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これからの世の中で大事なことは、自分の好きなことをすることです。
しかし、自分が何を好きかわからない人も多いと思います。
それは、好きなことの条件に、人から評価されることが結びついているからです。
好きなことは、他人から見て無意味に見えることでいいのです。
その無意味な楽しさを味わう練習が、子供時代の自由な遊びです。
これまでの世の中で人から評価されることが重要だったのは、評価されてお金を稼がなければ生活ができなかったからです。
しかし、自然の中で暮らすウサギやリスやスズメたちは、お金がなくても毎日当然のように生きています。
たぶん未来の人間の社会も、お金がなくても楽しく生きていけるほど豊かな社会になるでしょう。
そのときに必要なのは、楽しく生きる中身です。
子供のころ、無意味なことに熱中する時間が、その楽しさを育てている時間なのです。
大人になった今、昔役に立つと思ってやっていたことがあまり役に立たず、役に立てることなど考えずにやっていたことが大きく役に立っていると気がつくことがよくあります。
役に立つかどうか以前に、楽しいかどうかを基準にした生き方が、自然にかなった生き方なのかもしれません。
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速読とは、速く読むことです。しかし、精読とはゆっくり読むことではなく、繰り返し読むことです。
そのためには、読むときに文章に傍線を引いておくことです。
傍線を引く箇所は大事なところというのではなく、自分なりによくわかったところ、面白いと思ったところです。
そして、その傍線を引いた箇所を何度か斜め読みしていると、文章の全体がつかめてきます。
これが、「読書百遍意自ずから通ず」です。
しかし、子供たちは、傍線を引くということをなかなかしません。
学校や塾でやった国語の問題を見せてもらうと、ほとんどの子が問題用紙がきれいなままです。
教科書には落書きをせずきれいに使うことと言われているからかもしれません。
しかし、教科書でも、参考書でも、問題文でも、どんどん書き込みをして、自分の読んだあとを残しておく方がいいのです。
読書の場合も、面白いと思ったところに傍線を引いておけば、あとで読み返すときに、その傍線の箇所だけ読むと全体を思い出せます。
これまでは紙の本が中心だったので、傍線を引くと、他の人が読むときに邪魔になるということがありました。
しかし、これからは、本もデジタル化していくので、ラインマーカーを引いたり書き込みをしたりして、自分なりの読み方をすることがもっと容易になってくると思います。
▽関連記事
「国語の成績を上げるために――読解問題の解き方、記述の仕方」
https://www.mori7.com/index.php?e=1795
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ある教育サイトに、お母さんからの質問として、「飛ばし読みをしている様子で、肝心の質問の答えを読み取り損ねている」という相談がありました。
それに対する回答として、「文章の読み方には、『速読』と『精読』の2つがあり、問いに関連した問題文の部分を読むときはゆっくり『精読』で」ということが書かれていました。
それも、確かにいいと思います。
しかし、根本的には読む力をつけて、速読でも文章を読み取れるようにすることが大事です。
3色ボールペンで色分けをして傍線を引くということをしている人もいるそうです。
そんなことをしていると、「今日は緑がなかったから、傍線を引くことができなかった」となりかねません。
勉強でも何でも、できるだけ制約がないようにやっていくのがいいのです。
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子供は、周囲の人を見て、その人の動作や表情を真似ながら成長します。
お母さんが楽しく本を読んでいる姿を見ていると、子供も本に興味を持つようになります。
テレビがいつもつけっぱなしだと、音声の出てくるテレビを人間のように感じて成長します。
学校での勉強よりも、この家庭での模倣が子供の学力の土台を形成します。
もう子供が成長してしまった家庭でも、遅すぎることはありません。
今からでも、家族でできるだけ話をするといいのです。
その話も、結論の出ている意見や知識ではなく、それぞれの体験をもとにした話です。
そうすると、やがて子供が家庭を持つようになったときにも、同じようにその対話を続けるようになるでしょう。
小さい子供にとっては、話を聞くことが読書以上に思考力を育てていきます。
勉強の基礎は、学校でも塾でも通信教材でもなく、日常の家庭生活の中にあるのです。
▽参考記事
「決まったことをきちんとさせ、そして褒めること」
https://www.mori7.com/index.php?e=1794
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昔、パソコンが一家に1台の時代になる、と言ったら、話半分にしか聞いてもらえませんでした。
まして、1人に1台の時代になるというのは、口では言っても、自分自身がそれはかなり先のことだろうと思っていました。
しかし、今では、1人でパソコンを複数台持っている人もいます。
少し前までは、人間はみんな家族のようなものというと、笑い話のようにしか聞いてもらえませんでした。
しかし、今では、多くの人が多かれ少なかれそういう意識を持っています。
家族だったら、競争したり、相手よりも優位に立ったり、他人を支配したりする必要はありません。
自分と他人の区別はあっても、その区別が優劣の差になる度合いはほとんどなくなります。
そういう時代意識が、今加速しているように思います。
新しい時代の勉強は、他人に勝つために行うのではありません。
今はまだ、受験やら何やらで勝ち負けのゲームが残っているので、そのゲームに参加せざるを得ませんが、やがてそういうゲーム自体がなくなります。
そのときに残る勉強は、純粋に自分自身の向上のために行う勉強で、その向上と並行して、幸福や貢献や創造があるという関係になっていきます。
今はまだ雲をつかむような話ですが、予想よりもずっと早くそういう時代が来ると思います。
今日は、静かな雨の日曜日。
こういう日は、家の中で家族でできる楽しい遊びを工夫してみましょう。
facebookグループ「親子で遊ぼうワンワンワン」
https://www.facebook.com/groups/wanwanwan/
面白い遊びがあったら投稿してください。
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あるサイトに、「文を書くのが苦手な小3男子 中学受験の専門家がすすめる勉強法は?」という記事がありました。
質問の内容は、「普段読書をしないせいか、記述問題や作文、感想文などがとても苦手です。作文や感想文を書く際に「どう思ったか」「自分ならどうするか」を入れてみてはとアドバイスすると、本当にそれだけを書いて2行で終わる始末です。」ということでした。
この質問に対するアドバイスは、「文を書くことが苦手な子どもは、たいてい、お手本となる文章をあまり目にしていないことに原因があると思います。普段から読書をしていないと、表現や文章の構成をどのように書いてよいかわからないでしょう。対策としては、小学生新聞や通信教育などもよいと思いますが、他の子どもの作文を読ませて、書き方を“マネさせる”ことも1つの方法です。」として、、「インターネットで検索すれば、優秀な作文や感想文を見つけられると思います。そして、お手本の作文に沿って同じような構成で、子ども自身の体験の作文を書かせてみるとよいでしょう。」ということでした。
上手な文章を手本にして真似るということ自体は、いい方法です。
しかし、問題は、子供がそういう勉強を続けられるかどうかということです。同学年の子の上手な作文を書き写す勉強というのは、自分の文章がだめだからほかの子の真似をしなさいということですから、楽しいはずがありません。
これがもし、子供がもっと小さくて作文というものを書いたことがほとんどないような時期でしたら、手本を真似るというのはいいやり方です。しかし、その場合も、手本を真似るという意識ではなく、手本に馴染むというような感覚でやっていくことが大切です。
手本を真似るというのは、自覚した年齡の子が自主的にやるにはいい方法ですが、小学校3、4年生の子がそういう自覚を持つことはまずありません。
ところが、小学4年生までの子は、お母さんの言うことをよく聞きますから、そういうやりたくない勉強も続けさせられてしまいます。その結果、やがて親子の仲が悪くなり、子供は作文を書くことがますます嫌いになってしまうことも多いのです。
小学校3、4年生までに、自分の意思に反することを親に強制されていると、小学5年生ごろになり自己主張ができるようになると、今度は逆に親の言うことを聞かなくなります。
この強制が躾に関するようなことであれば、子供が反発しても、親には信念がありますから、子供はそれを強制とは考えずに自分の生き方のルールとして受け入れます。
しかし、勉強の仕方に関することは、親も試行錯誤でやっているので、続けることが難しい場合はうやむやのうちにやらなくなってしまうこともよくあります。すると、子供は、親に言われたことでも自分の嫌なことはやらなくてもよいのだということを学習するようになります。その結果、学年が上がると親の言うことを聞かなくなることが多いのです。
では、文を書くのが苦手な子に、文章を書く力をつけるためにはどうしたらよいのでしょうか。実は、もっと楽しく簡単にできる勉強法があるのです。
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作文が苦手な子に、その作文をいくら直しても、上手にさせることはできません。
上手になるどころか、ますます作文が苦手になることが多いのです。
では、上手な作文を手本にして書き写すというのはどうでしょうか。
それは、自分の文章がだめだからほかの文章を真似しなさいということですから、やはり楽しいはずがありません。
いい方法は、その子の書いた作文の中身をまず褒めてあげることです。
しかし、その際に、「でも、もっと漢字を使わなきゃね」とか、「もう少していねいに書かないと」とか、「この表現がおかしい」とかいうことは言わないことです。
誤字は直しておきますが、誤字を直すことが勉強の中心ではありません。
そして、作文を褒めてあげる一方で、長文の音読を毎日数分続けるのです。
子供が音読に飽きて、ふざけて読んでも気にしません。
音読についても、読み方を注意する必要はないのです。
音読を続けて半年もすると、子供の書く文章が違ってきます。
褒めて続けているだけで、自然に褒められるような実態があとからついてくるのです。
簡単(笑)。
●「漢字を使う」「ていねいに書く」は書いたあとではなく、書く前に言うこと
書く前の心構えとして、習った漢字を使う、ていねいに書くというのはいいのです。でも、それも大体できていればいいことです。
よくないのは、書いたあと、作文の中身よりもすぐ目につくところで、漢字を使う、ていねいに書くということを言ってしまうことです。
普段の作文は、中身のいいところを褒めていて、清書して作文を投稿するときなどに、漢字を使うことと、ていねいに書くことを目標にしていくといいと思います。
●事前の指導があると褒めやすい
書いた作文の中身を褒めるのもいいことですが、事前指導がそれに加われば、更に褒め方が具体的になります。
その事前指導のひとつが構成指導です。例えば中学生だったら、意見→理由1→理由2→意見、というふうに事前に書き方を指示すると、方向が決まるので書きやすくなります。
小学生の場合は、構成よりも表現の事前指導で、会話・たとえ・思ったことを入れて書く、というふうに事前に指示をすると書きやすくなります。
事前指導のいいところは、その指導をもとに合理的に褒めることができる点にあると思います。
●音読は、模範文よりも普通の説明文で
音読は、模範作文のようなものよりも、普通の説明文の方がいいと思います。読む力をつけるのが大事なので。
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教育の役割は、人間の能力を高めることにあります。
人間の能力の中心は知力です。知力の中心は創造力ですが、創造力が現実に役立つものになるためには、材料となる知識や技術が必要です。だから、現在学校で行われているような基礎的な知識や技能の習得が、教育の大きな目標になります。
人間の能力の中には、知力以外のものもあります。その一つが体力です。体力には、持久力、瞬発力、巧緻性などがあります。また、病気や怪我に対する抵抗力、治癒力などもあります。この体力を高めることも、教育の大きな目標です。
人間の能力には、知力、体力以外のものもあります。日本では、昔から知育、体育、徳育ということが言われていました。知育が知力を育て、体育が体力を育てるものであるように、徳育は徳力を育てるものです。教育の大きな目標の第三は、この徳力を育てることです。
徳力は、現実的な形では、次のような力として表れます。
まず、物事がうまく進む力です。現実世界は、物理的な法則のもとに動いています。だから、物事が生起する現象は確率的なはずです。しかし、人間が関わるものには、確率をわずかに超える現象があります。このわずかな差を生み出すものが徳力の一面である想念力です。
想念力は、知力や体力ほど確実な目に見えるものではありません。しかし、人間社会では、この想念力のわずかな差が、しばしば大きな結果の違いとなって現れます。
徳力のもう一つの面は、身の回りの危険や安全を察知する力です。人間は、二つの選択肢があった場合、そのどちらかをランダムに選ぶのではありません。客観的な裏付けはないものの、勘によってよりよいものを選びます。このよりよいものを選ぶ微妙な力が、徳力のもう一つの面である心眼力です。
この想念力と心眼力、つまり心身力を伸ばすのが、心身教育の目標です。
教育には、評価の手段と習得の方法が必要です。
心身力の評価の手段は、想念力や心眼力の小さなシミュレーションです。
心身力の習得の方法は、あらゆるものに対する分け隔てのない愛のようなものです。
これは、具体的にはさまざまな形で表れます。関英男さんの述べた洗心のようなものや、塩谷信男さんの述べた前向きな心や、中村天風さんが述べた積極心のようなものと考えてもよいでしょう。つまり、怒らない、不満を言わない、愚痴をこぼさない、不安を持たない、周囲に感謝し思いやりを持ち、いつも明るく幸福な気持ちでいて、勇気を持ち積極心で生きていくというような心の姿勢のことです。
世間一般で考えられている人間の徳というものは、徳育教育の目的ではなく方法として考えていくものなのです。
心身力の習得の重点には、個人差があります。ある人にとっては怒らないことが、他の人にとっては愚痴をこぼさないことが、また他の人にとっては勇気を持つことが重点になります。課題は、人によって違うのです。だから、その内容は、他人が決めるものではありません。また、他人がその度合いを評価するものではありません。ここが、道徳や宗教と違うところです。
心身教育が進むことによって、人間の能力は大きく発展します。しかし、人間は生身の肉体を持った存在ですから、どれだけ心身力が発達しても、知力と体力は別の課題として追求していく必要があります。
そして、やがて、知育、体育、徳育のバランスのとれた人間になるというごく平凡なことが、教育の目的として改めて了解されるようになるのです。
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これからの教育で重要になるのは、創造性を育てる教育です。
では、これからの時代に創造性を必要とする知的なフロンティアはどこにあるのでしょうか。
IT技術や金融工学には、もう新たな開発の余地はあまり残っていません。ロボット作りは、これからの新しいフロンティアになるでしょう。しかし、それ以上に新しい創造の分野は、実は日本語の中にあるのです。
日本語は、もともと教育性の高い言語です。日本人の平均的学力が高いのは、教育の成果だけでなくそれ以上に日本語という言語の成果です。
だから、将来の世界的な言語は、伝達のための英語が次第に機械翻訳などに置き換えられるとすれば、教育性を基準にした日本語になっていくと思われます。
この日本語の教育性を、今後は日本語の創造性に発展させていく必要があります。それを仮にハイパー日本語と呼びます。ハイパー日本語とは、概念の密度を高めた日本語です。
日本語は、自然描写や心情描写の語彙を豊富に持つ言語です。しかし、抽象的な概念の語彙はあまり持っていませんでした。それは、日本の文化が、議論や論争のような言挙げをしない文化だったからです。
日本語の概念言語の多くは、海外からもたらされました。例えば、矛盾という語彙は、盾と矛の故事から来ています。もし、誰もが正直な商売をする社会があるとしたら、そこでは矛盾という語彙や概念は生まれにくかったでしょう。助長という語彙は、植物が伸びるのを助けるために根を引っ張ったという故事から来ています。もし、誰もが植物の気持ちを考え不自然なことをしないという社会だったら、そこでは助長という語彙や概念はやはり生まれにくかったでしょう。
日本で概念的な語彙が発展しなかったのは、日本の社会が基本的に平穏な共感度の高い社会だったからです。
その平穏な社会が海外の文化との接触の中で概念語彙を受け入れるときに、漢字の造語力が役に立ちました。この造語力が、近代の欧米文化の流入の際にも発揮されました。エコノミー、フィロソフィーなどの欧米にある概念が、経済、哲学などの新しい漢語として日本語の中に組み入れられたのです。
欧米の表音文字で新しい概念を作るには、ギリシア語やラテン語の素養が必要だと言われています。日本語では、その役割を漢字の持つ表意性が担いました。
しかし、日本語と結びついた漢字の力にはそれ以上のものがあるのです。
それは漢字の表意性による概念形成力を更に発展させた漢字の概念圧縮力です。
日本語には、言葉を短縮して使うようになった語彙が数多くあります。例えば、ワードプロセッサならワープロ、デジタルカメラならデジカメ、電子卓上計算機なら電卓という具合です。
この言葉の短縮を概念の圧縮として使うことができます。
例えば、「鶴の恩返し」という民話があります。このストーリーの持つ概念は、読み手によって何層にも読み取れますが、この多層的な概念のひとつを「鶴恩」という言葉で表し、その概念を多くの人が共有すれば、それが概念の圧縮となります。宮沢賢治の「注文の多い料理店」という童話があります。この童話の持つ多層的な概念も、「注料」という言葉で表すことができるかもしれません。
人間の思考は、言葉を使って行われています。その言葉を組み合わせる力のもとになっているものは短期記憶です。ところが、短期記憶は一度に7つぐらいのまとまりしか同時に操作することができません。だから、小さい子供は、長い文の話をなかなか理解できません。それは概念の圧縮度がまだ低いからです。逆に言えば、長い文に接することによって、子供の思考力は伸びていくとも言えます。
大人の場合でも、ランダムな文字や数字は7つぐらいまでならそのまま保持できますが、それ以上になるとメモなどをしないかぎり保持できなくなります。
概念も同じです。人間がものを考えるときは、複数の概念を組み合わせながら思考を進めます。そのときに、一つ一つの概念が高密度に圧縮されたものであれば、思考の速度は何倍にも上がります。
この日本語における漢字の概念圧縮力を新しい日本語の可能性として発展させるものがハイパー日本語です。別の言い方で言えば、日本語の高密度の運用法です。
日本語は、将来日本人だけでなく、世界に広がる可能性を持っています。それは、日本語を使うことによって知識の習得や理解が速まるという教育性があるからです。この日本語の教育性に加えて、更に日本語の創造性を発展させたものがハイパー日本語です。
言葉の森では、オープン長文作成プロジェクトと結びつける形で、このハイパー日本語プロジェクトを提案していく予定です。
「弁証法」「限界効用」「即自対自存在」などの語彙には、その背後に大きな概念があります。しかし、これらの概念を身につけるには、その語彙が使われている本を読まなければなりません。辞書でわかるのは、主に小さな概念語彙です。大きな概念語彙は、辞書的な意味を知るだけでは、思考の道具として使うことはできないからです。
しかし、読書でも辞書でもない概念語彙の習得の仕方として、ひとまとまりの文章を繰り返し読む方法があります。繰り返し読むためには、その文章の内容が優れているとともに、表現も美的に優れている必要があります。それをオープン長文として作成していきます。
このオープン長文プロジェクトの仕組みは次のようなものになります。
まず、最初の作者が作った長文のタイトルを、例えば、「○○」バージョン1とします。その長文を改良(換骨奪胎)して新しく長文を作った人がいれば、それは「○○」バージョン1.1になります。更に別の人も、元のバージョン1を改良すればそれは「○○」バージョン1.2になります。そのバージョン1.2を改良した人がいれば、それは「○○」バージョン1.2.1です。そして、元の作者が、それらの改良をふまえてバージョン1を改良した場合、それは「○○」バージョン2になります。
このようにして、オープンな参加でよりよい長文を作っていくのです。
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