これからの教育で大事なのは、知識ではありません。確かに基礎学力という意味での知識はいつの時代でも必要ですが、それはもともとそれほど多くはありません。
今の受験の問題点は、試験のためにしか役に立たない、差をつけるために作られた知識のテストに、子供たちの時間が取られすぎていることです。その結果、試験というふるい分けの勝者も敗者も、勉強の本来の目的からはずれたものに無駄な時間費やしています。
大事なのは、知識を身につけることが早い子も遅い子も、それぞれの個性をもとに創造性を育てていくことです。しかし、もちろん、その個性は、知識労働者と肉体労働者というような優劣を前提にした個性ではありません。優劣のない個性は、次のようなやり方で可能です。
例えば、頭のいい子Aは、英数国理社の長い底辺の上に、創造性の柱を立てて学力の三角形を作ります。しかし、その底辺がかなり長いために(知識の範囲が広いために)、底辺の下に作る三角形は浅いものになりがちです。
頭の悪い子は、長い底辺は最初から求めずに、自分の近所の地理に関する情報のような短いが深い底辺の上に創造性の柱を立てて三角形を作ります。こういう三角形の作り方が、それぞれの個性です。
この二つの三角形(底辺の下につながる深さも考えると菱形のような形とも言えますが)の、重なり合わない部分が、それぞれの子供の独創的な知性です。この独創性が社会における個性的な貢献であるとしたら、人間はだれでも自分の能力に応じて独自の貢献ができるということになります。
知的に優れたエリートだけが創造的であればよく、そうでない大衆は歯車として機能していればいいというのは、どちらかと言えば欧米流の考え方です。日本の文化は、どのような子も、その能力に応じて個性的な貢献ができるという考え方を前提として成り立っています。それが単なる理想論でないのは、知識と創造性が作る三角形は、知識の範囲と深さが異なれば重なり合わないからです。
今後、教育の方法が改善されることによって、人間の知識の底辺はだれでも飛躍的に拡大する可能性があります。また、人間の知的活動の一部を機械に代替させる仕組みが開発されれば、人間の底辺は更に広がる可能性があります。
これからの時代は、社会のすみずみにまで知が活用される時代になります。自分の専門分野が音楽や運動や手仕事だから知は要らないということが言えたのは、かなり昔の話です。これからの社会は、どのような分野にも知的な理解、思考、表現が必要な時代になってきます。
そして、だからこそ、これからの教育の中心は、知識の習得ではなく、創造性の開発になるのです。(つづく)
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模倣のない創造はありえない。しかしトライ&エラーなしに大発見はありえない。漠然としていますが、このようにいつも考えています。
例えば小学校の低学年でスラスラと文を書く子供は、たくさん童謡を知っている。流れるような文体の作家は古典に精通している。というように、長く受け継がれてきたものを学んだ結果、ある時期まで待てば自然に個性、創造が生まれてくるのではないかと思います。マニュアルとは違うので、時が熟すまで待つのは親としての楽しみでもあります。
一方、何度も果敢に挑戦する人はいずれは結果を伴います。失敗を恐れない大らかさというか勇気を持つことが、実は大事を成す上で重要な要素ではないかと思います。
時が熟すまで待つというのは、そのとおりだと思います。たまに、子供の作文に、「同じような書き方ばかり」という批評をするお母さんがいますが、それを指導で変えるようなやり方にすると無理が出ます。読書によって使える語彙を増やしていくと、子供は自然に新しい書き方をするようになります。気長に見ていくことが大事ですね。
それから、失敗を恐れないというのも確かに大事。これもおおらかな気持ちでということですね。
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創造性の教育は、三つの方向から考えていくことができます。第一は、創造的であろうとする心構えです。第二は、読む創造性です。第三は、書く創造性です。
第一の創造的であろうとする心構えは、作文の勉強に特徴的なものです。作文には、構成、題材、表現、主題などの要素がありますが、それらの要素に自分らしさをできるだけ盛り込むというのが創造性の心構えです。ですから、子供たちの作文を大人が評価するときに大事なことは、自分らしさがあるかということです。正しく書く、わかりやすく書く、美しく書く、速く書くに更に付け加えて、自分らしく書くということが大事になってきます。
作文以外の他の教科の勉強では、答えが正解であるかどうかということと、時間内に解けたかどうかということが重要ですが、作文の勉強はそれらに加えて、自分らしく書けたかどうかが重要になってくるのです。この自分らしさの心構えを持つことによって、作文以外の生活の中でも、自分らしくあろうとする意識が出てきます。この自分らしさは、他人との競争を必要とするものではありません。どの子の作文であっても、そこに自分らしい実例、表現、感想が書いてあれば、それは価値のあることなのです。
創造教育の第二、第三の方向である読む創造性、書く創造性の説明をする前に、創造とは果たしてどのようにして生まれるのかを考えておく必要があります。創造という言葉は、日常性格の中でもよく使われていますが、その本質は実はあまり深く研究されてはいません。
創造というもののとらえ方にも、文化による違いがあり、西欧の創造の考え方は、ひとことで言えば、「まだないものを作る」ということです。デカルトは、最初に「われ」があると考えました。サルトルは、その「われ」がこの世界に突然投げ出され、よそよそしい世界の中で「われ」の座るイスはどこにも用意されていないと考えました。だから、創造とは、自分のイスを世界に作ることとほぼ同義でした。自分の居場所であるイスを作るために、つまり創造のためには、邪魔なものは排除し、必要であれば破壊する必要もありました。西洋の創造には、この攻撃的な考えが根底にあります。
これに対して、日本の文化は、有の文化ではなく無の文化でした。日本では、「われ」があるということから出発しません。「われ」は本来無く、世界が最初にあるのです。あるいは、世界ともともと一体になった「われ」があると考えるのです。そして、東洋の理想は、本来の姿から離れた人為的な「われ」をできるだけ消して、世界ともとの一体に戻ることを目指すことでした。
このような文化における創造は、自分のイスを世界に作るというものではありません。日本では、自分というものを無にして、世界にできるだけ寄り添うことで、ふと世界の中にあるまだ埋められていない隙間を発見するということが創造でした。西洋の創造が作り出す創造であるとすれば、日本の創造は見つけ出す創造でした。
だから、日本の創造は、限りなく模倣に近い面を持っています。ある物事を何度も反復し、それをすっかり自分のものにする過程で、ふとその物事の中にあるまだ満たされていない隙間を見つけ、その隙間を埋めることが創造だったのです。(つづく)
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作文の勉強をする目的は何でしょうか。
フランシス・ベーコンは、「書くことは人間を正確にする」と言いました。確かに、書くことによって自分の認識を再確認する役割が確かに作文にはあります。しかし、それだけではまだ十分ではありません。
(Reading makes a full man, conference a ready man, and writing an exact man.)
小学校低中学年のころの作文の目的は、「正しく書く練習」です。ただし、正しく書くことだけを直接の目的とすると、作文の勉強はつまらないものになりますから、楽しく書くことを通して正しい書き方も身につけていくという勉強の仕方になります。
やがて学年が上がり、小学校高学年から中学生になると、書く内容が難しくなってきます。自分の身近な話題を取り上げる生活作文から、もう少し大きく人生や社会の話題を取り上げて書くようになります。このときに大事なことは、難しい内容をわかりやすく書くことです。中学生になると、今の授業時間の関係で作文の勉強というものはほとんどなくなります。そのため、中学生や高校生の中には、小学校で勉強したままの文章力にとどまっている子もいます。言葉の森では、中学生からは意見文を書く練習をしていきます。これは、自分の意見を相手にわかりやすく伝える練習です。そのため、構成を重視して、理由や実例や意見を明確に書く練習をします。これがちょうどベーコンの正確に書くことにあたるでしょう。この書き方がしっかりできれば、作文の勉強は、社会に出てからも役立つものとなります。
しかし、正しく、わかりやすく書くだけでは、まだ十分な文章力とは言えません。高校生になると、正しさやわかりやすさは身についているので、次は美しく書く練習です。意見文であっても、ただ正確に書けばよいというだけでは味気ない文章になってしまいます。文章の役割のひとつは、説得力を持つことですから、わかりやすいだけでなくそこに読み手の感情に結びつくような美しさの要素も必要になるのです。
さて、正しく、わかりやすく、美しくという文章の要素にもうひとつ付け加わるのは、「速く」という要素です。作文や小論文の試験があったときに、必要時間内に必要字数を書く力は欠かすことができません。言葉の森で作文の勉強をすることによって、「正しく、わかりやすく、美しく、速く」書く力を身につけていくのです。
しかし、ここまででとどまるなら、特に際立った目標とは言えません。作文の勉強の本当の目的は、この先の「創造性を育てる」ということにあります。そして、この創造性を育てることこそが、これからの教育の最も重要な柱になっていくものなのです。(つづく)
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経済産業省の調査によると、企業の人事担当者と大学生のそれぞれが考える社会人としての重要な力はかなり隔たりがあるということです。大学生が、語学力や業界の専門知識やパソコンの技能を重視しているの対して、企業の人事担当者はそういう能力はほとんど評価していません。逆に、大学生がそれほど重視していない主体性やコミュニケーション力を、企業の人事担当者は最も重視しています。つまり、社会に出てから大事なのは、自分で考えて自分から進んで行動し、その考えや行動を周囲に伝えるコミュニケーション力だということです。
このコミュニケーション力の土台となっているものは語彙力です。この語彙力は、国語の成績にだけ関係があるのではありません。小5と中2の生徒を対象にした調査では、語彙力は、算数(数学)、理科、社会の成績とも深い関連を持っているということです。つまり、語彙力とは学力全体と深い関連があるのです。
言葉の森の生徒の様子を見ていると、この語彙力は、小学校低学年のころから既に大きな個人差があるようです。しかし、それは日常生活では目立つような差として出てきません。また、小学校低学年のころは、語彙力と成績の関係はまだはっきりとはわかりません。しかし、学年が上がるにつれて、語彙力のある子の方が成績がよくなっていきます。語彙力がある子は、思考力のある子だからです。
では、子供たちの語彙力を知るためにはどういう方法があるのでしょうか。それが作文の中の語彙を見るという方法です。言葉の森の作文は、パソコンで入力すると、森リンという自動採点ソフトで語彙の種類を集計し表示するようになっています。ここで出てくる点数は、その作品の点数というよりも、その作文を書いた子供の作文力の点数です。どの子も、学年が上がるにつれて、この点数が少しずつ上がっていきます。そして、森リンの点数の高い子は、作文だけでなくどの教科の成績もいいという傾向があるのです。
もちろん、森リンも、人間が意識的に難しい言葉を使って作文を書くと点数を上げることができます。しかし、あまりわざとらしく難しく書くと、バランスが悪くなり逆に点数が低くなります。何よりも、人間が読んで普通に読める文章であることが大事で、人間の目と森リンの採点の両方を使えば、その子の今の作文力がかなり正確にわかります。
では、この語彙力を高めるにはどうしたらいいのでしょうか。作文の中に使う語彙の種類を増やすためには、語彙だけを単独に覚えても役に立ちません。知識として知っている語彙と、自分の書く文章に使える語彙では、その習熟度に違いがあるからです。
語彙力を本当に増やすためには、その語彙を意味のある文脈の中で理解する必要があります。そのための最も有効な方法は、平凡ですが読書なのです。その読書も、自分のこれまでの語彙をほんの少し上回るような読書にしていくことが大事です。しかし、小学校4年生のころまでは、あまり難しい本を読んで読書量が少なくなるよりも、たくさん読むことによって速読力を身につけていくことが必要になります。小学校高学年から、中学生、高校生となるにつれて、だんだんと難しい本を読むようになると、それにつれて作文の語彙も増えてきます。そして、その語彙力に比例して考える力がつき学力そのものがついてくるのです
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