどまるものではありません。人間と社会をよりよいものにするために人間の全体にわたって関わるものです。そのための教育の理論が今求められているのです。(つづく)
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子どもを塾に通わせるのには抵抗があります。なんだか大事な子どもを取られた上に、ダメにされてしまうような気がします。
遠回りで効率は悪いかもしれませんが、子どもにはエリートになる教育ではなく、幸せになる生き方を教えてあげたいと思うからです。
学習塾にはいろいろな問題がありますが、いちばん大きな問題は、家庭での親子の対話の時間がなくなることだと思います。
ただし、今の受験は末期症状で、学力よりも情報力の勝負になっていますから、塾の情報を利用して勉強は自分でするというのがいいと思います。
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学力の向上を目的とした教育が、その本来の意図とは反対にいくつかの問題点を生み出しています。その一つが学力格差の問題、もう一つが学力以外の要素の欠落という問題です。
この原因の第二は、今日の受験勉強を目的とした教育が、昔の中国の科挙の試験に対するような教育になっていることです。
科挙は、いったん合格すれば、将来がすべて約束されるような試験でした。そのため、全国から秀才が集まり、科挙の試験に取り組みました。すると、倍率の高い試験は、落とすための試験になっていきます。いいところを見つけるための試験ではなく、悪いところを見つけるための試験となっていったのです。その結果、問題は、次第に重箱の隅をつつくようなものになっていきます。すると、今度は、全国の秀才はその重箱の隅に対応した勉強をしてきます。すると更に、そういう受験生に対応するために問題は幹から離れ、ますます小さな枝葉に入り込むようなものになっていきます。
このような試験に着いていけるのは、勉強のできる人というよりも、勉強しかできない人です。創造性や意欲の欠けた、勉強以外に取り柄のないような人が合格するような試験になっていったのです。
同じことが、程度の差はあれ、今の受験の世界でも起きています。そして、その延長に官僚になるための試験があるという構造になっています。「官愚の国」の著者である高橋洋一氏は、元官僚であり試験作成者であった経験から、今の試験の背景を詳しく述べています。学力のある人を選抜することが目的だった試験が、科挙化した結果、創造性や意欲のない人を選抜するような試験に変わっていったのです。(大量のテキストが指定され、そのテキストのとおりに答える試験)
もちろん、こういう弊害が大きく出るのは、特に上位のレベルの試験に関してです。学力試験はほどほどに行われているのであれば、学力を評価する尺度として有効です。しかし、社会が安定し、受験の問題がパターン化し、多くの受験生が殺到し、倍率が上がり、それに伴って塾や予備校が受験対策を本格的に行うようになると、試験は学力の評価という本来の意図から離れ、すぐに科挙化する傾向を持っています。
子供にそのような偏った勉強をさせたいと思う親はいません。しかし、受験で要求されるのがそういう学力であれば、その試験問題合わせて勉強しなければなりません。そして、受験生がみんなそのような勉強をするので、受験勉強の科挙的な傾向は是正されないのです。(つづく)
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これまでの教育の目標は、学力の向上でした。
それは、ある程度まで成果を上げていました。
しかし、今、新しく学力格差の問題が生まれています。学校で同じように勉強を教えてもらっても、ついてこられない子が生まれているのです。そして、それは、次第に低年齢化しています。つまり、学年が上がるにつれて、ますます学力格差が広がるような状況が生まれているのです。
学力格差とは別に生まれているもうひとつの問題は、学力の高い子における問題です。学力にだけ目を向けて行われる教育のために、学力以外の要素が不問に付され、その結果人間的なバランスの欠けた学力だけの子供たちが育っていることです。
この原因の第一は、学力をつけるための方法が確立していないことにあります。その結果、勉強は教えてもらっても、勉強の方法を教えてもらっていない多くdの子供たちは学力不足になり、一方、勉強だけを学校とは別の学習として教えてもらっている子供たちは、勉強以外の要素を欠落させたまま学力をつけるようになっているのです。
この場合の勉強の方法とは、学齢期になってからの方法だけではありません。むしろ、幼児期からの過程における子供の育て方こそが教育の重要な方法です。子供たちの学力は、決してDNAなどで決まっているものではありません。学力のほとんどは、後天的につまり教育的に作られるものです。しかし、家庭における子育ての方法はまちまちなので、小学校に入学するときには既に学力の差がついています。もちろんそれは、単純に早めに塾に行って勉強したから学力がつくというものではありません。逆に早めの塾通いや、長時間の勉強は子供の学力を低下させます。家庭における子供の教育という方法がないために、広範な低学力と歪んだ高学力が同時に生まれているのです。
将来、家庭における教育の方法が確立すれば、今あるような学力格差はなくなり、すべての子が高度な学力を持ち、しかも学力だけにとらわれない幅広い人間性も持つようになります。そのひとつの未来のイメージが、全国学力テストで上位になった秋田県や福井県の教育に現れています。学力が上位の県は、学習塾が普及し子供たちが朝から晩まで勉強に追われているところではなく、学校が毎日宿題を出し家庭がその宿題を毎日やらせるという学校と家庭の連携ができているところでした。つまり、教育の方法を学校と家庭で共有できている県が、学力の上位を占めていたのです。
同じように、幼児期からの学力向上の方法が確立されれば、小学校に上がる段階でもう既にみんな横並びの学力をつけていることになるでしょう。だれもが高校3年生まで、学力の格差などほとんどなく全教科の学力をつけるようになるのが未来の教育の姿です。(つづく)
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神田昌典さんの「2022-これから10年、活躍できる人の条件」を読みました。神田さんは、もうすぐ会社はなくなる。世の中は大きく変わる。これまでの社会でいいと思われていたことはかえって悪いと思われるようになる。社会が百八十度転換するということを述べています。これは、多くの人が漠然と感じ始めていることではないかと思います。これまでの価値観の延長ではやっていけないと多くの人が思い始めているのです。やっていけないどころか、今の社会でいいと思われていることが、未来の社会ではかえって足を引っ張ることになる可能性もあるのです。
(以下は、神田さんの本から離れて考えた話です)
今の世の中を支えているものは、会社(企業)です。その会社がなくなるというのは、なぜなのでしょうか。それは、会社というものが、もともと限りなく人件費を少なくする方向に進化していくものだからです。今、世の中にある仕事の中で、人間でなければできないものはそれほど多くありません。人間でなければできない仕事とは、つきつめればその人の個性を生かして創造するような仕事です。しかし、今の仕事のほとんどは、ほかのだれかに肩代わりできるもので、更に言えば、人間そのものを必要としない仕事なのです。
会社の進化する究極の姿は、無人の工場、無人のサービス業です。産業は、常に無人化の方向に進化しています。サービス業では触れ合いが大切だと考える人がいるかもしれませんが、人間は仲間どうしの触れ合いがあれば、それ以上にサービスを提供する仕事の中に触れ合いを求めるような必要は感じません。
これまでの社会は、会社があり仕事があるということを前提にして成り立っていました。いい会社に入るため、いい仕事につくために、いい学校に入る必要があり、そのために勉強をするというのが勉強の目的になっていました。その前提が大きく崩れつつある現在は、勉強のあり方も大きく変化していく必要があるのです。
では、これからの仕事はどうなるのでしょうか。これからは、会社に勤めるとか、資格を取るとかいう形で、社会に既に用意されている役割をこなすような仕事はなくなっていきます。あらゆる仕事は、必要悪のようなものと見なされ、さまざまな分野で機械化、自動化が進行していきます。そして、人間のかかわりが必要な仕事については、サービス業や役所の仕事としてではなく、家庭や地域で自主的に処理していくものとなっていくでしょう。
そういう時代に生き残る仕事とは、人間がその個性を生かして新しい価値を世の中に創造していくような仕事です。個性的で創造的な学問、芸術、技術、表現、発明、発見などが、人間の仕事の中心になっていきます。しかし、そういう仕事をする力を身につけるために必要な第一のものは時間です。創造的な個性は、お金で買えるものではありません。また、学力だけで達成できるものでもありません。ある人が、自分の関心のあるものに長い時間取り組むことによって次第に身についてくるものです。
未来の社会では、人間の生活の中心は、この時間をかけること、つまり修行のようなものになります。創造的な個性を持つ師匠を見つけ、その技を習い、やがて自分もその技に自分の個性を加味して使えるようになり、今度は自分が師匠として弟子に教えていく、というようなサイクルが人間の一生のサイクルの基本になってくるのです。
このような社会では、勉強の性格も大きく変化します。これまでの勉強は、学力をつけることを目的としていました。学力はそのまま成績として評価され、入学試験の選抜の基準となり、志望校に合格できれば、それで勉強の目的は達成されたと見なされました。
しかし、これからの社会ではそうではありません。これからの仕事は、いい学校に入ったり、会社に入ったり、資格を取ったりすることによって手に入るものではなく、長い修行の中で自分の個性を創造的に高めていく中で手に入るものになるからです。だから、勉強の目的は、自分の個性を発揮する土台を作るということになってきます。
学力が三角形の底辺で、個性が三角形の高さだとすると、これまでの社会は、底辺の長さだけで評価を済ませていた社会でした。これからはそうではありません。学力の底辺は、個性という高さと組み合わさって初めて意味あるものになります。この勉強の性格の違いが、勉強のあり方にも大きく影響してきます。
幅広い学力をつけるという点では、これまでの社会もこれからの社会も変わりません。しかし、これからの社会では、そこに自分の個性を生かすという目的が加わってきます。個性を生かすとは、自分の好きな分野を見つけ、そこで時間をかけて修行することです。個性を価値ある創造性にまで高めることが修行です。従来の学力をつける勉強に加えて、この修行をすることがこれからの勉強の大きな柱になってくるのです。
では、そこで作文の勉強はどういう意味があるかというと、作る勉強としての意義がはっきりしてくるということです。従来の勉強のほとんどは、吸収する勉強でした。与えられたものを理解し吸収し再現できることが、勉強の大きな目標になっていました。しかし、これからの仕事は、自ら作り出す仕事になります。この作り出す仕事に対応する勉強が、作り出す勉強としての作文になっていくのです。
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公立中高一貫校で作文の試験がよく出されますが、その時間と字数は、普通の小学生が書くにはかなり厳しい制限になっています。中には、30分で800字の作文を書かせるところもありますが、これは大人でもそういう訓練をしていなければ書けるものではありません。
作文を書くスピードを上げるコツはいくつかありますが、その中でいちばん大事なものは、先に全体の構成を書くという書き方をすることです。
一般に文書を書くには、二つの方法があります。ひとつは、書きながら考えるという書き方です。日常生活で文章を書くときは、ほとんど、この書きながら考え、考えながら書くという書き方をしています。自分の書いた文に触発されて次の考えが浮かび、その考えをもとに文を書くと、その文に引きずられてまた考えがわいてくるという書き方です。
しかし、こういう書き方は、日記を書くようなときには自然に書けますが、作文の試験のときは、この書き方では当たり外れが大きすぎます。悪く言えば、行きあたりばったりの書き方になってしまうからです。
もうひとつの書き方は、あらかじめ全体の構成を考えてから書くという書き方です。これが、言葉の森で勉強している構成を考えて書く作文です。言葉の森では、小学校6年生の説明文あたりから、全体の構成を意識して作文を書くようにしています。第一段落はこんな話、第二段落はあんな話、そして、第三段落はこうで、第四段落はこう、という説明を聞いてから作文を書きます。こういう練習をしていると、自然に、全体の構成を考えて書くというコツがわかってきます。
作文試験の本番でも、作文を書く前に、配られた用紙の余白に小さくメモを3、4個書きます。そして、作文を書き始めたらほぼノンストップで書いていきます。もし途中で、このあと何を書いていこうかと迷ったら、すぐにメモを見て全体の方向を確認し、またノンストップで書き続けるという書き方です。
しかし、この構成を重視して書く書き方は、書いていて面白くはありません。書くということは、自分の考えを創造していく過程ですから、あらかじめ全体の構成を書いて書くというのは、清書を書いているようなものであまり面白くはないのです。
そこで、普段の勉強では、この二つの書き方、考えながら書く書き方と、考えたあとに書く書き方を組み合わせるようにしています。
考えながら書くというのは、書いていて面白いものですが、そのまま文章として書くのでは時間がかかってしまいます。そこで、構成図を書いて考えるようにします。構成図とは、自分の頭の中にある材料を散らし書き風に並べていく書き方です。この構成図で自分の思いついたことを矢印でつなげながら次々と書いていきます。これが考える過程になります。構成図はまとまった文章として書くわけではありませんから、文章を書くよりもずっと早く自分の考えを深めることができます。
しかし、この構成図だけでは、他人が読んでもよくわかりません。そこで、構成図で考えた結果を、今度は全体の構成をあらかじめ考えたうえで書いていきます。
このように、構成図で考え、構成作文で仕上げるという書き方をすれば、考える楽しさも味わえ、すばやく書くこともできるのです。
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新年度が始まり、どの学年の作文も、一段階難しくなりました。
小学校3年生は、急に題名課題や感想文課題が出てきて戸惑っていると思います。毎年、何人かの方から、「題名が決まっていると書きにくい。自由な題名にしてほしい」という要望があります。しかし、やがて子供自身が題名課題に慣れてきて、どの子も課題に合わせて書くことを考えてくるというようになります。
小学校5年生は、課題そのものが急に難しくなりました。感想文の課題の週が増え、それも難しい文章を読んでの感想文ですから、どの子もしばらく苦労すると思います。しかし、5年生は、難しいことにチャレンジすることを喜ぶようになる年齢なので、この難しさも正面から取り組めばかえってやりがいのあるものになってきます。
中学1年生は、意見文の書き方で構成を重視した文章を書くようになります。これも、新しい書き方なので、最初はなかなか書きにくいと思います。しかし、慣れてくると、ひとつのパターンに当てはめて書くということがわかってくるので、将来小論文の試験があったときも、わかりやすい構成で書くことができるようになります。
さて、学年ごとにそれぞれ難しい課題になった今日、通学教室の4.2週の勉強を見ていて、生徒がみんなよく準備してきているのに驚きました。どの子も、事前に長文を読んだり、課題を考えたりしてきていました。あらかじめ構成図を書いて、お父さんやお母さんの話を取材している子もかなりいました。
事前の準備でお父さんやお母さんと対話をしてくることが、子供たちの理解力、思考力、表現力に大きなプラスになっていると感じました。家族との対話が、子供たちの学力にどういう影響を与えるかという研究はたぶんまだどこでもやっていないと思います。だから、データ的にはっきりしたことは言えませんが、子供たちの様子を見た感じとしては、対話によって生きた国語力が身についているという印象でした。それは何かというと、人の話を理解し、その話を自分なりに咀嚼し、それに対して自分なりの考えを組み立てる力です。
家族との対話で、いちばんいいと思ったのは、どの子も家庭で楽しく話しているということでした。お父さんやお母さんや兄弟と、普段話さないような分野でいろいろな実例を出し合って、時には脱線しながら話している様子が作文の中から伝わってきました。楽しく勉強しているときは、頭脳が活性化するので、勉強全体の定着率がよくなります。家族との対話は、国語の力をつけるだけでなく、勉強全体の力をつける支えてになっているのではないかと思いました。
こういう対話を毎週している子は、たぶん、将来大人になったときも、この楽しさを思い出して、子供に言葉の森を習わせるだろうと思います(笑)。毎週、勉強的なことをテーマにして家族で話をするというのは、これから作文の文化として少しずつ広がっていくのではないかと思いました。
家族との対話で、もうひとついいと思ったのは、家庭によってはかなり深い話を子供にしているということです。長文の感想文を書く場合、既にあるヒントを見て先生の説明を聞くだけでは、その範囲のところまでしか考えが及びません。しかし、家庭によってはお父さんやお母さんが、自分の体験などをもとに更に深い話をしているということがあります。身近なお父さんやお母さんが、実感を込めて話す内容は、普通に本を読んで得る知識よりもより深く子供たちの心の中に入ります。これは、人と話をしているとき、だれでもときどき感じることだと思いますが、相手に確実に何かが伝わったという感覚です。そこで伝わるものは、表面的な知識ではなく、その奥にあるお父さんやお母さんの生き方のようなものだと思います。こういう話を聞いてくる子は、考えの深い子になるだろうと思いました。
作文を書くというのは、勉強のひとつの結果です。書くこと自体にももちろん意義はありますが、最近感じるのは、書く前のところでもっと大きな得るものがあるということです。そのためには、子供が毎日長文を音読し、それをお父さんやお母さんに説明し、また、その子供の説明を聞いてお父さんやお母さんが似た話をしてあげてと、かなり回りくどい過程があります。しかし、それらの過程は、面倒だと思えばもちろん面倒ですが、その過程が楽しいと思えばまたとても楽しいものなのです。対話を生かした勉強というのは、まだ必ずしも全体に広まっているとは言えず、あいかわらず子供がひとりで授業の直前に長文を読んで、先生の説明だけで感想文を書いているということもあると思います。しかし、今日の子供たちの勉強の様子を見て、これから少しずつこの対話の面白さと勉強における意義が広がっていくと思いました。
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先日森の便りに載った作文を祖父母に見せたら、たくさん褒めてくれ、感想まで書いて送ってくれました。今週のはまだ載らないのとも催促されました。入力は大変ですが、出来るだけ読ませてあげたいです。
ちゃくちゃくさん、それはいいですね。
今度、感想文の課題を書くときなど、おじいちゃんやおばあちゃんに似た例を取材して、それを書いてあげると面白いと思います。
感想文の課題を書くことではなく、日常生活でも対話が思考力を育つ野に非常に役立つとおもいます。
それにしても、筆者が生徒たちが両親との対話を通し自分の思考力を育ち文章の中にもそれを示させるのを発見したのは、かなり珍しいものです。
作文を書くというのはひとつの結果で、その結果を出すために事前に読書をしたり対話をしたり考えたりするところが本当の勉強の中身になっているのだと思います。
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言葉の森は、作文や国語の塾のように思われていますが、そうではありません。
その理由は第一に、塾というのは、何かの手段(おもに勉強の成績を上げるための手段)を提供するものだからです。成績を上げる究極の目的は、志望校に合格することですから、受験のための力をつける手段を提供するのが塾です。言葉の森は、そういう手段としての勉強ではなく、目的としての勉強として作文を考えてきました。その目的とは、理解力、思考力、表現力、そして創造力を育てる勉強としての作文という意味です。
第二の理由は、言葉の森の勉強が目指しているものは文化としての勉強だからです。文化としての勉強には、ピアノ、バレエ、そろばん、書道などがあります(そろばんは、実益的な面がありますから多少性格が違いますが)。文化としての勉強は、その学習の中に進歩する目安と目指すべき目標があります。同じように、言葉の森も、作文の勉強の中に、他に依存せず言葉の森の中だけで進歩していける基準として、森リンの点数、進級制度、さまざまな賞を作っています。
確かに、作文の文化というものはまだはるかに未完成です。それは、その勉強の成果の頂点となるものが、まだはっきりと現れていないからです。また、文化として確立されるためには、もっと日本の古典に根差したものにしていく必要があります。しかし、文化としての作文という方向さえ定まっていれば、これらは時間の経過の中で必ず達成されていくと思っています。この文化としての作文の勉強をすすめていくと、その副産物として作文の試験や国語の試験に合格する、というのが言葉の森の作文と今の受験体制の中での勉強との関係です。
将来、受験体制というものはなくなっていきます。それは、選抜などしなくてもだれでも自由に学べる環境が整い、他人に評価されるための勉強ではなく、自分の向上のための勉強へと、勉強の性格が大きく変わってくるからです。言葉の森は、そういう先の展望を見ているからこそ、塾としての作文ではなく、文化としての作文を目指しているのです。
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