相撲でも、柔道でも、いろいろな技があります。上手投げ、一本背負い、大内刈りなど。
それらの技が型として作られているので、型の練習をすることが技を身につける練習になります。
ただの力や体の大きさで相手に勝つのではありません。技で勝つので、小さい者が大きい者を倒すこともできるのです。
力よりも技が物を言うのが、人間の動物と違うところです。
この技の型に相当するものが、作文で言うと構成や表現の項目です。
言葉の森では、作文のテーマに合わせていくつかの型を組み合わせて書く練習します。
例えば、複数の実例と一般化の主題、複数の理由と是非の主題、複数の意見と総合化の主題、複数の方法と当為の主題、複数の原因と社会問題の主題など。
こういう型の練習をしていると、作文試験の本番でも自然に構成のしっかりした文章を書くようになります。
力で書くのではなく技で書くのが、言葉の森の勉強法です。
しかし、技が効果を発揮するためには、それなりの力も必要です。
作文において力に相当するものは、豊富な語彙力です。
本をよく読んでいる子は作文もうまいというのは、読書によって語彙力がついているからです。
小学生の作文でよくあるのが、せっかくいい話を書いているのに、そのまとめの感想で、「楽しかった」「嬉しかった」「面白かった」などの平凡な言葉を使ってしまうことです。
読書の好きな子は、こういう平凡なまとめ方をすると、自分の中に何か納得できなものを感じるらしく、自然にもう一工夫をした書き方をします。
作文の勉強は、半分は作文の型の勉強で、もう半分は読書によって語彙力をつける勉強なのです。
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昔の江戸時代が、現代の科学と技術の中で再生したような、そういう時代がやがて来る。
誰もが往来で楽しく遊び、母と父のいる夕方の団欒がある。
勉強は、早朝から昼までの間に済ませ、午後には様々な創造や交流や貢献がある。
職業としての警察はなく、法律や罰則もほとんどなく、あらゆることが互いの温かな共感の中で認められる。
動物たちが人間と共存し、庭にも道にも花々が咲き乱れ、いつもどこかしらで宴会がある。
見知らぬ人たちも家族のように受け入れ、互いに相手を思いやり、美しく生きることが人生の基準になり、あらゆる動作が芸術になる。
花が咲き、鳥が歌うように、人間は絶えず創造する。
豊かさが溢れ、地表をどこまでも潤し、与え合うことが経済の法則になり、やがて地球が生き物たちの笑い声で光り輝く星になる。
そういう時代がもうすぐ来る予感がする。
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アジアの人々の大多数は、平和と繁栄を願っています。
だから、それを実現すればいいだけです。
なぜアメリカを入れないかというと、アメリカがアジアの小競り合いを望んでいるかどうかは別にして、アジアの未来はアジア人が決めるものだからです。
今ある紛争は、その紛争が起こった前の状態に戻せば済むことです。
それでもなお議論が残るとすれば、それはじゃんけんで決めてもいいのです。
じゃんけんでは不公平だと言うなら、アジア諸国の投票でハンディをつけたじゃんけんにすればいいのです。
そういう平和な共存ができる国々こそ、将来の新国際連合の土台です。
子供でも考えつきそうなこういう考えを実現できないのは、ただ勇気がないからだけです。
今日は、久しぶりの少し曇り空。
さすがに日が出ていないと風の冷たさを感じます。
しかし、この冷たい風の中で、植物たちは春の出番を準備しているのです。
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日本文化を世界に広げていくためには、どうしたらいいのでしょうか。
日本の文化は、言葉として表されていないものが多いので、その外見だけを文化の中身だと勘違いしてしまうこともよくあります。
例えば、お寿司。
素材を生かすというのは、ひとつの側面です。
しかし、その背後に、一見手間をかけていないように見せる思いやりの精神があります。
日本では、相手に負担をかけないように、「つまらないものですが」とへりくだる文化があるのです。
しかし、更にその背後に、寿司を握ることを手の技として限りなく深く追求していくという文化があります。
これが、お寿司という形あるものの裏にある見えない文化です。
この文化を世界に広げるには、形あるものを伝えるだけでは不十分です。
しかし、簡単に言葉にしてしまうとかえって根の浅い理解になってしまいます。
日本の文化を、深い本質でとらえ、しかもそれを言葉にするのではなく、言葉以外の形にすることがこれから必要になってくるのです。
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自分が日本文化の中に生きているので、これまで空気や水のように感じていましたが、それを言葉として把握し直さなければならないと思うようになりました。
というのは、日本文化的でない日本の子供たち(一部大人も)が増えているような気がするからです。
しかし、それを単に言葉で説明しても、相手には伝わりません。
日本文化を言葉でないものとして伝えるために、言葉による把握が必要なのではないかと思っています。
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子育ての目指す目標のイメージは、男は度胸、女は愛嬌ではないかと思うようになりました。
別の言葉で言えば、男は日本男児、女は大和撫子です。
わかりやすく言えば、男は格好いいこと、女はかわいいこと(外見ではなくね)。
そのそれぞれの勇気と美に、共通の知性と愛が加わるのが、理想の人間像ではないかと思うようになりました。
今は、知性の教育だけが突出している感がありますが、本当はバランスのとれた人間になることが大事なのだと思います。
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タブレットPCやネットワークの利用により、勉強はますます楽しくできるものになっています。
しかし、子供たちの学力がつくのは、教えてもらっているときではありません。
いい教材、いい先生というのは、ひとつの条件ですが、最も大事なのは子供がひとりで考えて理解して納得したときです。
だから、見た目に華やかな授業の場面ではなく、静かにひとりで考えているときに、本当の学力がついています。
勉強の基本は、家庭での学習です。
しかし、家庭の学習は、その習慣が軌道に乗っていないと、なかなか続けられません。
そこで、その家庭での学習に目標を作るために、自習検定を行うことにしました。
教科は、漢字、英語、算数数学、長文です。
https://www.mori7.net/jks/
12月4週に、言葉の森の生徒の希望者を対象に検定試験を行い、その後、様子を見て、一般の人も参加できるようにしたいと思っています。
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ある教育サイトに、「物語文の心情を読み取るのが苦手」という相談がありました。その相談に対する回答は、「易しい問題は近くに答えがあり、難しい問題は遠くに答えがある」というような内容でした。
これは、確かにそのとおりです。こういう問題作成の仕組みを知っていると、対応の仕方も工夫できます。例えば、難しい問題を出す学校であれば、答えはそんなに近くにはないはずだという見通しが立てられるのです。
しかし、このテクニックで差がつくのはわずかです。根本的な差は、物語文の心情を読み取れるかどうかです。
そのコツは、その物語を没頭して読むことです。自分がその物語のひとりの登場人物として、物語の世界を経験しているかのように読むと、周囲の景色やほかの人の心情が手に取るにようにわかってきます。
こういう読み方をしていると、問題を見たときに、元の問題文と照らし合わせなくても、自分の経験をふりかえることで答えの見当をつけられます。問題文に戻るのは、その見当を確認するためです。その確認をしやすくするために、問題文にはあらかじめ傍線を引いて読んでおくのです。(傍線を引くのは、大事なところではなく、自分がピンと来たところです。)
では、物語文に没頭する読み方は、どのようにして身につくのでしょうか。それは、比較的易しい楽しい本を熱中して読む経験を重ねることによってです。
だから、読書は、難しい本を精読するとともに(精読とは繰り返し読むことです)、易しい本を多読するという両方の読み方が必要になってきます。
小学校時代は、国語の問題集を解くような勉強をするよりも、好きな本をたくさん読んでいた方が国語の実力がつくのです。
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先日、作文を手書きで書く理由についての質問がありました。そのときにお答えした内容をもとに、今後の作文の方向を考えてみました。
言葉の森では、ウィンドウズ95の前のウィンドウズ3.1の時代からパソコンを仕事に使っていました。
その後すぐに、小学生の生徒にもパソコンで作文を書かせるようにしたので、作文へのパソコン利用は、たぶん日本でいちばん早かったぐらいだと思います。
https://www.mori7.net/hana/indexhana.php
当時、パソコンで作文を書くようにした理由は、
・見た目がきれい
・編集が用意
・疲労度が少ない
・速く書ける
ということでした。
しかし、数年前に、構成図(マインドマップのようなもの)を書かせるようになったころから、手書きの方が考えを深めやすいとわかってきました。
作文には、考える過程と書く過程がありますが、考える過程は手書きで、書く過程は手書きでもパソコンでもどちらでもよく、清書したり速く書いたりする必要があるときはパソコンで、というふうな使い分けをした方がいいと思うようになりました。
手書きのメリットは、
・思考と手が一体化しているのでストレスがない(パソコンだと同音異義語の変換などでときどきブレーキがかかる)
・平面が自由に使えるので、縦横斜めに自由に書け、文字の間に記号や絵なども自由に入れられる
・今の作文試験は、まだ手書きが主流
・手書きによって初めて、うっかり間違えて覚えていた誤字がわかる
などです。
今後の作文は、どのようになっていくかというと、その一つの大きな方向がプレゼン作文です。
作文は、文章を書くことが目的なのではありません。何かを考えてそれを表現することが作文の目的です。その思考と表現の手段として文章を書くということがあります。
表現の方法を追求していけば、文章が基本であるのは変わらないとしても、そこに図や絵のようなものも当然付随するようになります。また、他人にわかりやすく伝えることを目指せば、自然に画像や動画や音楽も用いるようになるでしょう。
今のパソコンはまだ、テキスト化された文字とアナログ的な図や絵を自由に組み合わせて使うにはかなり不便です。
そこで、当面は、次のような使い方になると思います。まず、普段は、考える過程も含めて手書きで作文を書きます。清書のときは、パソコンで入力します。発表するときは、そこに図や絵や手書きの文字を組み込むようにします。
このように考えると、将来の作文は、作文+図や絵のようなものになっていくのではないかと思います。
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