小3の子が、学校から1200字の作文を書いてくるようにとの宿題を出されました。
字数には個人差があり、長く書ける子と、長く書けない子の差は、はっきりしています。
一般に、小3の生徒が書く字数は、300字から600字です。ですから、1200字の宿題というのは、どの子にとっても負担が大きすぎます。
しかし、こういう長い作文を書く方法は簡単です。
いっぺんに1200字を書こうと思うから大変なのです。日数に余裕があれば、1日目に400字、2日目に次の400字、3日目に最後の400字を書けば、合計で1200字です。
このやり方は、夏休みの宿題の感想文を書くときにも使えます。
ただし、1日目に何を書き、2日目に何を書き、3日目に何を書き、最後のまとめの感想をどういう形にするかというおおまかなレイアウトを考えるのはお母さんです。
小学生の子供は、小5になるまでは、そういうレイアウトはまずできません。
物事の全体の構造との関連で部分を見ることができる能力は小5から育つので、要約の練習なども小5からでないと無理があるのです。
作文の宿題というのは、あまり意味がありません。
書く力のほとんどは、読む力と考える力の結果であって、書く力そのものを伸ばす分野は限られているからです。
書く力そのものとして伸ばす分野は、構成力、字数力、表記力です。
作文の肉付けになる題材力、表現力、主題力のほとんどは、作文の中で勉強するものではなく、読む勉強と考える勉強の中で行うものです。
だから、小学校低学年で毎日日記を書くというのも、実はそれほど勉強としての意味があるわけではありません。
むしろ、日記を書かせて、書いたあと注意することによって、書くことを苦手にしてしまうマイナスの方が大きいのです。
子供に間違いだらけの作文を書かせて、それを次々と直すというのは、最もよくない勉強法です。
いい勉強法は、読む力をたっぷりつけて、自然に正しい書き方を最初からできるようにしておくという方法です。
では、なぜ言葉の森では、小1(あるいは幼長)から作文の勉強をすすめているかというと、週に1回作文を書くことによって、毎日の読む勉強と話をする勉強のきっかけを作ることができるからです。
「習い事は6歳から」とよく言われます。それは、6歳のころから始めたことは、勉強というよりも生活の一部になるからです。
週に1回作文を書き、毎日音読をし、時々お父さんやお母さんと対話をするということが生活の一部になると、それだけで勉強の最も大事な骨格ができたことになるのです。
消費者は王様で、お客様は神様だと言われていましたが、これまでの王様も神様も、自分が受け取るものの生産から疎外されているという点で、世の中に対して主体的に参加しているとは言えませんでした。
これからの消費者とお客様は、受け手でありながら送り手の側にも積極的に関わるようになります。
そして、消費と生産の双方向からの融合が進むことによって、人間は疎外された消費者や、ある職業に固定された生産者である前に、その人の個性によって生きる存在になっていくのです。
例えば、近所の八百屋さんで(今あまりありませんが)、大根を買った消費者が、別の日にはその大根を育てている農園で農作業に参加していたり、その大根を売っている八百屋さんが、休みの日にはお店を会場にして、自分の好きな音楽を近所の子供たちに教えていたりするようになるのです。
その時代はもうとっくに始まっていて、これからは、それがあらゆるところに広がっていく時代です。
言葉の森が今企画している森林プロジェクトやオープン教育も、そういう流れの中で生まれてきたものです。
「オープン教育」
https://www.mori7.net/ope/
人間が生産者や消費者や職業や社会的役割という属性から自由になるにつれて、人間は本来の個性で生きるようになります。
これまでの社会では、人間がそれぞれ特定な属性に縛られていたために、その属性のもとで全面性を獲得するためには、自分にないものを持つ他人を支配しなければなりませんでした。
その時代が長く続いたために、今でもまだ人は、自分にないものを持つ他人がいると、うらやましい気持ちが起きてきます。
そのうらやましさは、自分にないものを持つ他人に支配されたくないという感覚とうらはらの関係にあります。その感覚が、競争意識の源泉になってきたのです。
====facebook記事より。
人間が個性的になると、自分が持っていないものを他人が持っていることに対して、うらやましいという気持ちは起きず、むしろ他人の長所を喜ぶようになります。
それは、自分もまた、他人の持っていない長所を持ち、その長所どうしを互いに与え合う関係になるからです。
これからの社会では、競争意識は次第に稀薄になります。
競争を楽しむことはあっても、それに過度に燃えることはなくなっていきます。
むしろ、肝心の決勝場面で大技をミスして笑いを取るような余裕を、多くの人が持つようになってきます。
それは、競争そのものではなく、競争を味付けにした交流です。
そして、競争の前提となっていた支配と所有の時代は遠ざかり、共感と共有の時代が始まっていくのです。
▽関連記事
「勉強のよくできる子こそ個性を伸ばす教育を」
https://www.mori7.com/index.php?e=1905
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