「日本と世界はこう激変する」(李白社)という本の中で、長谷川慶太郎さんが次のように書いています。
====引用ここから。====
(企業は大学新卒者を採用する際に、潜在能力の高い人を採用するという話の続きで)
その場合に潜在能力の高い人材を採用するには、新卒者のどのような能力をチェックすればいいのか。この点について日本企業の中でもとりわけ人材不足が叫ばれている金融機関を中心に注目しているのが国語能力です。
具体的には、きちんとした文章が書けるかどうかを入社試験で厳しくチェックします。そこに注目する最大の理由は、日本においては小中高を通じて国語に対する教育が不十分だからです。つまり、国語能力が不足しているから大学生の能力も下がっているという判断です。
入社を希望する大学生に作文の試験を行うと、立派な作文を書ける受験者はわずかで、ほとんどがいったい何が書かれているのかさっぱり分からないような作文を書く受験者ばかりだそうです。作文がろくに書けないようでは、いくら他の試験の成績が良くても不合格になります。逆にいえば、立派な作文が書ければどんな企業の入社試験にも受かるということでしょう。
====引用ここまで。====
知識を覚えることが中心の教科の成績は、あまりあてになりません。物知りであっても判断力のない人はたくさんいます。
作文力は、じっくり見れば、その人の潜在能力がはっきり表れます。だから、小手先の対策で作文の力を上げることはできません。それまでに読んだ本、考えたこと、書いた経験の総合力が作文という形で表れますから、文章はその人自身でもあるのです。
今の社会の風潮として、読書や作文などを気長にやるよりも、目の前にあるテストの成績をまず上げることだというものがあります。これが特にはっきり表れるのが、中学生のころの勉強です。定期的にあるテストのために塾に通い、少しでも点数を上げようとすると、読書や作文などは後回しになります。そして、後回しにした方が実際にテストの点数にはプラスになるのです。
ところが、そういう目先の点数中心の勉強をしている子は、本当の実力をどんどん低下させていきます。一方、読書の時間を確保しながら勉強している子は、その読書が特に成績のプラスになるわけではありませんが、確実に実力をつけていきます。そして、何年かたつと、読書の時間を確保していた子の方が理解力も思考力もついているので、いつの間にか成績も逆転してしまうのです。
中学生のころの子供のものの見方は近視眼的です。塾の先生は立場上、近視眼的な成績重視の勉強をさせざるを得ません。しかし、親は、将来の子供にとって何が重要なのかということを考えて判断していく必要があります。何でも塾にお任せで目先の成績だけを見ているようではいけないのです。
その点で感心するのは、言葉の森で受講している生徒の保護者です。時々保護者と話をする機会がありますが、自分なりの考えを持っている人がとても多いのです。自分で判断することには不安ももちろんありますし、試行錯誤もあるでしょう。しかし、これからの世の中は、この自分で判断するということがますます重要になってくると思います。
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小学校低学年では、学校で日記の宿題が出ることがあります。毎日書くことによって文章を書きなれることと、日常生活の中から書く価値のあるものを見つけてくることが練習の目的です。
しかし、子供によっては、「書くことがない」と悩んでなかなか書き出せないこともあります。確かに、毎日の生活はそれほど変化のあるものではありません。いつも同じように学校に行き、同じように勉強したり遊んだりして家に帰ってくるのですから、書くことがないという気持ちになるのはやむを得ない面もあります。
ここで大事になるのが、何をどう書くかという目標です。
言葉の森では、作文を書くときに、子供たちにいろいろな目標を指示します。例えば、「書き出しを工夫する」「中心を決める」「お母さんやお父さんの似た話を聞いてくる」「会話を思い出す」「たとえを入れて書く」などです。
学校の日記の宿題をするときも、こういう目標が役に立ちます。子供たちが作文を書くときにいちばんの助けになるのが、「会話を入れる」という目標です。会話を入れて書こうとすると、自然にその出来事を描写的に書くようになります。作文が長く書けてしかも内容が面白くなるのは、出来事を具体的に描写するからです。説明や感想だけで書いてしまうと、長くも書けませんし、内容もいつも同じようなものになってしまいます。
例えば、「今日もサッカーをして遊んだ」「昨日もサッカーをして遊んだ」という説明だけでは、いつも同じことしか書けません。しかし、そこに会話を入れると変化が出てきます。「けんちゃんが、『なんでパスしないんだよ』と言いました」とか、「じろうくんが、『ナイスシュート』と言いました」など、そのときの場面を具体的に書くようになると毎回違ったことが書けるようになるのです。
会話と並んで、日記を個性的にするのは、たとえ(比喩)です。たとえを入れて書こうとすると、作文の中にその子らしい見方が出てきます。しかし、読書量の少ない子は、個性的なたとえがなかなか出てきません。ありきたりのパターン化されたたとえを書いて済ませてしまうこともあります。そのときは、家庭でお父さんやお母さんが、一緒にたとえを考えてあげるといいのです。身の回りのものを見ながら、「おなべがことこと何かつぶやいているみたいだね」とか、「今日は風がないから、鯉のぼりが干物みたいになっちゃったね」などと話すと、たとえを見つける練習ができます。
たとえよりも見つけやすいのがダジャレです。身の回りのものからダジャレで表せるものを見つける練習をすると、たとえと同じように言葉の感覚が磨かれてきます。
日記を書く練習の主な目的は、書きなれることで、頭で考えたことがスムーズに手につながるようにする練習です。そして、考えたことがそのまま自然に書けるようになったら、今度は考えることそのものを豊かにしていくことが大事な練習になります。その練習法は、本を読むことです。日記の練習は読書の練習と結びつけて行うことによって本当の力がついてくるのです。
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ありがとうございました。
息子の10分間作文に少し助言してやろうと思います。
10分間作文は、続けていると飽きてくると思いますから、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんに手紙を出すような形で続けていくといいと思います。
大変、参考になりました。作文って、「自由に書いていい」と言われると、それがかえって窮屈になったりしますよね。そこに、「会話を入れる」、「たとえを入れる」といった制限がかかることで、逆に書きやすくなることがあると思います。
思考ラーさん、こんにちは。
今の作文指導の多くは事前に制限をせずに自由に書かせるから、事後に赤ペンをたくさん入れるようになっているのだと思います。
日記は毎日かかさず書いてまーす
ミッキーちゃんのニッキだねー。( ^o^)ノ
どうやって書けばいいか分かりません
よくわかりました。
参考になりました!!
大変分かりやすいです!
こんにちはミッキーさんは日記を毎日かかさずかいているなんてすごいです
できれば日記の書き方を教えてください。
日記はその日にあったことを書くと考えるよりも、その日の会話を書くとか、その日のたとえを書くとか、又はダジャレを書くとかすると面白い。
文章を書くのが好きな四年生の長男が日記を書くと言い出し、何かプラスのさりげないアドバイスができたらな、と思いたどり着きました。よとても参考になりました。文章がとても苦手な二年生の次男にも声をかけてあげられそうです♪
大事なのは、書くことを負担に思わせずたのしい勉強と思わせることです。いつもいいところだけ褒めてやっていくといいと思います。
私は、小学校5年生で出される宿題の中で、嫌いというわけではありませんが、5w1hという言葉を思い出しました。これからは、このアドバイスを参考にし日記を書いていきたいなと思います。
凄いです
参考になりましたぁ
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低学年で、作文を驚くほど長く書く子がいます。これは、長く書くことがうれしいからです。
小学校1年生のころは、まだ手と目と頭がうまく連動していません。そのため、作文を書くといっても、2、3行がせいぜいという状態が続きます。
しかし、だんだんと頭で考えたことがそのままスムーズに手に伝わるようになると、その力を使うことが楽しくなってくるのです。
そのため、小学校2年生ぐらいの子は、長く書くことに燃えます。学校などで一斉に作文を書く機会があると、字数の競争のようになり、「○○ちゃんは、○枚も書いたからすごい」という評価をするようになります。
伸びつつある能力を使うのは楽しいので、小学校2年生のころは、2000字も3000字も書く子が出てくるのです。
しかし、この長い字数はそのうち収まります。小学校3年生になると、言葉の森の作文は題名課題や感想文課題になります。
すると、ただ長く書くだけでなく、構成を考え、題材を考え、表現を考える必要が出てきます。それまでの作文が朝起きてから寝るまでの一本調子の作文だったとすると、今度は、今日の話を書いたあとに去年の話を思い出したり、お母さんやお父さんに聞いた話を盛り込んだり、構成が複雑さを増していきます。すると、自然と長く書くことよりも、まとまりのあるいい表現の作文を書くことに関心が向いてくるのです。
小学校3、4年生のころは、面白い表現や題材を書くことに関心が向く時期です。面白さが第一で字数は第二という関係になってきます。
運動の場合も、感覚を身につける時期、筋力を身につける時期、持久力を身につける時期と年齢によって重点が変わるように、作文も、学年によって少しずつ重点が変わってきます。
言葉の森がそういう学年別の重点を考えた指導をしているのは、高3の大学入試小論文まで指導する展望があるからです。
世間で行われている作文通信講座の多くは、小6の中学入試作文までが目標です。言葉の森は、中学入試はもちろん、高校入試、大学入試の作文小露文まで指導しています。
だから、小学生の作文を見る場合でも、小学生の作文として上手かどうかということよりも、将来、中学生や高校生になったときに上手に書く力がついているかを見ることができます。
例えば、小学生の作文は、一般に女の子の方が男の子よりも、上手に書きます。それは、女の子が、会話やたとえや心の動きなど、描写的なところに関心を持って作文を書くからです。
それに対して男の子は、数字や名前や事実の経過など、説明的なことに関心を持って作文を書きます。どこかに出かけたときの作文でも、何時何分の何という名前の電車に乗って、どこの駅に着いたというようなことを一生懸命書くのです。こういう作文は、小学生の作文としてはいい評価は得られません。しかし、将来その子が中学生や高校生になり、説明文や意見文を書くようになると、そこにこういう説明的な力が生きてくるのです。
高校3年生になって優れた文章を書き、学力もあり、東大、一橋大、早稲田大、慶応大、上智大などの難関大学に合格するような子たちが小学生のころにどういう作文を書いていたかというと、意外にもみんな普通の作文しか書いていないのです。共通しているのは、真面目にしっかり書いているということで、特に上手な作文を書いていたわけではありません。
しかし、与えられた課題で、構成や題材や表現や主題を考えながら書くことによって学年が上がるにつれて上手な文章を書くようになっていったのです。
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言葉の森の作文指導は、必ず実力がつきます。ただし、時間がかかります。
もちろん体験学習から最初の数か月間は、かなり上達しますが、それはこれまで書き方を知らなかった子が書き方のコツがわかるようになるからです。問題はそのあとです。あるところまで実力がつくと、そのあとの進歩がなかなか現れなくなるのです。
英語や数学の勉強は、一般に短期間で力がつきます。集中して勉強すれば一か月でも見違えるほど成績を上げることができます。しかし、国語的な勉強はそういうわけにはいきません。この国語の勉強よりも更に時間のかかるのが作文です。
世の中にあるいろいろな作文通信講座や作文教室はそれぞれ教え方に工夫をしていますが、その指導によって果たして上手になっているかどうかは疑問です。コンクールに入選した情報などを載せているところもありますが、それはもともと上手な子が書いて入選したということです。(言葉の森にもそういう入選情報がたくさんありますが、特に目立つような公表はしていません)
作文指導で大事なのは、苦手な子を得意にすることと、得意な子をもっと得意にすることです。そのポイントは、作文指導よりも読む力をつけることにあります。具体的には言葉の森では、音読、暗唱、読書、対話などの自習に力を入れています。特に、暗唱は、毎週電話をする先生が(通信クラスの場合)、その子の暗唱をチェックできるので、毎日欠かさずに暗唱の自習に取り組んでいる子がかなりいます。勉強というものは、何か一つでも毎日欠かさずにやるものがあると、その勉強を軸にほかの勉強もできるようになります。
子供は、同じことをくりかえす勉強を嫌がります。しかし、同じことを反復することによって本当の実力がついてきます。大手の通信教育の教材のほとんどは、子供が飽きないように目新しい教材を次々とやるような仕組みになっています。これは、形の上では勉強したような感じがしますが、本当の実力はつきません。
作文は特に実力がつくのに時間がかかるので、そういう目新しさだけの教材でもしばらく続けてしまうことがあるのだと思います。しかし、そういう勉強をしばらくやって、やはり力がつかなかったとわかったとしたら、その勉強は回り道だったことになります。
言葉の森の作文の勉強も、実力がつくのに時間がかかります。作文の勉強の成果は作品に現れるので、毎週同じような作文を見ていると、実力が停滞しているように見える時期もあります。しかし、長く続けている子は、途中から必ず実力がついてきます。
そして、言葉の森の指導の特徴は、高校3年生の大学入試小論文まで、継続して教えられるところにあります。しかも、どんな難関大学の小論文入試にも対応しています。
これまでも、小学校1、2年生から作文の勉強を始めて、高校3年生の大学入試の時期まで勉強を続けていた子がかなりいました。その中には、小論文を使わなかった子や、理科系なので国語があまり必要でなかった子もいました。しかし、共通しているのは、どの子も書くことに自信がつき、書くことが好きになっていったことです。
言葉の森の勉強は、続けていれば必ず実力がつくという点で、ほかの作文通信講座や作文教室の勉強とは一線を画しているのです。
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先日、娘が読んでいる本の題名をふと見たら、「大人への階段」。どきっとして後でこっそりめくってみたら、中身は食いしん坊の中学生が出てくる少女物でした。作文の階段も振り向いたり立ち止まったりして上って行くもののようですね。
もう暫くは母も一緒に上らせて欲しいです。
それは、人目をひくタイトルですね。
子供たちは、大人の階段を上ったり下りたりしながら、だんだん自立していくのでしょうね。
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3月の森リン大賞(中3の部58人中)(現中3の生徒が中2の3月に書いた作品です)
自分たちの社会
あまぐり
「もったいない」。日本人のモノに対する意識である。日本には妖怪の「もったい」がいる。ものにくっついてくる妖怪であり、それがついていると日本人はものを捨てたいという衝動に駆られる。しかし、「もったい」がいなくなるとモノを拾いたくなってしまう。産業革命などで、モノが大量に生産される仕組みが成り立った時は、妖怪「もったい」を多く生産することで、需要と供給の均衡を保った。ゆえに、消費社会が成立したのである。しかし、モノを多く捨ててしまう社会「使い捨て社会」のままでは、経済問題とかの前になにか、重要なものが失われているのではないだろうか。
「モノ」というのにそれぞれの確立した価値を見出し、それぞれを大切に扱うべきだ。近年、産業の発展が進むにつれて供給が需要よりも高くなるという事態が発生した。モノが余り、世は不況に陥った。しかし、それを打開したのは使い捨て社会を成立させたからだ。買っては捨て、買っては捨て……。しかし、本当にそれでよいのか。使い捨て社会が成り立っている現在、なにかが悲鳴をあげていないだろうか。人間の心と環境である。モノが廃棄されるなかで、環境汚染が進んでいく。なにかにお金を使おうと公共事業に費やし、それが発展して戦争にまで繋がっている。このような世の中がいま現在、成り立ってしまっているのだ。こんな世の中があって良いのか。私は悲しさを覚えた。やはり、モノは大切にすべきだ。モノの消費が多大なる問題を招いていると思うと恐ろしい。
しかし、モノを捨てることによって経済の発展が大きく見込まれ、近代化を進めることができる。人はモノを捨てると、それに対応する新しいモノを買う。それによって、経済がうまく回るようになっている。いわば、消費者は経済の潤滑油の役目を果たしていると言えるだろう。モノを買うことで生産者側にはお金が入る。ゆえに、利益をあげ、経済が発展するのだ。日本は先進国であるが、ヨーロッパの各国やアメリカと比べると劣る部分が多いと思う。経済の発展により、欧米諸国に追いつくことができるかもしれない。わらしべ長者は、最初にもっていたわらをすぐに交換し、それからさまざまなものを交換して、最後には豪華な屋敷を手に入れることができた。よって、一つのモノに執着せずに新しいものを手に入れることも大切である。
確かに、モノの価値を見出し、大切に扱うのも、経済発展のためにモノを捨てるということもどちらも大切である。しかし、「もともと地上に道はない。歩く人が多くなればそれが道になる」という名言があるように、私たちがこれからどうしていきたいのか考えることが大切なのである。モノを大切にする、捨てる、といったことの前に、未来の社会を自分たちがどうしていきたいか、現在の社会の現状にどう対応していくか、と考えることが重要なのだ。だからこそ、理想の社会を築きあげていく過程で、本当に大切な道を選んでいければ良いのではないかと思う。だが、時にその方法がよくなったり、悪くなったりすることがあることがあるかもしれない。しかし、未来の社会像を自分たちが描くことが大切なのである。したがって、私たちが切り拓いていく社会。自分たちの理想を掲げ、それに向かって進むことが大切なのである。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
1位 | ●自分たちの社会 | あまぐり | 90 | 1344 | 72 | 76 | 79 | 90 |
2位 | ●経験・勉強 | ポセイドン | 89 | 1338 | 61 | 79 | 85 | 86 |
3位 | ●今しかやれないこと | なるか | 89 | 1332 | 69 | 70 | 77 | 92 |
4位 | ●子供万歳 | リザードン | 88 | 1223 | 61 | 71 | 81 | 90 |
5位 | ●遊びと学びの目的 | 織田信之助 | 88 | 1215 | 54 | 80 | 77 | 90 |
6位 | ●物と心は使い捨て | ことのは | 88 | 1259 | 58 | 77 | 75 | 90 |
7位 | ●よく遊び、よく学べ | fuga | 87 | 1245 | 58 | 75 | 82 | 81 |
8位 | ●学ぶこと | ペンしろう | 87 | 1187 | 56 | 69 | 82 | 89 |
9位 | ●遊びと勉強 | ききか | 87 | 1189 | 53 | 83 | 80 | 90 |
10位 | ●子供の想像力 | アホ神God | 86 | 1264 | 67 | 59 | 79 | 84 |
★1位の作品は要約の部分が多かったため代表作品にはなりませんでした。
3月の森リン大賞(高1高2高3社の部145人中)
世界を一つの家族にしよう
えらる
『父は子のために隠し、子は父のために隠す。直、その中に在り』これは、親の不正を隠さずに証言した子に語りかけた孔子の言葉である。孔子は、その子に向かって『法的に言えば正しいが、子供としてやるべきことが他にあったのではないか』と問いかけたのだ。時代が法的社会になりつつある中、孔子は共同体意識を表した。理屈で成り立つ法的社会とは正反対の共同体意識は、感覚や情で成り立つ。アメリカは、法的意識が強い国となっている。日本と比べて弁護士が多く、それだけ裁判になることが多いということだ。日本は、とりあえず話合うことで話を大きくしないパターンがほとんどである。つまり人間関係の中で調節し、事を収める方法だ。私は、生きていく上で共同体意識を考慮した生き方をしたい。
その為には何が出来るだろうか。第一の方法は、法よりも人間関係を考慮することである。法では、人間関係が考慮されにくく、大変機械的である。私は前に違うクラスの友達が教科書を忘れた時に貸したことがある。一応規則として貸し借りは禁止となっているが、忘れた時はお互いさまである。(笑)忘れることに慣れてしまうとだらしがなくなることを防ぐ為にこの規則があるのだが、もしここで私が先生に友達が忘れたことを言えば、友達の信頼を失うことだろう。ここは、規則より人間関係を優先してしまう。学校では、友達や先生や部活など沢山の共同体がある。私は、よく先輩が下校の電車内で携帯を使用しているのを見かける。私の学校では、携帯許可証を持っている人は最寄駅のみ使用許可となっている。見かけたとしても私がいわないのは、学校という共同体意識があるからである。(先輩が怖いということもあるが・・・笑)
第二の方法は、普段からコミュニケーションをとり共同体を作りやすい環境を作ることである。私達にとって学校や会社で共同体を作ることは簡単であるが、地域間での共同体を作ることは難しく育ちにくい。しかし、地域間での共同体作りは大切だ。それは、東日本大震災を通し大きく痛感したことだろう。大きな事件が起こった時、どんなに他人でも私達は共同体を作らなければ助け合うことが出来ない。伝記で有名なライト兄弟は、たとえ二人という少人数でも共同体であった。二人で支えあい、互いに補いあったからこそ飛行機という大きな物を完成させることが出来たのだ。もし、二人が罰しあう仲だとしたら飛行機は完成しなかっただろう。すると現代になっても飛行機は無く船だったかもしれない。アーティストのAKB48が歌う『僕にできること』という歌の中に『世界をひとつの家族にしようぜ 喜びも悲しみも分け合うんだ 争った国と微笑みの握手しようぜ 明日生まれてくる子供へ僕に出来ること』という歌詞がある。この歌詞にあるように、世界という共同体を作るべきだ。
確かに共同体意識が強すぎてしまうと悪い面が出てくる。例えば、ミートホープという工場で起きた牛肉ミンチの品質表示偽装事件。この工場では、共同体意識が強すぎた為に偽装事件が起こってしまった。しかし、これは誤った共同体意識である。共同体意識を強く持ちすぎることで、お互いの過ちを隠し合うことは誤ったものである。それに対し、お互いの欠けている部分を支え補い合うことが正しく新しい共同体意識なのである。共同体意識は、昔からあったが日本ではマイナスの方向にきていた。その為、法的社会が出来てしまったのである。私達は、どのようなことにも対応することの出来る新しい形の共同体を作っていくことが大切だ。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
1位 | ●価値ある「モノ」とは | ファラオ | 91 | 1209 | 67 | 86 | 95 | 89 |
2位 | ●世界を一つの家族にしよう | えらる | 91 | 1458 | 66 | 90 | 89 | 89 |
3位 | ●法的社会と道徳心 | えみり | 90 | 1558 | 66 | 81 | 84 | 89 |
4位 | ●自分自身の物語(Roman) | なるは | 90 | 1195 | 63 | 88 | 83 | 87 |
5位 | ●平等によって | くまもんっ☆ | 90 | 1396 | 72 | 73 | 83 | 86 |
6位 | ●社会の礎 | さくら | 89 | 1400 | 61 | 97 | 94 | 90 |
7位 | ●量の制御 | ちな | 89 | 1291 | 64 | 92 | 85 | 90 |
8位 | ●道徳的共同体を大切にする | きやの | 88 | 1256 | 61 | 95 | 95 | 86 |
9位 | ●量と制御 | さきか | 88 | 1205 | 61 | 93 | 88 | 92 |
10位 | ●鎖国を解く | けろん | 88 | 1195 | 56 | 85 | 84 | 96 |
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3月の森リン大賞を紹介します。小6の部は、現在小6の生徒が3月の小5のときに書いた作文です。中1の部は、現在中1の生徒が3月の小6のときに書いた作文です。
★1位の作文は、要約の部分が多かったために代表作品にはなりませんでした。
3月の森リン大賞(小6の部97人中)(現小6生が、3月の小5のときに書いた作文です)
大好きフルーツポンチ
おまな
「いただきます。」学校の家庭科の時間に作ったフルーツポンチ。
「白玉を使ったおかしをつくろう。」というテーマで、5人1組でつくった。持ってくるものなどは、各自持っていき5人で協力してフルーツポンチを完成させた。サイダーが口の中でシュワシュワとはじける感触、果実の甘味、ポッキーとの合性などすべてがマッチしていて最高においしいフルーツポンチだった。
私は、フルーツポンチが大好きである。そのきっかけとなったのは、3年生での出来事だ。近所にある羽根木公園で毎年行われている「子供商店街。」このイベントは名前通り子供がお店を出すものだ。私も早速、幼稚園の頃の仲が良かった友達をさそい、お店をだすことにした。このとき、つくったのがフルーツポンチだった。売れ行きは、好調ですぐに売り切れてしまった。そして、お店コンテストでも2位に選ばれるという素晴らしいお店になった。この経験で私は、フルーツポンチを大好きになることができた。
今回、学校でフルーツポンチを作るにあたって家で練習をしてみた。子供商店街の経験もあり、フルーツポンチ作りには腕が鳴る。どの缶詰がおいしいかを私なりに色々とまるで科学者のように研究してみた。家族からも様々なアドバイスがあった。母からのアドバイスは、
「白玉はもうちょっと小さめにしてたくさん入れたほうがいいよ。それとナタデココとかポッキーを入れるとオシャレでおいしいと思うな。」
というものだった。この言葉を聞き、今回のフルーツポンチにポッキーを取り入れたり、白玉をミニサイズにしてさらにおいしく作れるようになった。母に感謝である。初めは、店を出すために作り始めたフルーツポンチだったが、私は完全に自分で作るフルーツポンチのとりこになったようだ。
フルーツポンチを作るのが、初めてで、とても緊張していた3年生のころ。あれから、2年たって今はフルーツポンチを作るプロになった。今回この、フルーツポンチ歴をふりかえってみて案ずるより産むが易しだなとわかった。どんな料理でもかかんにチャレンジしていけば、必ずできる、この思いを胸に料理をしていきたい。私はいつまでも、大好きなフルーツポンチを家族や周りにいる人の
「いただきます。」
という言葉を聞きながら作っていきたいなと思った。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
1位 | ●レオナルド・ダヴィンチ | なゆな | 81 | 1028 | 47 | 76 | 76 | 92 |
2位 | ●大好きフルーツポンチ | おまな | 80 | 946 | 39 | 86 | 86 | 83 |
3位 | ●一人よりみんな | レシラム | 80 | 1214 | 44 | 70 | 83 | 81 |
4位 | ●初めてのスキー | りんご | 80 | 1093 | 39 | 61 | 78 | 87 |
5位 | ●科学者の目 | エリザベス | 80 | 954 | 51 | 65 | 75 | 87 |
6位 | ●レオナルド・ダヴィンチ | なゆな | 80 | 1028 | 47 | 72 | 73 | 92 |
7位 | ●アクシデントの経験 | メゾピアノ | 79 | 1477 | 46 | 94 | 107 | 86 |
8位 | ●おいしい | はーちゃん | 79 | 1275 | 38 | 75 | 102 | 77 |
9位 | ●アクシデントの経験 | メゾピアノ | 79 | 1477 | 43 | 89 | 99 | 86 |
10位 | ●料理を作ること | 海太郎 | 79 | 1029 | 39 | 79 | 89 | 89 |
3月の森リン大賞(中1の部97人中)(現中1生が、3月の小6のときに書いた作文です)
地球の鏡
いなりずし
人間がふみならした道路いうものは、いかにも自然的な道でやさしい道でもある。しかし、アスファルトの道路になってしまえばいっきにふぜいがなくなってしまう。新しく高速道路が作られるのなら、アスファルトを使った方がいいのは当然だが、そんなにしょっちゅう車が通らないようなところまでアスファルト道路にする必要があるのだろうか。一番道らしい道は、人間の生活や暮らしを温かくしてくれて、心がおどるような発見をさせてくれるものだと思う。
僕が生まれた時代には、もうとっくにアスファルトの道路が普及していた。僕が土の道を一度も見たことが無いのもしょうがないだろう。生まれた時からアスファルトの道と接してきた僕だが、アスファルトの道の良さはいまだに五つも見つからない。確かに、雨の日や坂道などにはアスファルトが適していると思うが、外見からしてもあまり地球の温かさが感じられない。それに、土の道路だったら、夏のような暑い日では水蒸気が熱をうばってくれるし冬のような寒い日だったら土の温度を空気中に分けてくれる。このように、季節に応じて変化してくれる道は土の道しかない。アスファルトの道でも土の道でも、どちらも長所と短所がある。だが、僕は自然にあふれる土の道路の方が好きだ。地球そのものを表しているし、アスファルトの道路だと、どうしても地球が息ぐるしそうに見えてしまうのである。
僕より前の時代に生まれている母(当たり前なのだが)は、少しでも土の道路と接しているだろうと思い、どんな様子だったか聞いて見た。すると僕の予想通り今より土の道路が多かったそうだ。土の道路とアスファルトの道路を比で表してみると、五対五ぐらいだったそうで母が通っていた学校からの帰り道も土の道路だったらしい。僕も一年生のころやっていたように、母も帰りながら石ころをけったり、花をつんだりしながら歩いたそうだ。僕も時々石ころをけりながら家に帰る時があるが、道路に出てしまいそうで本当にこわい思いをした。石をけっても安全な道。そんな自然豊かな道があったとは知らなかった。母自身も、
「そっかー、亮が生まれた時には土の道路なんてほとんどく無くなっていたんだねー。」
と、少しさみしげに同感してくれた。土の道路が、アスファルト道路より自然なのは当たり前だが、それよりも人間に必要な好奇心を育ててくれる大切なものだと感じていたそうだ。
人間にとって一番親しみやすい道とは、必ず地球のかけらが落ちている。鳥の羽、石ころ、雑草、虫の死がい、生き物。すべてが地球のかけらだ。そんな輝きのある地球のかけらが落ちている土の道は、本来の地球の姿をそのまま表している「地球の鏡」といってもよいだろう。確かに、アスファルトの道路の方が適している場所もないとは限らない。しかし、「水清ければ魚住まず」というように、地球のかけらが落ちている道までアスファルトでうめてしまうことはないだろう。今、アスファルトでうまってしまっている「地球の鏡」を復元させて、発見でいっぱいの生活をおくりたい。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
1位 | ●地球の鏡 | いなりずし | 85 | 1258 | 49 | 61 | 72 | 92 |
2位 | ●料理をどうやって | りょうたろう | 84 | 2218 | 51 | 69 | 77 | 83 |
3位 | ●霜柱と花 | Qちゃん | 83 | 1079 | 54 | 72 | 86 | 93 |
4位 | ●「がんばる」ということ | アルセウス | 83 | 1220 | 47 | 58 | 67 | 86 |
5位 | ●当たり前のこと | ナルニアン | 82 | 1751 | 53 | 75 | 94 | 92 |
6位 | ●「頑張る」と言う言葉は | 有菜 | 82 | 1363 | 47 | 77 | 81 | 86 |
7位 | ●がんばることは自分を伸ばす | なるつ | 82 | 1122 | 49 | 70 | 78 | 83 |
8位 | ●がんばることとは | さたく | 82 | 1302 | 44 | 77 | 78 | 93 |
9位 | ●がんばればできる | ピヨちゃん | 82 | 1127 | 49 | 64 | 70 | 90 |
10位 | ●昔話の力 | パンダ | 82 | 1434 | 54 | 53 | 70 | 84 |
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言葉の森の生徒のパソコン入力の清書データが蓄積されてきましたので、いつか機会を見て全学年の森リン点の集計を行い、個人の作文力の位置がわかるようにしたいと思っています。
作文の評価というものは、個々の作品に限ってみると、取り上げた題材の面白さなどで差があり、読む人の主観によっても差があります。しかし、長期間の作文力という点から見ると、大きな傾向がはっきり表れてきます。
ときどき保護者の方から、「毎週がんばって書いているのはわかるが、実力がどの程度ついているのかわからない」という声を聞きます。森リンの点数の傾向を見れば、自分の作文力の進み具合と全体の中での位置がわかります。
森リンは、個々の作品の評価については、誤差があります(特に低中学年では誤差が大きくなる面があります)。しかし、作品の集計数が多くなれば全体の傾向はかなり正確にその生徒の作文力を表します。
しかし、この集計を見る際に、ぜひ家庭で気をつけていただきたいことがあります。それは、
1、絶対に、ほかの子と比較してがんばらせようとしないこと
2、作文を直して作文力をつけるのではなく、読む力をつけることで作文力を向上させること
の2つです。
今、毎月の森リン大賞では、小4までの学年は1位の作品を表示していません。なぜかというと、1位の作品を表示すると、ほとんどの保護者が、その1位の上手な作文と自分の子供の書いた作文を比較してがんばらせようとしてしまうからです。
上手な作文の背景には、その子のこれまでの何年間もの読書や対話などの日本語環境の厚みがあります。それを、短期間で作文の上だけで真似することはできません。そのできないことを子供に要求すれば、子供はただ自信をなくすだけです。
作文の実力をつける方法は、その子の今の作文のいいところだけを褒めて、その一方で毎日の音読、暗唱、読書、対話の自習を続けていくことです。毎日の読む力の蓄積が出てきたときが、作文の力がついてきたときなのです。
森リン点を上げるために表現を工夫して編集し直すのは、自分の文章を見直す機会になりますが、表現の工夫だけで、文章力が上達することはありません。語彙の種類ひとつをとっても、読む本の幅の広さや質の高さがその子の語彙力を決めています。小手先の工夫で語彙力を増やすことはできません。
無理に語彙を増やして作文を書けば、点数を少しは上げることができますが、かえって読みにくい文章になります。それでは本末転倒です。自分の自然に持っている語彙力で上手な作文を書くことが勉強の目標です。そのためには、
作文を直して作文の力をつけるのではなく、読む力をつけてそれが作文に出るようにするという勉強の仕方が必要になるのです。
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教育は、人間の幸福、向上、創造、貢献と結びついているという話の続きです。
第二は、向上のための教育です。
今の教育は、向上のために行われているように見えますが、しかし、その目的が受験に合格することに絞られすぎているところに問題があります。その結果、試験でいい点数を取ることが勉強の目的のようになっています。
例えば、一夜漬けや山をかけるような勉強でも、点数がよければそれでよいという発想を子供は持ちがちです。試験の前に集中力を育てるのはいいことですが、試験でがんばりすぎると、試験が終わったら何もしないということになりかねません。
人間が向上心に目覚めるのは、中学3年生ごろからです。だから、高校生になると、勉強はだれに言われなくてもやるようになります。しかし、それまでの小学校時代と中学校時代の大部分は、子供は親や先生の価値観で勉強しています。だから、周囲の大人が、勉強はテストでいい点数を取るためにあるのではなく、自分自身を向上させるためにあるのだと教えていくことが必要なのです。
例えば、テストでわからない問題が出た場合、あてずっぽうで答えを書き、それがたまたま○になっても何のプラスにもなりません。そういうときは、その答えを空欄にして×にしてもらった方がずっといいのです。大人は、そういうことをわかっていますが、子供にはそのことをはっきりと言葉に出して伝える必要があります。
また、今の入学試験は点数で差をつけるために難問を一部に入れることがありますす。総合点でいい点数を取るためには、難問はほどほどに切り上げて、易しい問題や普通の問題で得点を上げていくことが必要になります。しかし、そういう試験勉強に慣れてしまうと、仕事や人生でも難問を避けて易しい問題だけに取り組むようになります。これも、向上とは正反対の考え方です。
向上とは、人間の能力全体の向上です。受験する科目だけに絞った点数の向上ではありません。高校生になると、理系だから国語はやらないとか、文系だから数学はやらないとかいうことが、ごく普通に受け入れられるようになります。しかし、それでは、当面の大学入試には役立っても、世界に通用する学力はつきません。
確かに、日本の社会は、組織力で持っています。個々の人が自分の得意分野を生かし、苦手分野を支え合うことで、組織全体の力で業績を上げることができます。しかし、これからの高度な知的社会では、理系と文系の分離は個人の能力向上という点でも問題がありますが、組織全体のチームプレイにおいても意思疎通の妨げになってきます。
勉強の目的は、ガラパゴス化した日本の大学入試に合格することではなく、自分自身を向上させるためにあるのだということを、親も子も含めて社会全体が認識していく必要があるのです。(つづく)
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