中学生の生徒が最近の模試の成績を持ってきました。数学も英語もいい成績なのに、国語だけがもう一息です。
賢い生徒なので、国語の勉強の仕方がわかっていないだけです。勉強の仕方がわかっていないので、文章の読み方も、答えの選び方も、あまり気合いが入っていません。
英語や数学は気合いの有無に関係なしに、自分の実力どおりの得点がとれますが、国語は気合いの有無で点数の差が大きく広がります。それはどういうことかというと、例えば、答えを選ぶ場合、易しいいかにも合っていそうな答え(実は×)と、難しいちょっと見つけにくい答え(これが○)が混在しているのです。
つまり、テストというのは、生徒の実力を見るというよりも、点数の差をつけるためのものなのですが(これが本当はいちばんの問題ですが)、素直な中学生はそんな裏の意図が隠されているとは思わずに、合っていそうなところを選んで×になってしまうのです。
この合っていそうな答えという一種の罠をよけるのに、気合いが必要なのです。浅く読めば罠の方を選んでしまいます。深く読む子は罠をさけることができます。国語の問題はそういう仕組みになっているために、国語の得意な子は、問題を解くときに集中力を発揮するのです。英語や数学の問題を解くときには、こういう集中力は必要としません。だから、国語の問題は独特のこつが必要なのです。
さて、その生徒の持ってきた模試の答案を見てみると、やはり次のようなことがわかりました。
まず、問題文をきれいに読んでいます。印象に残ったところに傍線を引きながら読んでいれば、再読するときに楽なのですが、きれいに静かに読んでいるのです。これがまず準備不足です。
次に、選択問題では、選択肢を選んでただ○をつけているという答えの選び方になっています。こういう解き方をしていると、必ず罠にひっかかります。正しい選択の仕方は、まず×のところを選び、次に×でなかったところを○にするという解き方をするものです。
そのためには、ひとつひとつの選択肢について、どこの部分が×なのかという根拠をはっきりさせる必要があります。そして、それを頭の中でするだけでなく、実際に問題用紙にどこが×だから、どの選択肢が×かということも書いておくのです。そうすれば、試験が返却されたあとに、自分のテストを見直すことができます。こういう見直しのできない生徒は、ただ点数だけを見て、「合ってた」「合ってなかった」とやるだけなので、いくらテストを受けてもあまり身につかないのです。
記述問題も同じです。「文中から選んで書きなさい」となっているような設問では、やはりわかりやすく易しい罠(実は×)と、ちょっとわかりにくい答え(これが○)とがあります。一般に、易しい罠は、設問となっている箇所のすぐ近く、多くは直後にあります。しかし、そんなところにわかりやすく書いてあるような答えだとしたら、みんなが○になってしまうので、テストの意味がありません。こういう裏を考える必要があるのです。
本当の答えは、遠いところにあります。難問になると果てしなく遠いところに答えとなる部分が書いてあります。また、多くの生徒は設問となっている箇所のあとの方を探すことが多いので、その反対に前の方に答えとなる部分が書いてある場合もあります。
ここで大事なるのが、その問題がどういう難易度で出されているかということです。易しい試験であれば、直後に本当の答えがあることもあります。難しい試験であれば当然近くには答えはありません。だから、志望校を受験するときは、その学校の過去問をやっておき、その学校の国語の問題がどの程度の難易度で出されているかを知っておく必要があるのです。易しい問題であるのに、裏を読みすぎて×になる場合ももちろんあるからです。
漢字の問題は単独で出ているように見えますが、実は熟語の問題として出されていますから、単に漢字の書き取りをやっているだけではできません。例えば、ひとつひとつの漢字は知っていても、熟語になると書けないということがよくあります。これは、どう勉強したらいいのでしょうか。読書で自然に身につけるのがいちばんいい勉強法です。ただし、子供の読む本は易しい本であることも多いので、意識して難しい本も並行して読んでいくことです。この「並行して読んでいく」というのが大事です。易しい本ばかり読んでいては、難しい語彙は身につきません。しかし、難しい本ばかり読んでいると、読書がはかどらないので多読ができず、その結果速読力がつきません。国語の得意な子は、難しい本も読んでいますが、易しいくだらない本も読んでいます。
国語の問題の解き方をこのように実際に即して説明すると、ほぼすべての生徒が次のテストから成績が急に上がります(笑)。しかし、実際にその生徒の行った試験をもとにして説明することが大事で、一般論の説明だけではなかなか理解できません。だから、国語のテストの見直しの勉強は、試験の直後に、本人が心から困っているときに行うのがいいのです。(つづく)
勉強は、たまに急にがんばるのではなく、
川の流れのように
毎日同じように続けていくことで、
いつの間にか力がついていたというのがいちばん楽。
毎日、朝ご飯前に食卓で1200字から1600字ほどの長文を音読して、作文と国語の実力をつけている子がいます。
しかし、一方で、長文音読は、夕方、本人任せになっているので、やったりやらなかったり。
本人も、親も、それなりにやっているつもりですが、あまり徹底していない子もいます。
音読は、形の残らない、あてのない勉強なので、簡単で効果があるにもかかわらずなかなか続かないのです。
その点、暗唱ははっきり形が残ります。
毎日やれば誰でもできるようになるし、毎日やらなければその場でいくらがんばってもなかなかできるようになりません。
だから、暗唱はやりがいがあり、毎日の勉強が徹底しやすいのです。
しかし、ここで問題になるのは、今の大人の世代のお父さんやお母さんや先生が、子供時代に暗唱をした経験がないことです。
だから、子供に暗唱をさせるときも、確信を持てなかったり、無理強いをしたりしてしまうことがあるのです。
暗唱は文章を覚えることに意味があるのではありません。
同じ文章を繰り返し読むことに意味があります。
その繰り返し読むための手段として覚えることがあります。
そして、暗唱は何より楽しいのです。
今日は久しぶりの雨のようです。
最近、晴天が続いたから、ちょっと一雨という感じです。
それでは、今日もいい一日をお過ごしください。