経済産業省の調査によると、企業の人事担当者と大学生のそれぞれが考える社会人としての重要な力はかなり隔たりがあるということです。大学生が、語学力や業界の専門知識やパソコンの技能を重視しているの対して、企業の人事担当者はそういう能力はほとんど評価していません。逆に、大学生がそれほど重視していない主体性やコミュニケーション力を、企業の人事担当者は最も重視しています。つまり、社会に出てから大事なのは、自分で考えて自分から進んで行動し、その考えや行動を周囲に伝えるコミュニケーション力だということです。
このコミュニケーション力の土台となっているものは語彙力です。この語彙力は、国語の成績にだけ関係があるのではありません。小5と中2の生徒を対象にした調査では、語彙力は、算数(数学)、理科、社会の成績とも深い関連を持っているということです。つまり、語彙力とは学力全体と深い関連があるのです。
言葉の森の生徒の様子を見ていると、この語彙力は、小学校低学年のころから既に大きな個人差があるようです。しかし、それは日常生活では目立つような差として出てきません。また、小学校低学年のころは、語彙力と成績の関係はまだはっきりとはわかりません。しかし、学年が上がるにつれて、語彙力のある子の方が成績がよくなっていきます。語彙力がある子は、思考力のある子だからです。
では、子供たちの語彙力を知るためにはどういう方法があるのでしょうか。それが作文の中の語彙を見るという方法です。言葉の森の作文は、パソコンで入力すると、森リンという自動採点ソフトで語彙の種類を集計し表示するようになっています。ここで出てくる点数は、その作品の点数というよりも、その作文を書いた子供の作文力の点数です。どの子も、学年が上がるにつれて、この点数が少しずつ上がっていきます。そして、森リンの点数の高い子は、作文だけでなくどの教科の成績もいいという傾向があるのです。
もちろん、森リンも、人間が意識的に難しい言葉を使って作文を書くと点数を上げることができます。しかし、あまりわざとらしく難しく書くと、バランスが悪くなり逆に点数が低くなります。何よりも、人間が読んで普通に読める文章であることが大事で、人間の目と森リンの採点の両方を使えば、その子の今の作文力がかなり正確にわかります。
では、この語彙力を高めるにはどうしたらいいのでしょうか。作文の中に使う語彙の種類を増やすためには、語彙だけを単独に覚えても役に立ちません。知識として知っている語彙と、自分の書く文章に使える語彙では、その習熟度に違いがあるからです。
語彙力を本当に増やすためには、その語彙を意味のある文脈の中で理解する必要があります。そのための最も有効な方法は、平凡ですが読書なのです。その読書も、自分のこれまでの語彙をほんの少し上回るような読書にしていくことが大事です。しかし、小学校4年生のころまでは、あまり難しい本を読んで読書量が少なくなるよりも、たくさん読むことによって速読力を身につけていくことが必要になります。小学校高学年から、中学生、高校生となるにつれて、だんだんと難しい本を読むようになると、それにつれて作文の語彙も増えてきます。そして、その語彙力に比例して考える力がつき学力そのものがついてくるのです
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勉強のよくできる子というのはいます。そういう子に共通することは、ひとつには、吸収力があることです。吸収の速さと言ってもいいでしょう。長文の暗唱などでも、ほかの人よりも短い時間や回数でできるようになります。
もうひとつは、吸収する勉強に飽きないことです。人間は普通、人の話を聞くよりも、自分で話す方が楽しいことが多いものですが、勉強の好きな子は、聞くとか読むとかいう受け身で取り組む勉強にもすぐに適応できます。しかし、これにはマイナス面あります。吸収することが得意な子は、自分から何かを創造することが苦手になることも多いのです。
長時間飽きずに勉強できるので学校の成績はよく、受験でも成果を上げますが、そういう子が社会に出てからどういう仕事に向くかというと、大量の知識や書類を整理したりまとめたりする仕事までであることも多いのです。本当は、多くの知識をもとに自分なりのオリジナルな世界を創造できればいいのですが、創造力は、知識の吸収力とは別のものですから、勉強のよくできる子が必ずしも創造性を持っているわけではありません。逆に、知識を吸収することに適応しすぎると、本来持っていた創造性も表れにくくなるようなのです。
私は、教育関係の本をよく読みますが、同じようなテーマを取り上げた本でも、傾向が大きく二つに分かれるように思います。ひとつは、参考文献などを多数網羅し、幅広く知識を整理していながら筆者の独自の考えの乏しい本です。教科書や参考書のような本と言っていいでしょう。もうひとつは、筆者の独自の考えと実例で話をぐいぐい進めていくような本です。思い込みで書いていることも多いので客観的な資料としてはあまり使えませんが、いろいろな面で参考になる本です。
そして、これはあくまでも印象ですが、知識を網羅し整理するだけの文章を書く人は、学歴の高いことが多く、そういう傾向の人が日本の社会で次第に増えているような感じを受けるのです。今の日本の政治や学問に携わる人は、かなり強固な学歴社会の階層の中にいます。学力の中身よりも、肩書としての学歴でポジションが決まるような位置にいるのです。これが、実際に日々の仕事の工夫をしなければ生きていけない普通の庶民の生活とは違うところです。実力よりも肩書きが物を言う仕組みは、かつての中国の科挙の仕組みと似ています。全国から集まった最優秀な官僚によって運営されているはずの清という国家は、新しい時代の変化に対応できず西洋列強の侵略にほとんど何の有効な対策も打てませんでした。それに対して、学歴や肩書ではなく、下級武士の実力によって作られた明治政府は、短期間で日本の近代化を成し遂げました。
これからの日本の社会に求められるのは、学力とともに実力のある人材です。それは、知識力だけでなく創造力もある人材だと言ってもいいでしょう。今の受験体制の中では、知識の吸収力以外の能力はほとんど評価されません。それは、試験制度というものがもともとそういう形でしか客観的な評価ができないからです。しかし、実際に接してみれば、実力のある人や創造力のある人というのは、自然にわかってきます。ペーパー試験ではわからないことが、実際にいろいろな仕事をする中でわかってくるのです。
同じことが家庭でも言えます。お父さんやお母さんは、子供のテストの成績だけに目を向けるのではなく、その子が将来、独自の考えを持つ創造力のある人間になるかどうかということに目を向ける必要があります。これからは、いい学校に入ったから一生安心だという時代ではなくなります。学歴や資格が物を言うのはわずかの間で、その後の長い時間を本人の実力で生きていくような時代になっていきます。子供を見るときに、数年先の受験がうまく行くかどうかという目で見るのではなく、数十年後に社会で自分らしい活躍ができるかどうかという目で見ていく必要があります。勉強はできて当然だが、ペーパーテストで測られる勉強以外の力がどのくらいあるかを見ていくことが大事なのです。
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中学生の保護者のお母さんから、何件か相談がありました。「学校の成績が今一つ」というのです。頭がよくて真面目にやっていて、成績がそのわりによくないというのは、勉強の仕方に問題があるからです。毎日の勉強は、実力を向上させるためにやるものですが、それが試験の成績をよくするためにやる勉強になっているから、実力がつかず、その結果成績がよくならないのです。
例えば、英語だったら教科書の暗唱と暗写、数学だったらちょっと難しい問題の含まれている問題集で解答の解説が詳しいものを百パーセントできるようにすること、国語だったら、毎日の読書による速読力の育成と、問題集読書による難読力の育成。これらが、実力をつけるための勉強です。
この実力をつけるための勉強を最優先させることが大事なのに、子供たちの多くは、学校の日々の授業やテストに間に合わせるために勉強に時間をとられています。だから、毎日真面目に忙しく勉強しているわりに、実力がつかず、成績も上がらないのです。
中学生のころは、親の言うことは聞かずに自分でやりたがる時期ですが、まだ大きな判断力というのは育っていません。勉強の方針などは、親がアドバイスをしてあげなければ、自己流の勘違いした勉強の仕方になってしまうのが普通です。
勉強の仕方を自分で工夫できるようになるのは高校生からだと考えて、中学生のころはできるだけ親が勉強の中身を理解しておくことです。そのためには、テストが返却されたときは、点数を見るだけでなく、親が実際にその問題を一緒に解いてみて子供がどういうところができなかったのかを把握しておくといいと思います。
中学生は、塾に行っている子が多いと思います。しかし、塾に全面的に任せるのではなく、家庭では親が勉強の中身を把握しておく必要があります。中学生の勉強はそれなりに難しくなりますが、親は年の功があるので、難しい内容でも理解力は子供よりも優れています。最初は子供の方がよくできていても、何度かやっているうちに親の方が実力がついてくることが多いのです。
昔、中学3年生になる子のお母さんが言葉の森に相談に来たことがあります。「勉強の仕方がわからないので、子供は塾に行きたいと言っているが、どういうところがいいか」というのです。そこで、「勉強は、お母さんが教えたらいいですよ」と言って、特に数学の勉強の仕方を中心に詳しく説明しました。すると、それに納得したお母さんは、その子の勉強を自分で教えるようになりました。翌年、その子は実力をつけて学区のトップ高に合格したのです。後日、お母さんに聞くと、「最初はそんなことができるかと思ったが、やってみると結構できるとわかった。今では教えることに自信がついた」ということでした。
中学生までの勉強は、どんな難関校であっても、親ががんばれば教えられます。自分で教える時間がとれなくても、少なくとも勉強の内容に関しては親が理解しておくことが必要だと思います。
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小3以上は毎週の作文の課題が題名課題や感想文課題になるので、家で似た話を考えてくることが準備として必要になります。
その似た話の中に、お父さんやお母さんにも聞いてくるというものがありますが、子供によっては、まるで聞いてくることが宿題のような受け身の態度になってしまう子もいます。
親に答えを教えてもらうという勉強ではなく、自分で似た話を考えるひとつのきっかけとして親にも聞くという主体的な姿勢が必要なのですが、最初のうちはなかなかそういうところまでできない子もいます。これまでの勉強のスタイルは、自分で何かをするというよりも、与えられた知識を受け身で吸収するというものが多かったので、作文の予習も自然にそうなりがちなのだと思います。
ですから、作文の課題の予習をするときのお父さん、お母さんは、次の点を心掛けながら話をしてくださるとよいと思います。
第一は、この作文の勉強は、自分で考える創造性のある子を育てる勉強だという位置づけをはっきりさせることです。単に勉強のよくできる子を育てるのではなく、どんなことにも自分なりの考えを述べられる子を育てる勉強です。
ですから、第二には、機会あるごとに、子供に自分はどう考えるのかを聞き、少しでも自分なりの考えを述べたらそれを高く評価してあげることです。ここで大事なことは、「自分の考えを言えなければだめ」というマイナスの評価をすることではありません。まだ小さい子には、自分から進んで言えないものはたくさんあります。できないことを注意するのではなく、おぼつかない言葉であっても、自分から進んで言ったことについて高く評価してあげることです。できないことを注意するのではなく、できたときに褒めるというのが大事です。
第三に、自分から進んで考える力をつけるために、お父さんやお母さん自身が、そういう対話を楽しむ姿勢を持つということです。子供に似た話を聞かれたときに、それを狭く真面目に考えて、「そんな似た話はない」とすぐにあきらめるお父さんやお母さんがいます。また、似た話がないから、インターネットで検索して調べてみるという人もいます。調べること自体はいいことですが、自分の考えを補強するために調べるのではなく、出来合いの答えを見つけるために調べるような調べ方では自分で考えていないことと同じになってしまいます。どんなテーマであっても、親が何らかの自分なりの話を楽しくしてくれるということに接するうちに、子供自身もそういう自分で考える楽しさを身につけていくのです。だから、大事なことは、似た話を子供に聞かれたときに、親はできるだけ自分の体験に結びつけて話してあげることです。
とっさに聞かれたのでは十分にいい話ができないということもありますから、できれば、お父さんやお母さんも事前に長文に目を通しておくか、毎日の子供の長文音読を聞く機会を持つといいと思います。長文を聞くと言っても、食事の支度をしながらとか、新聞を読みながらとか、そういう聞くともなしに聞くという程度でいいのです。
また、当然ですが、子供自身も長文を何度も繰り返し音読しておく必要があります。繰り返し音読をしていると、その長文がすっかり自分のものになるので、長文を見ないでも内容を説明できるようになります。そういう状態になったときに初めて似た話の対話が自由にできるようになります。従来の勉強は、1、2回読んで内容を理解して答えを書くという表面的な知識を問う形の勉強が多かったので、この繰り返し読んで自分のものにするという勉強法に子供たちはあまり慣れていません。しかし、これからの世の中で必要になるのが、こういう知識を自分のものとして消化しそこから自分なりのものを創造する学力なのです。
以上のような説明を聞くと難しく感じるかもしれませんが、要点は簡単です。まず、毎日子供に長文を音読させることです。そして、週に一度その長文の内容を子供に説明させて、お父さんやお母さんが自分なりの似た話を楽しくしてあげることです。そういう話をするうちに、子供も自分からいろいろな考えを言うようになります。そうしたら、その子供なりの考えを(多少見当違いのことがあっても)大いに評価してあげることです。
このようにして、単に勉強がよくできるだけでなく、自分なりのオリジナルな考えを述べる力のある子が育っていくのです。
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連休のある日、読書をしてちょっと考えを整理しようと思い、本棚で必要な本をピックアップしてみると、60冊になりました。
それを右側に積んでおき、付箋読書で順番に数十ページずつ読み、読み終えたら左に積みます。そのあと、また左に積んである本を、数十ページずる読み、読み終えたら左に積みます。
こういう読み方だと、何時間読んでも飽きません。そして、いい本は自然にたくさん読み、あまり印象に残らない本は少ししか読まないので、60冊でも進み具合で差が出てきます。
やがて、60冊が30冊ぐらいに絞られ、その30冊が更に絞られ、最終的に完読したのは7冊でしたが、一応60冊の本全部には目を通しているので、読み残したという感覚はなくひととおり読み終えたという感じになります。
この付箋読書の方法を勉強にもあてはめると、ひとつの教科の勉強に飽きたら、次の教科に移り、その勉強が飽きたら、また次の勉強に移り、それも飽きたらまた最初に戻る、というような勉強の仕方ができます。そうすると、途中に休憩時間などを特に入れなくても、長時間勉強を続けていられます。
勉強の多くは知識を吸収するものですが、吸収するだけの勉強というの、その内容が特に自分の関心のあるものでないかぎり退屈なのが普通です。
世間では、この退屈さに耐える力のある子を秀才と見なしがちで、実際にそういう子は学校の成績がよく、特に苦手な教科というものがなくどの教科もよくできます。
しかし、この退屈さに耐える力というのは、言い方を変えれば、吸収するだけの勉強に飽きない力であり、それは更に言い方を変えれば、創造する力のなさの裏返しとも言えるものなのです。
世の中の価値ある仕事は、知識の吸収だけではできません。しかし、もちろん知識の裏づけがなければ、創造力だけでもできません。
大事なのは、創造力のある子供たちが、退屈な知識を吸収するだけの勉強をうまく工夫して自分のものにしていくことです。そのために、勉強の方法や読書の方法は、いろいろと工夫してみる必要があるのです。
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読んで飽きる本は、私にとって読まなくていい本です。
どんな本でも読み続けていれば飽きます。それをうまくかわしていくのが人間の工夫です。
どんなにカレーの好きな子でも、朝、昼、晩とカレーだったら、「ええ、またカレー」と言うのと同じ(笑)。
私が良くやっていた読書法は、「ばっかり読書」です。小学校時代に椋鳩十の作品を見つかる限り全て読んでから癖になり、その後も自分で決めた作者のものばっかりを読み続けました。今のようにネットなど無かったから、あとがきの後にある広告を見て読んでないものがあったらしつこく探して読んだりしました。そうすると、読み飽きるというよりは、大体はその作者と親しくなったような気がしてが好きになり、安心して読めるようになります。
そして、ばっかりを続けると逆に未知の作者に対しても読む勇気が沸いてくるような気がします。我流ですが。
ちゃくちゃくさん、そういう読書は確かにあります。
その本やその作者ばかり続けて読むという読み方ですよね。
物語文の読書はそうなりやすいのですが、説明文の場合は、なかなかそうならないです。
ジャンルによっても違うのでしょうね。
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前回に引き続き、教育は、人間の幸福、向上、創造、貢献と結びついているという話です。
第四は、貢献のための教育です。何のために学ぶのかということについて、社会全体が明確な指針を持っていることが必要です。これは単なる言葉のうえだけでの話ではなく、実際の教育のさまざまな場面で具体的な方針決定に役立ちます。この小さな決定の積み重ねが、やがて大きな方向の違いになっていきます。
勉強は、社会に貢献するために行うものです。なぜ人間が、「社会のため」ということを考えるかというと、その原点には、人間の持つ共感と想像があります。人間は生まれつき、他の生命、他の人間、そして自分の属する社会に対して共感する性質を持っています。その共感する性質を更に強化するのが、他の生命や人間に対する想像です。この共感と想像を高めていくことが教育の一つの柱になります。
今の社会の風潮の一部に、自分の利益を最優先するという考え方があります。なぜ勉強をするのかということについても、理屈の上で最も説得力のある答え方は、「自分のためにする」というものです。日本人は本当は内心、自分のためだけでいいとは思っていません。しかし、言葉で説明するときは、エゴイズムを建前にした方がだれからも反論されないという雰囲気が今の社会にはあるのです。
このエゴイズムをもとに理論を立てるというのは、欧米の文化の影響から来たものです。みんなが自分の利益のために行動し、その競争の中で最適な社会が生まれるという理屈は、欧米の文化の中で生まれた理論です。欧米は、社会の隅々までエゴイズムがシステム化されているので、その理論が現実の中でうまく成り立っています。しかし、日本はそうではありません。日本の社会は、エゴイズムの文化が根づいていないのです。
日本の社会の本来の姿は、「エゴイズム+競争」とは正反対のものです。それは、個人がお互いに相手のためによかれと思ってすることが巡り巡って自分にも返ってくるという文化です。「エゴイズム+競争」ではなく、「思いやり+調和」が日本の文化に最も合った理論なのです。そして、この理論は、日本から発信する将来の世界のモデルになるものです。
これからの教育は、この「思いやり+調和」の文化を支えるものになる必要があります。それが内容的には共感と想像を育てる教育で、形式的には貢献の教育と呼ばれるものになるのです。
日本の文化の中になぜ共感と想像が根強く生きているかというと、その原因のひとつに、親子で密着する文化があります。人間の共感力は、幼児期の親子の密着をもとにして形成されます。日本の寝室は、親子が「子、母、父」という形で寄り添いながら寝る形が最も一般的です。「母、子、父」という形ではなく、「子、母、父」というふうに父が一歩離れているところが父子関係における子供の自立心に役立っているようです。欧米の場合は、「父、母」が生活の中心であり、子供は幼児期から自立を強制されますが、日本ではそういう家庭はほとんどありません。
子供時代から、親子の密着する文化の中で育つことによって、日本の子供は自然に親に対する孝行の感覚を育てます。この親孝行の文化を、封建主義の名残のようにとらえるのではなく、日本文化の優れた特質と考えることが大切です。なぜなら親孝行の延長に、社会に対する貢献と、先祖にたいする尊敬が生まれるからです。これを古臭い理論だと思わずに、これからの世界の指針になる最新の理論だと考えることがこれから必要になってくるのです。
よく、日本人は個人では弱いが集団では強いと言われます。これまでの教育では、それを日本人の弱点のように考え、日本人を個人で強くする方法を工夫してきました。しかし、これからは集団で強いという日本人の長所を生かしていく時代です。そして、やがて世界中がその日本モデルを採用するようになるのです。
集団の強さを生かして社会に貢献するというのは、決して消極的な生き方ではありません。むしろ、それは日本人にとって積極的な生き方になります。なぜなら、日本人にとって個人のエゴイズムで生きるということは、自分だけ安全な場所で高収入を確保するような生き方につながりやすいからです。
日本の文化の中では、エゴイズムを貫こうとすれば生き方が後ろ向きになります。逆に、集団のために社会に貢献する生き方を選ぶとき、日本人は自己犠牲をいとわずに大きな仕事を成し遂げることができます。みんなが、自分の利益よりも社会のために行動することによって、社会全体がよりよくなるというのが、日本の文化を生かした社会のあり方です。
この未来の日本社会を支える意識的な努力が、貢献のための教育なのです。
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連休中武蔵五日市の友達を訪ねたら、四日にとてもきれいな虹が出たそうです。こちらの写真のように二重の虹だったと目を細めていました。たまに自然の中に身を置くと人間の小ささを実感します。やはりみんな助け合って生きていかなくちゃと思いました。
ちゃくちゃくさん、こんにちは 。
これが、教室から見たその日の虹の端から端まで。
確かにこんなに大きいの、人間には作れませんね。
http://www.mori7.net/izumi/gazou/2012/0507130308.jpg">
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米欧から始まると見られていた金融破綻は、「公的」機関がマネーを大量に印刷し金融機関に注入する形で回避されました。その結果、ギリシアのバブル、EUのバブル、アメリカのバブルなど世界のさまざまなバブルが、より大きな世界的バブルに統合される形でふくらみ続けることになりました。やがて、ここに中国のバブルなども加わるようになるでしょう。
この新しいバブルによる景気の上昇がしばらく続いたあと、この世界最大のバブルはどういう形で収束されるのでしょうか。バブルというのは、結局真のニーズがないところに、思惑だけの架空のニーズがふくらんでいくことです。だから、その思惑がはずれたときにはいずれ破綻するものです。その破綻を回避するためには、より大きな新たなバブルを作るか、真のニーズを作るかしなければなりません。しかし、今回のバブルは、世界規模のバブルなので、これ以上新たなバブルを上乗せすることはできません。新たな真のニーズを、今、世界中が模索しているところなのです。
その第一は、世界のインフラ開発です。例えば、砂漠の緑化などの世界的な開発事業を行えば、それはバブルを真のニーズに転化することができます。しかし、その開発が終わったときにまたニーズの不在という同じ問題が繰り返されることと、世界規模の開発は国際的な利害がぶつかり合う可能性があるという理由から、必ずしも現実的で有効な対策とは言えません。
第二は、大戦争です。これは、物を破壊することですから、物を建設する以上に大きなニーズを生み出します。しかし、バブルのたびに戦争を起こしていたのでは、それは人間がいかに愚かかということを証明するにすぎません。また、すべての戦争は、国民どうしの対立ではなく、その戦争で利益を得る何者の都合で行われていることに多くの人が気づき始めている今日では、もう大規模な戦争は起こせなくなっています。
第三は、ハイパーインフレです。金融機関に注入された大量のペーパーマネーは、やがて市中の生活の中に溢れ出てきます。インフレは、資産を持つ者の犠牲によってバブルを収束させる方法です。これは、対策というよりも、対策がないことから引き起こされる結果ですが、今日の状況を見ると、これが最もあり得そうな結果です。しかし、この場合、生活に必要なマネーと、金融機関のバブルの救済のために使われるマネーは、何らかの形で区別されることによって、一般の国民の生活はそれほど極端な破局には見舞われないと考えられます。
世界規模のバブルが、今後どういう形で終息するかは、前例のないことなので誰にも確実な予測はできません。しかし、経済の基礎的な実力を考えると、日本が、資産の上では最も大きな損失を被りながら、バブル崩壊の被害から最も軽症で立ち直ることが予想されます。
問題は世界のバブルが終息したあと、人類の巨大な生産力に対応するニーズを今後どこに作り出していくかということです。軍事費という選択肢は、国家間の争いの背景がわかることによって、もうなくなっていくでしょう。社会保障費は、本当に必要なものだけに絞られ、不自然で過剰な福祉はなくなっていくでしょう。公共部門や利権部門に淀んでいたニーズは、そういうところに依存する空しさを多くの人が感じることによって次第に減少していくでしょう。途上国をこれから豊かにする消費財は、量的な大きさはあるものの、既にほぼ完成した工業生産技術によって、実はそれほど大きなものではなかったということに多くの人が気づくようになるでしょう。
新しい真のニーズは、世界的なバブルの崩壊からいち早く立ち直るはずの日本が提案していくと思います。それは、インフラも完成し物財もほぼ十分に行きわたった先進国日本で、新しく生まれる創造文化産業のニーズです。そこで生まれる新しい消費は、単なる消費のための消費ではなく、自らが創造し生産する側に回るための消費、つまり投資的消費です。しかも、その投資が、これまでの工業生産の投資のように飽和状態にならないのは、文化の創造がその生産を担う個人の個性によって無限に多様化する性格を持つからです。
このように考えてくると、これからの政治、経済、社会における歴史的大変動に対応するために必要なことは、個人個人が自分ひとりの力で社会に貢献できる何か(能力や技術)を育てていくことです。もちろんすぐにはそういうものは育ちません。だから、今大事なことは、自分が社会に貢献できる力を持つために必要な勉強をできるところから始めていくことなのです。
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