『大江戸生活事情』(石川英輔著・講談社文庫刊)という本を読みました。
題名の通り、かつての大都市“江戸”に暮らした人々の生活について、解説した一冊。
封建的・閉鎖的で、庶民の生活も貧しく不便……そんな従来のイメージを覆す、文化的で理にかなった“生活事情”の数々が小気味よく語られています。
教育力と、それに基づく教養水準の高さ。犯罪率の低さ。衛生的で効率的な資源活用。女性にも一定の権利が認められていたこと……などなど。
いささか(とくに西欧文化との比較において)当時の日本が高評価されすぎている印象も受けますが、“江戸時代”の認識を改めるきっかけとして、非常に楽しめる内容でした。
そんな本書の中で、私がもっとも納得し、目から鱗が落ちたのが、
「権ある者には禄うすく、禄ある者には権うすく」
という、当時の政治の基本方針。
他のパートに比べると、わりあいさらりと流されている感がある(あくまで本書は“庶民生活”が中心だからでしょう)ところなのですが、正直、もっとも「江戸時代って素晴らしいな」と実感したのがここでした。
あえて噛み砕いて書くならば、
「公的権力を振るう立場の者には、経済力を与えない。」
「豊富な財力を持つ者には、権力を握らせない。」
となるでしょう。
これはもう、どこの国、いつの時代を問うまでもなく「権ある者が禄高く」「禄ある者が権強く」なってしまっては、ろくなことにならないのは自明です。
そういった意味で、実にシンプル、かつ実効性のある考え方だと感じました。
「武士は食わねど高楊枝」という有名な慣用句があります。
今では、いわゆる浪人の「痩せ我慢」「見栄っ張り」を表す言葉ととらえられがちですが、実際に大名クラスの武家であっても、時勢によってはかなりの貧乏暮らしに耐えていたと言います。
『武士の家計簿』なる本、それを原作とした映画もありましたね。
一方、羽振りの良い豪商、素封家の類は当時も多くいたはずですが、彼らが幕府をないがしろにするような権勢や横暴を振るったという話はあまり聞きません。
むしろ、庶民に偉ぶっているような悪徳商人でも、お武家様にはペコペコしている……というようなイメージがあるのではないでしょうか(時代劇の世界ですが)。
では、ひるがえって現代日本のイメージはというと……。
「権」「益」が分かたれることなく、一部に集中しており、そこに生まれた格差が深刻なものとなっている。
多くの方がそのように思われるでしょう。
150年余りの間にどうしてこうなってしまったのか、そのあたりの考え方だけでも江戸時代のままであったなら……と感じずにはいられません。(苦笑)
と、嘆いてばかりいても仕方がないので、過去に学び、未来に生かそうという話を。
言葉の森ホームページより、「無の文化と教育」と題した連載記事の一本を引用致します。
https://www.mori7.com/as/1340.html
本文の内容だけでも、“有の文化”との対比によって“無の文化”の意味するところはなんとなくご理解いただけるかと思います。
ぜひご一読ください。
=======================(引用ここから)
政治体制の分類の仕方のひとつとして、アリストクラシー(貴族主義、血統主義、身分主義)と、メリトクラシー(能力主義)という分け方があります。
アリストクラシーの欠点は、支配が固定化することによって腐敗が生まれ、その結果、社会の中に不合理が蓄積し、やがてそれが抗争に発展するということです。
その点、能力主義は、能力のある者がリーダーとなる点で一見合理的な仕組みのように見えます。しかし、この能力主義は、容易に、能力ある者による血統主義に転化するのです。
ところが、この矛盾を解決するヒントが、日本の政治の仕組みの中にあります。
それは、身分の高い者がその身分に伴う倫理観を持って行動するということです。例えば、乃木希典は、高い地位にありながら常に謙虚な人間性を保ち続けました。明治維新の際、支配者であった武士階級は、自主的に禄を辞退し農民になりました。天皇の最も重要な仕事は、民の幸福を祈ることだと言われています。
有の文化における政治では、支配する者と支配される者があり、力のある者と力のない者がヒエラルキーを形作っています。その両者をつなぐものは、命令と強制と賞罰です。この仕組みが強固であることが理想の政治のひとつの形となっています。
そして、これが、現代の会社、学校、団体のさまざまな組織の原理となっているのです。
これに対して無の文化における政治では、命令や強制などの作為がないこと、自然のうちに調和していること、リーダーがなくても全体がまとまっていることなどが、理想の姿と考えられています。
支配する者も、支配される者もいず、ただみんなが集団全体の意志のようなものを感じ取る感性を持っていて、その集団の意志が求める役割を各人それぞれに果たすというのが理想の政治なのです。
これは、ちょうど、鳥の群れや魚の群れが、誰がリーダーとなって指示するわけでもないのに、集団全体を一つの形として動いていくのと似ています。
こういう集団では、リーダーはエゴを持たないことが第一に求められます。また、リーダー自身も、エゴを持たないことが正しい判断を下す条件であることを暗黙のうちに了解しています。
身分間の移動はありますが、基本的には身分主義が社会の前提になっていて、各人はその身分の中で、自分が集団全体の意志によって求められている役割を果たすために自分を磨くという仕組みの社会になっているのです。
有の文化の政治は、個人のエゴイズムを前提にしているので、多数決、三権分立、二院制など、エゴを抑制する仕組みを追加していかなければ制度を維持することができません。これが、現在の政治の複雑化と混乱の文化的要因です。
これに対して、無の文化の政治は、リーダーとなる人がエゴを抑え、大衆に奉仕する気持ちを持ち続けることによって制度を維持するという一種の王道政治を目指しています。
これをきれいごとと思うかもしれませんが、実は、日本の歴史ではかなりの期間、このような王道政治が行われていました。徳川幕府は300年間続きましたが、これだけの長期間の権力の固定化にもかかわらず、他の国のように、権力者が暴君になるとか腐敗するとかいうことがほとんどありませんでした。
仁徳天皇が、民のかまどから煙の立ち上るのを見て安心したという逸話は、日本の民衆の中に、リーダーのあるべき姿の例として生きています。
このように考えると、日本の政治の根本理念は、権力を持つ者の倫理観ということに集約されるように思います。
=======================(ここまで)
『大江戸生活事情』の記述によれば、江戸時代において庶民は最大限、武士を尊敬していたといいます。
それがどんな貧乏武家であっても、貧しさの中にあってなお高潔たらんとする生き様を「自分たちにはできないこと」として尊重していたと。
そしてもちろん、武士の側も、自分たちにはできない農・工・商の仕事に携わる人々を必要とし、尊重する心を忘れてはいなかったでしょう。
考えてみれば、この士農工商の順番にこそ、まさに「権ある者には禄うすく、禄ある者には権うすく」の理念が現れているようにも思えます。
こうした区別によって、それぞれの職分と責任のありようが明確にされていた……と言えるかもしれません。
「権ある者、禄ある者」がエゴを見せた時、「そうでない者」が厳しく糾弾し、是正を求めるというのが、有の文化の在り方であり、その文化に生きる者の当然の義務にして権利、ということになるでしょう。
日本人が西欧式の生活スタイルや考え方に適応してすでに久しく、今さら江戸時代の“無の文化”にまで回帰しようというのは、無理のある話ではあると思います。
しかし、エゴをぶつけ合うことよりも、上の者から下の者までおのおのが自らを律し、尊重し合い、自立していく生き方のほうが、我々日本人の「性に合っている」のでは……という気がしてなりません。
(いとう)
■小学校の早めの時期から作文の勉強を勉強する意義
小学校1、2年は、勉強の基本的な習慣が作られる大切な時期です。この時期に作文を書くというのは、まだ文字を書くのもおぼつかない子も多い時期なので、早すぎると思う方がいるかもしれませんがそうではありません。
小学校の1、2年生で始めた習い事は、形は変わっても一生続く勉強となるものが多いのです。実際に、中学生や高校生で作文を書いている生徒の多くは、小学生の早い時期に作文の勉強を始めています。
作文がある程度楽に書けるようになってから始めた勉強では、スランプが来たり生活が忙しくなったりすると、すぎにやめてしまいたくなることが多いのですが、低学年のころから始めた勉強は、苦しい時期があっても続けることができるのです。
そして、結局長く続けた勉強は、必ずその子の実力として残ります。だから、言葉の森の作文のように長期間続けられる勉強は、小学校の早い時期に始める必要があるのです。
しかし、これは他の作文の通信講座などにはあてはまりません。他の作文通信講座や作文教室では、小学生のころから始めても、小学生で終わってしまうものがほとんどです。作文の勉強の本当の目的は、小学生のときに上手な作文を書くことではありません。小学校時代の作文の勉強は、中学生、更には高校生になって立派な論説文を書けるようになるための準備なのです。
■入試は数学、実生活は国語
今の入試は、中学入試でも高校入試でも大学入試でも、算数・数学の出来不出来が大きく合否を左右します。それは、算数・数学というものが、できる子とできない子の点数の差が大きい教科だからです。
これに対して、国語の成績は、できる子とできない子の差がそれほど大きくはありません。どんなにできない子でも、国語が0点ということはありません。また逆に、どんなにできる子でも、国語が100点ということはめったにありません。
算数・数学や英語は、0点も可能ですし、100点も可能です。それは、算数・数学や英語は、勉強しないとできるようにはならない教科だからです。
国語は、勉強する教科というよりも、国語的な生活文化の中で実力が自然に育つ教科です。ところが、学校時代は数学又は英語の成績が合否を左右します。社会に出ると、数学や英語の出来はもうあまり関係がありません。社会で活躍している人の中には、数学や英語が得意でない人もいます。しかし、そういう人たちに共通しているのは、国語力があるということです。それは、国語の成績として表れるものとは多少違いますが、その能力は、難しい本を読む力、複雑な話を理解する力、自分の考えをわかりやすく述べる力などで、要するに、本当の意味での国語力なのです。
このような国語力は、頭のよさと同じです。数学や英語の成績は、頭のよさではなく、勉強の正しい方法論×かけた時間です。数学や英語の成績をよくするのはもちろん必要ですが、それよりも大事なのは、将来社会に出てから学力の中心になる真の国語力なのです。
■いつでも褒めて明るい勉強を
家庭での勉強の仕方で大事なことは、必ず褒めて、明るい雰囲気で勉強をすることです。叱ったり注意したりして、暗くて真面目な雰囲気勉強をさせると、子供の能力は低下します。人間に限らず生き物は、いい記憶は長く保持し、悪い記憶は早く忘れようとします。そして、忘れられないほど悪い記憶には、近づかないようになります。大学生になったり社会人になったりしてから勉強をしなくなるのは、小学校時代に悪い思い出として勉強をさせられた子供たちです。
大人が今すぐ注意したくなる子供の勉強上の欠点は、そのほとんどが放っておけば自然に治るものです。例えば、音読が下手だとか、声が小さいとか、作文で同じ字を間違えるとか、字が雑だとかいう場合です。
こういうことを親がそのつど注意すると、親は子供に注意することが持って生まれた性格のようになってきます。こういう注意する性格になってしまうと、子供が小4のころまでは仕方なく親の言うことを聞きますが、小5から子供に自立心が出てくると、逆に親の言うことは一切聞かないようになります。
それと同時に問題なのは、注意が言葉の上だけになり、実行するまで徹底させられないことが多くなることです。例えば、「もっと大きい声で読みなさい」などと注意した場合、すぐに素直にそのように読める子はいません。また、「字をきれいに書きなさい」と言った場合、すぐにきれいに書くくようになるという子もまずいません。すると、毎回のように同じような注意をし、同じように守れないという状態が続き、やがて子供は、親のいうことは聞かなくてもいいものだと自分なりに学習していきます。だから、やらせるあてのないことは、言わないということも大事です。そのかわり、いったんやると決めたことは、例外なく実行するようにしなければなりません。こういう区別によって、いつも褒めて明るい勉強というものができるようになるのです。