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同じことを言っても、言葉の使い方で印象がかなり変わってきます。
一般に、「○○しないと○○になる」という言い方は、「○○すると○○になる」という言い方よりも印象が強いので、そういう言葉を使いがちです。
例えば、「気をつけないと車にひかれるよ」と言えば、子供ははっとして気をつけますが、「気をつけると安全だよ」などと言われてもピンと来ません。
ところが、こういう「○○しないと……」という言い方が、癖になってしまう人が多いのです。
それを勉強の場面で使うと、「ちゃんと勉強しないと、いい学校に入れないよ」などというような言い方になります。
すると、子供は、勉強というものは何か楽しい将来の目的のためにやるのではなく、将来の災難をさけるために強制されてやらなければならないものだと思うようになります。
また、「○○しないと……」という言い方をする人は、欠点に気づきやすいところがあります。
例えば、子供が長文を読んでいると、ついその読み方が気になって注意してしまいます。
「もっと大きい声で読まないと」「もっとしっかり読まないと」「もっと姿勢をよくして読まないと」などと言うと、子供はだんだん親の前で読まなくなります。
注意したことによるマイナスが、実はいちばん大きいのです。
では、何も注意しなくていいのかというと、実はいいのです(笑)。
どんな下手な読み方をしていても、「長文読むの上手になってきたね」と言っていると、本当に上手になっていきます。
これが不思議なところです。
ちょうど赤ん坊が初めて立って歩いてすぐにころんだときにも、「上手、上手」と言うようなものです。
褒めていれば、ほとんどのことは自然に上手になっていきます。
言葉の使い方には工夫が必要です。
そして、その言い方を工夫することで、言う人自身が物事を前向きに考えられるようになってくるのです。
今日は、穏やかな曇り空で、明日は西から雨になってくるようです。
せっかくの連休になどと思わずに、こういうときは家の中でやれる面白いことに挑戦してみるといいのです。
お金と時間を使ってどこかに出かけなくても、家の中で遊べる面白いことはたくさんあります。
例えば、facebookグループの「親子で遊ぼうワンワンワン」など。
http://www.facebook.com/groups/wanwanwan/
言葉の森のオープン教育のページでも、こういう遊びをたくさん取り上げていく予定です。
https://www.mori7.com/ope/
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くー……。耳が痛い!!!
「ほめ上手になる」、これが親の課題であり、勉強なのだと思う。
子供に頑張らせたいなら、まず自分から。
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朝の空を飛ぶ鳥
言葉の森では、これからの教育の新しい変化の方向を目指す「プレゼン作文発表会」と「全教科無料自習オプション」の企画に、協力してくれる方を募集します。
協力の中心となるものは、オープン教育掲示板の管理運営のアシスタントです。また、各種facebookグループの管理運営のアシスタントをしてくれる方も募集します。
オープン教育掲示板とfacebookグループには、遊び、読書、勉強、行事、長文作成など、さまざまなテーマがあります。そのテーマに基づいて、子供たちの成長と学習に役立つ教材や方法を作成し、家庭や地域で誰もが自由に利用できるようにします。また、双方向の掲示板という特性を生かし、実践の中で生まれた質問、相談、新しい提案などの交流も行っていきます。
また、教科として確立できる性格のものは、検定試験のような評価方法を定め、その教材利用者で希望する人が検定試験に参加できるようにします。
未来の社会では、教育も含めてあらゆるものが無償になりますが、今の社会ではまだ全くのボランティアで時間を費やせる人は限られています。そのため、管理運営アシスタントに携わる人は、その検定試験を有償にしてその一部を運営手当を受け取れるようにすることも考えています。
したがって、言葉の森のオープン教育の企画への参加は、手弁当のボランティアというだけでなく、参加者個人にとっては、新しい社会貢献のビジネスの練習という性質も考えられると思います。
未来の社会の仕事の中心は、長時間の会社勤めから解放され、個々人が自分の個性を生かして行う短時間の文化の提供のようなものになります。あらゆるものが無償に近くなる社会の中でも、金銭という単位は残ります。その金銭は仕事を通しての交流を媒介するものという性質を持つようになります。
未来の社会では、農業や工業の生産は限りなく無人化され、生産物が自然環境のように無償に近い形で提供されるものになります。そして、産業の中心は、文化と観光に移っていきます。それは、人間の求める需要が、豊かな物やサービスから、豊かな自分を形成するための経験や教育へと変化していくからです。
新しい経験を提供する観光と、新しい成長を提供する文化が、未来の社会の需要の大きな部分を占めるようになります。それに対応して、人間の行う仕事の多くは、多様な文化を教育サービスとして提供するものになっていきます。社会全体がひとつの大きな学校のようなものになり、互いにさまざま分野の先生や生徒として教え合い学び合うことが仕事と生活の中心になっていくのです。
このような社会で生きる際に大事なことは、自分の個性を生かした分野で第一人者になることです。その場合の個性は、持って生まれた個性ではなく、かけた時間に比例して形成された個性です。かけた時間に比例したものであれば、それを人に教える教育サービスとして提供することができるようになります。
オープン教育掲示板の管理運営は、この個性の形成に時間をかけるきっかけと考えることもできます。ボランティアであると同時に、未来の自由な社会を生きる自分身への投資ともなるような企画にしたいと思っています。
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青空と赤い百日紅
言葉の森では、これから来る社会と教育の大きな変革に向けて、変化の方向を先取りする具体的な企画を二つ考えています。
その第一は、作文の発表会を発展させ、プレゼン作文発表会を広げていくことです。プレゼン作文の発表を、言葉の森の通学教室だけでなく通信教室や森林プロジェクトの通学教室にも広げ、未来の日本の作文文化のひとつの形として提案していきたいと思います。
プレゼン作文発表会は、単にマルチメディアを利用したパフォーマンスではなく、家庭の文化、地域の交流に結びついたものとして発展させていく予定です。
第二は、全教科無料自習オプションを質量ともに広げていくことです。全教科の範囲には、国語、算数・数学、英語、理科、社会などの教科も当然含まれますが、それらの教科以外に、遊び、読書、躾、長文の音読暗唱、プログラミング、自然との交流、季節の行事、文化の伝承など、子供たちの全面的な成長に必要なものを幅広く取り入れていきたいと思います。
この全教科自習オプションも、通学教室から、通信教室、森林プロジェクトへと広げていきます。
子供たちの教育は、これからの社会も最も重要な柱になります。なぜなら、人間の成長と向上こそが、社会の発展と安定のもとになっているからです。
しかし、教育は限りなく無償に近いものになっていきます。それは、教育が、教材や先生や校舎に制約されたものではなくなるからです。
教材は、ネットの中でふんだんに作り出されるようになります。先生は、家庭と地域の身近な年長者が引き受けるようになります。校舎は、家庭の1室や地域の集会所などで間に合うようになります。ネットによる通信と、地域のミニ通学の組み合わせが新しい教育のスタイルになります。
こういう教育方式が、教育先進国である日本で成立すれば、それはそのまま世界に広げることができます。世界の発展の大きな障害となっているものは無知と貧困です。貧困は政治と経済の問題ですから、解決の手立てさえ決まれば、貧困の克服には時間がかかりません。しかし、教育は、これまでの教育スタイルで世界に広げようとすれば、膨大な予算と時間がかかります。未来の教育は、校舎を作り先生を確保し教科書を配布するという教育ではなく、無償のネット教材を家庭と地域で活用するという手間のかからない、しかし質の高いものになる必要があります。その新しい教育方法を、日本が開発し世界に広げるのです。(つづく)
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青空と白いサルスベリ
今、世の中が大きく変わろうとしています。それは、ひとことで言えば、人間社会の本来の姿に戻るという大きな変化です。
これまでは、その本来の姿を阻んでいたものがありました。それは、個人の生活においては、時間の制約と金銭の制約という形で現れていました。
しかし、これからは大きな流れの中で、その制約がなくなっていきます。つまり、時間にも金銭にも制約されない自由で豊かな社会が登場してくるのです。
それは、なぜかといえば、それらの制約によって成り立っていた社会の仕組みが、これから行き詰まってくるからです。
これまでの社会システムである資本主義は、人類の持つ生産力を大きく発展させました。しかし、その同じシステムが富の偏在を生み出すとともに、その偏って蓄積された富を社会の発展のためにではなく、社会の停滞のために用いるようになっていました。その不自然な状態が、富の循環という本来の状態に戻るのがこれからの社会の変化です。
自由で豊かな社会の発展によって、人間の生活は余暇が増え毎日が休日のようになってきます。また、人間の生活は物の不足によって不自由を感じることがなくなってきます。
そのような社会では、これまでの不足の時代を前提にした価値観は大きく変化します。この根本的な変化は、過去の延長上にある変化ではなく、過去がいったんすべてキャンセルされたあとの新しい創造的変化です。
6500万年前恐竜が絶滅したとき、魚類の進化の大爆発がありました。これまでの環境の制約がなくなったときの変化は、全面的かつ創造的なものです。そのときに大事なことは、まず最初に変化の方向を決めるということです。
前提となる環境があれば、その環境に対応することが変化の方向ですが、前提となる環境がなくなり、白紙のキャンバスに描くことが求められる時代には、変化の方向を自ら決めることが新しい環境になります。
自由と豊かさを阻んでいた大きな制約条件がなくなった社会では、教育に求められる方向も大きく変わります。新しい教育はまず、競争に勝つための教育ではなくなります。新しい教育の方向は、学力の向上とともに、創造性、共感力、社会貢献力を育てることを目指す教育になるでしょう。それは、人間の生きる目的が、もともと、幸福、向上、創造、貢献を人生の中で実現することだったからです。
そこで、言葉の森では、世の中の大変化より一足先に、新しい教育の方向を提案していきたいと思います。
変化の方向は、大きく四つ考えられます。第一は受験から実力へ、第二は学校や塾から家庭へ、第三は点数から文化へ、第四は競争から独立へ、です。
そして、教育の目的は、人間の生きる目的である幸福、向上、創造、貢献に対応して、共感力、学習力、創造性、社会貢献力を育てることになります。言い換えれば、教育の目的は、個性、知性、感性、実行を育てていくことになります。(つづく)
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私は、個人的には、SPIRIT の力だと思います。SPIRIT の意味は、心、気、精神、霊魂です。この幅広い意味を持つ言葉は、罪を犯した人間にも新たに生きるパワーを与えてくれます。
ティーさん、こんにちは。
スピリットというのは大事だと思います。
特に、今は、そういうものが年々強くなっています。
だから、世の中がいい方向に進んでいるのだと思います。
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オリンピック開催が決まってから、日本全体が明るくなった気がします。
もうほとんどデフレ脱却の気分。(気分だけですが)
人間の意識の力の大きさを改めて感じます。
もしかすると、アベノミクスの第5の矢は(そんなのあったか)、オリンピック開催をきっかけにして生まれたこのムードの変化だったのかもしれません。
そして、7年後の新しいオリンピックは、これまでのようにあまりにも勝ち負けにこだわったオリンピックではなく、文字どおりスポーツの祭典になると思います。
これまでの弱肉強食の競争社会が終わったあとの、世界中の人々が集まる大きなお祭りのようなものになるでしょう。
同じ変化は、教育にも生まれていきます。
今の教育は、受験という競争に勝つためのテクニックと詰め込みによって、科挙化した教育になっています。
これからの教育は、バランスの取れた学力と創造性と共感性と社会貢献を目指したものになっていくでしょう。
そんな7年後は、もう今日から始まっているのだと思います。
雲が切れて、空が明るくなってきました。
今日も、いい一日になりそうです。
垣根の隅から、ブーゲンビリアが顔を出していました。
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子供が将来社会に出て仕事をするときにいちばん役に立つのが、子供時代のよい習慣作りです。
例えば、ごく身近なことですが、返事は「はい」と言う。人に会ったら挨拶をする、などです。
勉強はほどほどにできていれば、社会生活で困ることはありません。
勉強のしすぎで、肝心のよい習慣作りが後回しになる方が困るのです。
その勉強のしすぎのかなり大きな要因が、宿題のような半強制的な勉強です。
逆に、よい習慣作りの最も大事な環境が、子供が自分で行う学習です。
宿題ということで子供の意志と無関係に勉強をさせれば、確かに成績は上がります。
しかし、その便利さに流されてしまうと、宿題があればやる、宿題がなければやらないという勉強スタイルになってしまいま。
大切なことは、家庭で行う自学自習の骨格を決めておくことです。
そして、起床、勉強開始、就寝の三つの時間を子供が自分で守れるようにしておくことです。
もうすっかり秋の空になりました。
今日は、まだ薄曇りですが、これからまた晴れてくるでしょう。
道の途中にある学校の柵に、かわいらしい実がなっていました。
夏の日差しでたくわえたエネルギーが、こんな形になったのでしょう。
それでは、今日もいい一日をお過ごしください。
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森リンの点数は、作文の点数というよりも、作文力の点数です。80点台後半の点数を取れるということは、作文力があるということです。
どのくらいの点数がどのくらいの作文力かということをわかりやすく言うと、森リン点90点が大学で言えば東大レベルです。これは、これまで森リン点でたまに90点を取るぐらいの生徒が、そういう学力を持っていたからです。
もちろん学力が成績になるためには、それなりの勉強の量と方法が必要です。しかし、森リン点が高いということは、それだけの潜在力を持っているということです。
ところで、森リン点は、点数を上げることを意識して書くこともできますが、本当は点数は結果に過ぎません。森リン点の結果を生み出す源は、読書の質と量とこれまでの思考の蓄積です。
だから、大事なことは、作文を上手に書くことではなく、本を読み自分の考えを深めていくことです。その読んだり考えたりした結果が、作文として表れてくるのです。
今回のピルルさんの作文を見ると、複数の方法という構成も、取り上げている実例も、反対意見への理解を含む主題も、結びの自作名言も、高校生としてとてもよく書けています。
これは、その場で努力してできるものではなく、普段からの読書と思索の蓄積があるからできることです。
これは、前に森リン大賞として載せた中2のききほさんの「
みんなちがってみんないい」にも、小6のりすっぴさんの「
お米は命!」にもあてはまります。
どの作文も、その背景に、その生徒の日本語力の蓄積があるのです。
高1のピルルさんが言葉の森を始めたのは、小4になったばかりのころです。そのころに、自分が高校生になってこういう文章を書けるようになるとは思っていなかったと思います。
誰にでも途中に様々なスランプがあります。しかし、勉強を続けていく中で、考える力や表現する力は確実についていきます。
他の教科、例えば算数数学や英語や漢字の書き取りなどでは、学年を越えた先取り学習ができます。しかし、作文はそういうことができません。
時々、よくできる低学年の生徒の保護者で、もっと先の学年の勉強をさせてほしいと言ってこられる方がいますが、作文はそういう先取りはできないのです。それは、この高校生の作文を見ればわかると思います。
どんなに優秀な小学生でも、高校生のレベルの文章は、高校生にならなければ書けません。そして、それで充分なのです。
だから、小学校中学年のころに、塾の勉強が忙しくなったからという理由で、作文の勉強をやめてしまう生徒がいるのは、本当にもったいないと思います。
それは、たとえて言えば、料理の最も栄養のある中身を、噛むのが大変だからと言って捨てて、表面の栄養のない着色した部分だけを満腹になるまで食べているようなことだからです。
何年かたったあとに、栄養のあるものを消化していた生徒と、栄養のない表面だけを食べていた生徒とでは、考える力に大きな差が出てきます。そして、その差は、大学に入り、社会に出るころには、更に大きな差になっていきます。
小6や中3の受験期に、一時的に作文の勉強と受験の勉強が両立できなくなることはあります。しかし、その受験の一時期が終わったら、またすぐに再開するという長い展望で作文の勉強を続けていくことが大事なのです。
7月の森リン大賞(高1高2高3社の部137人中)
ちがうということ
ピルル
私たちは多種多様な互いの差異を示し合う生き方をすべきだ。
そのための第一の方法は、極端に平等を良しとする発想をやめることだ。私が好きなイラストレーターに中原淳一という人物がいる。彼は男性だが、女の人の良さがとてもよく表現された華やかで可愛らしい作品をたくさん残している。私が読んだ彼のエッセイの一部に男女平等の考えについての彼の考えが書いてあった。彼は、男女平等とは、女らしさや男らしさの良さが混同され、消えることではないと書いていた。同等の機会が与えられるのは良いことだが、それぞれの違いがなくなるのはよくないと考えていたわけだ。私はこの考えにとても共感した。確かに男女ではまず体のつくりが違う。構造という基本的な根本の部分が違えば周囲の物事への感性や対応の仕方が違ってくる部分は大きいだろう。しかし、そうした違いが魅力であると彼は主張していた。部分的には差異が劣って見えることもある。しかしそれは固定観念が優越をつけるだけで、全体的にはどちらにも欠けた部分は無いとする考え方は、私にはとても自然で心地よく感じた。現代では、男女の違いは一方的な差を生み、またその差が悪いものであるとする風潮があるように思う。だが、元々あるものの事実から生じる違いを認めることが、それぞれの違いが光り、皆が幸せになれる本来の平等への道なのだと思う。
第二の方法は、子供たちに具体的な行動の方向性を社会が示すことだ。西郷隆盛の出身地である鹿児島県の加治屋町という集落に、郷中教育という教育方法がある。これは、集落の子供たちの年長者が年少者を指導、教育をするというものだ。指導をする範囲は広く、私生活から剣術、学問などを年長者は後輩たちに教えた。また、この教育方法では、剣術に優れないなら学問の能力を伸ばすというように、一つの型にこだわらず、多様性を認めていた。子供たちは個性を認められていたのだ。年長者は自分が幼い時、年上の子供に世話をしてもらったのだから、年少の子供たちにも同じように世話をする。この繋がりがずっと続いてゆき、信頼し合える頼りがいのある人間へと育てられてゆくのだ。問題を起こさせないよう、違いを目立たせずに教育しようとすれば、こうした教育はできない。はっきりとしたやるべきことの規定を周囲の社会が決めているからこそ、年齢の違う縦の繋がりの中、自分の立場を役割を見据えて自主的に行動できるのだ。もちろん、示された行動が子供たちの未来を限定するようなものでは意味が無い。周囲の環境が安定していることも大事なのだ。
確かに、違いはあっても同じ機会を与えることは大切だ。個性が人それぞれであるように、可能性もそれぞれで、必ずしも差異によって可能性は限られるものではない。しかし、差異とは他者と比べて欠点になるものではなく、比べる必要の無い美点である。自らの持つ特徴をいかして高いレベルへ登り詰めようとする行動は周囲にとってもその人自身にとっても利益となる。面倒事が起きないように差異をならして全てを同じにすることは、表面的には管理が楽かもしれないが、どこかでひずみが生じる。一人一人の差異を、偏見無くただの事実として認めることが、のびのびとした自分らしさとまとまった社会をつくるのだ。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
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1位 | ●ちがうということ | ピルル | 90 | 1342 | 62 | 82 | 85 | 83 |
2位 | ●自由な競争 | ゆまり | 89 | 1309 | 59 | 76 | 79 | 92 |
3位 | ●手助けをするとは | 森?外 | 86 | 1210 | 57 | 92 | 94 | 95 |
4位 | ●世代関係がないこと | きよほ | 86 | 1358 | 59 | 72 | 72 | 86 |
5位 | ●時代の変化 | らちす | 84 | 926 | 54 | 74 | 79 | 100 |
6位 | ●時代と親子の関係 | もぐ月子 | 83 | 1063 | 58 | 81 | 93 | 89 |
7位 | ●自分へのQuestion | なすび | 83 | 1090 | 58 | 74 | 70 | 83 |
8位 | ●様々な考え | なるか | 82 | 1327 | 56 | 105 | 97 | 86 |
9位 | ●競争心 | ハッピームーミン | 82 | 1056 | 53 | 66 | 65 | 93 |
10位 | ●社会で望まれるもの | ななみ | 80 | 858 | 52 | 72 | 78 | 90 |
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