教室の床がへこんでいたので、3日間工事してもらった。教室がきれいになったのを機に、机の配置も普通の教室のような雰囲気にした。ここで、森林プロジェクトのモデル教室のような形の運営をして、全国の講師がいつでも見学に来られるようにする予定。
教室を直したのでついでに、事務室の机も大移動した。電源コードや電話線やらLANケーブルがスパゲティ状態というか、カップヌードル状態で、最初は途方に暮れたが、それでも夕方には無事に片付いた。(それで今この記事を書いているところ)
このあと、仕事の分担と年間計画を決めて、本格的にビジネスライクにやる予定。ということは、今までは、あまりビジネス的でなかったということか(笑)。
これからいちばん力を入れていくのが、森リンテクノロジー。ちなみに、森リンとは、言葉の森の小論文自動採点システムの愛称で、「もりりん」と呼ぶ。由来は、言葉の森に棲むという七色のキリンの伝説から。というか、勝手に伝説を作った(笑)。
森リンテクノロジーとは、子供たちの作文を小1から解析して、文章力や思考力の上達の度合いを科学的に表示する仕組みだ。
今の小学生は、子供も親も、点数化される教科の成績にすぐ目を奪われてしまうので、そのような知識だけですぐに上がる点数ではなく、もっと学力の本質である思考力を数値化して対抗するという意図がある。
今の子供たちの勉強の状況を見ると、点数化しなくてもいいようなところで点数が出るので、それに振り回されている感がある。小学校中学年までのテストの成績などは、ほとんど意味がない。むしろそれよりも、日本語の語彙の豊かさ(それがつまり思考力だが)を大事にしていく必要がある。それを追求するのが森リンテクノロジーだ。
しかし、そのためには、作文の清書のときなどに、手書きで書いた文章をパソコン入力で清書する必要がある。
昔は、ローマ字入力ができる小4か小5のころからパソコン入力の仕方(いわゆるブラインドタッチというかタッチタイピング)を教えてきたが、最近、日本語はひらがな入力、英語はローマ字入力と使い分けができることがわかったので、場合によっては、ひらがなが書けるようになったらすぐにパソコン入力を教えてもいいかもしれないと思っている。実際、ひらがな入力の方が、ローマ字入力よりも速い。
私は、ひらがな入力、シフトJIS入力、ローマ字入力と三つの入力の仕方を経験している(現在はローマ字入力)。しかし、いま冷静によく考えてみると、日本人はひらがな入力がいちばんいいのではないかと思いつつある。話は変わるが、ケータイの親指入力はできない。(^^ゞ
さて、言葉の森の通学教室運営で、森リンテクノロジーと並ぶもうひとつの柱は、作文発表会だ。作文というと、受験で作文・小論文があるから勉強するという発想を多くの人は持ちがちだが、そして、そういう対応はもちろん十分にできるが、作文を受験のための勉強と考えると味気ないものになってしまう。
もっと、作文の勉強で、個性と知性と感性のあるいい文章を書くこと自体が目的になるような教室にしていきたい。イメージとしては、異なる学年の子供たちが、自分の書いた作文を暗唱して、みんなの前で身振り手振りを入れながら上手に発表するという形。スピーチという感じに似ているかもしれない。
そして、日本に作文文化というようなものを作っていきたいと思っている。
明日は、床を直した教室に、本や机を運び込む仕事がある。また、朝から力仕事だ。
学校では、国語も算数・数学も英語も理科も社会も、同じ勉強という名前で呼ばれています。
だから、どの教科もできるようにしようと思い、同じぐらいの時間をとって勉強しても、国語力だけはかけた時間に比例して実力がつくわけではありません。国語という教科は、勉強ではなく、国語的な生活のことだからです。
国語の塾に行って国語の問題を毎日何時間も解いて、しかし本をあまり読まない子と、国語の勉強はしていないがよく本を読む子がいた場合、国語の成績がいいのは、勉強をしている子ではなく本を読んでいる子の方です。
小さいころ国語の力があった子でも、学年が上がるにつれて国語力が低下することがあります。小さいころは、お母さんが読み聞かせをしてあげたので、国語的な力がついていたのですが、学年が上がり自分で本を読むようになるころ、勉強の方も忙しくなります。すると、ほとんどのお母さんは、読書よりも勉強を優先させてしまうのです。
小学校中学年までの勉強は、できてもできなくてもその後にほとんど何の影響もありません。そのころの成績の差は、学年が上がり中学生になるころにはほとんど解消してしまいます。しかし、今の時点で点数の差がつくために、ついその勉強の方に力を入れてしまうのです。
本当は、勉強は適当に切り上げて、その分、たっぷり本を読んだり遊んだりしなければならない年齢なのに、点数の競争状態に置かれると、親も子もその競争の方に目を奪われてしまうのです。
なぜ小学校中学年のころの成績の差が、学年が上がると解消してしまうかというと、例えば、小学校2年生のころに1時間かけてやっと覚えたようなことも、小学校5年生では10分で理解できるようになる、ということが勉強には多いからです。だから、低中学年で、勉強が人よりよくできるということはあまり意味がありません。そのころは、やればだれでもできるようになります。大事なのは、表面に表れる成績ではなく、表面に表れない考える力です。
この考える力が、学年が上がったときの勉強の土台になってきます。そして、考える力は、主に読書や対話によって育ち、テストの成績ではなく作文の表現力の中に表れてくるのです。