青空と白いサルスベリ
今、世の中が大きく変わろうとしています。それは、ひとことで言えば、人間社会の本来の姿に戻るという大きな変化です。
これまでは、その本来の姿を阻んでいたものがありました。それは、個人の生活においては、時間の制約と金銭の制約という形で現れていました。
しかし、これからは大きな流れの中で、その制約がなくなっていきます。つまり、時間にも金銭にも制約されない自由で豊かな社会が登場してくるのです。
それは、なぜかといえば、それらの制約によって成り立っていた社会の仕組みが、これから行き詰まってくるからです。
これまでの社会システムである資本主義は、人類の持つ生産力を大きく発展させました。しかし、その同じシステムが富の偏在を生み出すとともに、その偏って蓄積された富を社会の発展のためにではなく、社会の停滞のために用いるようになっていました。その不自然な状態が、富の循環という本来の状態に戻るのがこれからの社会の変化です。
自由で豊かな社会の発展によって、人間の生活は余暇が増え毎日が休日のようになってきます。また、人間の生活は物の不足によって不自由を感じることがなくなってきます。
そのような社会では、これまでの不足の時代を前提にした価値観は大きく変化します。この根本的な変化は、過去の延長上にある変化ではなく、過去がいったんすべてキャンセルされたあとの新しい創造的変化です。
6500万年前恐竜が絶滅したとき、魚類の進化の大爆発がありました。これまでの環境の制約がなくなったときの変化は、全面的かつ創造的なものです。そのときに大事なことは、まず最初に変化の方向を決めるということです。
前提となる環境があれば、その環境に対応することが変化の方向ですが、前提となる環境がなくなり、白紙のキャンバスに描くことが求められる時代には、変化の方向を自ら決めることが新しい環境になります。
自由と豊かさを阻んでいた大きな制約条件がなくなった社会では、教育に求められる方向も大きく変わります。新しい教育はまず、競争に勝つための教育ではなくなります。新しい教育の方向は、学力の向上とともに、創造性、共感力、社会貢献力を育てることを目指す教育になるでしょう。それは、人間の生きる目的が、もともと、幸福、向上、創造、貢献を人生の中で実現することだったからです。
そこで、言葉の森では、世の中の大変化より一足先に、新しい教育の方向を提案していきたいと思います。
変化の方向は、大きく四つ考えられます。第一は受験から実力へ、第二は学校や塾から家庭へ、第三は点数から文化へ、第四は競争から独立へ、です。
そして、教育の目的は、人間の生きる目的である幸福、向上、創造、貢献に対応して、共感力、学習力、創造性、社会貢献力を育てることになります。言い換えれば、教育の目的は、個性、知性、感性、実行を育てていくことになります。(つづく)
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私は、個人的には、SPIRIT の力だと思います。SPIRIT の意味は、心、気、精神、霊魂です。この幅広い意味を持つ言葉は、罪を犯した人間にも新たに生きるパワーを与えてくれます。
ティーさん、こんにちは。
スピリットというのは大事だと思います。
特に、今は、そういうものが年々強くなっています。
だから、世の中がいい方向に進んでいるのだと思います。
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オリンピック開催が決まってから、日本全体が明るくなった気がします。
もうほとんどデフレ脱却の気分。(気分だけですが)
人間の意識の力の大きさを改めて感じます。
もしかすると、アベノミクスの第5の矢は(そんなのあったか)、オリンピック開催をきっかけにして生まれたこのムードの変化だったのかもしれません。
そして、7年後の新しいオリンピックは、これまでのようにあまりにも勝ち負けにこだわったオリンピックではなく、文字どおりスポーツの祭典になると思います。
これまでの弱肉強食の競争社会が終わったあとの、世界中の人々が集まる大きなお祭りのようなものになるでしょう。
同じ変化は、教育にも生まれていきます。
今の教育は、受験という競争に勝つためのテクニックと詰め込みによって、科挙化した教育になっています。
これからの教育は、バランスの取れた学力と創造性と共感性と社会貢献を目指したものになっていくでしょう。
そんな7年後は、もう今日から始まっているのだと思います。
雲が切れて、空が明るくなってきました。
今日も、いい一日になりそうです。
垣根の隅から、ブーゲンビリアが顔を出していました。
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子供が将来社会に出て仕事をするときにいちばん役に立つのが、子供時代のよい習慣作りです。
例えば、ごく身近なことですが、返事は「はい」と言う。人に会ったら挨拶をする、などです。
勉強はほどほどにできていれば、社会生活で困ることはありません。
勉強のしすぎで、肝心のよい習慣作りが後回しになる方が困るのです。
その勉強のしすぎのかなり大きな要因が、宿題のような半強制的な勉強です。
逆に、よい習慣作りの最も大事な環境が、子供が自分で行う学習です。
宿題ということで子供の意志と無関係に勉強をさせれば、確かに成績は上がります。
しかし、その便利さに流されてしまうと、宿題があればやる、宿題がなければやらないという勉強スタイルになってしまいま。
大切なことは、家庭で行う自学自習の骨格を決めておくことです。
そして、起床、勉強開始、就寝の三つの時間を子供が自分で守れるようにしておくことです。
もうすっかり秋の空になりました。
今日は、まだ薄曇りですが、これからまた晴れてくるでしょう。
道の途中にある学校の柵に、かわいらしい実がなっていました。
夏の日差しでたくわえたエネルギーが、こんな形になったのでしょう。
それでは、今日もいい一日をお過ごしください。
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森リンの点数は、作文の点数というよりも、作文力の点数です。80点台後半の点数を取れるということは、作文力があるということです。
どのくらいの点数がどのくらいの作文力かということをわかりやすく言うと、森リン点90点が大学で言えば東大レベルです。これは、これまで森リン点でたまに90点を取るぐらいの生徒が、そういう学力を持っていたからです。
もちろん学力が成績になるためには、それなりの勉強の量と方法が必要です。しかし、森リン点が高いということは、それだけの潜在力を持っているということです。
ところで、森リン点は、点数を上げることを意識して書くこともできますが、本当は点数は結果に過ぎません。森リン点の結果を生み出す源は、読書の質と量とこれまでの思考の蓄積です。
だから、大事なことは、作文を上手に書くことではなく、本を読み自分の考えを深めていくことです。その読んだり考えたりした結果が、作文として表れてくるのです。
今回のピルルさんの作文を見ると、複数の方法という構成も、取り上げている実例も、反対意見への理解を含む主題も、結びの自作名言も、高校生としてとてもよく書けています。
これは、その場で努力してできるものではなく、普段からの読書と思索の蓄積があるからできることです。
これは、前に森リン大賞として載せた中2のききほさんの「
みんなちがってみんないい」にも、小6のりすっぴさんの「
お米は命!」にもあてはまります。
どの作文も、その背景に、その生徒の日本語力の蓄積があるのです。
高1のピルルさんが言葉の森を始めたのは、小4になったばかりのころです。そのころに、自分が高校生になってこういう文章を書けるようになるとは思っていなかったと思います。
誰にでも途中に様々なスランプがあります。しかし、勉強を続けていく中で、考える力や表現する力は確実についていきます。
他の教科、例えば算数数学や英語や漢字の書き取りなどでは、学年を越えた先取り学習ができます。しかし、作文はそういうことができません。
時々、よくできる低学年の生徒の保護者で、もっと先の学年の勉強をさせてほしいと言ってこられる方がいますが、作文はそういう先取りはできないのです。それは、この高校生の作文を見ればわかると思います。
どんなに優秀な小学生でも、高校生のレベルの文章は、高校生にならなければ書けません。そして、それで充分なのです。
だから、小学校中学年のころに、塾の勉強が忙しくなったからという理由で、作文の勉強をやめてしまう生徒がいるのは、本当にもったいないと思います。
それは、たとえて言えば、料理の最も栄養のある中身を、噛むのが大変だからと言って捨てて、表面の栄養のない着色した部分だけを満腹になるまで食べているようなことだからです。
何年かたったあとに、栄養のあるものを消化していた生徒と、栄養のない表面だけを食べていた生徒とでは、考える力に大きな差が出てきます。そして、その差は、大学に入り、社会に出るころには、更に大きな差になっていきます。
小6や中3の受験期に、一時的に作文の勉強と受験の勉強が両立できなくなることはあります。しかし、その受験の一時期が終わったら、またすぐに再開するという長い展望で作文の勉強を続けていくことが大事なのです。
7月の森リン大賞(高1高2高3社の部137人中)
ちがうということ
ピルル
私たちは多種多様な互いの差異を示し合う生き方をすべきだ。
そのための第一の方法は、極端に平等を良しとする発想をやめることだ。私が好きなイラストレーターに中原淳一という人物がいる。彼は男性だが、女の人の良さがとてもよく表現された華やかで可愛らしい作品をたくさん残している。私が読んだ彼のエッセイの一部に男女平等の考えについての彼の考えが書いてあった。彼は、男女平等とは、女らしさや男らしさの良さが混同され、消えることではないと書いていた。同等の機会が与えられるのは良いことだが、それぞれの違いがなくなるのはよくないと考えていたわけだ。私はこの考えにとても共感した。確かに男女ではまず体のつくりが違う。構造という基本的な根本の部分が違えば周囲の物事への感性や対応の仕方が違ってくる部分は大きいだろう。しかし、そうした違いが魅力であると彼は主張していた。部分的には差異が劣って見えることもある。しかしそれは固定観念が優越をつけるだけで、全体的にはどちらにも欠けた部分は無いとする考え方は、私にはとても自然で心地よく感じた。現代では、男女の違いは一方的な差を生み、またその差が悪いものであるとする風潮があるように思う。だが、元々あるものの事実から生じる違いを認めることが、それぞれの違いが光り、皆が幸せになれる本来の平等への道なのだと思う。
第二の方法は、子供たちに具体的な行動の方向性を社会が示すことだ。西郷隆盛の出身地である鹿児島県の加治屋町という集落に、郷中教育という教育方法がある。これは、集落の子供たちの年長者が年少者を指導、教育をするというものだ。指導をする範囲は広く、私生活から剣術、学問などを年長者は後輩たちに教えた。また、この教育方法では、剣術に優れないなら学問の能力を伸ばすというように、一つの型にこだわらず、多様性を認めていた。子供たちは個性を認められていたのだ。年長者は自分が幼い時、年上の子供に世話をしてもらったのだから、年少の子供たちにも同じように世話をする。この繋がりがずっと続いてゆき、信頼し合える頼りがいのある人間へと育てられてゆくのだ。問題を起こさせないよう、違いを目立たせずに教育しようとすれば、こうした教育はできない。はっきりとしたやるべきことの規定を周囲の社会が決めているからこそ、年齢の違う縦の繋がりの中、自分の立場を役割を見据えて自主的に行動できるのだ。もちろん、示された行動が子供たちの未来を限定するようなものでは意味が無い。周囲の環境が安定していることも大事なのだ。
確かに、違いはあっても同じ機会を与えることは大切だ。個性が人それぞれであるように、可能性もそれぞれで、必ずしも差異によって可能性は限られるものではない。しかし、差異とは他者と比べて欠点になるものではなく、比べる必要の無い美点である。自らの持つ特徴をいかして高いレベルへ登り詰めようとする行動は周囲にとってもその人自身にとっても利益となる。面倒事が起きないように差異をならして全てを同じにすることは、表面的には管理が楽かもしれないが、どこかでひずみが生じる。一人一人の差異を、偏見無くただの事実として認めることが、のびのびとした自分らしさとまとまった社会をつくるのだ。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●ちがうということ | ピルル | 90 | 1342 | 62 | 82 | 85 | 83 |
2位 | ●自由な競争 | ゆまり | 89 | 1309 | 59 | 76 | 79 | 92 |
3位 | ●手助けをするとは | 森?外 | 86 | 1210 | 57 | 92 | 94 | 95 |
4位 | ●世代関係がないこと | きよほ | 86 | 1358 | 59 | 72 | 72 | 86 |
5位 | ●時代の変化 | らちす | 84 | 926 | 54 | 74 | 79 | 100 |
6位 | ●時代と親子の関係 | もぐ月子 | 83 | 1063 | 58 | 81 | 93 | 89 |
7位 | ●自分へのQuestion | なすび | 83 | 1090 | 58 | 74 | 70 | 83 |
8位 | ●様々な考え | なるか | 82 | 1327 | 56 | 105 | 97 | 86 |
9位 | ●競争心 | ハッピームーミン | 82 | 1056 | 53 | 66 | 65 | 93 |
10位 | ●社会で望まれるもの | ななみ | 80 | 858 | 52 | 72 | 78 | 90 |
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低学年の長時間勉強のどこに問題があるかというと、親や先生に見せるための勉強になるからです。
だから、自然に時間のかかるやり方で勉強する癖がつきます。
低学年の間に時間をかけてやっていたことも、学年が上がりやる気になったときにはその何分の一かの時間ですぐにできるようになります。
ところが、その肝心のやる気の出た時期になってもまだ、時間のかかる勉強の癖を引きずっている子が多いのです。
そのひとつが、読む勉強ではなく、解く勉強をしたがることです。
例えば、社会の勉強は、教科書を繰り返し読むのがいちばん楽で能率のいい勉強法です。
ところが、社会の問題集を解いて○×をつけるような勉強を勉強だと思っている子がかなりいます。
だから、低学年のときほど、自学自習で無理のない勉強をしていくことが大切なのです。
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「全教科無料自習オプションと各種検定試験」
https://www.mori7.com/index.php?e=1913
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「東洋経済オンライン」のインタビュー記事で、言葉の森が、オンライン作文教室として紹介されています。(4ページ目)
「英語より「問答力」!元外資系パパの教育哲学
http://toyokeizai.net/articles/-/18374
子供が、小学校高学年になったあたりから、親子の会話というのは難しくなります。
特に、お父さんは子供と共通の話題があまりないので、たまに話をしても、「勉強はどうだ」「まあまあ」というような話になりがちです。
そこで、生きてくるのが、言葉の森の作文・感想文です。
毎週、課題の長文を音読し頭に入れ、週に1回その内容を子供がお父さんやお母さんに説明します。そこから、家族の知的な対話が始まります。
親子で話をすると、難しい感想文も書きやすくなり、内容もぐんとレベルが上がります。子供は、お父さんやお母さんとの話の中で、考える力を身につけていきます。
小学校高学年でこういう家族の対話をするためには、小学校低学年から家庭の中で対話の文化を作っておくことです。
そのためには、小さいころから子供の言ったことを批評したり注意したりせず、いつも優しく聞いてあげ、そこにお父さんやお母さんの似た話をしてあげることです。
また、お父さんやお母さんも、週に1回、子供たちに、今週あった話をしてあげます。
こういう家族の対話の時間を持つことが、問題集を解いて勉強することよりもずっと豊かに子供たちの心と頭を育てていくのです。
====facebook記事より。
「家庭でできる最強の教育は会話だと思っています」という「東洋経済オンライン」のインタビュー記事を見て、そうだなあと思いながら読み進めていきました。
すると、途中で、
堀内さんはそもそも、子どもの日常を習い事で埋め尽くすことにも慎重だ。2人の子どもがやってきた学習系の習い事は、なんと小学校高学年からの
オンライン作文教室のみ。「どこの国で暮らしていくにせよ、考える能力の基礎として言葉を扱う力があれば、将来、どう転んでも学んで損はないだろう」という判断からだ。
ちなみに、中高一貫校に通う長女は、その「作文力」で合格を勝ち取った。勉強漬けでなくても、本人の意思の力と考える力とで、道を切り開けているというのは興味深い。……
リンク先をクリックしてみると、やはり言葉の森でした(笑)。
へえ、そうだったんだ。それはうれしいなあ。
家庭での会話というのは、考える力のもとになっているのでしょうね。
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我が家も、二人の子供は、いずれも小1から習い事は言葉の森だけでした。
塾にも予備校にも行かなかったので、家でも学校でもマイペースののんびりした生活を送っていました。(二人とも早稲田大)
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7月の森リン大賞(中2の部68人中)
「みんなちがってみんないい」
ききほ
「障害は不便である。しかし、不幸ではない」
という言葉を聞いたことがあるだろうか。乙武洋匡さんという、手足のない、先天性四肢切断症の方を知っているだろうか。乙武さんの「五体不満足」という有名な本がある。明るく前向きな乙武さんの痛快なエッセイだ。
「僕には誰にも負けないことが一つある。それは、手と足がないこと」
この言葉を小学生のころに初めて読んだ。今でも分かっているとは言えないが、前よりは理解できた気がする。障害は一つの個性と言うことだろうか。私は、そう思う。「かわいそう」という目で見たくなかった。
障害を持つ人と遊園地に遊びに行ったらどうするか?聞かれた時、難しい問題だなと思った。双方が嫌な思いをせずにいられる方法と言うものは、案外出てこない。乗りたいアトラクション、乗れないアトラクション。私が思いついたのは、「折り合いをつける」ことだった。その一人が楽しめなければ意味がない。しかし、その一人が楽しめるものだけをピックアップして乗るというのはどうだろう?私が、その一人だったら、心苦しいな、と思う。その一人に合わせすぎる気もする。過ぎたるは及ばざるがごとしである。例えば、ちょっとしたお礼に高級菓子をもらったら、「え、」と、感謝より先にいぶかしい気持ちが湧いてくると思う。それと同じことだ。みんなで乗れるアトラクションと、乗れないアトラクションの数を考えたり、グループを二つに分けて、一方がジェットコースターに乗ってくる間一方はゆったりファンタジックなものを楽しんだりする。個性だと言っても、出来ることとできないことを区別することは誰にだって必要だ。クロール25メートルを泳げない人に、100メートルの選手になれとは、誰も言わないし、本人だって立候補しない。
傷つけられる権利という言葉も、私にとって衝撃的だった。過保護になってはならないのだと、知った。小学生のころ、何かで、性同一障害の方のインタビューを見た。彼女はタレントとして活躍中だという。想像もつかない大変な苦労をしてきたと思う。親は、当然テレビに出ることを、反対したらしい。それでも、彼女はテレビに出続けることを選んだ。度はあるけれど、苦しいことも経験なのだなと思った。辛い時期を乗り越えて、と言ってしまえば簡単だが、その機会は絶対に誰でも、経験しなければならないんだな、と思う。そうだ、その記事の見出しは「コンプレックスは個性に変えられる」だった。
傷つけあうことなく、平穏な毎日が続いていけば良いのだけれど、そうはいかない。心ない言葉を言われること、言ってしまうこと。日常茶飯事だ。傷つけてしまうことは、ある意味仕方がないことかもしれない。でも、その日から、時間がたてば、傷つけた自分の浅はかさに気付くのだと思う。この先、人に悲しい思いをさせないで生きていける自信はまったくない。しかし、時が経った後、過去の自分の過ちに気付ける人になりたいと思う。
障害者と健常者。それは、「差別」ではなく、「区別」だ。どちらも寛容に穏やかに過ごせる日が来てほしい。上と下ではなく、対等な立場として、語り合えたら、その時は、幸せだなと思う。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●「みんなちがってみんないい | ききほ | 86 | 1306 | 53 | 73 | 78 | 83 |
2位 | ●子育て方 | りょうたろう | 85 | 1396 | 61 | 65 | 72 | 89 |
3位 | ●両親の子育ての仕方 | れたす | 85 | 1194 | 52 | 61 | 72 | 95 |
4位 | ●愛情があればそれでいい | 四葉のクローバー | 83 | 1026 | 58 | 58 | 72 | 96 |
5位 | ●幸せになる方法 | いゆん | 81 | 1015 | 51 | 66 | 69 | 86 |
6位 | ●あめとむち | ぎんぎつね | 80 | 971 | 58 | 60 | 65 | 93 |
7位 | ●規則と自由 | ゆへぬ | 79 | 1438 | 49 | 80 | 97 | 90 |
8位 | ●本当の愛情とは | タージー | 79 | 852 | 59 | 64 | 70 | 92 |
9位 | ●子供の教育 | トレジャーハンター | 78 | 924 | 54 | 56 | 67 | 99 |
10位 | ●手助け | かこちゃん | 78 | 1024 | 54 | 54 | 66 | 83 |
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これからの時代に必要な学力は、自分で何かを創造する学力です。
知識を理解したり吸収したりする学力は、その創造する学力の土台になりますが、理解や吸収だけではもう不十分です。
言葉の森では、小学校5年生のころから、課題の長文が急に難しくなります。
難しい(が内容的には面白い)長文を読んでその感想文を書く練習をするのですが、生徒の年齢では、その長文を理解はできても発展させることができません。
そこで、お父さんやお母さんとの対話が必要になってきます。
お父さんやお母さんは、子供よりも人生経験が多いので、すぐに似た例を見つけてこられるからです。
しかし、お父さんやお母さん自身が理解する勉強に慣れていると、似た例を見つけて話題を発展させるということがなかなかできません。
子:「こんなことが書いてあったんだよ」
親:「へえ」
子:「おもしろいね」
親:「うん、おもしろいね」
子:「何か似た例あるかなあ」
親:「ネットで調べたら」
子:「……」
という展開になってしまうことも多いのです。
覚えた知識を披露することは誰にでもできます。
大事なのは、その知識を自分なりに発展させることです。
これまでの勉強のほとんどは、知識を覚えてそれを正しく再現する勉強でした。
しかし、そういう学力は、人間がただ辞書の代わりになっているような学力です。
これからの人間は、もっと人間でなければできない創造性を発揮する学力を育てていく必要があるのです。
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「これからの勉強はどうなるのか 1(作文はなぜ必要か)」
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