言葉の森では、これまで小3以上は、構成用紙に構成図を書いてから作文を書くという練習を進めてきました。
これは、学年が上がり中高生で難しい課題を書くようになると、書きながら考えるのではなく、考えてから書くという書き方が必要になるからです。
この構成図は、自分の思いつきを短い文と矢印で平明図に広げるように書いていくものです。なぜ平面的に広げて書くかというと、自分の考えを平面に広げて一覧することによって発想が広がるからです。
しかし、この構成図の書き方をのみこめず、平面的にではなく箇条書き的に書いてしまう人が多かったため、構成用紙という形式を作りました。そして、この構成図を書くという書き方もだんだん理解されてきたため、7月から構成用紙の配布を廃止することにしました。
なぜ用紙やシールを廃止するかというと、今後、言葉の森の勉強をできるだけ特殊なツールを必要としないものにしていきたいからです。
(今の塾業界の行き方は逆で、その塾でなければ手に入らない教材をセールスポイントにしていることが多いと思います)
それは、これからの学習というものは、どこかに通わないとできないようなものではなく、家庭でも自主的にできるものにしていく必要があるからです。
暗唱用紙についても同様です。暗唱は、100字の文章を30回音読するという方法が基本です。ストーリーのある事実中心の文章ではそれほど多くの回数を繰り返さなくても暗唱できますが、説明文だと30回ぐらいの音読の反復で暗唱できるようになります。
ところが、この30回繰り返すというのが意外に難しく、指を折って数えるようなやり方だと途中で何回かわからなくなり、自然に繰り返しの回数が短くなり、その結果暗唱ができないとか難しいとかいうことになりやすいのです。
暗唱用紙を使うと、回数が形として残るので、苦手な子でも用紙を折っているうちに自然に暗唱ができるという効果がありました。しかし、この繰り返しのコツさえわかれば、特に暗唱用紙を使わなくてもいいということと、暗唱用紙の代わりに普通のA4サイズの紙を同じような形に切ればいいということで、この用紙も廃止することにしました。これも、ツールがないと勉強できないというようなことにしないための簡略化の一環です。
以上、シールや用紙の廃止について、なにとぞご理解くださるようお願い申し上げます。
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子供が小学校中学年までは、親の言うことをよく聞きます。
そこで、親はつい子供ができないことを早く教えてしまおうとします。親にとってはすっかりできることでも、子供にとってはまだ慣れていないことが多いので、親が期待するほどにはなかなか上手にできません。
しかし、そこで、「また間違えた」「まだできないの」「お母さんなんて……」などと言い出すと、子供がだんだん親に教わることを負担に感じてきます。
本当は、親は気長に、同じ間違いを何度繰り返してもにこにこ訂正してあげればいいのですが、2、3回ですぐできるようにならなければ叱るというような教え方をしてしまうのです。子供に勉強を教えるときは、気長にやるようにしてください。
小学校低学年のころに、親が子供をコントロールしすぎると、小学校高学年になってからその反動で、子供は親の言うことを聞かなくなります。本当は、学年が上がってからの方が親のアドバイスが重要になるので、低学年のころに無理強いしたために、肝心の高学年になってから親の言うことを聞かなくなるということが多いのです。
もちろん、同じことは高学年になってからも言えます。小学校高学年で親がコントロールしすぎると、中学生や高校生になってから親との対話がなくなってきます。親子のいい関係を続けていくためには、小さいころから親が子供の意志を尊重していく必要があるのです。
しかし、それはもちろん子供の言うがままにすることではありません。親の意見を無理矢理押し付けることが必要な場面も、子供の成長の過程には必ずあります。しかし、それは躾のような肝心な場面だけにとどめておき、日常生活のほとんどは子供とにこやかに過ごす忍耐力を持っていくことが大事です。
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新しい産業は、まだ形あるものとしては現れていませんが、今後それらが登場するときに最も求められる人材は、記憶力と受験ノウハウと長時間の学習で高学歴を達成した人間ではなく、どの分野であっても自分なりの創造性を発揮することのできる人間です。そして、この創造性こそが、未来の産業の土台となる学力であり、教育の本来達成すべき目標なのです。
だから、今の時代の子育てでまず考えておかなければならないのは個性と創造性であり、その個性と創造性を支えるものとしてバランスの取れた学力が必要だという関係になっているのです。そのために、作文のような学習を通して創造性を身につけていく必要があります。もちろん作文以外に生活のさまざまな場面で、子供の創造性を育てる機会を作っていく必要があります。それは、勉強の成績を上げるのと同じかそれ以上の重要さがあります。
さて、未来の新しい産業が広がる前に、実は一波乱があるだろうというのが現在の世界の情勢です。その波乱は、これまでの体制の行き詰まりと腐敗を吹き飛ばし、新しい社会を作り出すために必要なのだと考えなければなりません。波乱はないにこしたことはありませんが、古い体制が静かに片づけられて新しい体制に移行するというのはやはり難しいようなのです。
その難しさを示す象徴的な出来事が、現在の、安全性の保証できない原発の再開、無駄の削減を伴わない消費税の増税、アメリカと対等に交渉のできないTPPの受け入れなどです。原発にしても、消費税にしても、TPPにしても、為政者の目が本当に国民の方を向いているのであれば、一概に悪いわけではありません。しかし、その目の向いている方向は、国民ではなく旧来の利権集団なのです。
99パーセントの国民の声が無視され、1パーセントの集団の利益が国を動かしているというのが、今の日本及び世界の現状です。そして、その1パーセントの集団が維持しようとしている体制は、今どこから破綻が起きてもおかしくないほど行き詰まっています。
では、その破綻はどのようにして起き、それがどのように展開して新しい社会が来るのでしょうか。
まず、EU、又は中国、又はアメリカ、又は日本で、ある金融機関が債務に押しつぶされ破綻するとします。一つの金融機関の破綻は、他の金融機関にも連鎖する可能性があるので、国は紙幣を印刷することによってその金融危機を救済します。しかし、そういう救済を繰り返しているだけでは何も解決しません。だから、国は、影響力の限られた小さな金融機関は破綻するに任せ、影響力のある大きい金融機関は救うことで、小さなところから破綻を段階的に演出しソフトランディングを行おうとします。ところが、その破綻の原因に大きくからんでいるのがデリバティブの巨大な博打ですから、小さな金融機関の破綻だと思っていたものが、博打の途方もない勝ち負けに結びつくことがあります。すると、小さな破綻が小さな破綻では済まなくなり、次々と破綻が連鎖していくようになります。言わば核分裂反応のような破綻の連鎖が起きた場合、国にどれだけマネーを印刷する権限があろうと、その破綻のスピードと巨大さに印刷の方が間に合わなくなるのです。この破綻の連鎖を事前に救う手だてがあるとすれば、それは全世界的な徳政令ですが、国どうしの利害の異なる国際社会では、そのような大胆な政策は行えない可能性の方が高いでしょう。かくして、一つの小さな金融機関の破綻から始まった破綻の連鎖は、他の大きな金融機関も巻き込み、国境を越えて世界的な規模の経済破綻に発展するのです。
しかし、このときに唯一破綻のドミノ現象を回避ないし緩和できる国があるとすれば、それが日本です。日本にそのとき強力なリーダーがいれば、円を大量に印刷して日本の企業と日本の国民だけはすべて救う政策をとることができます。しかし、博打の勝ち負けは金額の桁が違いすぎるために救済の対象には含めません。また、ここが最も重要なことですが、日本企業が日本以外の国から請求される債務は踏み倒すことです。踏み倒すということで語弊があるなら、支払期限を無期限に延期することです。そうして、日本を世界経済の破綻の連鎖から守ることが、やがて世界の復興につながるのです。
もちろん、日本が首尾よく破綻の連鎖から免れたとしても、世界経済との関連で日本もまた深刻な不況に陥ります。しかし、そこで初めてこれまでの利権の体制も大きく揺らぐのです。あるいは、人類の英知はもっと穏やかに古い体制を少しずつ片づけ新しい社会を作ることができるかもしれません。しかし、今の原発、消費税、TPPなどに見られる混迷を見ると、人類の英知は破綻を回避するほどにまだ育っていなかった可能性の方が高いと思います。(つづく)
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(春咲きコスモス)
●本当の学力
塾によっては、中学受験でいいところに入らなければ、高校ではますます差がつき、その結果いい大学に入れず、いい職業にもありつけなくなると脅して早めの受験をあおっているところもあります。そして更に、小5小6になってからでは間に合わないから小3や小4で受験のための勉強をスタートする必要があると脅し、更に、小1や小2まで受験勉強の流れに巻き込もうとしているところもあります。そして更に、幼児教育もそうなりつつあります。
確かに子供の意欲は周囲の友達によって影響されますから、いい学校に入った子はいい大学を受験することが当然と思いやすいということはあります。逆に、学力の低い学校にいると、周囲の低い志に影響されて、自分だけより上の大学を目指すという意識にはなかなかなりにくいところもあります。しかし、実際には、早めの受験勉強のために、読書や自由時間が不足し本当の学力が育たないまま中学に入り、その後成績が伸びないという子もかなりいるのです。
子供たちの生活の本文は勉強ですから、勉強を生活の中心にするのは当然ですが、勉強をしすぎたために、子供時代にもう一方の重要な要素である読書や遊びや自由な時間を削ってしまうと、本当の思考力や創造性が育たなくなるのです。
ところで、そういう本当の学力は小中学生のころはなかなか表面には現れず、高校生や大学生になってから顕在化します。だから、親は今の成績に目を奪われるのではなく、もっと先のことを考え、創造力をたくましくして子育てを行っていく必要があります。
●想像力の必要な時代
特にその想像力が重要なのは、今が大きな変化の時代だからです。かつては、いい大学に入ればいい会社に就職でき、一生安定した生活ができ、そして会社の成長とともに仕事も拡大し自分自身も成長するという世の中の仕組みが日本にはありました。今も多くの会社では、最終学歴が採用の大きな基準になっています。しかし、日本の社会は高度成長期のような時代を過ぎ、今、経済成長の中心は次々と新興国に移っています。日本が新しい産業を作り出さないかぎり、日本の会社は古くからある有名なところほど、これから衰退に向かう傾向になります。それはちょうどアメリカでGMやフォードが衰退していったようにです。
特に工業時代に大衆消費財のチャンピオンだった企業は、リストラや派遣社員や外国人労働者や海外移転などによって人件費のコストを下げなければ生き残れないようになってきています。そして、そのほかの産業においても、次々と小さなヒット商品が入れ替わる経済のもとでは、会社の寿命も年々短くなっています。
いい大学を出たからといっていい生活を送れる保証はなく、更に親の世代よりも子の世代の方がほぼ確実に貧しくなるという夢のない世界に日本の社会は突入しています。そして、この衰退する一本道から抜け出るほかの選択肢はない(海外の発展する国に行くという手はありますが)というのが現実です。しかし、この状態を、新しい産業社会が日本に生まれる直前の過渡的な時代だと認識する必要があります。(つづく)
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●我が家の例
私(森川林)の家では、子供たち2人は、小中高と塾や予備校には行かなかったので(中3の一時期だけ下の子は短期間通ったことがありますが)、家庭での時間の余裕はたっぷりありました。しかし、そういう子は、ほかにはほとんどいなかったらしく、子供が保育園に通っていたころ、友達が「もう足し算を習っている」というのを聞いて、「そういう世界があるんだ」と思ったそうです。小学校の低学年のころ、近所の友達と遊ぶと、「もう、何の計算を習った」「もう、何という漢字を書ける」という話題になることがあり、学校でしか勉強していないうちの子供たちは、ただ感心するだけだったようです。
ただ、私自身が、小中と自由に遊んで暮らして成長し、それで何も問題なかったと思っているので、子供たちも読書さえしていれば、小さいころから特にどこかに通って勉強する必要はないと思っていました。だから、子供たちは、結局勉強は言葉の森以外何もしませんでした。ただ、そのために小学生のときは、算数などでたまにひどい点数を取ってくることがありました。
子供の学力というのは、話していれば大体わかります。普段の会話で普通に理解力があると思っていたので、算数のそのひどい点数を見たとき、学校は教育力がなくなったのだと思いました。もちろん、それは先生のせいではなく、学校の中で一斉授業ができないくらい、子供たちの学力格差が進みつつあったせいだと思います。
私は、自分自身が中3のころ、高校受験をきっかけに勉強に目覚めたので、子供たちもそうだと思っていました。すると、その予想どおり、中3で自覚的に勉強を始めるとぐんぐん成績が上がりだしました。それまで余裕のある生活でたっぷり遊んでいたから勉強に飽きていないので、かえって中3から勉強に気合いが入り出したようです。
比較するのはよくありませんが、小学校低学年のころから塾で先取り勉強をしすぎた子は、勉強に飽きてしまうせいか、肝心の高校生あたりになると、勉強に燃えなくなるようでした。
たぶん、勉強の理想は、小中とたっぷり遊んで勉強は中の上くらいを維持し、受験期の1年間でぐんと伸ばすことだと思います。これは高校生も同じで、1、2年のときはたっぷり高校生活を楽しみ、成績は上の下ぐらいを維持し(微妙ですが)、受験期の1年間でぐんと伸ばすことだと思います。小さいころから成績がよいというのは悪くはありませんが、そのために勉強のしすぎと自由時間の不足が続くのは、長い目で見るとかえってマイナスになると思います。
●いい大学とは言っても
保護者からの電話相談でよく感じるのは、親が子供の今の成績の上下に振り回されすぎていることです。5年後、10年後の子供たちの学力を考えれば、小中学生のころは読書に力を入れていく方がいいのに、読書の時間を削ってまで勉強させ、今の成績を上げることに追われているように感じるのです。なぜそういう状況が生まれているかというと、受験勉強の中身が科挙化しているからです。今の受験勉強は、本来の学力を測る面ももちろんありますが、それ以上に受験勉強のノウハウを知っているかどうかで合否が左右される面が大きいのです。そして、塾や予備校の広がりの結果、そのノウハウで左右される部分は、年々大きくなっています。
例えば、こういう例があります。同じ学力の子がいて、一方は塾で、「易しい問題で確実に点を取り、難しい問題は後回しにする」というノウハウを教えてもらっていたとします。他方の子は、そういうノウハウを知らずに1問目から順に解いていこうとします。すると、ノウハウを知っている子の方が常に成績はいいはずです。そしてまた、試験を出す学校の側も、そういうノウハウを知っていることを前提に、だれもがつまずくような難問を最初の方で出すようになるのです。こういうノウハウのやりとりが増える結果、学力はそれほどでもないのに、ノウハウの力で難関校に合格する子が増えています。それが最も典型的に表れているのが東大の入試です。
確かに、東大などに受かる子の中には、学力もあり、思考力もあり、音楽やスポーツにも秀で、性格もよく、人間性豊かな子も多くいます。(言葉の森に来ている子はなぜかそういう子たちばかりでしたが)。しかし、その一方、学力は普通で記憶力だけが優れ、あとはノウハウの力で合格した子や、勉強しかすることがないような面白味のない子がただ長時間かけて成績を上げた結果合格したというような子もいるのです。そして、そういう記憶力とノウハウと長時間だけの子が、近年じわじわと増えている感じがします。本当の学力とは、理解力と思考力と創造性だと思いますが、。特に、思考力と創造性のない子が多くなっている感じがするのです。そのことが、3.11をきっかけに東大話法などという言葉で普通の人にも直感的に感じ取られるようになっているのだと思います。
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こどもとしての時間を大切に過ごすというのは、小さな大人になるのを強要されないことでしょうか?心身の発達にあった充実した時間を過ごすといえば簡単ですが、情報や誘惑の多い現代、また東大話法のような誤謬がまかり通る世の中では難しいのが現実です。それでも、親が毎日を楽しそうに過ごす姿を見せること、今の時点のわが子が大好きだと伝えることはできます。多少不自由なこども時代をすごし、早く大きくなりたいと思うことが成長の原動力となると思います。
ちゃくちゃくさん、こんにちは。
確かに、今の子供にとって、魅力的に生きる大人の姿を見せることは大切ですね。
子育ての前提は、まず親が楽しく生き生きと生活していることだと思います。
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お父さん、お母さんは、不安の中で子育てをしています。特に、少子化で一人っ子の場合、比較する対象が近くにないので、不安が増幅されやすいところがあります。
まず、今の学校だけでは、教育が不十分だという現実があります。昔は、学校の勉強と宿題で大部分の子は確実な学力を身につけていました。これは、親の世代かその一回り上の世代あたりからの人は、すべて実感していること思います。昔は、子供は学校から帰ると、ランドセルを家の中に放り投げ、すぐに近くの広場に走り、夜遅くなるまで友達と野原で遊んでいました。夕方は、家族みんなでラジオを聴いたりお喋りをしたり本を読んだりして過ごしていました。そして、学力的には何も問題がなかったのです。だから、小中学生で塾に行く子はほとんどいませんでした。高校でも、学校の勉強だけで十分で、予備校に行く子もほとんどいませんでした。(1970年代の横浜です)。しかし、今は、学校だけでは学力がつきません。それは生徒の家庭環境が多様になったため、一斉授業が効果を上げられなくなったからだと思われます。そこで、子供たちは学校の授業で不足している分、塾に通うようになります。すると、学校はますます塾に学習の補完又は先取りを任せるようになります。そのため、格差が更に広がり、その結果、親は他の子と比較して焦りを感じるようになるのです。PISAの調査によると、学力格差が決定的になったのは、ちょうど小泉政権の時代で、社会全体で格差が広がった時代でした。(つづく)
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