■毎日やることが自習の原則
次は、毎日の自習の習慣です。
この自習の習慣というものは、家庭の実態によってさまざまなバリエーションがあります。だから、他の家庭でできることでも、自分の家ではできない、あるいは、別のやり方の方がいいということも当然あります。そこで大事になるのが、お母さんやお父さんの工夫です。言葉の森の自習を機械的にあてはめてやらせるのではなく、その子の実態に応じて無理なく、しかし最も有効な方向でやらせるのが、いちばん身近な親の役割です。
ですから、言葉の森で提案している自習は、あくまでも目安として、実際には家庭での実情に合わせて柔軟に取り組んでいってください。
ただし、柔軟にとは言っても、重要な原則があります。それは、毎日欠かさずにやることです。読書や音読や暗唱が続かなくなるのは、毎日ではなく気の向いたときに、又は週に数回というペースでやるからです。短い時間の単純な勉強は毎日やると決めておけば続きますが、時間のあるときにやるという形では、どんなにがんばっても続かなくなります。
子供が風邪や旅行などで数日自習を休んだときは、元の生活に戻っても、自習も自然に戻るということはありません。そこは、親が、「じゃあ、また自習を始めようね」と言う必要があります。
そのタイミングを逸して、子供が自習をしない状態がずるずると続いているときに改めて自習を開始する方法として役立つのが、月の切り換わりや学期の切り換わりのときです。例えば、「しばらく自習を休んでいたけど、今度、○月になったらまた始めようね」ということを前月の末のうちに言っておきます。間違っても、当日急に、「今日から自習を始めるよ」などと言ってはいけません。子供が心の準備をしてそれなりに納得した状況を作っておくことが大事です。こういうちょっとした工夫ができれば、何事もスムーズに進みます。
■親がいないとできない自習ではなく
短い時間の自習を毎日するのに最適な方法は、朝ご飯の前に勉強をすることです。しかし、中には、朝食を食べない家庭や、毎日朝ぎりぎりまで起きないという家庭もあります。そういう家では、またその家庭なりの時間帯を確保するようにしてください。
自習を長く続けるためには、親がいないとできないという形にしないことです。例えば、夜一緒にお風呂に入ったときに暗唱するという家庭もありますが、その習慣は、子供がひとりでお風呂に入るようになると途絶えてしまいます。
朝ご飯の前の音読や暗唱でも、親が長文をチェックして聞いているような形では、親がいないとできない自習になってしまいます。親は自分の仕事をしながら(朝ご飯の支度をしたり、新聞を読んだりしながら)、聞くともなしに子供の音読を聞いていて、子供が読み終えたら褒めてあげるという無理のない形がいいのです。
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『大江戸生活事情』(石川英輔著・講談社文庫刊)という本を読みました。
題名の通り、かつての大都市“江戸”に暮らした人々の生活について、解説した一冊。
封建的・閉鎖的で、庶民の生活も貧しく不便……そんな従来のイメージを覆す、文化的で理にかなった“生活事情”の数々が小気味よく語られています。
教育力と、それに基づく教養水準の高さ。犯罪率の低さ。衛生的で効率的な資源活用。女性にも一定の権利が認められていたこと……などなど。
いささか(とくに西欧文化との比較において)当時の日本が高評価されすぎている印象も受けますが、“江戸時代”の認識を改めるきっかけとして、非常に楽しめる内容でした。
そんな本書の中で、私がもっとも納得し、目から鱗が落ちたのが、
「権ある者には禄うすく、禄ある者には権うすく」
という、当時の政治の基本方針。
他のパートに比べると、わりあいさらりと流されている感がある(あくまで本書は“庶民生活”が中心だからでしょう)ところなのですが、正直、もっとも「江戸時代って素晴らしいな」と実感したのがここでした。
あえて噛み砕いて書くならば、
「公的権力を振るう立場の者には、経済力を与えない。」
「豊富な財力を持つ者には、権力を握らせない。」
となるでしょう。
これはもう、どこの国、いつの時代を問うまでもなく「権ある者が禄高く」「禄ある者が権強く」なってしまっては、ろくなことにならないのは自明です。
そういった意味で、実にシンプル、かつ実効性のある考え方だと感じました。
「武士は食わねど高楊枝」という有名な慣用句があります。
今では、いわゆる浪人の「痩せ我慢」「見栄っ張り」を表す言葉ととらえられがちですが、実際に大名クラスの武家であっても、時勢によってはかなりの貧乏暮らしに耐えていたと言います。
『武士の家計簿』なる本、それを原作とした映画もありましたね。
一方、羽振りの良い豪商、素封家の類は当時も多くいたはずですが、彼らが幕府をないがしろにするような権勢や横暴を振るったという話はあまり聞きません。
むしろ、庶民に偉ぶっているような悪徳商人でも、お武家様にはペコペコしている……というようなイメージがあるのではないでしょうか(時代劇の世界ですが)。
では、ひるがえって現代日本のイメージはというと……。
「権」「益」が分かたれることなく、一部に集中しており、そこに生まれた格差が深刻なものとなっている。
多くの方がそのように思われるでしょう。
150年余りの間にどうしてこうなってしまったのか、そのあたりの考え方だけでも江戸時代のままであったなら……と感じずにはいられません。(苦笑)
と、嘆いてばかりいても仕方がないので、過去に学び、未来に生かそうという話を。
言葉の森ホームページより、「無の文化と教育」と題した連載記事の一本を引用致します。
https://www.mori7.com/as/1340.html
本文の内容だけでも、“有の文化”との対比によって“無の文化”の意味するところはなんとなくご理解いただけるかと思います。
ぜひご一読ください。
=======================(引用ここから)
政治体制の分類の仕方のひとつとして、アリストクラシー(貴族主義、血統主義、身分主義)と、メリトクラシー(能力主義)という分け方があります。
アリストクラシーの欠点は、支配が固定化することによって腐敗が生まれ、その結果、社会の中に不合理が蓄積し、やがてそれが抗争に発展するということです。
その点、能力主義は、能力のある者がリーダーとなる点で一見合理的な仕組みのように見えます。しかし、この能力主義は、容易に、能力ある者による血統主義に転化するのです。
ところが、この矛盾を解決するヒントが、日本の政治の仕組みの中にあります。
それは、身分の高い者がその身分に伴う倫理観を持って行動するということです。例えば、乃木希典は、高い地位にありながら常に謙虚な人間性を保ち続けました。明治維新の際、支配者であった武士階級は、自主的に禄を辞退し農民になりました。天皇の最も重要な仕事は、民の幸福を祈ることだと言われています。
有の文化における政治では、支配する者と支配される者があり、力のある者と力のない者がヒエラルキーを形作っています。その両者をつなぐものは、命令と強制と賞罰です。この仕組みが強固であることが理想の政治のひとつの形となっています。
そして、これが、現代の会社、学校、団体のさまざまな組織の原理となっているのです。
これに対して無の文化における政治では、命令や強制などの作為がないこと、自然のうちに調和していること、リーダーがなくても全体がまとまっていることなどが、理想の姿と考えられています。
支配する者も、支配される者もいず、ただみんなが集団全体の意志のようなものを感じ取る感性を持っていて、その集団の意志が求める役割を各人それぞれに果たすというのが理想の政治なのです。
これは、ちょうど、鳥の群れや魚の群れが、誰がリーダーとなって指示するわけでもないのに、集団全体を一つの形として動いていくのと似ています。
こういう集団では、リーダーはエゴを持たないことが第一に求められます。また、リーダー自身も、エゴを持たないことが正しい判断を下す条件であることを暗黙のうちに了解しています。
身分間の移動はありますが、基本的には身分主義が社会の前提になっていて、各人はその身分の中で、自分が集団全体の意志によって求められている役割を果たすために自分を磨くという仕組みの社会になっているのです。
有の文化の政治は、個人のエゴイズムを前提にしているので、多数決、三権分立、二院制など、エゴを抑制する仕組みを追加していかなければ制度を維持することができません。これが、現在の政治の複雑化と混乱の文化的要因です。
これに対して、無の文化の政治は、リーダーとなる人がエゴを抑え、大衆に奉仕する気持ちを持ち続けることによって制度を維持するという一種の王道政治を目指しています。
これをきれいごとと思うかもしれませんが、実は、日本の歴史ではかなりの期間、このような王道政治が行われていました。徳川幕府は300年間続きましたが、これだけの長期間の権力の固定化にもかかわらず、他の国のように、権力者が暴君になるとか腐敗するとかいうことがほとんどありませんでした。
仁徳天皇が、民のかまどから煙の立ち上るのを見て安心したという逸話は、日本の民衆の中に、リーダーのあるべき姿の例として生きています。
このように考えると、日本の政治の根本理念は、権力を持つ者の倫理観ということに集約されるように思います。
=======================(ここまで)
『大江戸生活事情』の記述によれば、江戸時代において庶民は最大限、武士を尊敬していたといいます。
それがどんな貧乏武家であっても、貧しさの中にあってなお高潔たらんとする生き様を「自分たちにはできないこと」として尊重していたと。
そしてもちろん、武士の側も、自分たちにはできない農・工・商の仕事に携わる人々を必要とし、尊重する心を忘れてはいなかったでしょう。
考えてみれば、この士農工商の順番にこそ、まさに「権ある者には禄うすく、禄ある者には権うすく」の理念が現れているようにも思えます。
こうした区別によって、それぞれの職分と責任のありようが明確にされていた……と言えるかもしれません。
「権ある者、禄ある者」がエゴを見せた時、「そうでない者」が厳しく糾弾し、是正を求めるというのが、有の文化の在り方であり、その文化に生きる者の当然の義務にして権利、ということになるでしょう。
日本人が西欧式の生活スタイルや考え方に適応してすでに久しく、今さら江戸時代の“無の文化”にまで回帰しようというのは、無理のある話ではあると思います。
しかし、エゴをぶつけ合うことよりも、上の者から下の者までおのおのが自らを律し、尊重し合い、自立していく生き方のほうが、我々日本人の「性に合っている」のでは……という気がしてなりません。
(いとう)
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■小学校の早めの時期から作文の勉強を勉強する意義
小学校1、2年は、勉強の基本的な習慣が作られる大切な時期です。この時期に作文を書くというのは、まだ文字を書くのもおぼつかない子も多い時期なので、早すぎると思う方がいるかもしれませんがそうではありません。
小学校の1、2年生で始めた習い事は、形は変わっても一生続く勉強となるものが多いのです。実際に、中学生や高校生で作文を書いている生徒の多くは、小学生の早い時期に作文の勉強を始めています。
作文がある程度楽に書けるようになってから始めた勉強では、スランプが来たり生活が忙しくなったりすると、すぎにやめてしまいたくなることが多いのですが、低学年のころから始めた勉強は、苦しい時期があっても続けることができるのです。
そして、結局長く続けた勉強は、必ずその子の実力として残ります。だから、言葉の森の作文のように長期間続けられる勉強は、小学校の早い時期に始める必要があるのです。
しかし、これは他の作文の通信講座などにはあてはまりません。他の作文通信講座や作文教室では、小学生のころから始めても、小学生で終わってしまうものがほとんどです。作文の勉強の本当の目的は、小学生のときに上手な作文を書くことではありません。小学校時代の作文の勉強は、中学生、更には高校生になって立派な論説文を書けるようになるための準備なのです。
■入試は数学、実生活は国語
今の入試は、中学入試でも高校入試でも大学入試でも、算数・数学の出来不出来が大きく合否を左右します。それは、算数・数学というものが、できる子とできない子の点数の差が大きい教科だからです。
これに対して、国語の成績は、できる子とできない子の差がそれほど大きくはありません。どんなにできない子でも、国語が0点ということはありません。また逆に、どんなにできる子でも、国語が100点ということはめったにありません。
算数・数学や英語は、0点も可能ですし、100点も可能です。それは、算数・数学や英語は、勉強しないとできるようにはならない教科だからです。
国語は、勉強する教科というよりも、国語的な生活文化の中で実力が自然に育つ教科です。ところが、学校時代は数学又は英語の成績が合否を左右します。社会に出ると、数学や英語の出来はもうあまり関係がありません。社会で活躍している人の中には、数学や英語が得意でない人もいます。しかし、そういう人たちに共通しているのは、国語力があるということです。それは、国語の成績として表れるものとは多少違いますが、その能力は、難しい本を読む力、複雑な話を理解する力、自分の考えをわかりやすく述べる力などで、要するに、本当の意味での国語力なのです。
このような国語力は、頭のよさと同じです。数学や英語の成績は、頭のよさではなく、勉強の正しい方法論×かけた時間です。数学や英語の成績をよくするのはもちろん必要ですが、それよりも大事なのは、将来社会に出てから学力の中心になる真の国語力なのです。
■いつでも褒めて明るい勉強を
家庭での勉強の仕方で大事なことは、必ず褒めて、明るい雰囲気で勉強をすることです。叱ったり注意したりして、暗くて真面目な雰囲気勉強をさせると、子供の能力は低下します。人間に限らず生き物は、いい記憶は長く保持し、悪い記憶は早く忘れようとします。そして、忘れられないほど悪い記憶には、近づかないようになります。大学生になったり社会人になったりしてから勉強をしなくなるのは、小学校時代に悪い思い出として勉強をさせられた子供たちです。
大人が今すぐ注意したくなる子供の勉強上の欠点は、そのほとんどが放っておけば自然に治るものです。例えば、音読が下手だとか、声が小さいとか、作文で同じ字を間違えるとか、字が雑だとかいう場合です。
こういうことを親がそのつど注意すると、親は子供に注意することが持って生まれた性格のようになってきます。こういう注意する性格になってしまうと、子供が小4のころまでは仕方なく親の言うことを聞きますが、小5から子供に自立心が出てくると、逆に親の言うことは一切聞かないようになります。
それと同時に問題なのは、注意が言葉の上だけになり、実行するまで徹底させられないことが多くなることです。例えば、「もっと大きい声で読みなさい」などと注意した場合、すぐに素直にそのように読める子はいません。また、「字をきれいに書きなさい」と言った場合、すぐにきれいに書くくようになるという子もまずいません。すると、毎回のように同じような注意をし、同じように守れないという状態が続き、やがて子供は、親のいうことは聞かなくてもいいものだと自分なりに学習していきます。だから、やらせるあてのないことは、言わないということも大事です。そのかわり、いったんやると決めたことは、例外なく実行するようにしなければなりません。こういう区別によって、いつも褒めて明るい勉強というものができるようになるのです。
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子供たちの勉強の様子を見ていると、作文力、読解力、勉強力の進歩に四つのパターンがあるようです。ここで言う勉強とは、英数国理社の通常の勉強で特に英数の勉強のことです。
第一は、勉強と読書をしている子です。こういう子は、今は作文は苦手でも、勉強を開始すれば次第に作文力もついてきます。
第二は、勉強だけをしている子です。こういう子は、今は成績がよくても次第に実力が伸び悩み、読解力も作文力もなかなかつきません。
第三は、作文だけを書いている子です。こういう子は、作文は得意になりますが、勉強の面で弱点が残ります。
第四は、作文と読書をしている子です。こういう子は、作文力も読解力もあるので、勉強を始めると、作文、読解、勉強のすべてができるようになります。
もちろん、している、していないと言っても、それは程度問題ですから、はっきりと四つのパターンに分かれるわけではありません。しかし、大きく考えると、小さいころの優先順位は読書が第一で、学年が上がるにつれて勉強と読書を並行して行うようにし、その一方で作文は小さいころから一定の時間をかけて取り組むというようにしていくのがいいのではないかと思います。
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受験勉強には、プラスの面とマイナスの面とがあります。中学3年生以上で、子供が自分の意思で自覚して取り組むときの受験勉強は、その子自身を大きく成長させます。自覚して取り組んだときの勉強の密度はかなり高いので、それまでの数年間の遅れなどすぐに取り戻せるということがよくあります。
だから、子供たちの勉強で大事なことは、早めに受験勉強に取り組ませることではなく、普段から自覚的、自主的に物事に取り組むようにしておく習慣作りと、その学年に応じた基礎学力作りです。
受験勉強のマイナス面は、引きずられて受験に取り組む場合に出てきます。本人にまだ自覚が十分でないときに、受験という競争状態に入ると、意欲を持たせるために、賞罰や競争の勝ち負けという刺激に頼る場面が出てきます。これもほどほどであれば問題はないのですが、あまり頻繁に刺激で意欲を持たせようとすると、刺激がなければ勉強しないという子になってしまうのです。
こういう受験勉強の弊害は一般にはあまり明らかになりませんが、それでも次第にそういう心配をするお父さんやお母さんが増えてきたように思います。
いちばんいいのは、普段から確実な基礎学力を育てておき、子供が自分の意思で受験勉強に取り組むようになったときの土台を確実に作っておくことです。そして、この普段からの確実な基礎学力をつけるのは、やはり家庭学習がいちばんふさわしいのです。
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「どうして勉強しないといけないの?」
子どもにこんな質問を投げかけられたとき、みなさんはどう答えますか? 答えに戸惑った経験のある方はいらっしゃいませんか? 実は、私もさっぱりわからなくなることがあります。
先日、教室に置いてあった雑誌に、ちょうどこの質問に触れた記事が掲載されていました。『子どもへのまなざし』で有名な佐々木正美先生の書かれたものです。
佐々木先生は、どうして勉強するかと聞かれたら、
「あなたの友だちや周りの人たち、自分にとって大切な人を幸せにするためだよ」
と答えるそうです。そして、子どもは、親の愛情を無条件で受け取ることができれば、自然と誰かを幸せにしたいという気持ちになる、とも。このサイクルができていれば、子どもは意欲的に学習に取り組むようになるし、恐れることなく自分の道を歩いていくことができるというお話でした。
親は単純に子どもがかわいいものです。だから、このサイクルは自然にできあがるような気もします。しかし、佐々木先生は、現場での長年の経験から、現代ではそう簡単にはいかないと指摘しています。
それはなぜでしょう。どうも、親の自己愛の強さがその一因のようです。自己愛が強まると、子どもに対しての願望や要求が強くなり、その結果、子どもがそのハードルを越えられないと、責めたり拒絶したり。すると、子どもの側もおどおどしてしまい、本来の自分を親にさらけ出すことができなくなってしまいます。
(自分のために)成績がよい子であってほしい。(自分のために)運動もできる子であってほしい。(自分のために)人前に出して恥ずかしくないルックスの子であってほしい。ここまで露骨な願望はそうないと思いますが、このような子どもに育てることができたら、「子育てに成功したよき母」というセルフイメージを確立することができ、自己愛も満たされることでしょう。しかし、自己愛から生まれるゆがんだ愛情は、ある程度の年齢まではよい子を育てることができるかもしれませんが、結果として子どもの意志を奪ってしまうのではないかと思います。
子どものためと思ってしていることは、本当に子どものためか。自己愛からのものではないか。一度、立ち止まって吟味してみるのもよいかもしれません。自己愛を手放すことができたとき、その親子ならではの「どうして勉強しないといけないの?」に対する答えが見えてくるのではないかと思います。
(菅野)
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今年の夏は、読書感想文の宿題についての相談がかなりありました。
なぜ学校でそういう宿題を出すのかというと、普段の授業で読書感想文の書き方についての指導をしていないからです。もし、普段の授業で感想文の書き方を教えていて、その練習を家庭でも行えるようにするということで宿題を出しているのであれば問題はないのですが、ほとんの場合はそうではないと思います。学校で感想文の書き方を教えていないから、家庭での宿題として出しているのです。
ここで問題になるのは、そういう宿題を出された小学校低学年の家庭です。子供はどう書いていいのかわかりません。親もどう教えていいのかわかりません。しかし、宿題として出されているぐらいだから、ほかの家庭では子供が自分でその感想文の宿題をやっているのだろうと思ってしまうのです。ところが、小学校の低学年で、自力で上手な読書感想文を書ける子などはひとりもいません。
これと似ているのが、小学校高学年あるいは中学生での、難しいテーマで書く作文の宿題です。毎年よくあるのが「人権」「平和」「環境」などについての作文です。これも、普段、学校の授業でそういう勉強をしたり、そのことについての作文を書いたりしている延長で、家庭でも宿題として取り組もうということならいいのですが、実際は、学校で教えていないから家庭での宿題として出しているのだと思います。
学校は、勉強を教えるところであって、点数をつけるところではありません。宿題を出す前に、授業の中できちんと指導することに取り組んでほしいと思います。
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教室の子供たちの中に、一度の注意ですぐに言うことを聞ける子と、何度目かの注意でやっと言うことを聞くタイプの子とがいます。最終的にはみんな言うことを聞くのでいいのですが、この両者のタイプの違いはどこにあるかというと、家庭での親の注意の仕方にあると思います。
一般に女の子は、優しいひとことですぐに言うことを聞きますが、男の子は注意されていても知っていて言うことを聞かないという傾向があります。これは、たぶん生物の生存上、その方が有利だったからです。
ところが、注意するのは主にお母さんですから、男の子に注意する場合、女の子に注意するのと同じように口で言うだけで済ませてしまうことが多いのです。
例えば、「○○を片づけておきなさい」「はい」と言っても、男の子はすぐには片づけようとせずにそのまま忘れてしまうことがあります。口で注意したのに実行しなかったという状態が何度か続くと、子供は、「言われたことは一度で言うことを聞かない方が楽だ」という能率のよさを学習してしまいます。最初に学習したことは強固ですから、その後、いくら厳しくしても、一度で注意を聞けない子になってしまうのです。
男の子に注意する場合、口で言ったことは必ずその場で実行させるというところまで持っていくというようにするといいと思います。
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