主題の創造とは、感想や意見の創造のことです。人間は、ある物事に対して、関連する知識を持ち、考え方の枠組みを持ち、表現する言葉を持ちますが、それとともにある価値観、例えば好悪、善悪などの主観的な理想を持ちます。それが主題です。
主題の最も原初的な形は、感覚的な感想です。例えば、遠足に行って、「くたびれた」「楽しかった」「また、行きたいと思った」などと思うのが感想です。この感想が意見の形で発展すると、主題性が明確になってきます。例えば、「みんなと仲よくすべきだ」「自分を意見を持つべきだ」「長期的な視野で考えるべきだ」などです。
この主題にも創造があります。それもやはり主題に習熟することによって生まれます。主題の習熟とは、自分の考えた主題を繰り返すことではありません。自分以外の多くの人がその主題を述べる中でその主題が反復され、その反復の結果としてその主題自体に一つの隙間が見出され、それを埋めることで創造が生まれるという仕組みです。
ルターは、当時のキリスト教の圧倒的な支配体制のもとで売られる免罪符を見つめる中で、自然に「神は、善行によってではなく信仰によって人を義とする」という境地に達しました。これが、主題の創造です。
作文の勉強において、主題の創造は、発表や対話の中で行われます。ある物事に対して多くの人が同じような意見を述べるとき、そこに自ずからその主題の持つ限界が見出され、その隙間を埋めるものとして新しい主題の創造が始まります。それまで最も強固に成り立っていたかのように見えた価値観は、その強固さゆえに多くの人に反復されることによって、やがて陳腐化し、隙間ができ、その隙間を埋めるために新しい価値観に取って代わられるのです。
日本の近代において、尊王攘夷が尊王討幕に変わったのは、攘夷の障害が大きかったからだけではありません。攘夷の持つ限界が自ずから明らかになることによって、尊王討幕へと進んだからこそ、そのあとに来た価値観は、脱亜入欧になったのです。
だから、主題の創造で大事なことは、多くの人が発表することと、それが公開されていることです。これによって多数決や強制というやり方をとらなくても、主題の方向は自然に収斂されていきます。しかし、その収斂は決して固定化したものではなく、時の経過とともに新たな主題へと変容する生きた収斂です。この新たな主題が、主題の創造なのです。
これまでの話をまとめましょう。
これからの教育で最も大事になるのは創造であり、その創造は、題材、構成、表現、主題の各分野で生まれるということを説明しました。
これを実際の作文教育の中で実現するためにはどうしたらいいのでしょうか。
第一に、意欲の創造を支えるために、教育においてこれまで以上に自分らしさというものを評価することです。
第二は、暗唱、音読、復読などによる題材の習熟に力を入れることです。
第三は、構成を重視した作文指導です。それは、項目を重視した指導と考えてもいいでしょう。
第四は、表現の工夫です。特に小学生の場合はたとえ、中高生の場合は自作名言を中心とした表現の工夫です。自作名言は、表現の創造を超えて主題の創造に近いものになります。
そして第五は、発表です。同じテーマで他の人の作文を読むことによって、多くの人が論じる主題に精通し、やがて新しい主題を作る準備をすることです。
これまで、子供の教育は、浅い知識を広く習得し、覚えた知識を速く正確に再現することを目標にしてきました。しかし、それは結局、メモリの速度とハードディスクの容量を競うコンピュータを育てるような教育でしかありません。
機械的な学力は、機械の活用によって簡素化し、そのかわり人間にしかできない創造に力を入れていくのがこれからの教育の重点です。そのために、作文教育を中核とした教育によって創造性のある子供たちを育てていくことが、これからの大きな課題になるのです。(おわり)
5月22日の記事「創造性を育てる作文 6」のつづきです。
だいぶ時間が空いてしまったので、これまでのあらすじを。
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「創造性を育てる作文 1」
作文の勉強の目的は、「正しく、わかりやすく、美しく、速く」書くことに加えて、「創造性を育てる」ことにある。
「〃 2」
創造性には、まず意欲の創造性がある
「〃 3」
これからは知識の底辺を伸ばすよりも、創造性の高さを高めることが重要になる。
「〃 4」
読む創造性は、知識が血肉になることが条件である。
「〃 5」
知識に習熟するための勉強の有効な方法が暗唱である。
「〃 6」
書く創造性とは、構成を使った創造である。
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なんだかややこしい話が続いていますが。
題材の創造性(読む創造性)、構成の創造性(書く創造絵性)に続いて、今回は、表現の創造性、次回は、主題の創造性です。
表現による創造とは、作文の場合、主に比喩による創造です。あらゆる表現はもともと創造ですが。その中でも特に比喩は独創性の高い創造です。
物事と言葉とは、必ずしも一義的に結びついているわけではありません。例えば、この黒いかたまりを、「犬」と言っても、「ミニチュアシュナウザー」と言っても、「黒い子犬」と言っても、どれも正解です。物事は一つですが、それを表す言葉は何種類もあります。だから、物事と言葉の間には、常にギャップがあります。
話すことにも書くことと同じような創造的な要素はありますが、話にはほとんどの場合、直接的な相手がいます。人間は、話をするとき、言葉を単なるキャッチボールのようにしてコミュニケーションをしているわけではありません。相手の投げていないボール、つまり言っていないことも察する力があるからです。
例えば、食卓で、はっと気づいた顔をして、「あれとって」と言おうと思い、「あ……」と言うとき、近くにいる人はすぐにそれが醤油(しょうゆ)だとわかる、というようなコミュニケーションが、話すときのコミュニケーションです。それに対して、書くコミュニケーションには直接の相手がいません。だから、話すよりは書く方が表現の創造性を必要とします。この表現における創造性を伸ばすことが、作文教育のひとつの目標です。
ところで、表現の創造の前提となるものは、言葉そのものへの習熟です。ある言葉が使えると言っても、使えることがそのままその言葉に習熟していることではありません。習熟には個人差があります。
例えば、カタツムリという言葉を知っている子はたくさんいますが、その知り方の度合いにはさまざまな差があります。それは、カタツムリの属性をどれだけ知っているかという差です。カタツムリは、小さい、殻がある、臆病ですぐに角をひっこめる、雨が好き、ゆっくり進む、ニンジンを食べる、などのさまざまな属性は、言い換えればカタツムリという言葉が持つ概念の広がりを示す何本もの手足です。
たとえやダジャレが使える子は、このひとつの言葉に対する概念の手足が多いのです。小1、小2の子が、たとえをなかなか使えないのはこのためです。教えられたたとえを理解することはできますが、自分で作ることができないのは、子供たちの使える言葉が、まだ数本の手足しか持っていない素朴な言葉だからです。だから、たとえの練習とは、たとえを教えることではなく、日常生活の体験や読書の中で、言葉の持つ概念の手足を増やしていくことです。
この概念の手足というものが、文章に対する理解の深さを規定します。ここに国語の勉強の特徴があります。
国語にも、数学にも、難問というものがあります。易しい問題とは、テストのために作られた空間が限られて閉ざされている問題です。難問とは、そのテストの空間が広く閉ざされていない問題です。
例えば、数学の場合は、その単元の勉強だけでなく、ほかの単元で学んだことを使わなければ解けないような問題が難問です。
国語の場合は、その文章で問われている状況を理解するために、その文章以前の経験や読書による共感が必要になる問題です。
だから、数学はわからなくなったら、わかるところまで戻るという勉強が基本です。これに対して、国語はわからなくなったら、わかるようになるまで読書や経験を積み重ねるという勉強になるのです。したがって、国語の勉強は、問題を解く勉強はほんのわずかでよく、中心になるのは言語を豊かにする読書や対話や暗唱の勉強なのです。(つづく)