幼児からの英会話教室を開いている方が、こんなことを言っていました。
「英語のスピーチコンテストをするために、最初に日本語で作文を書いてもらうのだけど、その日本語の作文が書けていない子が多くて・・・・・・」
英語は国際的な共通語として必要です。しかし、子供が最初に学ぶのは日本語です。
両方できればいいというのは当然ですが、言語習得の初期の時期には、二つの言語がぶつかり合うことがあります。
カナダなど英語とフランス語が両方使われている国では、そういう研究は行われているようですが、それでもまだはっきりしたことはわかっていません。
日本では、更にそういう研究は遅れています。しかも、日本語と英語は、フランス語と英語よりもはるかに共存しにくい言語です。
幼児期から英語を習わせたいという親の気持ちはわかります。
しかし、幼児期に英語のCDなどを聞かせられすぎた子が、成長して日本語をうまく操れなくなるという現象も起きています。
遊びとしてやる程度であればいい経験になりますが、勉強としてやらせすぎると弊害も生まれてきます。
英語の勉強を安心して始められる時期は、日本語脳が確定する小4からではないかと思います。
知人に、英語を教えている人も多いので、こういうことは書きにくいのですが、日本の子供たちのためにあえて書くことにしました。
何事も、やるのはいいけど、やりすぎないことです。
====
この記事のあと、いろいろコメントをいただきました。
そのコメントに体する返信から。
幼児期の言語習得についての研究は、日本ではほとんど行われていないのではないかと思います。
その点で、この角田氏の研究はユニークです。
言語学者という文系の人が、もっと理科的なアプローチで考えていくといいと思うのですが。
「日本人の脳―脳の働きと東西の文化」角田 忠信
http://www.amazon.co.jp/dp/4469210684
英語のCDは、活用できると思います。
しかし、機械は手加減を知らないからやらせすぎてしまうことがあります。
よく「英語をシャワーのように」という言葉がありますが、小3まではシャワーではなく水遊び程度にしていく方がいいと思います。
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言葉の森では今、家庭学習を中心にした全教科の学習を進める計画を立てています。「作文プラス家庭学習」という形で、子供たちの本当の学力を育てていく予定です。
まず最初に、なぜ作文の勉強が大事かということについて説明します。
これから日本の社会で必要になる学力は、創造性のある学力です。また、創造性を発揮する土台として、読解力と思考力が大切になってきます。この創造力を伸ばす勉強には、作文の勉強が最も相性がいいと思われます。なぜかというと、作文には、構成、題材、表現、主題それぞれの項目に創造力を伸ばす仕組みがあるからです。
(詳しくは、 「創造性を育てる作文1」
https://www.mori7.com/as/1542.html )
また、現実的なことを言えば、今後日本では少子化で入試問題が大きく変化していくことが予想されます。少なくとも、現在のような覚えた知識をただ再現するだけの試験、又は解法を記憶してそれをあてはめるような試験は次第に減っていきます。
日本の大学では、まだこの記憶力を中心とした試験の形態が残っていますが、勉強はこれからグローバル時代に入ります。特に、大学教育においては、インターネットを利用して、自宅にいながらにして世界中の学びたい教科を学習できる条件が広がっています。このような中で、日本の大学も入学試験の形を大きく変化させていかざるを得ません。そうでなければ、日本の大学は世界と同じ基準で生き残ることができなくなるからです。
これまでの入試で必要とされていた学力は、創造する学力ではなく、多数の資料をまとめて整理するというどちらかと言えば機械的な学力でした。それがこれから大きく変わっていくのです。
ですから、作文の勉強は、当面の入試のために必要な人ももちろんいますが、入試に必要ないという場合でも、これからますますその能力が要求されるようになり、やがて創造力を伸ばすという教育の本来の目的から見て、学力の中心となっていくと思われます。
そういう作文の学習が、小学校高学年以上になると、学校でほとんど行われていないのは、作文を教える必要がないからではなく、教えることが難しくまたそれ以上に評価することが難しいという理由によるものです。
言葉の森では、このような考えから作文指導に特化した教育を行ってきました。そして、独学では勉強を進めにくい作文の指導に力を入れるとともに、その反対に、独学でも勉強できる教科の学習は本人に任せていました。
小中高の英数国理社などの教科は、教科書と参考書さえあれば、基本的に誰でも自分ひとりで学べるものです。まして今日のように多くの優れた参考書や問題集がある環境では、独学は更に容易になっています。
ところが、教材や教育機会が多様になるにつれて、かえって独学という形の学習がしにくい状況が生まれてきました。ひとことで言えば、教材が多様すぎて、どう取捨選択したらいいのかわからないという状態が生まれてきたのです。
そのため、子供たちの教育は、かつてのように学校で基本を教えてもらえば、あとは家庭で簡単な宿題をやって学力がつくという牧歌的なものではなくなり、小学校低学年からさまざまな教材や塾を掛け持ちするようなものになってきました。その結果、勉強が多忙になる一方、そのわりには本当の学力がつかず、むしろ長時間の勉強によって勉強の本来の面白さを感じられない子供たちが増えているという状況が生まれてきたのです。
そこで、言葉の森では、作文の学習を中心とした指導をする一方、音読、暗唱、対話のような家庭学習を更に発展させる形で、本来独学で学んだ方が能率のよい英語、数学、国語などの学習もカバーする計画を立てるようにしたのです。 (つづく)
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形に残らないものの方が、本当は心の中に残ります。
きれいな景色を見て写真を撮ると、写真という形が残るので、かえって感動は薄れてしまうことがあります。
国語の勉強も、それに似ています。
国語の勉強は、光や風や水のように形に残らないところがいいのです。
国語力の本質は、文章を読んで理解する力です。
その文章が日常的、事実的な易しいものから、次第に社会的、抽象的、説明的、意見的な難しいものになっていきます。
更に、日本の国語の場合は、そこに微妙な心情の変化を読み取ることなども加わります。
だから、いちばんいい勉強法は、そういう文章を読み慣れることです。
小学校高学年になって塾の模試を受けると、国語の得意だったはずの子がひどい点数を取ってくることがあります。
その原因の多くは、難しい文章を読み慣れていないことから来ています。
国語の問題を解いたり、文章を要約したりという練習は、書くことに時間をかけるわりに読むことにかける時間はあまり多くありません。
読むことに専念した方がずっと密度の濃い勉強になります。
ところが読むだけの勉強は形に残らないので、学校や塾では取り組みにくいところがあります。
国語の授業なのに、ただ文章を読むだけで終わり、というのでは格好がつかないからです。
だから、国語の勉強は家庭での学習に向いています。
形の残らないものは、家庭で毎日の習慣のようにやっていくのがいいのです。
雲の間にぽっかり青い空がのぞいています。
朝晩は、もう冬の始まりのようです。
寒さに負けず、今日もいい一日をお過ごしください。
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EU諸国、アメリカ、中国、日本のどこが先に経済破綻しても、またそれがいつそうなってもおかしくないのが今の世界です。
銀行や国家の経済破綻を先延ばしするために、これまで印刷されたマネーが際限ないほどに投入されてきた結果、破綻はかつてないほど大きなものになることが予想されています。
しかし、人間は予期できない危機には弱いものの、予期できる危機については英知を結集して切り抜けてきた歴史があります。今回の危機も、もしかすると、全く新しい方法でうまく切り抜けられるかもしれません。
しかし、私たちが今すべきことは、あてのない偶然に期待することではなく、最悪の事態が起こった場合を想定して、可能な対策を考えておくことです。
破綻は、どこか一か所でほころびた場合、一挙にグローバル化された世界に広がります。日本以外で破綻が起きた場合でも、その影響は当然日本にも及びます。金融機関の帳簿上債権となっていたものが、一瞬のうちに何もなかったことになるという事態があちこちで生まれるでしょう。
そして、金融機関の破綻は、リアルな世界にも広がります。それは、さまざまな分野にさまざまな形で現れますが、その大きな方向は予測することができます。それは、社会にとって不要なものが役目を終え、必要なものがより強く求められるようになるということです。
人間にとって最も必要なものは生存ですから、食と住の確保は最も強く求められるものです。住は条件を問わなければ日本では余っています。食は自給率は40%であるとすれば、40%までは確保できるということです。もちろんこの40%を均等に保障するには政治の力が必要です。
食と住に次いで必要なもののひとつが教育です。子供たちは、自然に成長していきますが、学力は自然には成長していきません。学力の向上を保障するものは教育です。だから、教育を経済危機に対応できるものに作り変えていく必要があります。
今の教育は、校舎と教科書と先生によって担われています。しかし、その裏づけとなっているものは、公立学校の場合は税金であり、私立学校の場合は保護者の授業料と補助金という形の税金です。経済危機はお金が動かなくなることですから、校舎と教科書は残っても、肝心の教える先生を動かすお金がなくなっているのです。
そこで動き出すのが家庭と地域です。言葉の森は、この家庭と地域における教育を組み立てていく手順を考えています。
言葉の森の生徒の家庭が受講料を払えなくなったとします。すると、言葉の森はその家庭に対して毎月受講料を上回る地域通貨を発行します。
その地域通貨の名称をとりあえず円ではなく球とします。わかりやすく1円=1球の価値です。球はキューともQとも書きます。(以下Q)
地域通貨の発行の仕方は手帳です。手帳に、入、出、残の三つの行を設け、毎月、生徒の手帳の入の欄に、例えば10000Qと書いてサインをします。そして、言葉の森の手帳には出の欄に10000Qと書いておきます。
言葉の森の受講料が8200円だとすると、保護者は現金で8200円を支払ってもいいし、手帳に書かれたQから支払ってもいいのです。
保護者が手帳のQから支払う場合、その手帳の出の欄に8200Qと書き、受け取った言葉の森は、言葉の森の手帳の入の欄に8200Qと書きます。この場合、最初の10000Q入っている生徒の手帳の残は1800Qとなります。
そこで、今度は、この1800Q以内で教育サービスを提供してくれそうな人を探すのです。地域には、子供たちに勉強やスポーツや音楽や遊びを提供できる人がいます。その人に、例えば、10人の生徒が音楽の指導を頼む場合、生徒10人の手帳の出にそれぞれ500Qなどと書き、その音楽の指導者にも手帳を作り、その手帳の入に5000Qと書きます。このようにして、地域の中で本当に必要なものを中心に、新しいお金が回っていくのです。
いろいろな人がQというお金の手帳を持つようになったあと、近所の公園で市(いち)を開きます。それぞれが自分の提供できるものに、Qという値段をつけて持ち寄ります。それらの持ち物はQでなければ買えないので、まだQを持っていない人は、円を出してQを買います。
そのようにして集まった円のお金は、まだQが通用しない外部の世界から物財を購入することに使われます。
やがて、手帳では面倒だからと、サーバーにデーターベースを設け、そこに携帯などでアクセスしてユーザー名とパスワードでQをやりとりする仕組みもできてくるでしょう。そうなると、Qは容易に他のさまざまな地域通貨との互換性を持つようになります。Qと他の地域通貨をある比率で換算すればいいだけだからです。
では、最初に生徒にQを発行した言葉の森は、そのQの裏づけとして何を持っていたのでしょうか。それは、金のような実物資産でも、円の貨幣資産でもありません。言葉の森の生徒に教育を提供するという動的なサービスが資産になっていたのです。
このように考えれば、実物資産も金融資産も持たないが動的なサービスなら提供できるという人は多いはずです。その動的なサービスが生成されるのは、そこに動的なニーズがあるからです。言葉の森のサービスは、南極やアフリカでは何のサービスにもなりません。金やダイヤモンドはどこに持っていっても金やダイヤモンドですが、サービスはそのサービスを喜ぶ人のいるところでしかサービスとはならないからです。
しかし、実はここに日本の将来の富の源泉があります。日本人は、衣食住さえ満たされればあとは何のニーズもなくただ満足して寝て暮らすだけの文化の中には生きていません。よりよい生活を求めるニーズが次々にわいてくるのが、日本の文化の特徴です。そこでニーズという形で無から富が生まれてくるのです。
これが今後起こりうる経済危機への根本的な対処法です。言葉の森に通う生徒は、どれほど大規模な経済危機が来ようと、今と同じ形の勉強を続けられます。しかし、通信のクラスの場合は電話料や郵送料のさまざまなコストがかかります。通学のクラスであれば、コストは限りなくゼロに近づけられます。その通学のクラスの教室を担うのが森林プロジェクトになるのです。
しかし、こういう事態が起こらないようにするのが大事であることは言うまでもありません。日本にも世界にも、まだ無限の開発の余地があります。その開発の中には、自然と共存するための開発も含まれます。
アメリカがシェールガスの開発に着手し始めたように、日本もこれからメタンハイドレートばかりでなく、海洋に眠るレアアース、海洋そのものを利用する浮島開発など、さまざまな開発ビジョンを持っています。しかし、大事なことは、その国家的なビジョンと並行して、民衆が自分のできる範囲で新たなニーズと新たな供給を作り出していくことなのです。
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作文の通信講座の教材を見て感じたことを書いています。
取り上げたのは、
ベネッセ、
Z会、
ブンブンどりむ、
ドラゼミ、
学研、
白藍塾、その他です。
通信講座全体に関する話の続きです。
第四は、作文の通信指導の特徴が赤ペン添削ということになっているために、赤ペンがびっしり書いてあることを売りにしているところが多いことです。
しかし、その赤ペンの多くは、あまり意味がありません。勉強は理屈で説明して理解して完成というようなものではなく、その理解を何度も繰り返し定着させることが大事ですから、赤ペン添削を読むだけでは、そういう定着作業はまずできません。
通信指導=赤ペン添削というのは、多分に惰性で行われている面があります。赤ペンでは作文の実力はつかないと思います。
第五は、記述問題や作文問題を提出したあとに、赤ペン添削と一緒に優秀作品や模範解答例が送られてくることです。
教科の学習のように答えがひとつに決まるものであれば、模範解答も意味がありますが、記述や作文の模範解答はあまり意味がありません。
特に作文の模範解答例は、何かのプラスになるよりも、親がその解答例と比較して子供を煽る原因になり、子供が自信をなくすという結果しか生みません。小学生の場合は特にそういマイナスの方が大きいのです。
第六は、通信教育の多くが、肝心の実力をつける勉強に集中して取り組むような形でなく、さまざまなおまけの勉強を伴っていることです。
例えば、小学生の勉強で最も大事なのは、国語と算数ですが、大手になるほど理科や社会も含めて満遍なく多くの教科を用意するようになります。理科や社会は、学校で教科書を読んでいれば済むものですから、家庭でわざわざ時間をとってやるほどのことはありません。
しかし、そういう教材が全体の流れの中に用意されていると、親も子もついすべてをやってしまいたくなります。その結果、肝心の国語と算数の力をつける時間が少なくなるのです。
第七は、言葉の森以外の作文指導の多くが、明確な事前指導を持っていないことです。
作文の構成メモを作るようなスモールステップ方式の導入学習はありますが、よく書ける子にとって、そういう導入学習はかえってわずらわしいものです。また、よく書けない子にとっては、導入部分が易しくてすぐにできても、そこから作文を書くまでには大きなギャップがあります。
また、こういうスモールステップ式の学習をしている子は、作文というのはまるで教材でお膳立てしてもらわないと書けないような特殊な勉強だと勘違いしてしまうと思います。
作文は、教材の助けがなくても、自分で書けるようになることが大切なのです。
第八は、これは明確な事前指導がないことにも関連しますが、書けない子をどうするかという指導がないことです。
作文が苦手な子の保護者は、書き出させることにまず困っています。書き終えたあとの赤ペンがいくらていねいであっても、その前にまず書くこと自体につまずいている子が多いのです。逆によく書ける子の場合は、書けたからといってどうということはないという評価になりがちです。
通信教材の多くは、四コマ漫画を使ったり、物語の続きを書かせたりと、子供が面白さを感じて取り組めるような課題を準備しています。しかし、面白そうだと思って書いてはみたものの、書く前の事前指導がないので、書いたあとの評価も、主観的にただ褒めるだけか、表記の間違いを注意するかだけになってしまいます。つまり、指導と評価を結びつける明確な基準がないのです。
第九は、作文指導に関しては、通信教育のほとんどが小1から小6までで終わっていることです。
作文の学習が本当に勉強らしくなるのは、小学校5、6年生の説明文のあと、中学生の意見文に入ってからです。ところが、どの作文通信講座も、小6の公立中高一貫校の作文試験を終点としています。だから、本当の実力がつかないのです。
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中学受験対対策に役立つというので、以前、娘が1年間、学研の作文指導を受けました。教材の内容は古臭く、どう見ても私立中学受験や効率中高一貫校受検に対応しているとは思えませんでした。都内の進学塾に通わせるようになり、そちらで一貫校向けの作文講座があったので、そちらに切り替えました。講師の先生がよく添削していただいたので有難かったです。学研は主人の仕事上の付き合いのある方からの紹介でしたが、子供にとっては得るものがありませんでした。添削の仕方にも疑問を感じました。
ローバーミミさん、ありがとうございます。
学研の教室は、たぶん目指しているところが違うのだと思います。
言葉の森では、今度、公立中高一貫校講座というオプション講座も始める予定です。
これは作文以外の教科の勉強にも対応しますが、一斉指導ではないので、家庭での親子の対話というフォローが必要になると思います。
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作文や国語の勉強の中心に、通信教育を行っているいろいろな団体の教材を比較してみました。
取り上げたのは、進研ゼミ、Z会、ブンブンどりむ、学研、ドラゼミ、その他です。言葉の森の教材と比較して考えてみました。
それぞれの通信講座のよいところは、その団体がしっかり宣伝しているので、ここでは問題点を中心に挙げてみます。
まず第一に、通信教育は、通学教育ではできないことをするものですが、そのためには通信を活用した双方向性がなければなりません。しかし、ほとんどすべての通信教育は、ただ教材が定期的に送られてくるだけで、課題の提出とその添削講評というやりとりがかなり少ないのです。1、2か月に1回提出するという勉強では、個別指導や担任制とは言っていても、担任という実質的な意味はありません。
教材が送られてくるだけで、通信的なやりとりの少ないことが現在の通信教育のいちばんの問題です。(言葉の森は週1回の提出で、提出率は91.6%です)
第二は、毎月送られてくる教材の多くが、市販の問題集を薄い分冊にしたようなものだということです。これなら保護者が書店で問題集を自分で選んで使った方が、子供の実態に合わせた勉強ができます。
市販の問題集にも、いろいろな長所や短所がありますが、保護者が自分の目で見て取捨選択できるというところと、通信の教材よりもはるかに割安だというところが優れています。
第三は、教材が毎月送られてくるという性格上、1冊が薄いものになり、薄い教材が何種類もたまる結果になりがちだということです。
薄い教材が多くなると、保管して何度も繰り返すという勉強がしにくくなります。
通信教材は、子供が自分でできるように導入部分は易しく面白く工夫されていますが、そういう易しい問題は、いくらやっても力がつきません。
本当に力がつくのは、すぐにはできなかった問題ですが、1回目にできなかった問題というのは、普通は3、4回繰り返して初めて身につきます。ところが、保管しにくい薄い教材では、繰り返すといってもせいぜい1、2回です。
だから、本当は教材は1年間通して使えるような1冊のものがいちばんいいのです。1冊にまとめた方がいいものを何冊にも分けてあるというのが、今の通信教材の問題点です。(つづく)
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こういうことを言う人がいます。
「作文じゃなくて、小論文だよ」
どちらでも大して変わりません(笑)。
だから、言葉の森では、小学生から高校生まで全部まとめて作文と言っています。
例えば、「私の友達」という課題。
これを作文風に書くとすれば、友達との出来事を中心に書き、最後に自分なりの感想でまとめます。
小論文風に書くとすれば、「友達とは人間にとってどういうものか」という主題を先に考え、その主題に合う実例を書いていきます。
一見大きな違いがあるように見えますが、作文と小論文の間には曖昧なグレーゾーンが幅広くあるのです。
大事なことは、「作文じゃなく小論文だ」というような定義のはっきりしない言葉で、子供がせっかく書いた作文をけなさないことです。
作文には、書いた子供の思い入れがあります。
だから、どんな場合にも、いいところを見つけてあげることが大事で、直すときも子供にはっきりわかる言葉で説明する必要があります。
おおまかに、「これでは○○じゃないか」というような批評にもならない批評はするべきではないのです。
世の中の作文が苦手という子供のほとんどは、周囲の大人が作っていると思います。
(中根)
どのリンゴにもそれぞれのよさ。
それでは、今日もリンゴのような一日をお過ごしください。
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人間は、もともと自分の力でやることが好きです。
人に聞くのは、やり方がわからないか、自分でやることに自信がないからです。
そういうときは、全部自分でやらせるのでも、全部他人がやってあげるのでもなく、途中までやり方の見本を見せてあげることです。
作文を書くときに、「次、どう書いたらいいの」と、すぐ聞く子がいます。
お母さんが教えると、そのとおりに書き、「次、どう書くの」。
少し書いては、次に書くことを聞くという場合はどうしたらいいのでしょうか。
第一は、文章を書くためには、文章を読むことに慣れておく必要があります。読む力をつけるために、これから気長に毎日本を読む習慣をつけることです。
第二は、何を書いても、書き方が違っていても、とりあえずはすべて褒めて認めてあげることです。そして、自分の力でやることに自信をつけることです。
第三は、お母さんが書くことをどんどん教えてあげて、そのとおりに書いてもいいのだと考えを切り替えてしまうことです。
第四は、作文を書き出す前に、子供とお母さんで楽しくお喋りをしながら、作文に書くことを白紙1枚に散らし書き風にメモすることです。(これを構成図と呼んでいます。時間は10分程度)
この構成図を書く方法を何度かやると、子供は書き方のコツがわかるようになり、やがてすぐに自分の力で書くようになります。
「メイカーズ」という本を読みました。著者のクリス・アンダーソンは、「ロングテール」や「フリー」を書いた人です。
http://www.amazon.co.jp/dp/4140815760
書かれている内容は、消費のロングテールを越えて、これからは生産のロングテールに、人々の志向が移りつつあるということです。
人間は、自分だけのものを消費するのでは飽き足らず、自分だけのものを作りたくなるのです。
これまで自分で作るということに関心が向かなかったのは、そのための素材や道具を手に入れることが難しく、作ったものを広める方法がなかったからです。
そういう時代の制約がなくなりつつある今、大事なことは、自分で作るということに自信を持つ子供たちを育てていくことです。
それが作文の勉強のひとつの意義でもあるのです。
今日は、昨日とは打って変わって青空が広がりました。
ふと空を見上げると、大きな空に小さな飛行機が白く光って飛んでいました。
今日もいい一日をお過ごしください。
(中根)
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