国語力 忘れたころに やってくる
どこかで聞いたフレーズだなあ。あ、寺田寅彦だ(笑)。
国語の勉強は、他の教科の勉強と少し違います。
普通の勉強の場合は、わからないところがあれば、その問題をブレークダウンしてわからないところまでさかのぼり、理解し直せばわかるようになってきます。
すぐには理解できなくても、少なくとも、そういう見通しが成り立ちます。
それと同じ発想で、国語の勉強もやってしまうことが多いのです。
国語の文章の読解は、全体を段落に分け、文に分け、単語に分けて理解しても、それで全体の理解につながるわけではありません。
なぜかというと、国語の文章は、個々の段落や文や単語の辞書的な意味を超えて、読み手の体験や読書の経験と結びついて理解されているからです。
もちろん、子供がわからない文を、大人がいろいろな例を挙げて説明すると理解は深まります。
しかし、それは辞書的な理解ではなく、その話によって子供がその文を経験することによる理解なのです。
だから、国語の勉強の基本は、そのわからない文章を読み慣れることです。
そして、読み慣れるためには、読むことを気長に褒めつづけ励ましつづけることです。
それで、国語力は、忘れたころにやってくる(ついてくる)のです。
とは言っても、その忘れたころはそんなに遠い先の話ではありません。
特に、最初のうちは見る見る上達することもあります。
しかし、それでも、やったからすぐにできるようになるとは考えないことです。
特に、読む勉強は、解く勉強に比べて手ごたえがないように感じられがちです。
気長に読みつづけることが大事なのです。
今日は、まだうっすらと曇り空。
穏やかな秋の一日、文化の日です。
どこかに出かける人も多いことでしょう。
そこで一句。
天候は 忘れたころに 晴れてくる(といいなあ)
それでは、今日もいい一日をお過ごしください。
(中根)
創造とは、Aを知り、Bを知り、A→A’の変化を知ることで、それをBにあてはめたとき得られるB’を発見、発明することです。
これが、無の文化における創造です。
だから、出発点として大事なことは、AとBについて習熟し共感することです。
AとBが自分の手足のように自由に扱えるものになっているからこそ、Aの変化をBにあてはめることができます。
断片的な知識をただ記憶してテストで再現できればいいというのではなく、その知識を全体の文脈の中でとらえそれを反復して自分のものにする学習が必要になるのです。
それは技能についても言えます。
日本において、技能の習熟の基本は、素振りに見られるような基本動作の反復でした。
ひとつの動作又はひとつの道具が自分の身体と一体となることによって、その技能を他の技能にあてはめる創造ができるようになったのです。
有の文化における創造は、これとは異なります。
そこにあるのは、AとBとの対立です。
矛(ほこ)が、盾(たて)を打ち破ろうとするので、盾は矛に打ち破られまいとします。
AとBが相互に対立する中で、AはBの弱点を見つけ、BはAの弱点を見つけます。
これが有の文化における発見と創造です。
ヨーロッパ文明にあっては、競争は進歩と不可分でした。
オリンピックは平和の祭典というよりも、武器による戦争をスポーツによる競争に置き換えたものでした。
しかし、日本の文明にあっては、進歩は競争よりもむしろ共感と不可分の関係にあったのです。
これからの教育に求められる最も大きな課題は、創造性を育てる教育をどのようにして行っていくかということです。
その前提にあるのが、自分を取りまく世界や他人に対する共感です。
その共感のひとつの土台が日本語なのです。
丸い大きな月が西に沈むころ、東の空が明るくなってきます。
地球をはさんで、ちょうど太陽と月が一列に並ぶのが満月。
月の大きさの400倍もある太陽が、地球から月までの距離の約400倍遠くにあるので、太陽と月が同じ大きさに見えます。(できすぎ(笑))
それでは、今日は月見で一杯。(というには、まだ一日が始まったばかりですが)
いい一日をお過ごしください。
(中根)