入試で作文や小論文の試験を出すところが増えています。
今日は、小中学生の作文試験対策について書きたいと思います。
大事なことは、全部で5つあります。
第一は、何しろいろいろなテーマで最低10本は書いてみるということです。出そうなテーマで、10種類の作文を書いておけば、実際の試験でも使えそうな実例や意見が準備できます。
第二は、誤字を徹底してなくすことと、時間内に字数を埋める練習をすることです。誤字は、実際に書いて見つけるしかありません。時間と字数については、いろいろなコツがありますが、これも最終的には慣れるしかありません。
第三は、挑戦実例を見つけるということです。10種類の作文を書くときに、自分がこれまで何かに挑戦したという体験をできるだけ思い出して入れていきましょう。体験実例に価値があると、作文の印象そのものがよくなります。
第四は、家族で対話をすることです。特に、普段あまり話すことのない父親が登場して、出そうなテーマについて父親の体験を交えながら話しておくと、その対話実例がほかのテーマのときにも使えるようになります。両親との味のある対話が入っていると、挑戦実例と同じで作文の印象がよくなります。
第五は、光る表現を入れる練習です。しかし、これは、試験直前に練習すれば十分です。
これら5つの取り組みの中で、最も効果の高いのが、第四の「家庭での対話」です。時事問題集などを読んで身につけた知識は、表面的なものなので試験には生かせませんが、両親の肉声を通して聞いた実例は生きた実例として子供の記憶の中に残ります。
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ここのところ、何人かの保護者の方から、「もっと厳しい指導をしてほしい」というご要望をいただきました。それは、先生の指導に対して期待をしているということだと思いますが、私は、子供の教育における先生や親、つまり大人の役割はあまり大きくしない方がよいと考えています。それは、次のような理由からです。
勉強をするのは、子供です。勉強を山にたとえれば、子供はひとりで山を登っていきます。先生や親が先導して引っ張って登らせるのではありません。
大人は、その山の先がどのようになっているか、おおまかな予測がつきます。場合によっては、その山を先回りして危ない場所がないかどうか確かめることもあります。しかし、山を登るのは子供自身です。
先生や親は、後ろの方にいて、子供にときどき声をかけてあげます。その声かけのほとんどは、明るく単純な励ましと賞賛です。そして、ごくたまに、子供が危ない場所に迷い込みそうになったときに、大声で注意をします。また、子供が失敗して落ち込んでいるときは、近くによってじっくり話をしてあげます。
教育における大人の子供に対する関わり方は、そのようなものではないかと思います。
具体的な教室での指導の場面は、こうです。(私の場合)
子供たちが作文を書いているときには、ときどき声をかけます。「おっ、うまいなあ」とか「たくさん書いているね」などという単純な声かけです。
勉強以外でも、いいところはどんどん褒めます。「元気そうだなあ」とか「いいあいさつだね」などという声かけです。言葉に出さないときでも、常にそういう目で子供を見るようにしています。そうすると、雰囲気が自然に明るくなってきます。
たまにルールに反したことをわざとやった子については、ぶっとばすこともあります(笑)。しかし、暗い叱り方はせずに明るく強く叱るだけで、すぐに切り換えるので尾を引きません。
作文の指導については、ほとんど、よいところを褒めるだけです。個々の作品や表現について、「ここをこう直したらもっとよくなる」というような細かい指導はあまりしません。ここが、一般に期待されている先生像と違うところだと思います。
しかし、よくがんばっている子に対しては、たまに、これからの勉強の大きな方向をアドバイスします。実は、ここも一般に期待されている先生の役割とは違うところだと思います。
先生が先導して子供を引っ張って山を登っていくような指導ではなく、先生は後ろからついていって、たまに重要なポイントに来たときだけしっかりアドバイスをするという指導です。(つづく)
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知能を高めるためには、(1)パラダイムのある本を読む、(2)本をパラダイム的に読む、の二つが大切だと書きました。
パラダイムのある本とは、いわゆる昔から読みつがれている古典です。
本をパラダイム的に読むとは、大人と子供が共通に読んでいる本をもとに、大人がパラダイム的な読み方を生活の中で実践することです。
例えば、大人にも子供にもよく知られている本「桃太郎」を例として説明しましょう。
子:「ぼくのところのサッカーチーム、A君は足が速いけどパワーがないし、B君はうまいけど自分ひとりでやっているし、C君は明るいけどスピードがないし……、何とかならないかなあ」
父:「うーん、そうだね。『桃太郎』は、犬や猿やキジの欠点を直して戦ったのではなく、それぞれが自分の持ち味を出して戦ったんだろう。そう考えれば、何か別の見方ができるんじゃないかなあ」
子:「あ、そうか。A君はかみつき、B君はひっかき、C君は相手の目をつつけばいいんだ」
父:「違うだろ」
一度、こういう読み方に気づいた子供にとって、「桃太郎」という本は、単なる表面的な物語ではなく、現実を読み取る道具となります。
パラダイム的に読むための前提は、大人と子供に共通に読める本があることです。そういう本がたくさんあることがその国の読書文化の豊かさです。決して新しい本が次々と出版されることではありません。
しかし、親が昔読んだ本をそのままの形で出版しても、子供は読みたがりません。そこで、日本の伝統である換骨奪胎や本歌取りが生きてくるのです。
日本の長い歴史的伝統の中には、きわめて優れた書物があります。しかし、それらの古典の多くは、岩波文庫などで博物館的に保存されていることが多く、現代に活用される形にはなっていません。それらの本を現代の言葉で復活させることが今後の読書文化の大きな柱になると思います。
歴史的な伝統を受け継いでいないという点では、現代の親の世代もまた、日本の読書文化の伝統から切り離された浮き草のような読書を続けてきた世代です。欧米に匹敵するかそれ以上に深い伝統を持つ日本の文化を現代に生かすことが、これからの私たちの課題になると思います。
以上、頭をよくする方法をまとめると、
1、親が昔読んだ本を子供にも読ませること
2、親子の共通の読書文化を背景に親と子が対話をすること
3、子供に、日本や世界の古典を読ませること
4、親自身も、日本の古典を新たに読むこと
となると思います。
試験で他の人よりもよい点数を取って、成績を上げたりどこかに合格したりすることは、もちろん重要なことですが、単なる手段です。この手段を達成するために必要なことは、二次元的で量的な勉強です。
しかし、勉強の本当の目的は、三次元的で質的な頭のよさを育てることです。そのためには読書が必要で、その読書は、小学校低学年のころはたくさん読む多読、学年が上がるにつれて、親の世代が読んだものと同じような古典を読む古読と、親子の対話で読書を生かす対読、更に、パラダイムの創造に役立つ難読、やがてもっと成長したら自分の未知の分野を広げるための新読、という方向で進めていく必要があると思います。(おわり)
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頭のよさとは、二次元的に足し算をするような能力ではなく、三次元的に掛け算をする能力だと述べました。
足し算から掛け算に移るとき、一つのパラダイムの転換があります。簡単な計算ならば、慣れている足し算を猛スピードで行う方が早く答えにたどりつくかもしれません。しかし、問題が複雑になるにつれて、足し算のスピードアップは次第に限界近づき、掛け算の優位性がはっきりしてきます。しかし、足し算にいくら熟達しても、掛け算への飛躍はそこからは生まれません。足し算から掛け算に移るには、パラダイムの転換が必要だからです。足し算が量的に進化したものが掛け算なのではなく、足し算とは質的に異なった出自を持つものが掛け算だからです。
ところが、学問の世界では、足し算をがんばることが到達点になってしまうところがあります。哲学も、経済学も、物理学も、医学も、それらの学問自体が膨大な体系を持っているので、その学問に熟達した人ほど、パラダイムの転換が難しくなります。ある分野で頂点に達した学者であればあるほど、新しいパラダイムを受け入れることが困難になります。これは努力や心構えの問題ではなく、人間の能力の仕組みがもともとそうなっているからです。
では、人生において異なるパラダイムを身につける能力は、どこからやってくるのでしょうか。その最も大きな源泉は、年をとることです。年をとると、若いころには一方向からしか見られなかった社会や人生の様子が、異なる枠組みで見ることができるようになります。若者が、二次元的な能力で優れているときに、その二次元のレベルでは到底太刀打ちできない老人が、三次元的なレベルでは若者よりも頭のいい見方ができることがあります。
井戸を掘ることを考えついた海蔵さんは頭のいい人でした。そして、実行力もありました。今で言うやり手のビジネスマンにもなれた人です。そのお母さんは、井戸掘りなど考えつきもしません。年をとっているので実行力もありません。ただ年をとっているだけです。しかし、その年齢が、若い海蔵さんには見えない三次元的な視野を生み出したのです。「おまえは、悪い心になっただな」と言ったお母さんの発言は、三次元から来ています。二次元にいた海蔵さんは、そのひとことで、自分の発想の限界に気づいたのです。
もちろん、パラダイムの転換に必要なのは、年齢だけではありません。ほかにも、新しい経験や苦労、難しい読書、柔軟な姿勢などが、新しいパラダイムを形成することに役立ちます。
そう考えると、子供たちが読むべき本も、自ずからその方向性が決まってきます。それはひとことで言うと、パラダイムのある本です。人気のある本の中にも、パラダイム形成にあまり役立たないパターン化された本があります。目立たない本の中に、子供たちのパラダイム形成に大きく役立つ本があります。
もちろん、パラダイムという観点から意識的に文章を書いている作家はいません。いるとしたら、言葉の森長文作成委員会のメンバーだけです(笑)。だから、私たちが子供たちの本を選ぶ場合、その本がどれだけ子供たちに新しい視点をもたらすことができるかということを第一に考える必要があります。
しかし、本自体にパラダイムがあるとともに、ある本をパラダイム的に読むかどうかということも重要です。一見、パラダイム形成とは無縁のように見える本を、一つのパラダイムを提起した本として読むことができるのです。例えば、桃太郎や浦島太郎は、ただの昔話です。しかし、これを大人が、ある現実に当てはめて子供たちに話して聞かせれば、その本は、子供たちにとってパラダイム形成のテキストとなります。
パラダイム的に読むことが可能な本の典型が古典です。なぜかというと、古典は、異なる世代の大人にも子供にも共通して読まれた本だからです。東洋で言えば、四書五経、西洋では聖書が、その古典の役割を果たしてきました。四書五経や聖書の価値は、その本に書かれている内容だけにあるのではありません。その内容が、さまざまな時代の現実に当てはめられてきたという文化の厚みの中にあるのです。
パラダイム的な書物も大事ですが、それ以上に大事なのが、読書をパラダイム的にする文化です。大人も子供も共通の文化として読む本があれば、子供たちの世界認識や自己認識は飛躍的に高まります。
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抽象能力を高めるためには、難しい本を読むことが大事だと書きました。しかし、小学校の低中学年までは、難しい本を読むための土台を作る時期なので、多読によって読む力をつけて.おくことが大切だとも書きました。また、社会人になってからは、自分にとって未知の新しい分野に読書の幅を広げていくことが重要だとも書きました。
今回は、この中で、難しい本ということについてもう少しくわしく書いていきたいと思います。
難しい本は、なぜ難しいかというと、理解しにくいからです。なぜ理解しにくいかというと、読み手がそれまでに持っている考え方の枠組みに収まらないものを持っているからです。つまり、難しい本というのは、読む人にとって新しいパラダイムを提供するために難しく感じられるのです。しかし、だからこそ、その難しい本を読み終えると、その人には新たな思考の枠組みが広がります。それが抽象能力を高めることにつながります。
では、新しいパラダイムを提供するような本とは何でしょうか。それは、古典(古くから定評のある本)だと私は思います。古典つまり古い本がなぜ長い生命を持っているかというと、その古い本が初めて登場したときに、その時代に対して新しいパラダイムを付け加え、その新しいパラダイムががその後の時代のパラダイムの一部になる力を持っていたからです。
流行の本には、面白い本がたくさんあります。しかし、面白い本というのは、わかりやすい本です。わかりやすい本というのは、要するに読み手の考え方の枠にほとんど収まる本だということです。そう考えると、面白いからという理由で流行の本を読むよりも、まず、面白い面白くないにかかわらず古い本を読むということが、読書の仕方で大事なことになってくると思います。
この古い本に似ているものは、ことわざです。あることわざが初めて世の中に登場したとき、それは、その時代のパラダイムを打ち破る新鮮さを備えていました。しかし、時代が下るにつれて、ことわざは単なる知識として伝わるようになります。知識として伝わるようになると、ことわざは新鮮さを失い、それに比例して多くの人の常識となっていきます。
古典の中には、当初は革命的な考え方を提供したものが、現在では半ば常識のようになっているものもあります。しかし、そのような古典にも、もちろん読む意義があります。なぜかというと、その古典を読むことによって、自分たちが普段、水や空気のように常識として持っている考え方が、ある時代に歴史的に生まれたものであることがわかるからです。
現在の国語の教科書には、子供たちが喜ぶような流行の話題を取り入れたものが増えています。しかし、教科書のように文化の形成の土台となるものは、そのほとんどが古典によって(古文ではありません)占められるべきだと思います。
難しい本とは、古い本であり、古い本とは、それが登場したときに、その時代のパラダイムを転換するような新しさを持っていた本です。
その古い本には、小学校低中学年から読めるものももちろんあります。古くからある昔話や童話は、子供向けの古典と言ってもいいものでしょう。(つづく)
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「知能を高める教育」について、メールをいただきました。そのメールに、頭のよさとはそもそも何か、頭のよいことは幸福なことなのか、という問題提起が書かれていました。そこで、今回は、この二つを中心に。
まず、頭のよさとは、そもそも何かということです。
私は、勉強ができること、又は成績がいいことが、頭のいいことではないという意味で、「頭のよさ」を考えています。というのは、成績と頭のよさの間には、確かに相関がありますが、微妙に異なる面があるからです。その異なるところというのは、成績が、がんばって勉強をすればよくなるという二次元的なものであるのに対して、頭のよさは三次元的なものであるということです。
昔、松下幸之助さんが、コンピュータのことを部下に聞きました。部下が長時間難しい説明をしたあと、幸之助さんは、「それで、それは儲かるのか」と聞いたそうです。二次元的に頭がよくコンピュータの説明をする部下と、それを利益という観点からとらえようとする三次元的な経営者という構図が浮かび上がります。
「牛をつないだ椿の木」という長文が小学3年生の課題に載っています。井戸を掘ることばかりを考えている海蔵さんは、井戸を掘らせてくれない地主のおじいさんの病気と自分の井戸掘りの計画を平面的に考えます。地主のおじいさんの息子の代になれば、井戸掘りができることがわかっている海蔵さんに対して、海蔵さんの年老いた母は言います。「おまえは、悪い心になっただな」。海蔵さんの頭のよさは二次元的ですが、母親の頭のよさは三次元的です。
子供の成績をよくしたいと思わない親はいません。しかし、子供の成績をよくするために、かえって頭を悪くするような子育てをしていることもあるのです。例えば、計算問題の反復や漢字書き取りの反復という勉強法があります。これらの勉強法は、学習の土台を作るためには大切ですが、やりすぎれば頭を悪くします。辞書や計算機は、人間の記憶力や計算力よりも優れた能力を持っていますが、だれも、辞書や電卓を「頭がいい」とは言いません。今、世の中で成績がよいと思われている人の中には、辞書や計算機を高度にしたような意味で成績がよいという人も多いのです。
計算練習や漢字書き取りやいろいろな知識の記憶などは、抽象度の低い勉強ですから、やればやるだけ成果が上がります。速読練習なども同じです。やればやるだけ速く読めるようになります。しかし、言葉の森の名言集にあるように、「最も速い速読の秘訣は、不要なものは、読まないということである」という方法にはかないません。読むべき本を判断するというのは、速読のスピードを上げるよりも抽象度の高い方法だからです。
海蔵さんは、井戸掘りを目的として考えていました。母親は、何のための井戸掘りかという、井戸掘りよりも抽象的な目的を考えることができました。海蔵さんは成績のいい人で、母親は頭のいい人です。しかし、頭のよさは普段は隠れていて見えません。課題が高度になったとき、初めて頭のよさが二人の違いとして見えてくるのです。
次に、頭のいいことは幸福かということです。
そのためには、まず、成績のよさと頭のよさを区別して考える必要があります。成績のよさと幸せとは、あまり関係ないだろうとだれでも思うと思います。身の回りを見れば、成績と幸福に関係がないと思われる例はたくさんあるからです。しかし、だからと言って、成績が悪ければ幸福かと言えば、もちろんそうではありません。要するに、成績のよさと幸福とは関係がないということです。
では、頭のよいことは幸せかと言えば、それは間違いなく幸せです。試しに、来世で、全然悩み事のない犬や猫として生まれるか、苦労の多い人間として生まれるかという選択があったら、だれでも人間を選ぶと思います。それは、なぜかと言えば、人間は犬や猫よりも高い次元から物事を見ることができるからです。人間が犬や猫と違うところは、知的好奇心があることです。
二宮金次郎が薪(たきぎ)を背負って歩きながら本を読んでいる像は、最近あまり見なくなりましたが、あの姿は、人間の学びたいという情熱を象徴的に表しています。二宮金次郎の像を見て感動できる人は、学ぶことの感動を知っている人だと思います。少し前、吉田松陰の若いころの日記を読みましたが、学問への純粋な情熱が感じられました。金次郎と松蔭の学問は、成績のためでも学歴のためでもありません。人間が生まれつき持っている、学ぶことへの欲求だったのです。(つづく)
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先々週号で「その2」、先週号で「その4」となっていましたが、これは、先々週号が、「その2」と「その3」を合体したものだったためです。したがって、「その3」はありませんでした。
知能を高めるのが読書だとすれば、その知能の結果が表れるの作文です。特に、言葉の森の作文は、学力の集大成になるような文章力を目標としています。
第一が構成力です。ある課題について、文章の構造を考えて書くというのは、高度な抽象力を必要とします。特に、複数の理由を書くとか、原因や対策を書くとか、複数の意見を総合化するとかいう形になると、書こうとする材料が頭の中ですっかり整理されていなければなりません。よく、頭のいい人の話は、絵や図を見るようでわかりやすいと言います。構成的に書くということは、視覚的にわかりやすい文章を書くということです。しかし、小学生のころは、この構成力が年齢的にまだ十分に育っていません。ですから、構成メモを書いてから作文を書くという作業は、小学生には無理があります。小学校低中学年のころは、むしろ中心を決めて書くことに専念していれば十分です。
第二が表現力です。名言の引用やことわざの加工は、抽象概念どうしの組み合わせが必要です。抽象概念を組み合わせる力がある人は、どういう意見にも、名言やことわざを組み合わせることができます。小学生のころには、この組み合わせる力は、たとえの力やダジャレの力として表れます。事実と言葉の組み合わせから、言葉と言葉の組み合わせや、概念と概念の組み合わせに発展していくのが表現の練習です。
第三は題材力です。小学生のころは、似た話や聞いた話を入れて書くという練習をしていますが、中学生や高校生になると、体験実例や社会実例を組み合わせて書く練習になります。この社会実例も、データ実例、伝記実例、昔話実例といろいろな種類があり、いずれも実例の背後にあるテーマを組み合わせるという高度な抽象能力が必要となってきます。
第四は長文を読んで書くという難読の部分です。単に難しい文章を読むだけでなく、その文章のテーマを考えて感想文を書くという視点で読むので、これも高度な抽象能力が必要とされます。
ですから、言葉の森で勉強しているような形の作文を自力で書ければ、その人の考える力はかなり高いということができます。これは、私が実際に生徒の作文を見ていて日々感じることです。簡単に言えば、いい文章を書ける子は頭がいいということです。そして、その文章力の土台には、高度な読書力があります。
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森リンの点数の見方を説明します。
総合点は、最高点が100点になるようにしています。しかし、もともとの点数が偏差値をもとにしているので、厳密な100点満点ではありません。したがって、順位も実際の順位ではなく、確率上の順位です。
(1)字数は、その作文の字数と、その級で基準となる上限字数の両方が表示されています。グラフの下の方にある数字は該当する字数の範囲です。(小さい表に収めるために、百の位が上の段に、十までの位が下の段に書いてあります)
学年別の字数の目標は、小1が200字、小2が400字、小3が600字、小4が800字、小5が1000字、小6以上が1200字です。小6以上の人は、1200字を1時間以内で書ければ、字数に関しては十分な力があります。
(2)思考語彙は、説明や意見などを書く際に、語と語をつなげる役割を果たす接続語や助動詞のことです。小学生の事実中心の文章では少なくなり、高校生の意見中心の文章では多くなる傾向があります。これは、少なくても読みにくくはなりませんが、多すぎると硬い文章になり読みにくくなることがあります。
(3)知識語彙は、抽象度の高い概念的な語彙のことです。高校生以上の文章では、書くことが抽象的になるために多くなる傾向があります。知識語彙が少ないと易しい文章という印象を受けます。知識語彙が多すぎると重い文章になり読みにくくなることがあります。
(4)表現語彙は、語彙の種類の多様さを表します。同じ言葉を繰り返し使っている文章では、表現語彙は少なくなります。多様な言い回しをして書いてある文章では、表現語彙は多くなります。この表現語彙が多いと、文章が密度濃く感じられます。しかし、いろいろなことをただ羅列的に書いてある文章もこの表現語彙が多くなるので、ほかの思考語彙や知識語彙とのバランスで見ることが必要になります。
(5)それぞれの点数をもとに、作文検定試験の級の目安を表示しています。
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