2011年11月のプレジデントファミリーの記事に、「「秋田が学力日本一」はウソ!? 四谷大塚・全国統一テストを詳細分析」という記事が載っています。
http://www.president.co.jp/family/backnumber/2011/20111200/21032/
「「秋田が学力日本一」はウソではありません。一方、四谷大塚の全国統一小学生テストの上位は首都圏がトップというのもウソではありません。このパラドックスの秘密は、入試問題というものの性格にあります。
ひとことで言えば、入試問題を解く力は、学力ではなく入試訓練力なのです。入試訓練力は、もちろん学力を土台にしていますが、入試の合否に関する影響力という点で言うと、学力よりも入試訓練力の方が通常はずっと影響が大きいのです。
上位の学校を狙う子の学力は、どの子も既に備わっているはずですから、入試の合否を決めるのはほぼ百パーセント、入試問題で訓練した力です。そして、そういう訓練力は1年間もあれば大きく成長します。だから、中3のとき学力が上の子よりも、そのとき学力は下でも、高校生になって入試訓練力を伸ばした子の方が、大学入試に勝つことができるのです。
学力と訓練力の差が最も大きいのが数学です。私(森川林)は、上の子が中3のとき、高校入試のための勉強を見てやったことがあります。ところが、そのとき試しに自分で近くの普通の私立高校の数学の入試問題をやってみたところ、ほとんど0点だったのです。それで、1冊の問題集を買って、子供には自学自習で勉強させ、できなかった問題は解法を見て子供自身で理解させ、解法を見てもわからない問題だけ一緒に考えることにしました。
私は、高校時代は公立高校の理系のクラスでした。数学は好きではありませんでしたが苦手ということは全くなかったのです。それが、いくら現役から時間がたっているとはいえ、たかが高校入試問題でほぼ0点とは……(笑)。
しかし、今更じっくりやっている暇はありませんから、とりあえず子供が解法を見ても理解できない問題を一緒に考えることにしました。すると、夏休みの約40日間、1日に1題か2題そういう難問の解法を見ているうちに、入試問題のパターンが頭の中に入ってきました。そして、やがてどんな問題を見ても解き方の見当がつくようになったのです。子供も、もちろん夏休みの間に数学が得意科目になりました。
今考えると、それは数学の学力がついたのではなく、数学の入試問題の訓練力がついたのだということです。学力はもともとそれほど変化はしません。しかし、訓練力に関しては、わずかの期間に大きく上昇するのです。
高校入試の数学の得点力は、わずか1か月ほどで大きく変化します。だから、中学生時代のうちは、学力と訓練力の差はそれほどはっきりしません。そのため、秋田の子は、中3になっても学力は東京の子よりも高いのです。
しかし、大学入試では、訓練力の上昇には、もっと長期間かかるようになり、次第に学力と訓練力は、かけ離れたものになっていきます。これを裏づけるのが、知能テストの成績と数学の成績の相関です。
▽学年ごとの知能テスト(言語因子)と数学の成績の相関(倉石精一郎京都大学教授の調査による)
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┃小4┃0.76┃
┣━━╋━━┫
┃小6┃0.66┃
┣━━╋━━┫
┃中1┃0.82┃
┣━━╋━━┫
┃中3┃0.55┃
┣━━╋━━┫
┃高2┃0.03┃
┗━━┻━━┛
つまり、小中学生のころは、知能テストの成績のいい子は、算数・数学もよくできます。しかし、高校生になると、知能テストと数学の成績の関連はほぼなくなってしまいます。(相関が0.03というのは無関係というのとほぼ同じです)
国語や理科の教科では、大学入試と知能テストの成績は比較的高い相関があります。しかし、数学に関しては、知能テストと入試の成績は、全く関係がないと言ってもいいほどです。数学に次いで、知能テストと入試の成績の関係が薄いのが英語です。そして、入試では、数学と英語の得点力が合否に大きく影響します。
つまり、ここから言えることは、小学校、中学校と学力の高かった秋田の子は、高校に入ってからも学力は高いだろうということです。しかし、首都圏の学力の高い子が、高校に入ってから入試の訓練力をつけていくのに対して、秋田の子は入試の訓練力というものをあまりつけない高校生活を送っているのだと思います。これが、入試の結果の差になって現れてきます。
だから、小中学校のころ日本一だった秋田の子の学力が低下したわけではありません。入試訓練力を新たにつける機会が少ないだけなのです。
このように考えると、子供たちの勉強の理想の姿がわかってきます。それは、大きく四つの段階に分けられます。
第一は、基礎技能を身につける時期です。数学で言えば計算練習です。
第二は、学力を身につける時期です。数学の例を続けると、教科書の単元を積み重ねていく時期です。
第三は、入試訓練力を身につける時期です。教科書を超えた入試問題を解く訓練をしていく時期です。
そして、第四は、創造的な研究をしていく時期です。これは、入試の訓練のように答えのあるものを早く見つける学習ではありません。自分の力で新しい問題を発見する学習です。
大事なことは、それぞれの段階は、前の段階の延長にはないということです。四つの段階は、質的に異なったものなのです。つまり、計算練習がいくら速く正確になっても、それで自然に学力がつくわけではありません。また、教科書の進度がいくら進んでも、それで入試が突破できるわけではありません。また、入試の成績がいくらよくても、それでその分野の独創性のある研究者になれるわけではありません。
勉強というものは、それぞれが前の段階を前提にしていながら、それでいて質的に異なるものだと自覚して進めていくことが大切なのです。
主題の創造とは、感想や意見の創造のことです。人間は、ある物事に対して、関連する知識を持ち、考え方の枠組みを持ち、表現する言葉を持ちますが、それとともにある価値観、例えば好悪、善悪などの主観的な理想を持ちます。それが主題です。
主題の最も原初的な形は、感覚的な感想です。例えば、遠足に行って、「くたびれた」「楽しかった」「また、行きたいと思った」などと思うのが感想です。この感想が意見の形で発展すると、主題性が明確になってきます。例えば、「みんなと仲よくすべきだ」「自分を意見を持つべきだ」「長期的な視野で考えるべきだ」などです。
この主題にも創造があります。それもやはり主題に習熟することによって生まれます。主題の習熟とは、自分の考えた主題を繰り返すことではありません。自分以外の多くの人がその主題を述べる中でその主題が反復され、その反復の結果としてその主題自体に一つの隙間が見出され、それを埋めることで創造が生まれるという仕組みです。
ルターは、当時のキリスト教の圧倒的な支配体制のもとで売られる免罪符を見つめる中で、自然に「神は、善行によってではなく信仰によって人を義とする」という境地に達しました。これが、主題の創造です。
作文の勉強において、主題の創造は、発表や対話の中で行われます。ある物事に対して多くの人が同じような意見を述べるとき、そこに自ずからその主題の持つ限界が見出され、その隙間を埋めるものとして新しい主題の創造が始まります。それまで最も強固に成り立っていたかのように見えた価値観は、その強固さゆえに多くの人に反復されることによって、やがて陳腐化し、隙間ができ、その隙間を埋めるために新しい価値観に取って代わられるのです。
日本の近代において、尊王攘夷が尊王討幕に変わったのは、攘夷の障害が大きかったからだけではありません。攘夷の持つ限界が自ずから明らかになることによって、尊王討幕へと進んだからこそ、そのあとに来た価値観は、脱亜入欧になったのです。
だから、主題の創造で大事なことは、多くの人が発表することと、それが公開されていることです。これによって多数決や強制というやり方をとらなくても、主題の方向は自然に収斂されていきます。しかし、その収斂は決して固定化したものではなく、時の経過とともに新たな主題へと変容する生きた収斂です。この新たな主題が、主題の創造なのです。
これまでの話をまとめましょう。
これからの教育で最も大事になるのは創造であり、その創造は、題材、構成、表現、主題の各分野で生まれるということを説明しました。
これを実際の作文教育の中で実現するためにはどうしたらいいのでしょうか。
第一に、意欲の創造を支えるために、教育においてこれまで以上に自分らしさというものを評価することです。
第二は、暗唱、音読、復読などによる題材の習熟に力を入れることです。
第三は、構成を重視した作文指導です。それは、項目を重視した指導と考えてもいいでしょう。
第四は、表現の工夫です。特に小学生の場合はたとえ、中高生の場合は自作名言を中心とした表現の工夫です。自作名言は、表現の創造を超えて主題の創造に近いものになります。
そして第五は、発表です。同じテーマで他の人の作文を読むことによって、多くの人が論じる主題に精通し、やがて新しい主題を作る準備をすることです。
これまで、子供の教育は、浅い知識を広く習得し、覚えた知識を速く正確に再現することを目標にしてきました。しかし、それは結局、メモリの速度とハードディスクの容量を競うコンピュータを育てるような教育でしかありません。
機械的な学力は、機械の活用によって簡素化し、そのかわり人間にしかできない創造に力を入れていくのがこれからの教育の重点です。そのために、作文教育を中核とした教育によって創造性のある子供たちを育てていくことが、これからの大きな課題になるのです。(おわり)