言葉は、思考と理解の重要な手段です。人間は、言葉を理解するのではなく、言葉を通して物事を理解しています。言葉が手段として活用できるためには、それが自分の手足のように自由に使えるのでなければなりません。
言葉の場合、手段として自由に使えるとは、その言葉が生きたイメージや生きた現実とのつながりを持って使えるようになっていることです。そして、その練習方法は、実際に生きた場面で使われる言葉を経験することです。それが読書や対話です。
これに対して、問題集に載っているような、漢字の問題の読みを書くとか、意味を書くとかいうことは、言葉を知識として知っているかどうかを見ることです。知識としてその言葉を知っているということが、そのままその言葉を道具として使いこなしていることを意味するわけではありません。
だから、言葉の豊富な子は、本をたくさん読んでいるということと、しかも、そこに質の高い本が含まれているということが言えます。同様に、対話においても質の高い対話を数多く交わしている子は、同じように豊富な言葉を使って話すことができます。
上手な作文を書くためには、作文を直すだけでは不十分です。作文の中身となる語彙の量と種類を増やすために、まず読書や対話に力を入れていく必要があります。
しかし、ここで現代の読書環境が豊かになっていることが、ひとつの大きな障害になってきます。それは、より大きく見れば、現代のメディア環境が豊かになっていることにも結びついています。今の社会では、子供は(もちろん大人も)、質の低い言葉の環境に、際限なく長時間接することができるようになっているのです。
最近のイギリスの調査結果で、中学生の読書量が減ったことがわかったそうです。その理由は、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に参加する時間が増えたことだと言われています。子供の自由時間の過ごし方が、読書からインターネットに変わったことによって、質の高い言語に触れる機会が減っていると考えられるのです。(質の高いSNSの活用ももちろんあるでしょうが。)
ここに、教育の役割があります。人間の日常生活を、例えばインターネットやゲームを禁止するような形でコントロールすることは、一時的にはできても決して永続的にはできません。日常生活は本人の自由意志に任せ、その分、教育で言語の環境を豊かにする工夫をしていく必要があります。
しかし、言語の教育というものは、読書や対話という日常生活的なものに支えられている部分の方が大きいので、学校教育の中では、日本の国語の学習は、漢字の書き取りのような知識的なものが中心になります。この漢字教育を、単なる知識としての漢字ではなく、生き生きとしたイメージを持つ言葉の習得としての漢字を学ぶ機会にするのが、漢字の暗唱という方法です。
貝原益軒は、児童の教育として論語などの文章を毎日百字、百回声を出して読み、空に書くという学習法を提唱しました。素読とは、単に声を出して何度か読むことではなく、そらんじるまで音読するという練習です。
では、なぜ1回読んで意味がわかればそれで済むようなものを、そらんじるまで暗唱する必要があったのでしょうか。ここに、知識としての漢字(言葉)と、生きたイメージを持つものとしての漢字(言葉)の違いがあります。(つづく)
国語も算数も、学校では勉強の教科として同じように扱われているので、つい国語を30分やったから、次は算数を30分やって、これで両方同じぐらい勉強をしたという感覚になりがちです。
しかし、ドイツでは、小学校1年生の国語の授業時間は、算数の授業時間の2倍から3倍、最初のうちはもっと多くの時間があてられています。科学技術の教育を重んじる国だからこそ、国語の授業に力を入れているのです。
なぜ国語に力を入れるかというと、国語は単なる教科のひとつではなく、言語によってものを考える基盤だからです。
だから、国語は勉強として取り組むよりも、まず家庭での言語教育として取り組まれる必要があります。それが家庭における読書と対話です。
読書の基礎になるものは、ふたつあります。ひとつは、文法的な理解です。もうひとつは、文字の理解です。
文法の骨格は、対話によって形成されます。子供が最初に接する言葉は、母親や父親との対話を通して与えられるものです。ここで、子供は言葉と感情と環境の結びつきを経験します。
だから逆に、テレビやCDなどの音声に、幼児期に接しすぎると、言葉と感情の結びつきを経験できなくなることがあります。
子供と両親との対話で大事なことは、量と質です。できるだけ多く対話を交わすことと、できるだけ質の高い対話を交わすことです。この対話を通して、子供は豊かな語彙力と高度な文法力を身につけます。
もうひとつの文字の理解は、文字を読むことによって習得します。
ここで、日本語の漢字仮名交じり文の、漢字の読み取りが重要になってきます。
ひらがなの文字がまだスムーズに読めない幼児期には、本をひとりで読むことはなかなかできません。しかし、読む文字を口に出してそれを耳から聞くことによって、次第に文字を見ただけで言葉が理解できるようになります。
しかし、読めない漢字が出てきた場合は、その部分だけは霧がかかって見えないような状態になるので、前後のひらがなのつながりから文脈を理解するしかありません。
ここで、その漢字にふりがながふってあると、子供はそのふりがなを通して文章を読むことができます。この経験を何度か繰り返す中で、その漢字のイメージが読み方とともにわかるようになります。すると、やがて、ふりがながふってあったとしても、漢字の方を読むことによってより確実に文章を把握することができるようになります。
漢字は、ただ読めるだけでなく、文脈の中で使われるイメージを伴って読めることが大事です。
世間の漢字教育では、漢字が書けることを重視しがちです。それは、漢字の書き取りは試験で点数化しやすいからです。
しかし、漢字の書き取りよりも大切なのは、漢字の読み取りです。
ところが、この漢字の読み取りでも、ただ読めればいいというのではありません。また、読んで意味がわかればいいというだけでもありません。読めて意味がわかるとともに、その漢字によってありありとイメージがわくことが大事なのです。
それは、なぜかというと、ある文章を読む中でその漢字を見たときに、その漢字がただ読めるだけでは不十分で、生き生きとしたイメージを伴って読めることが重要だからです。
よく、新しいジャンルの本を読むときに、その本の中で使われているさまざまな語彙にまだなじんでいないために読書がなかなか進まないという経験をすることがあります。例えば、哲学の本を初めて読むとき、経済学の本を初めて読むときなどです。
それは、漢字が読めて、意味も理解できるが、その漢字の持つイメージがまだ自分のものになっていないからです。
ここに、子供の漢字教育の重要なヒントがあります。(つづく)