暗唱の目標を決めることは大事です。しかし、それは暗唱の目的ではありません。暗唱の目的は、知識と理解の土台を単純に大きく育てていくことです。だから、暗唱の素材は必ずしもだれもが知っているものである必要はありません。「枕草子」の次が「平家物語」である必要もないし、「百人一首」の百枚が順番である必要もないのです。もちろん、そうでない必要もまたないので、わかりやすくだれもが知っている古典を暗唱の素材とする方が一般的な方法になるでしょう。しかし、それは暗唱の目標であって目的ではなく、暗唱の目的は、知識と理解の土台を作ることなのです。
暗唱によって作られる知識と理解の土台は、また知識力と理解力の土台でもあります。暗唱によって身につくものは、暗唱の対象となる知識だけではなく、暗唱の方法となっている知識を習得する力です。つまり、寺子屋で行われていた素読・なぞり書きなどの教育は、江戸時代の子供たちに論語や孟子の文章を知識として定着させただけではなく、欧米から急激に押し寄せてきた科学技術の知識を習得し理解する力も育てていたのです。
暗唱が知識や理解だけではなく、知識力や理解力も育てているという例を、私たちは、本多静六のエピソードに見ることができます。静六は、家が貧しかったために勉強する時間や場所がありませんでした。そこで、皆が嫌がる退屈な米搗き(こめつき。玄米をついて白米にする作業)の仕事を選び、米をつきながら自分の覚えた文章を暗唱する練習を続けました。上の学校(今の高校と大学の中間のようなところ)を受験する機会を得た静六は、暗唱の成果によって作文の試験で高得点を取り合格することができました。しかし、他の教科はそれまでの勉強の蓄積がなかったため、最初の年に数学で赤点を取り落第します。
一時は井戸に身を投げて死のうとした静六は、その後一念発起し、数学の問題を片端から暗唱することに決めたのです。すると、見る見る成績が上がり、やがて数学は学年のトップになり、数学の先生から、「おまえは数学の天才だから、もう勉強はしなくてよい」と言われるほどになりました。
数学というと、理解だけで成り立つ勉強のように思われていますが、大学入試までの数学は、理解の方法を知識として習得することができるのです。
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今西錦司は、同じ文系の仲間である友人たちから、文系なのに数学ができるということで一目置かれていました。あるとき仲間の一人が、今西に、なぜ数学ができるのかと聞くと、今西は、「数学は暗記すればいいんだ」と答えたそうです。
暗唱によって得られる知識と理解は、知識と理解の習得にとどまらず、知識力、理解力という学力も形成しているのです。
しかし、そこで得られる知識力、理解力は、勉強の両輪の一つの輪でしかありません。
これからの教育に求められているものは、寺子屋式の単純な教育で幹の太い学力をつける一方、その能率的な低コストの勉強法によってできた余裕の時間を創造の勉強に向けることです。
子供たちが教育の中で創造性を育てることができることによって、未来の創造文化産業に基づく経済は、本格的に稼働を始めるのです。
では、その創造の教育とは何かを言えば、それは何よりも言語における創造性の教育です。音楽にせよ、スポーツにせよ、絵画にせよ、その創造の根幹には必ず言語的な思考が働いています。科学技術や学問の世界においては、更にその言語的な思考が創造性の土台となっています。
だから、まず言語において創造性を発揮する教育が子供たちの創造性の教育の中心となるのです。豊富な知識と理解の上に、あるテーマについて創造的に思考を組み立てる勉強が作文小論文の勉強です。
これからの社会に求められ人材は、クイズ番組のような知識が豊富で、「ああ言えばこう言う」式のディベートの話法だけが得意な人間ではありません。自分の持ち場である仕事や学問の世界において、独自の創造的な思索と提案のできる人が求められているのです。
そして、そういう人材が単に一部のエリートだけに限られるのではなく、大衆的に生まれるような社会がこれからの日本が目指す社会です。
これまでの欧米流消費文化は一部の人だけが主人公で、大多数の大衆は、雇用されるだけの受け身の労働者であり、与えられたものを選択し購入するだけの受け身の消費者でした。
これから生まれる創造文化の社会は、すべての人が主人公であり、創造者であり、また、その創造の発展に向けて向上を図る学習者であるような社会です。そこで初めて人間の生活は、幸福と向上と創造と貢献が結びついた本来の姿を回復するのです。
(写真は、えさをねだる子スズメ(左)、親スズメ(右)。教室の近くで)
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言葉の森の毎月第4週の読解問題は、選択式問題の解き方のコツを身につけるために行っています。
なぜこのコツを身につける必要があるかというと、読解力があるのに国語の点数が悪い子のいちばん大きな原因は、この解き方のコツを知らないことにあるからです。
これは、小中学生ばかりでなく、高校生でもあてはまります。以前、たまたま高校3年生が多かったときに、みんなに同じようにセンター試験の国語の問題をやってもらいました。すると、読む力のあるはずの生徒でも60点ぐらいの平均点しか取れない子が結構いました(高校3年生の夏ごろの話です)。
それで、その子たちに1人1、2時間かけて、実際の答えを照らし合わせながら解き方のコツを説明しました。すると、驚くことに次の週から100点近い点数を取ることができるようになったのです。これは不思議でも何でもありません。選択式の問題は、厳密に解けばだれでも満点に近い点数を取れるのです。(だから、問題作成をする人は大変なのです)
こういう解き方のコツを理解することが必要になるのは、小学校5年生ぐらいからです。小学校4年生までは、そこまで考える必要はありません。ですから、小学校低中学年で、清書に時間がかかる場合は読解問題まではやらなくてもいいのです。また、小学校高学年や中高生でも、清書に時間がかかり、読解問題に取り組む時間が十分に取れないときがあります。そういうときは、8問全部を解くのではなく、問1と問2の2問だけは確実に解き、それ以外の問題はやらない(又は手を抜く)というふうにやっていくといいのです。
この読解問題は、解き方のコツを身につけるためのものですから、点数がいいとか悪いとかということは全く重要ではありません。むしろ、自分が確実にできたと思った問題が×になったときが、最もいい勉強の機会になるのです。
読解問題の時間が取れない人は、問1と問2だけに絞って取り組むようにしていってください。
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言葉の森では、これまで小3以上は、構成用紙に構成図を書いてから作文を書くという練習を進めてきました。
これは、学年が上がり中高生で難しい課題を書くようになると、書きながら考えるのではなく、考えてから書くという書き方が必要になるからです。
この構成図は、自分の思いつきを短い文と矢印で平明図に広げるように書いていくものです。なぜ平面的に広げて書くかというと、自分の考えを平面に広げて一覧することによって発想が広がるからです。
しかし、この構成図の書き方をのみこめず、平面的にではなく箇条書き的に書いてしまう人が多かったため、構成用紙という形式を作りました。そして、この構成図を書くという書き方もだんだん理解されてきたため、7月から構成用紙の配布を廃止することにしました。
なぜ用紙やシールを廃止するかというと、今後、言葉の森の勉強をできるだけ特殊なツールを必要としないものにしていきたいからです。
(今の塾業界の行き方は逆で、その塾でなければ手に入らない教材をセールスポイントにしていることが多いと思います)
それは、これからの学習というものは、どこかに通わないとできないようなものではなく、家庭でも自主的にできるものにしていく必要があるからです。
暗唱用紙についても同様です。暗唱は、100字の文章を30回音読するという方法が基本です。ストーリーのある事実中心の文章ではそれほど多くの回数を繰り返さなくても暗唱できますが、説明文だと30回ぐらいの音読の反復で暗唱できるようになります。
ところが、この30回繰り返すというのが意外に難しく、指を折って数えるようなやり方だと途中で何回かわからなくなり、自然に繰り返しの回数が短くなり、その結果暗唱ができないとか難しいとかいうことになりやすいのです。
暗唱用紙を使うと、回数が形として残るので、苦手な子でも用紙を折っているうちに自然に暗唱ができるという効果がありました。しかし、この繰り返しのコツさえわかれば、特に暗唱用紙を使わなくてもいいということと、暗唱用紙の代わりに普通のA4サイズの紙を同じような形に切ればいいということで、この用紙も廃止することにしました。これも、ツールがないと勉強できないというようなことにしないための簡略化の一環です。
以上、シールや用紙の廃止について、なにとぞご理解くださるようお願い申し上げます。
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子供が小学校中学年までは、親の言うことをよく聞きます。
そこで、親はつい子供ができないことを早く教えてしまおうとします。親にとってはすっかりできることでも、子供にとってはまだ慣れていないことが多いので、親が期待するほどにはなかなか上手にできません。
しかし、そこで、「また間違えた」「まだできないの」「お母さんなんて……」などと言い出すと、子供がだんだん親に教わることを負担に感じてきます。
本当は、親は気長に、同じ間違いを何度繰り返してもにこにこ訂正してあげればいいのですが、2、3回ですぐできるようにならなければ叱るというような教え方をしてしまうのです。子供に勉強を教えるときは、気長にやるようにしてください。
小学校低学年のころに、親が子供をコントロールしすぎると、小学校高学年になってからその反動で、子供は親の言うことを聞かなくなります。本当は、学年が上がってからの方が親のアドバイスが重要になるので、低学年のころに無理強いしたために、肝心の高学年になってから親の言うことを聞かなくなるということが多いのです。
もちろん、同じことは高学年になってからも言えます。小学校高学年で親がコントロールしすぎると、中学生や高校生になってから親との対話がなくなってきます。親子のいい関係を続けていくためには、小さいころから親が子供の意志を尊重していく必要があるのです。
しかし、それはもちろん子供の言うがままにすることではありません。親の意見を無理矢理押し付けることが必要な場面も、子供の成長の過程には必ずあります。しかし、それは躾のような肝心な場面だけにとどめておき、日常生活のほとんどは子供とにこやかに過ごす忍耐力を持っていくことが大事です。
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新しい産業は、まだ形あるものとしては現れていませんが、今後それらが登場するときに最も求められる人材は、記憶力と受験ノウハウと長時間の学習で高学歴を達成した人間ではなく、どの分野であっても自分なりの創造性を発揮することのできる人間です。そして、この創造性こそが、未来の産業の土台となる学力であり、教育の本来達成すべき目標なのです。
だから、今の時代の子育てでまず考えておかなければならないのは個性と創造性であり、その個性と創造性を支えるものとしてバランスの取れた学力が必要だという関係になっているのです。そのために、作文のような学習を通して創造性を身につけていく必要があります。もちろん作文以外に生活のさまざまな場面で、子供の創造性を育てる機会を作っていく必要があります。それは、勉強の成績を上げるのと同じかそれ以上の重要さがあります。
さて、未来の新しい産業が広がる前に、実は一波乱があるだろうというのが現在の世界の情勢です。その波乱は、これまでの体制の行き詰まりと腐敗を吹き飛ばし、新しい社会を作り出すために必要なのだと考えなければなりません。波乱はないにこしたことはありませんが、古い体制が静かに片づけられて新しい体制に移行するというのはやはり難しいようなのです。
その難しさを示す象徴的な出来事が、現在の、安全性の保証できない原発の再開、無駄の削減を伴わない消費税の増税、アメリカと対等に交渉のできないTPPの受け入れなどです。原発にしても、消費税にしても、TPPにしても、為政者の目が本当に国民の方を向いているのであれば、一概に悪いわけではありません。しかし、その目の向いている方向は、国民ではなく旧来の利権集団なのです。
99パーセントの国民の声が無視され、1パーセントの集団の利益が国を動かしているというのが、今の日本及び世界の現状です。そして、その1パーセントの集団が維持しようとしている体制は、今どこから破綻が起きてもおかしくないほど行き詰まっています。
では、その破綻はどのようにして起き、それがどのように展開して新しい社会が来るのでしょうか。
まず、EU、又は中国、又はアメリカ、又は日本で、ある金融機関が債務に押しつぶされ破綻するとします。一つの金融機関の破綻は、他の金融機関にも連鎖する可能性があるので、国は紙幣を印刷することによってその金融危機を救済します。しかし、そういう救済を繰り返しているだけでは何も解決しません。だから、国は、影響力の限られた小さな金融機関は破綻するに任せ、影響力のある大きい金融機関は救うことで、小さなところから破綻を段階的に演出しソフトランディングを行おうとします。ところが、その破綻の原因に大きくからんでいるのがデリバティブの巨大な博打ですから、小さな金融機関の破綻だと思っていたものが、博打の途方もない勝ち負けに結びつくことがあります。すると、小さな破綻が小さな破綻では済まなくなり、次々と破綻が連鎖していくようになります。言わば核分裂反応のような破綻の連鎖が起きた場合、国にどれだけマネーを印刷する権限があろうと、その破綻のスピードと巨大さに印刷の方が間に合わなくなるのです。この破綻の連鎖を事前に救う手だてがあるとすれば、それは全世界的な徳政令ですが、国どうしの利害の異なる国際社会では、そのような大胆な政策は行えない可能性の方が高いでしょう。かくして、一つの小さな金融機関の破綻から始まった破綻の連鎖は、他の大きな金融機関も巻き込み、国境を越えて世界的な規模の経済破綻に発展するのです。
しかし、このときに唯一破綻のドミノ現象を回避ないし緩和できる国があるとすれば、それが日本です。日本にそのとき強力なリーダーがいれば、円を大量に印刷して日本の企業と日本の国民だけはすべて救う政策をとることができます。しかし、博打の勝ち負けは金額の桁が違いすぎるために救済の対象には含めません。また、ここが最も重要なことですが、日本企業が日本以外の国から請求される債務は踏み倒すことです。踏み倒すということで語弊があるなら、支払期限を無期限に延期することです。そうして、日本を世界経済の破綻の連鎖から守ることが、やがて世界の復興につながるのです。
もちろん、日本が首尾よく破綻の連鎖から免れたとしても、世界経済との関連で日本もまた深刻な不況に陥ります。しかし、そこで初めてこれまでの利権の体制も大きく揺らぐのです。あるいは、人類の英知はもっと穏やかに古い体制を少しずつ片づけ新しい社会を作ることができるかもしれません。しかし、今の原発、消費税、TPPなどに見られる混迷を見ると、人類の英知は破綻を回避するほどにまだ育っていなかった可能性の方が高いと思います。(つづく)
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