5月18日のfacebook記事より
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持っていないものを数えるのではなく、持っているものを活用しよう。
ないものを使おうとするのではなく、あるものを使おう。
お金がないのなら、お金以外のものを使えばいいし、時間がないのなら、時間以外のものを使えばいい。
若さがないのなら、若さ以外のものを使えばいいし、経験がないのなら、経験以外のものを使えばいい。
どちらも何もないとしたら、ゼロからスタートできるという利点がある。
そう考えると、みんな何かを持っている。
小学生の作文の課題で、「私の長所短所」「家族の長所」という題名があります。
すると、短所だけはすぐに思いつくのですが、長所がなかなか出てきません。
ないものは見つけやすいのですが、あるものはなかなか気がつかないのです。
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港南台教室で、大学入試センター試験の解き方を説明するコースが始まりました。
やり方はごく簡単で、実際に試験問題を解いてもらい、間違えたところを自分なりになぜその選択か違っていたのか理詰めで説明してもらうのです。
すると、これまで漠然と感覚的に選んでいた選択肢を、感覚ではなく理屈で他人に説明するために選ぶようになります。その結果、点数が飛躍的に上がるのです。
生徒が理詰めで説明できない問題についてだけ、先生が一緒に考えます。先生が一緒に考えるといっても、先生のレベルの方がそれほど高いわけではないので、教えるというよりも一緒に考えるという感じです。
一緒に考えて、「この問題は難しいからよくわからないなあ」とか、「これは、答えがちょっとおかしい」とか、「どちらも×に近いけど、こちらの方が×の度合いが大きい」などと話していると、生徒はその迷いながら選ぶ感覚を理解します。
国語の問題の中には、正解があまり正しくないものや、複数の正解が考えられるものがあります。それらを機械的に黒か白かにあてはめて選ぶのではなく、黒でも白でもない灰色の部分を、灰色の度合いに応じて選ぶ感覚を身につけるのです。
こういう勉強の仕方をする結果、最初に問題を解いたときは平均点の60点そこそこだった高3の生徒が、わずか1時間か2時間の説明で、次の回からは満点近い成績を取るようになります。
もちろん、文章読む基本的な力は必要なので、解き方のコツに加えて、実際の入試問題の問題文を読む練習していくということが、その後の長期的な勉強なります。
しかし、得点のかなり大きな部分は、解き方のコツが分かるだけですぐに変わるのです。
国語の試験と同じように、英語でも数学でも、解き方のコツや勉強の仕方のコツというものがあります。
昔はみんなそういうコツを知らなかったので、成績はそのままその生徒の実力を表していました。今は、成績は実力を表していません。特に、難関大学や有名大学になればなるほど、成績と実力のずれが大きくなっています。
東大が推薦入試を始めたのは、入試の成績が生徒の実力を表さなくなってきたということも背景にあると思います。
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5月15日のfacebook記事です。
====引用ここから。
人間には波があります。
平均よりも上に向かうときと下に向かうときがあります。
下に向かっているときには無理に上に向こうとがんばるよりも、下向きの力を利用して読書で蓄積をしていくことです。
「することないから、本でも読もう」という感じです。
そういうときに、さっと読書ができるようになるためにも、子供のころから本を読むことに慣れておくといいのです。
今は、「することないから、ゲームでもしよう」という子が多いと思いますが(笑)。
子供たちの作文の成長の経過を見ていると、誰でも途中でスランプがあります。
前の学年のときよりも、字数も減るし、森リン点も低くなるのです。
例えば、小3のときに書いていた作文より、小4の方が字数が減っているというような例です。
そういうときは、なぜか読書の傾向も、以前よりも易しいものになっているようです。
【参考記事】
「作文の勉強も客観的なデータで」
https://www.mori7.com/index.php?e=1549
しかし、下に向かう波のあとには必ず上に向かう波があり、時期がたつと、また字数も増え、森リン点も高くなっていきます。
大事なことは、下に向かっているときに、「これは波なのだ」と思うことです。
たぶん、その下向きの時期は、それまでの自分から脱皮するために、一時的にサナギ状態になっている時期なのだと思います。
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下向きの力が働いている子に対しては、その下向きの状態をそのまま認めてあげることだと思います。
「下向きでいいんだよ。人生の目的は、幸福に生きることであって、上に向かって進むことではないんだから、自分の好きなとおりにやっていったらいいんだよ」
というような言い方です。
そのときに、たぶん犬のようなペットは助けになります。
犬は、いつでも主人を無条件に認めてくれるからです。
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今日のfacebook記事に、「なぜ音読は役に立つのか」という記事を書きました。
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「なぜ音読が役に立つのか」
国語の勉強法で最も大事なことは、難しい文章を読むことです。
ところが、文章を読む意欲は、読む内容の面白さ×読みやすさに比例します。
内容にあまり関心がないもので、読みにくいものは、読もうという気持ちが起きません。
そのかわり、内容に関心があるものならどんなに難しくても読みたくなります。
また、特に内容に関心がなくても、読みやすい漫画はすぐに読みたくなります。
読む力をつけるのにふさわしいものは、大体内容に関心が持てず、表現も難しいものが多いので、必要だとわかっていてもなかなか読めないのです。
そこで役に立つのが音読です。
声を出すという動作がきっかけになって、読みにくいものでも読み続けることができるのです。
それと似ているものが、作文と対話です。
いずれも、書くとか話すとかいう動作がきっかけになって、考えにくいものを考えることができるからです。
知識を覚える勉強は、手応えがあります。やればそれだけ成果が目に見えます。そして、教材も豊富です。
しかし、考える勉強は、手応えがありません。成果が見えないし、教材もありません。
そして、どういうふうに力をつけるのかもわかりにくいのです。
その考える勉強の方法が、読書、音読、作文、対話なのです。
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その音読の勉強をどう続けるかという方法を、このあと書きたいと思います。(つづく)
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作文の指導で大事なことは、書いたものを直すのではなく、書く力をつけるということです。
作文は結果ですから、結果にいくら手を入れても、それは手を入れた人の力にはなっても、手を入れられる方には何にもなりません。
作文以外の勉強は、結果と原因が近いので、例えば算数数学や英語の勉強でしたら、問題を解くことをそのものが勉強です。
しかし、作文はそうではありません。
作文と一口に言っても、そこには、構成、題材、表現、主題、など4種類以上の側面からの見方が可能です。
言葉の森で勉強をすると、自然に構成力がついてきます。
題材の力は、体験、読書、対話などによってつけることができます。
表現の力は、いちばんセンスに近いものですが、これも表現の工夫を意識的にすることでついてきます。
主題の力は、主に対話によって育ちます。お父さんやお母さんとたくさん話をしている生徒は、考える力が深まってきます。
このように、作文の実力を育てるものは、作文の添削を受けることではなく、作文を書く前の準備や自習に力を入れることです。
今、作文指導をしている塾や通信教育の指導法は、ほとんどすべてが作文を書かせて添削をするものです。
一見勉強をしているように見えますが、これでは力はつきません。
事前の準備に力を入れることが大切なのです。
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何かの分野で一人前になるには、そのことに時間をかけなければなりません。その時間は、3000時間とか4000時間とかいう単位です。
理屈だけで考えると、物事は理解できればすぐに身につくような気がしますが、その理解できたことが本当に自分の手足のように自由に使えるようになるにはそれだけの時間がかかるのです。
ところで、今メジャーな音楽やスポーツの分野は、先人からの蓄積の長い伝統があります。すると、その分野をマスターし、そこで一人前になるためには更に長い時間がかかります。
だから、どんなに運動神経のいい人でも、サッカーも一流、野球も一流、バスケットボールも、水泳も、ゴルフも一流というわけにはいかないのです。どの分野でも優れたプレーをすることはできるかもしれませんが、一流になるのは、ひとつの人生でひとつの分野に限られるのが普通です。
個性の大切さということは誰でもわかっていますが、いざ実際に自分や自分の子供のことを考えると、つい大勢に従ってしまいがちです。それは、これまでの教育がそうだったからです。
これからは、意識的に、自分の好きなこと、ほかの人のあまりしていないことに時間を使うようにしていくことが大事だと思います。
====5月12日のfacebook記事より
http://www.facebook.com/kotobanomori
これからは、個性の時代です。
今は、スポーツの種目にしても、音楽の楽器の種類にしても、勉強の教科にしても、メジャーなものの割合が多すぎる気がします。
その人気にはそれなりの理由があるのですが、その理由のひとつは、メジャーなものの方がいざというとき「食っていける」可能性があるということがあります。(学ぶ機会が多いということもありますが)
しかし、そういう分野は競争相手も多いので脚光を浴びるのは一握りだけで、長時間の練習を余儀なくされる割に、ほとんどが「一応できる」というところにとどまってしまいます。
同じように時間をかけるなら、すぐに第一人者になれるような特殊な分野を目指すことが、これからの時代の傾向になります。
そのためには、まず好きなことをたっぷりする時間を確保しておくこです。
今日は、曇りのち晴れ。
気持ちのいい日曜日になりそうです。
先日、スカイマップというスマホのアプリを入れました。
それで空を見ると、夜だけでなく、昼間でも雨の日でもいつでも、頭上にどんな星が浮かんでいるのかわかります。
しかも、足下を見ると、地球の裏側の星の配置もわかるのです。
夜中でも、「ああ、太陽はいま、この辺か」という感じです。
今ごろの季節の深夜は、ちょうど頭上にこと座のベガが光っています。
もう夏ですね。
それでは、今日もいい一日をお過ごしください。
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(写真は、スクリーンショットのこと座)
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先日、金(きん)が暴落しました。一方、日本と米国の株価は、今も上昇を続けています。
しかし、今、こういう金融商品を動かしているのは、米欧日の際限ない印刷マネーでバブル化した数字だけの金額を動かすことのできるグループなのです。
株にしろ金にしろ、このような金融商品はプラスに動いたときの利益よりも、マイナスに動いたときの損失が決定的に大きいという特徴を持っています。だから、私たちは、このようなバブルに動かされずに、未来の社会の展望を静かに考えてみることが大切だと思います。
今、日本と世界の経済は大きく変わろうとしています。未来に待っているものは、ひとことで言えば、お金という制約のなくなった世界です。
例えば、国が国民全体に、毎月百万円ずつお小遣いを渡すようになるとします。それなら、誰でも自分の必要なものを買うことができます。これを現実の紙幣や貨幣で渡すのでは手間がかかって大変ですから、データベースに入れた数字として、それぞれのスマホのアプリとして扱えるようにすればいいのです。
しかし、このお小遣いのうち、買う必要がなかった分のお金は、貯蓄しておくことができません。デジタルのお金は、生鮮野菜のように、日がたつにつれて価値が下がっていき最後はそのまま消滅してしまうからです。だから、野菜や果物は、どの家庭でも普通に消費できる分ぐらいしか買わないように、未来のお金も、必要な人が必要なだけ使うようになるのです。(つづく)
※経済の話ですが、後半から教育の話に結びついていく予定です。
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5月10日のfacebook記事に、次のようなことを書きました。「作文も、日記も、小論文も同じです」。
このことについての説明です。
以前、中学生でよく書けている生徒が、初めて行った塾で作文を書き、その塾の先生から、「これでは、小論文ではなく作文だ」と言われてショックを受けたという話を聞きました。
こういうことを言う先生がときどきいるのです。
言っていることは、大体推測できます。つまり、実例が豊富に書かれているので、「実例中心の文章=作文」と見なされてしまったのです。
では、その塾の先生の言っている小論文とは何かというと、「説明と意見中心に書かれている文章=小論文」ということなのです。
文章には、構成と題材と表現と主題があります。そのほかに、正しい表記の仕方というのもありますが、これは誰でも同じようにできるようになるので、個性の違いは、構成、題材、表現、主題の違いとして表れます。
人に見せる文章で、ひとまとまりの構成があって、自分らしい題材(実例)が使われていて、表現の工夫があり、ひとつの主題でまとめてあれば、それがいい文章です。そこに、作文、日記、小論文の区別などする必要はありません。
日記であっても、その日の出来事を時間どおりに書くという構成があり、その中に自分らしい事実が書かれていて、気持ちよく読めるような表現が工夫されており、その日に感じたことをわかりやすく伝えたいという主題があれば、それはいい文章なのです。「これじゃあ、日記でしょ」「はい、そうです」。それでいいのです。
文章力を育てていれば、作文でも、日記でも、小論文でも同じように上手に書けます。
大事なのは、文章を書くことを通して、構成、題材、表現、主題を深め広げる力をつけることです。
子供が一生懸命書いていれば、それをたくさん褒めて、その文章力を伸ばしていくことが大事なのです。
「5月10日のfacebook記事より」
http://www.facebook.com/kotobanomori
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人間には、もっといろいろなことを学んで成長したいという気持ちがあります。
植物に水をやるように、その気持ちを育てていけばいいのです。
そのためには、その子のやっていることを認めて褒めてあげることです。
今、地表に出ている葉や花がどうであろうと、根をしっかり張ってさえいれば、やがて時期が来て大きく成長しはじめるのです。
作文の勉強を見ていると、そういうことをよく思います。
子供がお母さんに作文を見せたとき、
「わあ、よく書けたね。すごいね。ここがいいね」
などと、手ばなしで喜んであげれば、子供は親に毎回作文を見せるようになります。
そして、どんどん上手になっていきます。
褒めるだけでは物足りなかったら、親の似た話を楽しくしてあげればいいのです。
「お母さんも、小学校のとき似た話があったよ。それはね……」
という感じです。
ところが、こういう接し方とは反対に、こんなふうに言ってしまうお母さんやお父さんも多いのです。
「書けた? 見せてごらん。うーん、まあいいんだけど……」
このあと、
「この字が違っている」「ひらがなが多い」「字がきたない」「この文がおかしい」「つながりが変」
などと、次々とアドバイスをしてしまうのです。
塾の先生も同じです。
子供が作文を見せたとき、
「これじゃあ、作文じゃなくて日記でしょ」とか、「これは、作文であって小論文ではないよ」とか、意味不明のことを言ってアドバイスする先生が結構多いのです。
作文も、日記も、小論文も同じです(笑)。
人間は引っ張られて成長するのではなく、毎日の水やりによって自然に成長していくのです。
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