知識で差をつける試験を中心とした教育がその役割を終えつつある今、何が今後の教育の目的となるかと言えば、それは創造です。新しいものを生み出す創造こそ、これからの教育の最も大きな目的になるものです。
というのも、人間の本質は、まさにこの創造性を持つことの中にあるからです。動植物は、その進化の過程という長い歴史的時間の中では創造的な存在ですが、人間のように意識の上で創造的であるのではありません。
また、これはあくまでも推測の話ですが、今後人類はさまざまな宇宙人と遭遇することが予想されます。地球よりも優れた科学技術を持つ宇宙人は意外なことに地球人よりも創造的でない可能性があるのです。なぜかというと、高度な科学を持つ宇宙人は、地球人のように不自由な制約としての言語を持たない可能性があるからです。宇宙人のコミュニケーションは、言語ではなく、もっとすべての情報を完全に伝えるような手段によって行われていると考えられます。更に、宇宙における生命体によっては、肉体の制約をほとんど持たない意識中心の存在もあると考えられます。しかし、この肉体の制約こそが、人間においては、ある時間の経過の中で創造というものを生み出す土台となっています。つまり、言語と肉体という二つの不自由さを強く持つ地球人が、最も創造性に近い位置にいると考えられるのです。
■読む創造性(題材の創造性)
日本の近代資本主義の父と言われた渋沢栄一は、「論語と算盤」という著書を著しました。論語という伝統文化を近代資本主義にあてはめることによって、その両立を目指したのです。
なぜそれが可能だったかというと、幼少のころから論語に習熟していたために、論語が単なる知識ではなく体に浸み込んだ知識になっていたからです。だから、その論語の思想を異質な資本主義の論理と結びつけることができたのです。
ここに創造の本質があります。つまり、ある知識が自分の血肉となっているとき、その知識とは異なる新たな知識に遭遇し、その異なる知識を取り入れようとする際に、肉体化された知識どうしに一種の化学反応が起こると言ってもいいでしょう。それが、創造です。
なぜそういうことが起こるかというと、ある知識Aを自分の手足のように熟知していて、それを他の知識Bにあてはめようとすると、AにあってBにないもの、又はその逆が自ずからわかってくるからです。そのときに、A又はBにおける不在として見つけた隙間を埋める知的作業が創造です。(つづく)
だんだん話がややこしくなってきました。(^^ゞ でも、まだ続く。
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これからの教育で大事なのは、知識ではありません。確かに基礎学力という意味での知識はいつの時代でも必要ですが、それはもともとそれほど多くはありません。
今の受験の問題点は、試験のためにしか役に立たない、差をつけるために作られた知識のテストに、子供たちの時間が取られすぎていることです。その結果、試験というふるい分けの勝者も敗者も、勉強の本来の目的からはずれたものに無駄な時間費やしています。
大事なのは、知識を身につけることが早い子も遅い子も、それぞれの個性をもとに創造性を育てていくことです。しかし、もちろん、その個性は、知識労働者と肉体労働者というような優劣を前提にした個性ではありません。優劣のない個性は、次のようなやり方で可能です。
例えば、頭のいい子Aは、英数国理社の長い底辺の上に、創造性の柱を立てて学力の三角形を作ります。しかし、その底辺がかなり長いために(知識の範囲が広いために)、底辺の下に作る三角形は浅いものになりがちです。
頭の悪い子は、長い底辺は最初から求めずに、自分の近所の地理に関する情報のような短いが深い底辺の上に創造性の柱を立てて三角形を作ります。こういう三角形の作り方が、それぞれの個性です。
この二つの三角形(底辺の下につながる深さも考えると菱形のような形とも言えますが)の、重なり合わない部分が、それぞれの子供の独創的な知性です。この独創性が社会における個性的な貢献であるとしたら、人間はだれでも自分の能力に応じて独自の貢献ができるということになります。
知的に優れたエリートだけが創造的であればよく、そうでない大衆は歯車として機能していればいいというのは、どちらかと言えば欧米流の考え方です。日本の文化は、どのような子も、その能力に応じて個性的な貢献ができるという考え方を前提として成り立っています。それが単なる理想論でないのは、知識と創造性が作る三角形は、知識の範囲と深さが異なれば重なり合わないからです。
今後、教育の方法が改善されることによって、人間の知識の底辺はだれでも飛躍的に拡大する可能性があります。また、人間の知的活動の一部を機械に代替させる仕組みが開発されれば、人間の底辺は更に広がる可能性があります。
これからの時代は、社会のすみずみにまで知が活用される時代になります。自分の専門分野が音楽や運動や手仕事だから知は要らないということが言えたのは、かなり昔の話です。これからの社会は、どのような分野にも知的な理解、思考、表現が必要な時代になってきます。
そして、だからこそ、これからの教育の中心は、知識の習得ではなく、創造性の開発になるのです。(つづく)
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模倣のない創造はありえない。しかしトライ&エラーなしに大発見はありえない。漠然としていますが、このようにいつも考えています。
例えば小学校の低学年でスラスラと文を書く子供は、たくさん童謡を知っている。流れるような文体の作家は古典に精通している。というように、長く受け継がれてきたものを学んだ結果、ある時期まで待てば自然に個性、創造が生まれてくるのではないかと思います。マニュアルとは違うので、時が熟すまで待つのは親としての楽しみでもあります。
一方、何度も果敢に挑戦する人はいずれは結果を伴います。失敗を恐れない大らかさというか勇気を持つことが、実は大事を成す上で重要な要素ではないかと思います。
時が熟すまで待つというのは、そのとおりだと思います。たまに、子供の作文に、「同じような書き方ばかり」という批評をするお母さんがいますが、それを指導で変えるようなやり方にすると無理が出ます。読書によって使える語彙を増やしていくと、子供は自然に新しい書き方をするようになります。気長に見ていくことが大事ですね。
それから、失敗を恐れないというのも確かに大事。これもおおらかな気持ちでということですね。
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創造性の教育は、三つの方向から考えていくことができます。第一は、創造的であろうとする心構えです。第二は、読む創造性です。第三は、書く創造性です。
第一の創造的であろうとする心構えは、作文の勉強に特徴的なものです。作文には、構成、題材、表現、主題などの要素がありますが、それらの要素に自分らしさをできるだけ盛り込むというのが創造性の心構えです。ですから、子供たちの作文を大人が評価するときに大事なことは、自分らしさがあるかということです。正しく書く、わかりやすく書く、美しく書く、速く書くに更に付け加えて、自分らしく書くということが大事になってきます。
作文以外の他の教科の勉強では、答えが正解であるかどうかということと、時間内に解けたかどうかということが重要ですが、作文の勉強はそれらに加えて、自分らしく書けたかどうかが重要になってくるのです。この自分らしさの心構えを持つことによって、作文以外の生活の中でも、自分らしくあろうとする意識が出てきます。この自分らしさは、他人との競争を必要とするものではありません。どの子の作文であっても、そこに自分らしい実例、表現、感想が書いてあれば、それは価値のあることなのです。
創造教育の第二、第三の方向である読む創造性、書く創造性の説明をする前に、創造とは果たしてどのようにして生まれるのかを考えておく必要があります。創造という言葉は、日常性格の中でもよく使われていますが、その本質は実はあまり深く研究されてはいません。
創造というもののとらえ方にも、文化による違いがあり、西欧の創造の考え方は、ひとことで言えば、「まだないものを作る」ということです。デカルトは、最初に「われ」があると考えました。サルトルは、その「われ」がこの世界に突然投げ出され、よそよそしい世界の中で「われ」の座るイスはどこにも用意されていないと考えました。だから、創造とは、自分のイスを世界に作ることとほぼ同義でした。自分の居場所であるイスを作るために、つまり創造のためには、邪魔なものは排除し、必要であれば破壊する必要もありました。西洋の創造には、この攻撃的な考えが根底にあります。
これに対して、日本の文化は、有の文化ではなく無の文化でした。日本では、「われ」があるということから出発しません。「われ」は本来無く、世界が最初にあるのです。あるいは、世界ともともと一体になった「われ」があると考えるのです。そして、東洋の理想は、本来の姿から離れた人為的な「われ」をできるだけ消して、世界ともとの一体に戻ることを目指すことでした。
このような文化における創造は、自分のイスを世界に作るというものではありません。日本では、自分というものを無にして、世界にできるだけ寄り添うことで、ふと世界の中にあるまだ埋められていない隙間を発見するということが創造でした。西洋の創造が作り出す創造であるとすれば、日本の創造は見つけ出す創造でした。
だから、日本の創造は、限りなく模倣に近い面を持っています。ある物事を何度も反復し、それをすっかり自分のものにする過程で、ふとその物事の中にあるまだ満たされていない隙間を見つけ、その隙間を埋めることが創造だったのです。(つづく)
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作文の勉強をする目的は何でしょうか。
フランシス・ベーコンは、「書くことは人間を正確にする」と言いました。確かに、書くことによって自分の認識を再確認する役割が確かに作文にはあります。しかし、それだけではまだ十分ではありません。
(Reading makes a full man, conference a ready man, and writing an exact man.)
小学校低中学年のころの作文の目的は、「正しく書く練習」です。ただし、正しく書くことだけを直接の目的とすると、作文の勉強はつまらないものになりますから、楽しく書くことを通して正しい書き方も身につけていくという勉強の仕方になります。
やがて学年が上がり、小学校高学年から中学生になると、書く内容が難しくなってきます。自分の身近な話題を取り上げる生活作文から、もう少し大きく人生や社会の話題を取り上げて書くようになります。このときに大事なことは、難しい内容をわかりやすく書くことです。中学生になると、今の授業時間の関係で作文の勉強というものはほとんどなくなります。そのため、中学生や高校生の中には、小学校で勉強したままの文章力にとどまっている子もいます。言葉の森では、中学生からは意見文を書く練習をしていきます。これは、自分の意見を相手にわかりやすく伝える練習です。そのため、構成を重視して、理由や実例や意見を明確に書く練習をします。これがちょうどベーコンの正確に書くことにあたるでしょう。この書き方がしっかりできれば、作文の勉強は、社会に出てからも役立つものとなります。
しかし、正しく、わかりやすく書くだけでは、まだ十分な文章力とは言えません。高校生になると、正しさやわかりやすさは身についているので、次は美しく書く練習です。意見文であっても、ただ正確に書けばよいというだけでは味気ない文章になってしまいます。文章の役割のひとつは、説得力を持つことですから、わかりやすいだけでなくそこに読み手の感情に結びつくような美しさの要素も必要になるのです。
さて、正しく、わかりやすく、美しくという文章の要素にもうひとつ付け加わるのは、「速く」という要素です。作文や小論文の試験があったときに、必要時間内に必要字数を書く力は欠かすことができません。言葉の森で作文の勉強をすることによって、「正しく、わかりやすく、美しく、速く」書く力を身につけていくのです。
しかし、ここまででとどまるなら、特に際立った目標とは言えません。作文の勉強の本当の目的は、この先の「創造性を育てる」ということにあります。そして、この創造性を育てることこそが、これからの教育の最も重要な柱になっていくものなのです。(つづく)
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経済産業省の調査によると、企業の人事担当者と大学生のそれぞれが考える社会人としての重要な力はかなり隔たりがあるということです。大学生が、語学力や業界の専門知識やパソコンの技能を重視しているの対して、企業の人事担当者はそういう能力はほとんど評価していません。逆に、大学生がそれほど重視していない主体性やコミュニケーション力を、企業の人事担当者は最も重視しています。つまり、社会に出てから大事なのは、自分で考えて自分から進んで行動し、その考えや行動を周囲に伝えるコミュニケーション力だということです。
このコミュニケーション力の土台となっているものは語彙力です。この語彙力は、国語の成績にだけ関係があるのではありません。小5と中2の生徒を対象にした調査では、語彙力は、算数(数学)、理科、社会の成績とも深い関連を持っているということです。つまり、語彙力とは学力全体と深い関連があるのです。
言葉の森の生徒の様子を見ていると、この語彙力は、小学校低学年のころから既に大きな個人差があるようです。しかし、それは日常生活では目立つような差として出てきません。また、小学校低学年のころは、語彙力と成績の関係はまだはっきりとはわかりません。しかし、学年が上がるにつれて、語彙力のある子の方が成績がよくなっていきます。語彙力がある子は、思考力のある子だからです。
では、子供たちの語彙力を知るためにはどういう方法があるのでしょうか。それが作文の中の語彙を見るという方法です。言葉の森の作文は、パソコンで入力すると、森リンという自動採点ソフトで語彙の種類を集計し表示するようになっています。ここで出てくる点数は、その作品の点数というよりも、その作文を書いた子供の作文力の点数です。どの子も、学年が上がるにつれて、この点数が少しずつ上がっていきます。そして、森リンの点数の高い子は、作文だけでなくどの教科の成績もいいという傾向があるのです。
もちろん、森リンも、人間が意識的に難しい言葉を使って作文を書くと点数を上げることができます。しかし、あまりわざとらしく難しく書くと、バランスが悪くなり逆に点数が低くなります。何よりも、人間が読んで普通に読める文章であることが大事で、人間の目と森リンの採点の両方を使えば、その子の今の作文力がかなり正確にわかります。
では、この語彙力を高めるにはどうしたらいいのでしょうか。作文の中に使う語彙の種類を増やすためには、語彙だけを単独に覚えても役に立ちません。知識として知っている語彙と、自分の書く文章に使える語彙では、その習熟度に違いがあるからです。
語彙力を本当に増やすためには、その語彙を意味のある文脈の中で理解する必要があります。そのための最も有効な方法は、平凡ですが読書なのです。その読書も、自分のこれまでの語彙をほんの少し上回るような読書にしていくことが大事です。しかし、小学校4年生のころまでは、あまり難しい本を読んで読書量が少なくなるよりも、たくさん読むことによって速読力を身につけていくことが必要になります。小学校高学年から、中学生、高校生となるにつれて、だんだんと難しい本を読むようになると、それにつれて作文の語彙も増えてきます。そして、その語彙力に比例して考える力がつき学力そのものがついてくるのです
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勉強のよくできる子というのはいます。そういう子に共通することは、ひとつには、吸収力があることです。吸収の速さと言ってもいいでしょう。長文の暗唱などでも、ほかの人よりも短い時間や回数でできるようになります。
もうひとつは、吸収する勉強に飽きないことです。人間は普通、人の話を聞くよりも、自分で話す方が楽しいことが多いものですが、勉強の好きな子は、聞くとか読むとかいう受け身で取り組む勉強にもすぐに適応できます。しかし、これにはマイナス面あります。吸収することが得意な子は、自分から何かを創造することが苦手になることも多いのです。
長時間飽きずに勉強できるので学校の成績はよく、受験でも成果を上げますが、そういう子が社会に出てからどういう仕事に向くかというと、大量の知識や書類を整理したりまとめたりする仕事までであることも多いのです。本当は、多くの知識をもとに自分なりのオリジナルな世界を創造できればいいのですが、創造力は、知識の吸収力とは別のものですから、勉強のよくできる子が必ずしも創造性を持っているわけではありません。逆に、知識を吸収することに適応しすぎると、本来持っていた創造性も表れにくくなるようなのです。
私は、教育関係の本をよく読みますが、同じようなテーマを取り上げた本でも、傾向が大きく二つに分かれるように思います。ひとつは、参考文献などを多数網羅し、幅広く知識を整理していながら筆者の独自の考えの乏しい本です。教科書や参考書のような本と言っていいでしょう。もうひとつは、筆者の独自の考えと実例で話をぐいぐい進めていくような本です。思い込みで書いていることも多いので客観的な資料としてはあまり使えませんが、いろいろな面で参考になる本です。
そして、これはあくまでも印象ですが、知識を網羅し整理するだけの文章を書く人は、学歴の高いことが多く、そういう傾向の人が日本の社会で次第に増えているような感じを受けるのです。今の日本の政治や学問に携わる人は、かなり強固な学歴社会の階層の中にいます。学力の中身よりも、肩書としての学歴でポジションが決まるような位置にいるのです。これが、実際に日々の仕事の工夫をしなければ生きていけない普通の庶民の生活とは違うところです。実力よりも肩書きが物を言う仕組みは、かつての中国の科挙の仕組みと似ています。全国から集まった最優秀な官僚によって運営されているはずの清という国家は、新しい時代の変化に対応できず西洋列強の侵略にほとんど何の有効な対策も打てませんでした。それに対して、学歴や肩書ではなく、下級武士の実力によって作られた明治政府は、短期間で日本の近代化を成し遂げました。
これからの日本の社会に求められるのは、学力とともに実力のある人材です。それは、知識力だけでなく創造力もある人材だと言ってもいいでしょう。今の受験体制の中では、知識の吸収力以外の能力はほとんど評価されません。それは、試験制度というものがもともとそういう形でしか客観的な評価ができないからです。しかし、実際に接してみれば、実力のある人や創造力のある人というのは、自然にわかってきます。ペーパー試験ではわからないことが、実際にいろいろな仕事をする中でわかってくるのです。
同じことが家庭でも言えます。お父さんやお母さんは、子供のテストの成績だけに目を向けるのではなく、その子が将来、独自の考えを持つ創造力のある人間になるかどうかということに目を向ける必要があります。これからは、いい学校に入ったから一生安心だという時代ではなくなります。学歴や資格が物を言うのはわずかの間で、その後の長い時間を本人の実力で生きていくような時代になっていきます。子供を見るときに、数年先の受験がうまく行くかどうかという目で見るのではなく、数十年後に社会で自分らしい活躍ができるかどうかという目で見ていく必要があります。勉強はできて当然だが、ペーパーテストで測られる勉強以外の力がどのくらいあるかを見ていくことが大事なのです。
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中学生の保護者のお母さんから、何件か相談がありました。「学校の成績が今一つ」というのです。頭がよくて真面目にやっていて、成績がそのわりによくないというのは、勉強の仕方に問題があるからです。毎日の勉強は、実力を向上させるためにやるものですが、それが試験の成績をよくするためにやる勉強になっているから、実力がつかず、その結果成績がよくならないのです。
例えば、英語だったら教科書の暗唱と暗写、数学だったらちょっと難しい問題の含まれている問題集で解答の解説が詳しいものを百パーセントできるようにすること、国語だったら、毎日の読書による速読力の育成と、問題集読書による難読力の育成。これらが、実力をつけるための勉強です。
この実力をつけるための勉強を最優先させることが大事なのに、子供たちの多くは、学校の日々の授業やテストに間に合わせるために勉強に時間をとられています。だから、毎日真面目に忙しく勉強しているわりに、実力がつかず、成績も上がらないのです。
中学生のころは、親の言うことは聞かずに自分でやりたがる時期ですが、まだ大きな判断力というのは育っていません。勉強の方針などは、親がアドバイスをしてあげなければ、自己流の勘違いした勉強の仕方になってしまうのが普通です。
勉強の仕方を自分で工夫できるようになるのは高校生からだと考えて、中学生のころはできるだけ親が勉強の中身を理解しておくことです。そのためには、テストが返却されたときは、点数を見るだけでなく、親が実際にその問題を一緒に解いてみて子供がどういうところができなかったのかを把握しておくといいと思います。
中学生は、塾に行っている子が多いと思います。しかし、塾に全面的に任せるのではなく、家庭では親が勉強の中身を把握しておく必要があります。中学生の勉強はそれなりに難しくなりますが、親は年の功があるので、難しい内容でも理解力は子供よりも優れています。最初は子供の方がよくできていても、何度かやっているうちに親の方が実力がついてくることが多いのです。
昔、中学3年生になる子のお母さんが言葉の森に相談に来たことがあります。「勉強の仕方がわからないので、子供は塾に行きたいと言っているが、どういうところがいいか」というのです。そこで、「勉強は、お母さんが教えたらいいですよ」と言って、特に数学の勉強の仕方を中心に詳しく説明しました。すると、それに納得したお母さんは、その子の勉強を自分で教えるようになりました。翌年、その子は実力をつけて学区のトップ高に合格したのです。後日、お母さんに聞くと、「最初はそんなことができるかと思ったが、やってみると結構できるとわかった。今では教えることに自信がついた」ということでした。
中学生までの勉強は、どんな難関校であっても、親ががんばれば教えられます。自分で教える時間がとれなくても、少なくとも勉強の内容に関しては親が理解しておくことが必要だと思います。
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小3以上は毎週の作文の課題が題名課題や感想文課題になるので、家で似た話を考えてくることが準備として必要になります。
その似た話の中に、お父さんやお母さんにも聞いてくるというものがありますが、子供によっては、まるで聞いてくることが宿題のような受け身の態度になってしまう子もいます。
親に答えを教えてもらうという勉強ではなく、自分で似た話を考えるひとつのきっかけとして親にも聞くという主体的な姿勢が必要なのですが、最初のうちはなかなかそういうところまでできない子もいます。これまでの勉強のスタイルは、自分で何かをするというよりも、与えられた知識を受け身で吸収するというものが多かったので、作文の予習も自然にそうなりがちなのだと思います。
ですから、作文の課題の予習をするときのお父さん、お母さんは、次の点を心掛けながら話をしてくださるとよいと思います。
第一は、この作文の勉強は、自分で考える創造性のある子を育てる勉強だという位置づけをはっきりさせることです。単に勉強のよくできる子を育てるのではなく、どんなことにも自分なりの考えを述べられる子を育てる勉強です。
ですから、第二には、機会あるごとに、子供に自分はどう考えるのかを聞き、少しでも自分なりの考えを述べたらそれを高く評価してあげることです。ここで大事なことは、「自分の考えを言えなければだめ」というマイナスの評価をすることではありません。まだ小さい子には、自分から進んで言えないものはたくさんあります。できないことを注意するのではなく、おぼつかない言葉であっても、自分から進んで言ったことについて高く評価してあげることです。できないことを注意するのではなく、できたときに褒めるというのが大事です。
第三に、自分から進んで考える力をつけるために、お父さんやお母さん自身が、そういう対話を楽しむ姿勢を持つということです。子供に似た話を聞かれたときに、それを狭く真面目に考えて、「そんな似た話はない」とすぐにあきらめるお父さんやお母さんがいます。また、似た話がないから、インターネットで検索して調べてみるという人もいます。調べること自体はいいことですが、自分の考えを補強するために調べるのではなく、出来合いの答えを見つけるために調べるような調べ方では自分で考えていないことと同じになってしまいます。どんなテーマであっても、親が何らかの自分なりの話を楽しくしてくれるということに接するうちに、子供自身もそういう自分で考える楽しさを身につけていくのです。だから、大事なことは、似た話を子供に聞かれたときに、親はできるだけ自分の体験に結びつけて話してあげることです。
とっさに聞かれたのでは十分にいい話ができないということもありますから、できれば、お父さんやお母さんも事前に長文に目を通しておくか、毎日の子供の長文音読を聞く機会を持つといいと思います。長文を聞くと言っても、食事の支度をしながらとか、新聞を読みながらとか、そういう聞くともなしに聞くという程度でいいのです。
また、当然ですが、子供自身も長文を何度も繰り返し音読しておく必要があります。繰り返し音読をしていると、その長文がすっかり自分のものになるので、長文を見ないでも内容を説明できるようになります。そういう状態になったときに初めて似た話の対話が自由にできるようになります。従来の勉強は、1、2回読んで内容を理解して答えを書くという表面的な知識を問う形の勉強が多かったので、この繰り返し読んで自分のものにするという勉強法に子供たちはあまり慣れていません。しかし、これからの世の中で必要になるのが、こういう知識を自分のものとして消化しそこから自分なりのものを創造する学力なのです。
以上のような説明を聞くと難しく感じるかもしれませんが、要点は簡単です。まず、毎日子供に長文を音読させることです。そして、週に一度その長文の内容を子供に説明させて、お父さんやお母さんが自分なりの似た話を楽しくしてあげることです。そういう話をするうちに、子供も自分からいろいろな考えを言うようになります。そうしたら、その子供なりの考えを(多少見当違いのことがあっても)大いに評価してあげることです。
このようにして、単に勉強がよくできるだけでなく、自分なりのオリジナルな考えを述べる力のある子が育っていくのです。
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