(春咲きコスモス)
●本当の学力
塾によっては、中学受験でいいところに入らなければ、高校ではますます差がつき、その結果いい大学に入れず、いい職業にもありつけなくなると脅して早めの受験をあおっているところもあります。そして更に、小5小6になってからでは間に合わないから小3や小4で受験のための勉強をスタートする必要があると脅し、更に、小1や小2まで受験勉強の流れに巻き込もうとしているところもあります。そして更に、幼児教育もそうなりつつあります。
確かに子供の意欲は周囲の友達によって影響されますから、いい学校に入った子はいい大学を受験することが当然と思いやすいということはあります。逆に、学力の低い学校にいると、周囲の低い志に影響されて、自分だけより上の大学を目指すという意識にはなかなかなりにくいところもあります。しかし、実際には、早めの受験勉強のために、読書や自由時間が不足し本当の学力が育たないまま中学に入り、その後成績が伸びないという子もかなりいるのです。
子供たちの生活の本文は勉強ですから、勉強を生活の中心にするのは当然ですが、勉強をしすぎたために、子供時代にもう一方の重要な要素である読書や遊びや自由な時間を削ってしまうと、本当の思考力や創造性が育たなくなるのです。
ところで、そういう本当の学力は小中学生のころはなかなか表面には現れず、高校生や大学生になってから顕在化します。だから、親は今の成績に目を奪われるのではなく、もっと先のことを考え、創造力をたくましくして子育てを行っていく必要があります。
●想像力の必要な時代
特にその想像力が重要なのは、今が大きな変化の時代だからです。かつては、いい大学に入ればいい会社に就職でき、一生安定した生活ができ、そして会社の成長とともに仕事も拡大し自分自身も成長するという世の中の仕組みが日本にはありました。今も多くの会社では、最終学歴が採用の大きな基準になっています。しかし、日本の社会は高度成長期のような時代を過ぎ、今、経済成長の中心は次々と新興国に移っています。日本が新しい産業を作り出さないかぎり、日本の会社は古くからある有名なところほど、これから衰退に向かう傾向になります。それはちょうどアメリカでGMやフォードが衰退していったようにです。
特に工業時代に大衆消費財のチャンピオンだった企業は、リストラや派遣社員や外国人労働者や海外移転などによって人件費のコストを下げなければ生き残れないようになってきています。そして、そのほかの産業においても、次々と小さなヒット商品が入れ替わる経済のもとでは、会社の寿命も年々短くなっています。
いい大学を出たからといっていい生活を送れる保証はなく、更に親の世代よりも子の世代の方がほぼ確実に貧しくなるという夢のない世界に日本の社会は突入しています。そして、この衰退する一本道から抜け出るほかの選択肢はない(海外の発展する国に行くという手はありますが)というのが現実です。しかし、この状態を、新しい産業社会が日本に生まれる直前の過渡的な時代だと認識する必要があります。(つづく)
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●我が家の例
私(森川林)の家では、子供たち2人は、小中高と塾や予備校には行かなかったので(中3の一時期だけ下の子は短期間通ったことがありますが)、家庭での時間の余裕はたっぷりありました。しかし、そういう子は、ほかにはほとんどいなかったらしく、子供が保育園に通っていたころ、友達が「もう足し算を習っている」というのを聞いて、「そういう世界があるんだ」と思ったそうです。小学校の低学年のころ、近所の友達と遊ぶと、「もう、何の計算を習った」「もう、何という漢字を書ける」という話題になることがあり、学校でしか勉強していないうちの子供たちは、ただ感心するだけだったようです。
ただ、私自身が、小中と自由に遊んで暮らして成長し、それで何も問題なかったと思っているので、子供たちも読書さえしていれば、小さいころから特にどこかに通って勉強する必要はないと思っていました。だから、子供たちは、結局勉強は言葉の森以外何もしませんでした。ただ、そのために小学生のときは、算数などでたまにひどい点数を取ってくることがありました。
子供の学力というのは、話していれば大体わかります。普段の会話で普通に理解力があると思っていたので、算数のそのひどい点数を見たとき、学校は教育力がなくなったのだと思いました。もちろん、それは先生のせいではなく、学校の中で一斉授業ができないくらい、子供たちの学力格差が進みつつあったせいだと思います。
私は、自分自身が中3のころ、高校受験をきっかけに勉強に目覚めたので、子供たちもそうだと思っていました。すると、その予想どおり、中3で自覚的に勉強を始めるとぐんぐん成績が上がりだしました。それまで余裕のある生活でたっぷり遊んでいたから勉強に飽きていないので、かえって中3から勉強に気合いが入り出したようです。
比較するのはよくありませんが、小学校低学年のころから塾で先取り勉強をしすぎた子は、勉強に飽きてしまうせいか、肝心の高校生あたりになると、勉強に燃えなくなるようでした。
たぶん、勉強の理想は、小中とたっぷり遊んで勉強は中の上くらいを維持し、受験期の1年間でぐんと伸ばすことだと思います。これは高校生も同じで、1、2年のときはたっぷり高校生活を楽しみ、成績は上の下ぐらいを維持し(微妙ですが)、受験期の1年間でぐんと伸ばすことだと思います。小さいころから成績がよいというのは悪くはありませんが、そのために勉強のしすぎと自由時間の不足が続くのは、長い目で見るとかえってマイナスになると思います。
●いい大学とは言っても
保護者からの電話相談でよく感じるのは、親が子供の今の成績の上下に振り回されすぎていることです。5年後、10年後の子供たちの学力を考えれば、小中学生のころは読書に力を入れていく方がいいのに、読書の時間を削ってまで勉強させ、今の成績を上げることに追われているように感じるのです。なぜそういう状況が生まれているかというと、受験勉強の中身が科挙化しているからです。今の受験勉強は、本来の学力を測る面ももちろんありますが、それ以上に受験勉強のノウハウを知っているかどうかで合否が左右される面が大きいのです。そして、塾や予備校の広がりの結果、そのノウハウで左右される部分は、年々大きくなっています。
例えば、こういう例があります。同じ学力の子がいて、一方は塾で、「易しい問題で確実に点を取り、難しい問題は後回しにする」というノウハウを教えてもらっていたとします。他方の子は、そういうノウハウを知らずに1問目から順に解いていこうとします。すると、ノウハウを知っている子の方が常に成績はいいはずです。そしてまた、試験を出す学校の側も、そういうノウハウを知っていることを前提に、だれもがつまずくような難問を最初の方で出すようになるのです。こういうノウハウのやりとりが増える結果、学力はそれほどでもないのに、ノウハウの力で難関校に合格する子が増えています。それが最も典型的に表れているのが東大の入試です。
確かに、東大などに受かる子の中には、学力もあり、思考力もあり、音楽やスポーツにも秀で、性格もよく、人間性豊かな子も多くいます。(言葉の森に来ている子はなぜかそういう子たちばかりでしたが)。しかし、その一方、学力は普通で記憶力だけが優れ、あとはノウハウの力で合格した子や、勉強しかすることがないような面白味のない子がただ長時間かけて成績を上げた結果合格したというような子もいるのです。そして、そういう記憶力とノウハウと長時間だけの子が、近年じわじわと増えている感じがします。本当の学力とは、理解力と思考力と創造性だと思いますが、。特に、思考力と創造性のない子が多くなっている感じがするのです。そのことが、3.11をきっかけに東大話法などという言葉で普通の人にも直感的に感じ取られるようになっているのだと思います。
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こどもとしての時間を大切に過ごすというのは、小さな大人になるのを強要されないことでしょうか?心身の発達にあった充実した時間を過ごすといえば簡単ですが、情報や誘惑の多い現代、また東大話法のような誤謬がまかり通る世の中では難しいのが現実です。それでも、親が毎日を楽しそうに過ごす姿を見せること、今の時点のわが子が大好きだと伝えることはできます。多少不自由なこども時代をすごし、早く大きくなりたいと思うことが成長の原動力となると思います。
ちゃくちゃくさん、こんにちは。
確かに、今の子供にとって、魅力的に生きる大人の姿を見せることは大切ですね。
子育ての前提は、まず親が楽しく生き生きと生活していることだと思います。
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お父さん、お母さんは、不安の中で子育てをしています。特に、少子化で一人っ子の場合、比較する対象が近くにないので、不安が増幅されやすいところがあります。
まず、今の学校だけでは、教育が不十分だという現実があります。昔は、学校の勉強と宿題で大部分の子は確実な学力を身につけていました。これは、親の世代かその一回り上の世代あたりからの人は、すべて実感していること思います。昔は、子供は学校から帰ると、ランドセルを家の中に放り投げ、すぐに近くの広場に走り、夜遅くなるまで友達と野原で遊んでいました。夕方は、家族みんなでラジオを聴いたりお喋りをしたり本を読んだりして過ごしていました。そして、学力的には何も問題がなかったのです。だから、小中学生で塾に行く子はほとんどいませんでした。高校でも、学校の勉強だけで十分で、予備校に行く子もほとんどいませんでした。(1970年代の横浜です)。しかし、今は、学校だけでは学力がつきません。それは生徒の家庭環境が多様になったため、一斉授業が効果を上げられなくなったからだと思われます。そこで、子供たちは学校の授業で不足している分、塾に通うようになります。すると、学校はますます塾に学習の補完又は先取りを任せるようになります。そのため、格差が更に広がり、その結果、親は他の子と比較して焦りを感じるようになるのです。PISAの調査によると、学力格差が決定的になったのは、ちょうど小泉政権の時代で、社会全体で格差が広がった時代でした。(つづく)
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●自分の運命 はるりん(中2) 総合87点 1246字
「私」という人間がこの世に存在しているということほど、不思議なことはないのではないだろうか。 別に、自分が望んでこの世に存在するようになったのではない。気がついたら、この世にいたのだ。しかも、名前や性別、国籍や身分なども全て勝手に決められている。この自分に憤慨してみても何も変えることはできない。つまり、この「私」を受け入れて生涯を生きていかなくてはならないのだ。この不思議な現象を人に理解させるために、最も優れているのは児童文学である。「たましい」の現実を見る目は、子どものほうが優れているのだ。子どもの澄んだ五感で捉えた世界が、児童文学には語られている。
確かに、自分の生きていることの不思議さを理解することは大切だろう。自分の運命を憎んでも仕方がないのだ。なんで私はこんな名前なんだろうとか、なんでこの国に生まれたんだろうとか、大人になってゆくにつれ、考えることはたくさんあるだろう。前にテレビで手足のないチアリーダーの特集をしていた。その人は、小学校低学年のうちは、友達の中心にいるような子ですごく明るかったのだが、高学年になるにつれ周囲の子との差が生まれてきて、次第に友達がいなくなってしまった。そのまま中学生になり、中学校では友達が一人もできなっかた。手足がない自分の体を何度も責め、しまいには死にたいと思うようにもなったそうだ。ところが高校に入学し、チアリーディング部に感動し、入部してチアリーディング部の裏方を務めるようになって、友達もたくさんできた。高3の時は実際に演技に参加することもできたのだ。今は、就職もして元気に生活しているそうだ。その人は、今は手足がないことを受け入れ、自分は周囲の人と変わらない、と思うようになっているそうだ。この人のように、自分の運命は受け入れざるを得ないものなのだ。
また、児童文学には自分の運命を理解するための要素がある。私が大好きな本に「パセリ伝説」という本がある。北海道で平凡に暮らしていた少女が、実は遠い星にある王国のプリンセスで、ほかの王国との戦争を止めなければならない、というお話だ。その少女パセリのセリフに、このようなものがある。「今更、このような使命を持って生まれたプリンセスが私だった、ということを嘆いても仕方がないわ。今はとにかく、この戦争を止めなければ!!」まさに、この長文にぴったりのセリフだと思う。このプリンセスは、自分の運命をしっかりと受け止めている。「私」という存在の不思議さをわかった上で、自分の使命をきちんと果たそうとしているのだ。これは、自分の運命を理解できていない人のお手本だと思う。
自分の存在を理解すること、また理解するために児童文学を利用すること、どちらもよいことだと思う。しかし、一番大切なことはその人生を自分が作るのだ、という自覚を理解することである。「自分の心のうちに持っていないものは何一つ自分の財産ではない」という名言もあるように、理解をして、運命を受け入れることが大切なのだ。
●軽薄短小の文化に流されない きやの(高1) 総合85点 1036字
あらゆるものがカジュアルになっていき、機器の圧倒的な便利さと引き換えに、面倒な手続きがどんどん失われていく中で、クラシックはおしゃれなファッションにさえなることができたが、クラシックの啓蒙になり普及につながると早合点しない方がよい。今日15秒ぽっきりという異端の聞き方が効果をあげたのは一曲を有機的構造体として把握する構造的な聴き方のできない人、あるいは秘かな異和を抱いている人がしだいに増えているからであろう。
クラシックの一部分を15秒で流すような軽薄短小の文化に流されるべきではない。
そのためには、物事の原点に目を向けることだ。最近は親指一本で文を書く人が増えている。「今の日本人は字が本当に汚い。漢字もろくにかけないし、書き順なんてめちゃくちゃだ。」と国語の先生が言っていた。確かに、今のぼくたちは文字を書く機会が減ったと思う。今ぼくもキーを押して文章を書いている。パソコンの便利さは捨てがたいが、なるべく鉛筆を持って書くようにしたい。また、日本語が汚くなっているというのも大きな問題だ。今の日本人は何でも省略したがる。例えば、「キモイ」「マジで!?」「チョー~」。聞いていると不愉快になる。ぼくも思わず言ってしまうことがあるのだが・・・。さらに、敬語も忘れられてきているように思う。先生にため口をきいているのを聞くと非常に不愉快だ。日本のこの現状に対し、フランスやイギリスは自分達の言語に誇りを持ち、大切にしているという。日本も原点に目を向け自国の言葉を大切にするべきだ。
第二に、学校教育などでもじっくりと物事を考える場を作ることだ。今考えると、中学の授業では生徒は「聴衆」であったように思う。先生が教科書どうりに話していただけであった。理科の授業では実験が全くといってよいほどなかった。教科書に載っていることを暗記させるだけだ。これでは到底理科の世界に興味を持たせることはできないだろう。活発な議論が行われるべき社会の授業でも、ぼく達はノートをとることに没頭していただけであった。また、小学校の卒業文集は作文ではなく「卒業新聞」であった。細切れの文章しか書かされなかった事に疑問を感じている。まともに文章を書かせなければ物事について考えることもないだろう。
確かに、現代はいろいろなことを広く知っていることが求められる時代ではある。しかし、軽薄短小の文化とは親しみやすいものではなく社会の病弊なのだ。ぼくたちは軽薄短小の文化に流されるべきでない。
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●きれいな景色 まあやん(小6) 総合81点 912字
おばあちゃんは、中国地方の広島県福山市に住んでいます。坂を下りたらすぐに海があるのです。結構高いところに住んでいるので、後ろは森の山のようです。お母さんが小さい頃は、そこを歩いて遊んでいたようです。そこは、もうちょっと広かったようですが、家を建てるために少し木を切り、森が少し少なくなってしまったようです。
でも、とても空気がすんでいて元気が出ます。森というか山の前には、棚田があったのですが、人間が手入れをしなかったので草ぼうぼうになって荒らされている所も、荒れているところもあり、まるで草の階段みたいになっています。
その山は、昔からあるのでもちろん動物が住んでいます。おばあちゃんが住んでいる裏の森というか山は、イノシシやサルやタヌキが出ると言っていました。そのイノシシは、畑になっている野菜などを勝手に食べたりするので、ホームセンターでは、イノシシ用の柵とかも売っているのです。しかも里山のおく深くにイノシシのおりがあり、仕かけがあります。干しかまぼこをそのおりの中に入れておきます。そうするとイノシシがかまぼこを食べる時に、ひもを押さえつけてしまうので入り口はしまり、出られなくなります。
お父さんとお兄ちゃんが散歩をしていたら、とつぜん里山からイノシシが出てきたそうです。お父さんとお兄ちゃんは、あわてて逃げたそうです。イノシシもビビって逃げていったそうですよ。
昔、千葉県鴨川市へ旅行に行きました。帰りに、「たな田を見たいお客様は、こちら。」と、なっていたので早速行ってみました。全部まわりは、たな田で囲まれていてとてもきれいでした。おばあちゃんちの近くにあるたな田は、手入れをしていないからあまりきれいではないけれど、千葉のは、比べ物にならないほどきれいでした。ちゃんと手入れされているし、雑草も生えていません。もう、見た目が全然違うのです。
人間にとって森とかは、空気もすんでいて大切です。でも放っておいては、ダメなのです。人間が手入れをしないと空気のすんだ森には、ならないのです。周りに住んでいる人だけがやるのではなく、みんなで協力することによって、よりきれいな空気を作ることができるのです。
●目標の力とは りょうたろう(中1) 総合81点 1112字
「今年の目標は、英検二級を取ることにしよう。」
とぼくは何の前ぶれもなくつぶやいた。新しい年度に替わる四月一日、ぼくは、家で今年の目標を決意した。なぜ英検二級を選たくしたかというと、知人が英検の準二級に受かったので、二級返しをしてやろうと思ったからだ。ぼくはこのように目標をかかげることは良いと思う。だからぼくは、年度が替わる毎に、目標を宣言している。
目標が大切だと思う理由は二つある。その理由は第一に、目標がなければ自分の行きたい進路が定まらないので、何かに対して一生けん命取り組むことが困難になるからだ。逆に目標があれば自分のやりたいことが明確になり、それに向かって集中して取り組むことができる。例えばぼくにはこんな経験がある。ぼくは六年生の始めから英語の勉強に取り組んでいた。しかし何か具体的な目標があるわけでもなく、ただ中学校に向けて取り組んでいただけだったので特にやる気が出ず、父も、
「中学校に備えてやってるだけやから、そんなにあせってやらんでええぞ。」
と中学で遅れを取らなければ別にいいんだから軽くやっといたらと言いたげな感じだった。しかしぼくは、知人が英検三級に受かった、という話を聞いたので心に火が着いた。そして、英検三級という目標をかかげてもう特訓を始めた。ぼくは、まるで人が替わったかのように、来る日も来る日も英語を勉強し続けた。特訓を始めたのが十二月で、試験が一月末なので、非常に短い期間しかなかった。特訓をしてくれた父も多分受かるとは思っていなかったのだろう。
「別に受からんでもいいねんぞ。そういう意欲が大事やねんからな。」
と始めからぼくをなぐさめていた。しかし、ぼくは見事に父の期待を裏切り、英検三級を勝ち取った。そして、改めて目標の大切さを実感した。
第二の理由は、目標を達成した時、自分に自信を持つことが出来るからだ。そしてその自信は、次に何かを行なうときの勇気となり、そのときの目標達成への力となる。例えば、ぼくも英検三級の目標を達して、英語に対して自信が持てるようになり、英検の準二級を受かった知人をこえるために、勇気を出して英検二級にちょう戦しているのだ。
確かに、目標を立てると、それを成しとげなければならないというプレッシャーを感じて、自分の本来の力が発揮できないという意見もある。しかし、「才能とは自分自身を信ずる能力である。」という名言があるように、自分を信じ、プレッシャーに打ち勝ってこそ強い人間になれる。また、プレッシャーの中で目標を達成してこそ自分に自信が持てるのだ。これからぼくは、英検二級を取るという目標に向かって、勇気を忘れずに全力で取り組みたい。
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4月の森リン大賞ベストテンの中から代表作品として表示されなかった作品を中心に紹介します。これらの作文の中には、要約の部分が多すぎたために代表作品とならなかったものもあるので、森リン点が高いものもあります。
森リンの点数は、主に表現語彙の点数です。文章に使われている言葉のレベルが高く(抽象度が高く)、同じ言い回しだけでなく語彙の使い方に多様性があるほど点数が高くなります。したがって、作文を書くジャンルによっても点数は大きく変わります。一般に身近な事実中心の文章よりも、説明文や意見文の方が点数が高くなる傾向があります。しかし、説明文や意見文で多様な語彙を使うためには、そういう語彙のある本を読んでいることが大切です。中学生になり意見文を書くようになると、小学生のころの事実や説明中心の作文よりも、文章がうまく書けなくなるのは、まだそういう意見文にふさわしい語彙が消化されていない時期だからです。作文を上手に書くためには、読書や問題集読書に力を入れていくことが必要になります。
なお、保護者の方にぜひ注意していただきたいのは、子供にほかの子の上手な作文を見せて比較するような励まし方をしないということです。作文力の土台には、読書や自習の長期間の蓄積があります。その蓄積が作文の上に出てくるまでには長い時間がかかります。子供の作文はいつもいいところを見て、その一方で毎日の読書や自習に気長に力を入れていくという取り組み方をしていってください。
●今日も元気に行ってきます まいち(小3) 総合74点 574字
「うぁ、もう十八分だ。二十分発のバスにおくれちゃうよ。」
「お母さん行ってきます。」
わたしはいつもこんなちょう子で、まるで走り出すように家を出ます。わたしは毎日スクールバスでとう校しています。バスていは、家のすぐそばの横川えきの北口にあり、わたしは家を出たらすぐに、バスにとびのることができます。
でも、バスのりよう者の中には、市内の電車をのりついで、このスクールバスにのる人や、中には県外から新かん線にのって、ざい来線を乗りついでここのバスていまで来てりようしている人さえいます。
行きは、うんてんしゅさんとの会話が楽しみです。帰りは、スクールバスの仲間とおこられるかおこられないかのドキドキの中で、小声で歌を歌ったり、大河ドラマのまねをして楽しみます。
お母さんも小学校のころ、市内バスで学校に通っていたそうです。家の前がバスていだったそうです。それをいいことに、お母さんはバスが来てから家を出ても間に合ったそうです。でも、一度だけおくれたことがあるそうです。もし、わたしがお母さんだったとしても、同じようにぎりぎりに家を出ていたと思います。だって親子だからです。
わたしは、このスクールバスですごす時間が大すきです。バスにのってきた一年生にこまったことだあったら、たすけてあげたいと思います。
●片付けのこだわりがあるんだ みんみ(小4) 総合78点 887字
「あ~あ、大変だな。」
と心の中でつぶやく事が多いので、自分自身あきれてしまうようになりました。
私は学校で時間があれば、お道具箱などの整理整頓を心がけています。なぜかというと、時間の移り変わりが、とても速く、ポンッと入れて、ヒョイッと行動するしかないので、気がつくとロッカーが雑然としているからです。時々整理しないと、何がどこにあるのか分からなくなってしまいます。私は、不便だな、といつも思い、時間の使い方の工夫ができないだろうか悩んでいました。
東京から広島の学校に転校してきて驚いたことがあります。それは、ロッカーが広いことでした。なぜだろうと思っていたら、みんな「整理箱」というダンボールを持っているからです。もちろん、私の分も用意してありました。その「整理箱」があると、こんなこともできます。前は、共用のロッカーに上靴袋を入れていて、名前が書いていない持ち主の袋は見つかりにくかった覚えがあります。それに比べて、「整理箱」があると、自分で管理できるので気に入っています。他にも、「折りたたみ傘」や「探検バッグ」などを入れています。しかしそれにも弱点があります。物が少ないのに対し、箱が大きいということです。現在ロッカーの段が一番下の三段目なので、その度にかがまなければいけません。最近、背が140センチメートル超になってしまったから特に大変です。時々、整理しないまま、あふれそうになるまで使う方がいいのかなと思ったり、物が多くなるまでそのままにしておく方がいいのかなと思ったりします。でもその後、
「整理箱の整理・・・」
「バコッ!」
「あっ、やぶれた・・・!」
とならないようにするためには、やっぱり整理した方が良いのだなと思いました。
「整理箱」を片付ける時には、あまり使わない物は下へ、よく使う物は上へと置いていったり、まるでパズルのようにはめこんでいったりして、いつもパターンを変えています。これからも、片付けが苦手な私ですが、せめて学校のことだけでもしっかりしていきたいなと思います。
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これまでいい作文を書いていた子が、急にあまり面白くない形だけの作文を書くようになることがあります。
その原因の第一は、多忙です。よくあるのが、塾の勉強を始めたので、その宿題などに時間がとられるようになったというケースです。つまり、次々と知識を吸収しなければならない時間が続くので、子供に余裕がなくなってしまうのです。言葉の森の作文は、項目指導をしていることが特徴ですが、勉強の予定が詰まっている中で作文を書くと、どうしてもその項目の形だけをほどほどに仕上げるということになりがちです。
そういう子供の場合は、字数も、決められた字数のところまでしか書こうとしません。作文というのは、書きたいことがあれば、字数の目標など考えずにいくらでも書きたくなるものですが、余裕がないので、いつでも目標字数ぎりぎりまでしか書かないようになるのです。
子犬の遊びや訓練のときの注意点は、飽きるまでやらないということです。ボールを投げて取ってくるという練習でも、子犬は喜んで何度でもやりたがりますが、そこでたっぷり満足するまでやると、次からはもうその遊びに飽きてしまい熱中して取り組むことがなくなります。
人間でも同じです。食事と同じように、遊びでも勉強でも八分目でやめて余裕を残しておくことが大事です。ところが、親は、遊びの八分目はできるのですが、勉強の八分目はなかなかできません。新しい勉強を始めて、子供がそれなりに興味を持ってやっていると、やりすぎるところまでやらせてしまうことが多いのです。そういうことを繰り返すと、子供は、すべてほどほどにやるようになります。
では、子供たちはなぜそんなに多忙なのでしょうか。それは、重要なことも重要でないことも、すべて同じようにがんばってやらせようとするからです。
数学も、英語も、ピアノも、スイミングも、サッカーも、全部やらせようとすれば、どうしても時間は足りなくなりがちです。その足りなくなった時間のしわ寄せを受けるのが読書だとなると、かえって長い目で見て学力は低下します。
また、勉強も、音楽も、スポーツも、文武両道ですべて育てたいという考えは貴重ですが、最も大事なのは勉強です。この重点を勘違いしている人が多いのです。貝原益軒の江戸時代にもやはり同じような問題はあったようで、益軒は習い事は元となるものを末となるものを見極めよというようなことを述べています。
習い事というのは、かけた時間に比例して上達します。音楽やスポーツは、成果が形としてはっきり出てくるので、つい時間をかけすぎてしまいます。その結果、勉強の時間が後回しになれば、これも本末転倒です。そうならないために、親が、全体のバランスと軽重をしっかりと把握していることが必要です。
江戸時代の勉強は、読み書きそろばんでした。この平凡な勉強が、現代でも小中学生の勉強の最も大事な骨格です。現代流にいえば、どんな本でもばりばり読めること、必要に応じてわかりやすい文章を書けること、中学3年生までの数学は一応全部できること、と言っていいでしょう。この土台があれば、あとは本人が意欲的に勉強に取り組むようになったとき、すぐに成績は上げることができるのです。
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小学校低学年から長く続けている生徒の作文力の点数の推移を見ていると、点数が上昇する子に共通しているのは、本をよく読んでいることだとわかります。
作文の勉強は、作文の中で力がつく部分と、作文の外で力がつく部分とがあります。作文の中で力がつくのは、字数やスピードや構成力です。作文の外、主に読書によって力がつくのは、題材力や表現力の部分です。特に、読書によって新しい語彙を覚えた生徒は、多様な語彙を使えるようになるので森リンの点数が自然に上がります。
しかし、作文力の進歩は、決して一本調子ではありません。本もよく読んで、自習の暗唱音読もしているのに、それがなかなか作文の中に出てこないという時期はだれでもあります。教科の勉強は、勉強したことがすぐに成果として出てきますが、作文の勉強は、読書や自習の蓄積が形として出てくるまでに時間がかかることがあるのです。だから、作文の勉強のこういう特徴を知っておくことも、大事なことなのです。
Sさんは、小2から言葉の森を始めました。
(4)小2、小3のころは学年平均と同じぐらいの字数を書いていました。字数と作文力の相関は高いので、このころは普通によく書けるという感じだったと思います。
(5)ところが、小3、小4と字数がだんだん減っています。感想文の課題などが入ってきたために書きにくくなったのでしょうが、作文はメンタルなものなので、このころは一時的なスランプがあったのだと思います。勉強をしていてスランプに陥るのは、「何のためにやっているのかわからない」「上達しているという自覚がない」というときです。こういうときは、お父さんやお母さんなどの周囲の人が、その子の作文のいいところを見て励ましてあげるといいと思います。
(6)小5の難しい課題になってから、また学年平均の字数で書けるようになり、小6から字数が急に増えます。小6以上の字数の目標は1200字ですから、小6、中1、中2、中3とほとんどその目標字数をクリアしています。作文を書く力が安定してきたことがわかります。
(7)字数だけ見ていたのでは、小6から中3にかけて、作文の内容にどんな変化があったのかわかりません。森リンの点数を見ると、小6、中1は、学年平均と同じ80点ぐらいです。しかし、中2、中3になると、この森リン点が一挙に88点、90点と上がります。森リン点が80点台後半というのは、密度の濃い文章を書いていることですから、この時期にかなり作文力がついたのだということがわかります。
ちなみに、森リン90点がどのくらいの実力かというと、大学入試で小論文の試験があった場合、事前にそのジャンルに合わせて書き方の説明を少しすれば、どの大学の入試小論文でも合格圏内に入る文章を書くことができるというレベルです。
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