4月の清書をもとにした森リン大賞です。
4月は課題の字数が少なかったため、1200字未満の作品も多かったようです。森リンは、1200字以上の作文に対して最適化されているので、小6以上の生徒は、清書のときに、これまでの作文に内容を付け加えて書いていくといいと思います。
中学生になると、課題は意見文が中心になります。小学生のときまでの生活作文とは語彙の範囲が異なるので、最初のうちはかなり書きにくいと思います。この時期は上手に書くよりも、まず構成を意識して書いていくようにしましょう。学年が上がり語彙力がついてくると、意見文でありながら表現を工夫した文章が書けるようになってきます。
4月の森リン大賞(中1の部97人中)
多角的なものの見方の大切さ
まりは
私は、多角的に物事を見るのは良いと思う。その理由は二つある。
第一の理由として、多角的に物事を見ると新しい発見があるからだ。六年生の国語の授業で、ディベートを行った。「小学生に携帯電話は必要か」というテーマだ。私は、「必要ない」という反対意見についた。その時に、賛成側、つまり相手側の主張で、二点「なるほど!」と思える内容があった。一つ目は、小学生は判断力に欠けるため悪質サイトに入ってしまうという私達の意見に対する反論だ。相手側によると、最近のキッズ携帯には、悪質サイトに入りそうになると、画面が黒くなり入れなくなる機能があるらしい。二つ目は、災害時には、携帯電話より公衆電話の方がつながりやすいという私達の主張に対する反論だ。実際、昨年の震災時には携帯電話がつながりにくかった。そのため、公衆電話を利用する人が多かった。相手側によると、「災害用伝言ダイヤル」を利用すれば携帯が役立つそうだ。なぜなら、このシステムを利用すると、災害時でも家族の安否が確認できるからだ。ディベートをするまで、私は、悪質サイトや使い過ぎによる中毒など、携帯は危険なことが多いと思っていた。つまり、一方的にしか見ていなかったのだ。しかし、携帯は、使い方を工夫すれば、安全確保の助けになる。ディベートを通して、携帯の良さを発見できた。
第二の理由として、物事を多角的に見ると真の姿が見えるからだ。最近資源の有効活用ということで、「マイはし」が普及してきている。マイはしは、使い捨てのわりばしに比べて、資源を大切にしているように感じる。ところが、実は、わりばしを使った方が資源の有効活用になるのだ。わりばしは、人工林の間伐や枝打ちで出た木材で作られている。間伐や枝打ちをすると、木や枝が間引かれて、森林の中に日光が入りやすくなったり、一本一本の木が大きく育ちやすくなったりする。この間伐や枝打ちで出た木材が、わりばしに加工されている。つまり、わりばしを使うことによって木材が余ってしまうことを防げるのだ。このように、わりばしを使うことによって、一本の木をむだなく使えるのだ。「マイはし」について多角的に考えてみることにより、資源有効活用の真の姿が分かった。
確かに、一方的な見方をした方が、一つのことをしっかり完ぺきに理解したり考えたりできる。だが、「脱皮できない蛇は滅びる」という名言があるように、一点から多くのことへと目を向けることによって、視点を広げ全体を理解した方が、理解がより深まるのではないか。やはり私は、多角的なものの見方は良いと思う。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●多角的なものの見方の大切さ | まりは | 87 | 1084 | 61 | 85 | 88 | 90 |
2位 | ●仲良しだからこそ、あだ名が・・・ | みっくまっく | 82 | 934 | 54 | 68 | 80 | 95 |
3位 | ●多角的に | かこちゃん | 82 | 1122 | 62 | 69 | 65 | 83 |
4位 | ●一長一短 | ききほ | 81 | 1102 | 49 | 69 | 81 | 83 |
5位 | ●目標の力とは | りょうたろう | 81 | 1112 | 53 | 59 | 79 | 90 |
6位 | ●日本の文化、外国の文化 | 星のカービィ | 80 | 849 | 51 | 81 | 81 | 83 |
7位 | ●料理から学んだ事 | なむき | 80 | 966 | 48 | 63 | 76 | 87 |
8位 | ●私の目標 | 小林佳菜 | 79 | 1292 | 44 | 83 | 87 | 87 |
9位 | ●読書は楽しい! | やあや | 79 | 1383 | 46 | 74 | 85 | 84 |
10位 | ●矛盾が良いか | 有菜 | 79 | 960 | 54 | 65 | 62 | 89 |
★1位の作品は、清書の部分が多かったため代表作品にはまりませんでした。
4月の森リン大賞(中2の部79人中)
伸ばすと直す
ピット
私の長所はまじめなところだとよく言われる。この前の学校からきた配布物にも、「長所:まじめ」と書いた。それに比べ、私の短所は考えすぎ、優柔不断というところである。小さい頃、お菓子を選ぶときのこと。妹はすぐに決めるのに、私は何分も迷っていたことを今でも覚えている。今はお菓子を買うときは、すぐに決められる。反対に妹はだんだん優柔不断化してきて、けっこう迷っている(笑)。しかし、かばんや本を買うとき、なやむのは私だ。本当に必要かどうかよくよく考えて買う。特に本は要注意だ。なぜなら、その日一日で読み終わってしまうからだ。何年か前その時はまっていた「○○は名探偵」シリーズの「新撰組は名探偵」を買ったとき、私は一日で読み終わってしまった。だから、買うのがもったいない。私は、じぶんが読み終わっても残しておきたい本を買うようにしている。そのため、迷ってしまい、妹に急かされてしまう(笑)。
確かに、長所を伸ばすことは重要だ。私はミニバスケットボール部に入っていた。バスケが得意とまではいかないが……。しかし、部活に入って体力が上がった。四年の時に入ってから、五年の体力テストでは、ほとんどが、かなり上がっていた。二年の時から変わらなかった握力も上がっていた。五十メートル走も一秒以上速くなっていた。特に変化があったのは、上体越こしだった。四年の時には、三十秒に十五回だったのに、五年で二十六回、六年では二十九回とほぼ倍になったのだ。今まで、平均を下回ることが多かったのに、平均を上回ってとてもうれしかった。グラフを見てみると、握力のところがへこんでいて、上体起こしだけが出っ張っていてバランスが悪いが……。このように、長所を伸ばそうとすれば、他の場所ものびていくのだ。
しかし、短所を直すことが大切だという考えもある。私は人見知りが激しい方だと思う。人見知りは自分に何の得もないから、直したいと思っているが、なかなか直らない。人前で大きな声で発表すると、声がかすれてしまいまう。だから、一年の三学期に総務に選ばれたときは、どうしようと思った。しかし、総務が終わったとき、なんとなく、前と変わったような気がした。これからは大丈夫なんじゃないかと思った。ところが、中二になってからクラスが変わったせいかもしれないが、発表するときにドキドキした。その時、やっぱりまだまだだなあと思った。これからは頑張ってこの欠点を直していきたいと思う。
このように長所を伸ばすことも短所を直すことも大切だ。しかし、最も大切なことは、自分を磨いて成長させることではないだろうか。「大切なのは、健康らしい外見ではなく、健康自身である。」という名言のように、長所を伸ばすことや、短所を直すことは目標への手段であり、その目標は自分を磨いて成長させることだ。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●自分の運命 | はるりん | 87 | 1246 | 53 | 75 | 75 | 87 |
2位 | ●伸ばすと直す | ピット | 81 | 1182 | 49 | 65 | 81 | 80 |
3位 | ●新旧ユーティリティ | ふっくー | 81 | 1031 | 56 | 62 | 68 | 87 |
4位 | ●私の目標 | 百合 | 80 | 927 | 41 | 88 | 106 | 86 |
5位 | ●新旧折衷 | コレルリ | 80 | 993 | 56 | 102 | 97 | 87 |
6位 | ●長所と短所 | くこあ | 80 | 913 | 53 | 67 | 78 | 81 |
7位 | ●古い文化と新しい文化 | 小林少年 | 80 | 974 | 54 | 61 | 67 | 86 |
8位 | ●長所と短所 | トンクス | 80 | 931 | 57 | 67 | 65 | 89 |
9位 | ●測れるものと測れないもの | ポケット | 80 | 1205 | 62 | 52 | 60 | 90 |
10位 | ●れる改革 | にゃぱ | 79 | 833 | 48 | 78 | 77 | 86 |
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知識で差をつける試験を中心とした教育がその役割を終えつつある今、何が今後の教育の目的となるかと言えば、それは創造です。新しいものを生み出す創造こそ、これからの教育の最も大きな目的になるものです。
というのも、人間の本質は、まさにこの創造性を持つことの中にあるからです。動植物は、その進化の過程という長い歴史的時間の中では創造的な存在ですが、人間のように意識の上で創造的であるのではありません。
また、これはあくまでも推測の話ですが、今後人類はさまざまな宇宙人と遭遇することが予想されます。地球よりも優れた科学技術を持つ宇宙人は意外なことに地球人よりも創造的でない可能性があるのです。なぜかというと、高度な科学を持つ宇宙人は、地球人のように不自由な制約としての言語を持たない可能性があるからです。宇宙人のコミュニケーションは、言語ではなく、もっとすべての情報を完全に伝えるような手段によって行われていると考えられます。更に、宇宙における生命体によっては、肉体の制約をほとんど持たない意識中心の存在もあると考えられます。しかし、この肉体の制約こそが、人間においては、ある時間の経過の中で創造というものを生み出す土台となっています。つまり、言語と肉体という二つの不自由さを強く持つ地球人が、最も創造性に近い位置にいると考えられるのです。
■読む創造性(題材の創造性)
日本の近代資本主義の父と言われた渋沢栄一は、「論語と算盤」という著書を著しました。論語という伝統文化を近代資本主義にあてはめることによって、その両立を目指したのです。
なぜそれが可能だったかというと、幼少のころから論語に習熟していたために、論語が単なる知識ではなく体に浸み込んだ知識になっていたからです。だから、その論語の思想を異質な資本主義の論理と結びつけることができたのです。
ここに創造の本質があります。つまり、ある知識が自分の血肉となっているとき、その知識とは異なる新たな知識に遭遇し、その異なる知識を取り入れようとする際に、肉体化された知識どうしに一種の化学反応が起こると言ってもいいでしょう。それが、創造です。
なぜそういうことが起こるかというと、ある知識Aを自分の手足のように熟知していて、それを他の知識Bにあてはめようとすると、AにあってBにないもの、又はその逆が自ずからわかってくるからです。そのときに、A又はBにおける不在として見つけた隙間を埋める知的作業が創造です。(つづく)
だんだん話がややこしくなってきました。(^^ゞ でも、まだ続く。
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これからの教育で大事なのは、知識ではありません。確かに基礎学力という意味での知識はいつの時代でも必要ですが、それはもともとそれほど多くはありません。
今の受験の問題点は、試験のためにしか役に立たない、差をつけるために作られた知識のテストに、子供たちの時間が取られすぎていることです。その結果、試験というふるい分けの勝者も敗者も、勉強の本来の目的からはずれたものに無駄な時間費やしています。
大事なのは、知識を身につけることが早い子も遅い子も、それぞれの個性をもとに創造性を育てていくことです。しかし、もちろん、その個性は、知識労働者と肉体労働者というような優劣を前提にした個性ではありません。優劣のない個性は、次のようなやり方で可能です。
例えば、頭のいい子Aは、英数国理社の長い底辺の上に、創造性の柱を立てて学力の三角形を作ります。しかし、その底辺がかなり長いために(知識の範囲が広いために)、底辺の下に作る三角形は浅いものになりがちです。
頭の悪い子は、長い底辺は最初から求めずに、自分の近所の地理に関する情報のような短いが深い底辺の上に創造性の柱を立てて三角形を作ります。こういう三角形の作り方が、それぞれの個性です。
この二つの三角形(底辺の下につながる深さも考えると菱形のような形とも言えますが)の、重なり合わない部分が、それぞれの子供の独創的な知性です。この独創性が社会における個性的な貢献であるとしたら、人間はだれでも自分の能力に応じて独自の貢献ができるということになります。
知的に優れたエリートだけが創造的であればよく、そうでない大衆は歯車として機能していればいいというのは、どちらかと言えば欧米流の考え方です。日本の文化は、どのような子も、その能力に応じて個性的な貢献ができるという考え方を前提として成り立っています。それが単なる理想論でないのは、知識と創造性が作る三角形は、知識の範囲と深さが異なれば重なり合わないからです。
今後、教育の方法が改善されることによって、人間の知識の底辺はだれでも飛躍的に拡大する可能性があります。また、人間の知的活動の一部を機械に代替させる仕組みが開発されれば、人間の底辺は更に広がる可能性があります。
これからの時代は、社会のすみずみにまで知が活用される時代になります。自分の専門分野が音楽や運動や手仕事だから知は要らないということが言えたのは、かなり昔の話です。これからの社会は、どのような分野にも知的な理解、思考、表現が必要な時代になってきます。
そして、だからこそ、これからの教育の中心は、知識の習得ではなく、創造性の開発になるのです。(つづく)
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模倣のない創造はありえない。しかしトライ&エラーなしに大発見はありえない。漠然としていますが、このようにいつも考えています。
例えば小学校の低学年でスラスラと文を書く子供は、たくさん童謡を知っている。流れるような文体の作家は古典に精通している。というように、長く受け継がれてきたものを学んだ結果、ある時期まで待てば自然に個性、創造が生まれてくるのではないかと思います。マニュアルとは違うので、時が熟すまで待つのは親としての楽しみでもあります。
一方、何度も果敢に挑戦する人はいずれは結果を伴います。失敗を恐れない大らかさというか勇気を持つことが、実は大事を成す上で重要な要素ではないかと思います。
時が熟すまで待つというのは、そのとおりだと思います。たまに、子供の作文に、「同じような書き方ばかり」という批評をするお母さんがいますが、それを指導で変えるようなやり方にすると無理が出ます。読書によって使える語彙を増やしていくと、子供は自然に新しい書き方をするようになります。気長に見ていくことが大事ですね。
それから、失敗を恐れないというのも確かに大事。これもおおらかな気持ちでということですね。
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創造性の教育は、三つの方向から考えていくことができます。第一は、創造的であろうとする心構えです。第二は、読む創造性です。第三は、書く創造性です。
第一の創造的であろうとする心構えは、作文の勉強に特徴的なものです。作文には、構成、題材、表現、主題などの要素がありますが、それらの要素に自分らしさをできるだけ盛り込むというのが創造性の心構えです。ですから、子供たちの作文を大人が評価するときに大事なことは、自分らしさがあるかということです。正しく書く、わかりやすく書く、美しく書く、速く書くに更に付け加えて、自分らしく書くということが大事になってきます。
作文以外の他の教科の勉強では、答えが正解であるかどうかということと、時間内に解けたかどうかということが重要ですが、作文の勉強はそれらに加えて、自分らしく書けたかどうかが重要になってくるのです。この自分らしさの心構えを持つことによって、作文以外の生活の中でも、自分らしくあろうとする意識が出てきます。この自分らしさは、他人との競争を必要とするものではありません。どの子の作文であっても、そこに自分らしい実例、表現、感想が書いてあれば、それは価値のあることなのです。
創造教育の第二、第三の方向である読む創造性、書く創造性の説明をする前に、創造とは果たしてどのようにして生まれるのかを考えておく必要があります。創造という言葉は、日常性格の中でもよく使われていますが、その本質は実はあまり深く研究されてはいません。
創造というもののとらえ方にも、文化による違いがあり、西欧の創造の考え方は、ひとことで言えば、「まだないものを作る」ということです。デカルトは、最初に「われ」があると考えました。サルトルは、その「われ」がこの世界に突然投げ出され、よそよそしい世界の中で「われ」の座るイスはどこにも用意されていないと考えました。だから、創造とは、自分のイスを世界に作ることとほぼ同義でした。自分の居場所であるイスを作るために、つまり創造のためには、邪魔なものは排除し、必要であれば破壊する必要もありました。西洋の創造には、この攻撃的な考えが根底にあります。
これに対して、日本の文化は、有の文化ではなく無の文化でした。日本では、「われ」があるということから出発しません。「われ」は本来無く、世界が最初にあるのです。あるいは、世界ともともと一体になった「われ」があると考えるのです。そして、東洋の理想は、本来の姿から離れた人為的な「われ」をできるだけ消して、世界ともとの一体に戻ることを目指すことでした。
このような文化における創造は、自分のイスを世界に作るというものではありません。日本では、自分というものを無にして、世界にできるだけ寄り添うことで、ふと世界の中にあるまだ埋められていない隙間を発見するということが創造でした。西洋の創造が作り出す創造であるとすれば、日本の創造は見つけ出す創造でした。
だから、日本の創造は、限りなく模倣に近い面を持っています。ある物事を何度も反復し、それをすっかり自分のものにする過程で、ふとその物事の中にあるまだ満たされていない隙間を見つけ、その隙間を埋めることが創造だったのです。(つづく)
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作文の勉強をする目的は何でしょうか。
フランシス・ベーコンは、「書くことは人間を正確にする」と言いました。確かに、書くことによって自分の認識を再確認する役割が確かに作文にはあります。しかし、それだけではまだ十分ではありません。
(Reading makes a full man, conference a ready man, and writing an exact man.)
小学校低中学年のころの作文の目的は、「正しく書く練習」です。ただし、正しく書くことだけを直接の目的とすると、作文の勉強はつまらないものになりますから、楽しく書くことを通して正しい書き方も身につけていくという勉強の仕方になります。
やがて学年が上がり、小学校高学年から中学生になると、書く内容が難しくなってきます。自分の身近な話題を取り上げる生活作文から、もう少し大きく人生や社会の話題を取り上げて書くようになります。このときに大事なことは、難しい内容をわかりやすく書くことです。中学生になると、今の授業時間の関係で作文の勉強というものはほとんどなくなります。そのため、中学生や高校生の中には、小学校で勉強したままの文章力にとどまっている子もいます。言葉の森では、中学生からは意見文を書く練習をしていきます。これは、自分の意見を相手にわかりやすく伝える練習です。そのため、構成を重視して、理由や実例や意見を明確に書く練習をします。これがちょうどベーコンの正確に書くことにあたるでしょう。この書き方がしっかりできれば、作文の勉強は、社会に出てからも役立つものとなります。
しかし、正しく、わかりやすく書くだけでは、まだ十分な文章力とは言えません。高校生になると、正しさやわかりやすさは身についているので、次は美しく書く練習です。意見文であっても、ただ正確に書けばよいというだけでは味気ない文章になってしまいます。文章の役割のひとつは、説得力を持つことですから、わかりやすいだけでなくそこに読み手の感情に結びつくような美しさの要素も必要になるのです。
さて、正しく、わかりやすく、美しくという文章の要素にもうひとつ付け加わるのは、「速く」という要素です。作文や小論文の試験があったときに、必要時間内に必要字数を書く力は欠かすことができません。言葉の森で作文の勉強をすることによって、「正しく、わかりやすく、美しく、速く」書く力を身につけていくのです。
しかし、ここまででとどまるなら、特に際立った目標とは言えません。作文の勉強の本当の目的は、この先の「創造性を育てる」ということにあります。そして、この創造性を育てることこそが、これからの教育の最も重要な柱になっていくものなのです。(つづく)
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経済産業省の調査によると、企業の人事担当者と大学生のそれぞれが考える社会人としての重要な力はかなり隔たりがあるということです。大学生が、語学力や業界の専門知識やパソコンの技能を重視しているの対して、企業の人事担当者はそういう能力はほとんど評価していません。逆に、大学生がそれほど重視していない主体性やコミュニケーション力を、企業の人事担当者は最も重視しています。つまり、社会に出てから大事なのは、自分で考えて自分から進んで行動し、その考えや行動を周囲に伝えるコミュニケーション力だということです。
このコミュニケーション力の土台となっているものは語彙力です。この語彙力は、国語の成績にだけ関係があるのではありません。小5と中2の生徒を対象にした調査では、語彙力は、算数(数学)、理科、社会の成績とも深い関連を持っているということです。つまり、語彙力とは学力全体と深い関連があるのです。
言葉の森の生徒の様子を見ていると、この語彙力は、小学校低学年のころから既に大きな個人差があるようです。しかし、それは日常生活では目立つような差として出てきません。また、小学校低学年のころは、語彙力と成績の関係はまだはっきりとはわかりません。しかし、学年が上がるにつれて、語彙力のある子の方が成績がよくなっていきます。語彙力がある子は、思考力のある子だからです。
では、子供たちの語彙力を知るためにはどういう方法があるのでしょうか。それが作文の中の語彙を見るという方法です。言葉の森の作文は、パソコンで入力すると、森リンという自動採点ソフトで語彙の種類を集計し表示するようになっています。ここで出てくる点数は、その作品の点数というよりも、その作文を書いた子供の作文力の点数です。どの子も、学年が上がるにつれて、この点数が少しずつ上がっていきます。そして、森リンの点数の高い子は、作文だけでなくどの教科の成績もいいという傾向があるのです。
もちろん、森リンも、人間が意識的に難しい言葉を使って作文を書くと点数を上げることができます。しかし、あまりわざとらしく難しく書くと、バランスが悪くなり逆に点数が低くなります。何よりも、人間が読んで普通に読める文章であることが大事で、人間の目と森リンの採点の両方を使えば、その子の今の作文力がかなり正確にわかります。
では、この語彙力を高めるにはどうしたらいいのでしょうか。作文の中に使う語彙の種類を増やすためには、語彙だけを単独に覚えても役に立ちません。知識として知っている語彙と、自分の書く文章に使える語彙では、その習熟度に違いがあるからです。
語彙力を本当に増やすためには、その語彙を意味のある文脈の中で理解する必要があります。そのための最も有効な方法は、平凡ですが読書なのです。その読書も、自分のこれまでの語彙をほんの少し上回るような読書にしていくことが大事です。しかし、小学校4年生のころまでは、あまり難しい本を読んで読書量が少なくなるよりも、たくさん読むことによって速読力を身につけていくことが必要になります。小学校高学年から、中学生、高校生となるにつれて、だんだんと難しい本を読むようになると、それにつれて作文の語彙も増えてきます。そして、その語彙力に比例して考える力がつき学力そのものがついてくるのです
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勉強のよくできる子というのはいます。そういう子に共通することは、ひとつには、吸収力があることです。吸収の速さと言ってもいいでしょう。長文の暗唱などでも、ほかの人よりも短い時間や回数でできるようになります。
もうひとつは、吸収する勉強に飽きないことです。人間は普通、人の話を聞くよりも、自分で話す方が楽しいことが多いものですが、勉強の好きな子は、聞くとか読むとかいう受け身で取り組む勉強にもすぐに適応できます。しかし、これにはマイナス面あります。吸収することが得意な子は、自分から何かを創造することが苦手になることも多いのです。
長時間飽きずに勉強できるので学校の成績はよく、受験でも成果を上げますが、そういう子が社会に出てからどういう仕事に向くかというと、大量の知識や書類を整理したりまとめたりする仕事までであることも多いのです。本当は、多くの知識をもとに自分なりのオリジナルな世界を創造できればいいのですが、創造力は、知識の吸収力とは別のものですから、勉強のよくできる子が必ずしも創造性を持っているわけではありません。逆に、知識を吸収することに適応しすぎると、本来持っていた創造性も表れにくくなるようなのです。
私は、教育関係の本をよく読みますが、同じようなテーマを取り上げた本でも、傾向が大きく二つに分かれるように思います。ひとつは、参考文献などを多数網羅し、幅広く知識を整理していながら筆者の独自の考えの乏しい本です。教科書や参考書のような本と言っていいでしょう。もうひとつは、筆者の独自の考えと実例で話をぐいぐい進めていくような本です。思い込みで書いていることも多いので客観的な資料としてはあまり使えませんが、いろいろな面で参考になる本です。
そして、これはあくまでも印象ですが、知識を網羅し整理するだけの文章を書く人は、学歴の高いことが多く、そういう傾向の人が日本の社会で次第に増えているような感じを受けるのです。今の日本の政治や学問に携わる人は、かなり強固な学歴社会の階層の中にいます。学力の中身よりも、肩書としての学歴でポジションが決まるような位置にいるのです。これが、実際に日々の仕事の工夫をしなければ生きていけない普通の庶民の生活とは違うところです。実力よりも肩書きが物を言う仕組みは、かつての中国の科挙の仕組みと似ています。全国から集まった最優秀な官僚によって運営されているはずの清という国家は、新しい時代の変化に対応できず西洋列強の侵略にほとんど何の有効な対策も打てませんでした。それに対して、学歴や肩書ではなく、下級武士の実力によって作られた明治政府は、短期間で日本の近代化を成し遂げました。
これからの日本の社会に求められるのは、学力とともに実力のある人材です。それは、知識力だけでなく創造力もある人材だと言ってもいいでしょう。今の受験体制の中では、知識の吸収力以外の能力はほとんど評価されません。それは、試験制度というものがもともとそういう形でしか客観的な評価ができないからです。しかし、実際に接してみれば、実力のある人や創造力のある人というのは、自然にわかってきます。ペーパー試験ではわからないことが、実際にいろいろな仕事をする中でわかってくるのです。
同じことが家庭でも言えます。お父さんやお母さんは、子供のテストの成績だけに目を向けるのではなく、その子が将来、独自の考えを持つ創造力のある人間になるかどうかということに目を向ける必要があります。これからは、いい学校に入ったから一生安心だという時代ではなくなります。学歴や資格が物を言うのはわずかの間で、その後の長い時間を本人の実力で生きていくような時代になっていきます。子供を見るときに、数年先の受験がうまく行くかどうかという目で見るのではなく、数十年後に社会で自分らしい活躍ができるかどうかという目で見ていく必要があります。勉強はできて当然だが、ペーパーテストで測られる勉強以外の力がどのくらいあるかを見ていくことが大事なのです。
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中学生の保護者のお母さんから、何件か相談がありました。「学校の成績が今一つ」というのです。頭がよくて真面目にやっていて、成績がそのわりによくないというのは、勉強の仕方に問題があるからです。毎日の勉強は、実力を向上させるためにやるものですが、それが試験の成績をよくするためにやる勉強になっているから、実力がつかず、その結果成績がよくならないのです。
例えば、英語だったら教科書の暗唱と暗写、数学だったらちょっと難しい問題の含まれている問題集で解答の解説が詳しいものを百パーセントできるようにすること、国語だったら、毎日の読書による速読力の育成と、問題集読書による難読力の育成。これらが、実力をつけるための勉強です。
この実力をつけるための勉強を最優先させることが大事なのに、子供たちの多くは、学校の日々の授業やテストに間に合わせるために勉強に時間をとられています。だから、毎日真面目に忙しく勉強しているわりに、実力がつかず、成績も上がらないのです。
中学生のころは、親の言うことは聞かずに自分でやりたがる時期ですが、まだ大きな判断力というのは育っていません。勉強の方針などは、親がアドバイスをしてあげなければ、自己流の勘違いした勉強の仕方になってしまうのが普通です。
勉強の仕方を自分で工夫できるようになるのは高校生からだと考えて、中学生のころはできるだけ親が勉強の中身を理解しておくことです。そのためには、テストが返却されたときは、点数を見るだけでなく、親が実際にその問題を一緒に解いてみて子供がどういうところができなかったのかを把握しておくといいと思います。
中学生は、塾に行っている子が多いと思います。しかし、塾に全面的に任せるのではなく、家庭では親が勉強の中身を把握しておく必要があります。中学生の勉強はそれなりに難しくなりますが、親は年の功があるので、難しい内容でも理解力は子供よりも優れています。最初は子供の方がよくできていても、何度かやっているうちに親の方が実力がついてくることが多いのです。
昔、中学3年生になる子のお母さんが言葉の森に相談に来たことがあります。「勉強の仕方がわからないので、子供は塾に行きたいと言っているが、どういうところがいいか」というのです。そこで、「勉強は、お母さんが教えたらいいですよ」と言って、特に数学の勉強の仕方を中心に詳しく説明しました。すると、それに納得したお母さんは、その子の勉強を自分で教えるようになりました。翌年、その子は実力をつけて学区のトップ高に合格したのです。後日、お母さんに聞くと、「最初はそんなことができるかと思ったが、やってみると結構できるとわかった。今では教えることに自信がついた」ということでした。
中学生までの勉強は、どんな難関校であっても、親ががんばれば教えられます。自分で教える時間がとれなくても、少なくとも勉強の内容に関しては親が理解しておくことが必要だと思います。
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