[:りんご:] 「会話」
小学生の場合、男の子は一般に会話を書くのが苦手です。出来事を数字や名前を使って説明的に書くのは得意ですが、会話を使って描写的に書くことはあまりしません。これはその子の興味の対象が描写ではなく説明にあるからです。極端な場合は、どこか旅行に出かけたときなどの作文で、「次は○○という駅で○番線から○時○分の○○という電車に乗り、○時○分に○○という駅に着いた。そのあと……」というような話を会話を一つも入れずに延々と書きつづける子もいます。こういう作文は、小学生のころの作文としては高い評価はされないと思いますが、こういう子が中学生や高校生になると説明のしっかりしたいい文章を書くようになります。逆に女の子の場合、情景描写が得意なことが多いので、小学生のころはじょうずな作文として評価されがちですが、中学生や高校生になって逆に幼稚な文章になってしまうこともあります。
[:パン:] 「たとえ」
「たとえ」は小学生の作文の表現力として重要なものですが、この「たとえ」の苦手な子の中に、真面目すぎて「たとえ」が苦手という子がいます。「たとえ」は発想の飛躍や柔軟性がないと思いつきにくいものですから、あまり真面目に考える子は、「たとえ」が苦手になるのでしょう。
[:カレー:] 「感想」
感想の部分がものたりない子は、一般に大人との対話が不足していることが多いようです。いつも「楽しかったです」でまとめてしまうような作文を書く子です。お母さんやお父さんとよく話をしている子は、感想の部分にその子らしい独特の感じ方や考え方が出てきます。
[:ワイン:] 「ことわざの引用」
ことわざの引用が得意な子は、家庭での会話の中でお父さんやお母さんからことわざを聞いて育っているということが多いようです。逆に、家庭でことわざを使って話すような場がないと、高校生ぐらいになってもことわざをほとんど知らないという子が出てきます。ことわざは、ことわざ辞典などで勉強して身につけることもできますが、やはり日常生活の中でその場面にあったことわざを聞くことで生きた使い方ができるようになってくるようです。
[:おにぎり:] 「一般化の主題」
小学6年生で勉強する「一般化の主題」は、「○○は人間にとって……」という感想を書く書き方ですが、ちょうど小6のころはこういう大きいとらえ方ができ始める年齢にあたります。一般に女の子の方が男の子よりも1年ほど早めに精神的に成長しているので、女の子は比較的楽にこういう書き方ができるようになりますが、男の子はしばらく苦労するようです。そういう場合は、とりあえず形の上だけでできればいいというぐらいに考えておくといいと思います。次第に、その形に内容が伴うようになってきます。
[:ケーキ:] 「理由、方法」
中学生以降の構成の練習で出てくる「理由」や「方法」は、抽象的な思考力を必要とします。意見に合わせた実例を考えるだけならすぐに思いつく子も、その意見に合わせた理由や方法を考えるとなるととまどうことがあります。理由や方法を考えるということは、ものごとを構造的にとらえるということですから、思考力がはっきり出てきます。中学生以降の作文の勉強では理由や方法を考える力が作文の実力に比例します。この力を育てるためには、長文音読や難読が必要です。
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学校での勉強の目標は、ひとことで言えば受験におかれています。ですから、ここだけを見れば、受験に関係の深い英語・数学・国語の成績を上げることが勉強の中心的な課題のように見えてきます。
なかでも、中学・高校受験では数学の出来が受験の結果を大きく左右し、大学受験では英語の出来が合否に大きく影響します。したがって、勉強の中心は英語と数学の力をつけることにおかれがちです。
しかし、将来に生きる学力ということを考えると、英語・数学よりも、国語の力、特に読解力と表現力をつけることを重点におく必要があります。例えば乱暴に言うと、聖徳太子は英語も数学もできませんでした(笑)。しかし、読解力と表現力は十分にあったはずです。英語と数学が勉強の中心になったのは、日本では当然、明治以降のことです。
英語と数学が受験勉強の中心になっているのは、英語の技能や数学的な考え方がその後の人生に役に立つからという理由ももちろんありますが、それ以上に、勉強の範囲が広く深いので試験問題を作りやすいからだという事情があります。
例えば、高校受験の数学の中心となる図形の問題は、簡単に言えば知的なパズルです。やりだせば、ゲーム以上におもしろいものですが、そこで使われている頭は、仮想の空間の中でだけ通用するものです。同じように、英語をはじめとする他の教科の問題も、本質的にはクイズです。だから、「いやあ、お父さんは、もう卒業してだいぶたつから、勉強のことはわからないなあ」などと平気で言って暮らしていけるのです。
しかし、卒業してからも確実に伸びる学力があります。それは読解力です。ある新聞社の調査によると、会社の役員から社員までに国語の読解力の問題を出したところ、点数は役職に比例したそうです。つまり、学校を卒業したばかりの人よりも、実生活で苦労を重ねてきた人の方が、読解力があるということです。
受験のために英語と数学に力をさくことは当然必要ですが、将来に生きる学力ということから考えると、国語力なかでも読解力をつけることはそれ以上に大切だということがわかります。よく「勉強が忙しくて本など読んでいられない」という中学生や高校生がいますが、読書こそ最も力を入れる勉強なのだと考え方を変える必要があります。
そして更に、勉強以外の能力にまで目を向ければ、読解力や表現力以上に大切なのが、よりよく生きようとする意欲だと言えるでしょう。
[:チョキ:]
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中学受験や高校受験でも、文章力が評価される機会が増えてきました。それに伴い、学習塾などでも作文指導を行なうところが増えています。
言葉の森とほかの作文教室との違いは、その内容にあります。言葉の森の教材はすべてオリジナルで、小学生から高校生まで継続して勉強することを前提にして作られています。この長期間にわたる学習ができるかどうかが作文教室を評価するいちばん大きなポイントです。
言葉の森の受講生の保護者の中には、自身が学習塾を経営していたり、全国的にもトップクラスに入る塾や予備校の国語の教材製作部門を担当している方もいらっしゃいます。このことは、私たちの作文指導が他には見られない優れた内容のものであることを示しています。
春の無料体験学習 好評受付中
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言葉の森 とても興味を持っています。
中学生だと、定期試験の時には
学校の試験勉強中心になってしまうと
思うのですが、中学生のみなさんの提出状況は
どんな様子でしょうか。
また、感想文が苦手な子供ですが、中学生コースの
論文を読んで感想を書くのは難しくないでしょうか。
振替の授業が受けられますから、真面目な子は、定期試験のときは休んで、その前後に休んだ分を書いています。教室にお電話くだされば、休んだ週の分も電話で説明するようになっています。
提出率は、こういう通信指導の教室としては、たぶんほかに類を見ないほど高いです。
ただし、作文はほかの勉強と違って、一日にいくつも書くことはできません(一つ書くのにも精神的エネルギーがかなり必要なので)。無理のない範囲で振替をしてください。
言葉の森の感想文指導はオリジナルなもので、ほかではやっていないものです。どの子も楽に書けるのが特徴です。しかしもちろん、その後の上達は、自習の度合によります。
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公立中高一貫校の入試では、学力検査は行われず、作文、適正検査、面接などで合否が決まります。「環境をテーマにした文章を読み、自分の体験を交えて答える」など、身近なテーマで自分の考えを表現させる記述式問題が多いのが特徴です。書く力が最重要視されると言っても過言ではありません。いくら知識を持っていても、その知識や情報をもとに、
自分で考え、文章として表現する力がなければ太刀打ちできない試験です。長い文章を書かせることで、本当に力のある子供を選びたいというのが学校側の意図するところなのです。
もちろん、
文章を書く際の論理性や構成力も要求されます。そのためには、
さまざまなテーマの文章を読み、それに対する自分の意見を、構成を考えながら、論理的に整理して書くという練習を積み重ねておくことが大切です。
言葉の森では、入試の5ヶ月前より、志望校の出題傾向に合わせて勉強する
受験コースを選択することができますが、通常のコースでも公立中高一貫校の作文入試に対応する力は十分につくはずです。公立に限らず、中学、高校、大学の入試科目に作文、小論文がある方は教室(0120−22−3987)までご相談ください。
[:いぬ:]
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小学生の国語の成績は、読書量や精神年齢によるところが大きく、長い時間をかけて勉強すれば成績が上がるというわけではありません。もちろん、漢字、文法、慣用句等は時間をかければそれなりの成果が上がります。しかし問題は、読解力です。
言葉の森では、長文音読を毎日の課題にしています。これが、読解力、記述力を育てるのです。学年相当よりも難解なものを読むというところがポイントです。
特に、小学5年生以降の教材は、難関中学入試問題レベルの説明文・意見文となります。毎日、この長文(1500字程度)を音読することが中学入試に必要な読解力をつける基礎となります。(慣れてしまえば、ほんの数分しかかからないこの作業ですが、受験生にとって、毎日音読をするというのは簡単なことではないようです。でも、実行した人は、確かに成績が上がっています。)
作文に関しては、小学2年生までは自由作文が中心ですが、小学3年生からは月に一度、小学5年生からは月に二度、長文の感想文を書く勉強をします。毎日の音読の上に、長文のテーマに沿った感想文を書くという勉強が読解力と表現力をつけていきます。作文の勉強を始めて数ヶ月もすれば、国語の記述問題を空欄で提出するようなことはなくなります。
勉強時間は、毎日の長文音読が5分〜10分、週に一度の作文・感想文が1時間〜1時間半です。これだけの勉強を続けていけば必ず国語の成績は上がります。
[:太陽:]
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前回は、読点の打ち方と批評の仕方について書きましたが、今回は全体の章について書きたいと思います。
第一章は、「かかる言葉と受ける言葉」についてです。本多氏は、「かかる言葉と受ける言葉は近いほどわかりやすい」と述べています。これはそのとおりです。例えば、「美しい水車小屋の娘」よりも、「水車小屋の美しい娘」の方がわかりやすいということです。しかし、文章の目的は、「読む側にとってわかりやすく」書くことにあるのではありません。「自分の書きたいことを読む側にとってもわかりやすく」書くことにあります。自分の書きたい順序で読み手にもわかりやすく書くために、句読点の工夫があります。シューベルトの歌曲集で、「美しき水車小屋の娘」という標題があるのは、その詩の訳者が「美しき」をまず伝えたかったからでしょう。「水車小屋の」をまず伝えたかったのなら、「水車小屋の美しき娘」となったはずです。論理的にどちらがわかりやすいかということ以前に、自分が何を先に伝えたいかということがあるのです。その上で、誤解を避けるために「美しき、水車小屋の娘」などという句読点の工夫が出てきます。決して句読点の論理が先にあって、それに合わせて語順を入れ替えればいいというのではありません。
第二章は、「かかる言葉の順序」についてです。本多氏は、「節を先にし、句をあとに」「かかる言葉は長い順に」と述べています。これもそのとおりです。例えば、「年輪のゆたかなよく育った太い竹」の方が「太くよく育った年輪のゆたかな竹」よりもわかりやすいということです。しかし、ここでも大事なことは、書き手が何を先に伝えたいかという意識が最初にあります。「太くよく育った」をいちばん言いたいのなら、その言葉を最初に持ってくることは何もさしつかえありません。その上で誤読を避けるために、句読点の工夫をするのです。
第三章は、「テンやマルの打ち方」についてです。本多氏は、読点は論理を明確にするためのものだと位置づけ、論理に合わないテンは間違いだと決めつけます。そうでは、ありません。読点は文章をわかりやすくするために打つものです。そのために、ある程度の論理的な裏づけが必要なのです。本多氏の作文技術では、「論理のテン」→「読み手にわかりやすく」→「語順を入れ替える」と進みますが、本当は、「自分が伝えたい語順」→「読み手に分かりやすく」→「必要に応じたテン」→「論理の裏づけ」となるのです。
第四章は、「漢字の使い方」についてです。本多氏は、漢字とかなはわかち書きと同じ役割で、文章を読みやすくするためのものだと述べています。だから、「『漢字』にするか『かな』にするかは、その前後で適当な方を選ぶ。無理に統一してはならない」と続けます。だから例えば、一つの文章の中で「いま」と「今」が前後の関係で適当に混在していてもよいというのです。それでもわかりにくいときは、本当にわかち書きにすればよいと話は進みます。なぜ、こういう無理な論理展開になるかというと、読点を論理のテンと限定したために、漢字とかなでつじつまを合わせなければならなくなったからです。漢字とかなは、書き手の文字感覚で、書きたい方を選ぶというのが普通だと思います。「いま」と書く人はどこでも「いま」と書くでしょうし、「今」と書く人はどこでも「今」と書きます。前後の関係で漢字にするかかなにするかを決めるというルールは、多くの人にとって逆に違和感のある書き方だと思います。
第五章は、「助詞の使いかた」についてです。「は」や「が」や「も」についての説明が書かれていますが、この章が中学生の作文技術にとって特に何か有用なものを提供しているとは思えませんでした。
第六章は、「改行を考える」です。段落は思想の一単位だから、論理的におのずから決まってくると、本多氏は述べています。しかし、必然的に決まると言えるほど明確ではないのが段落です。書き手の考え方によって、文章は大きくくくられることもあれば、小さくくくられることもあります。本人は話が新しい段階に入ったつもりでも、ほかの人は必ずしもそうは思わない場合もあります。段落は文章を読みやすくするためにあるのです。そのために、論理的に話が変わってくるところで行を変えるのです。決して論理が先にあり、論理的であれば読みにくくてもいいというのではありません。本多氏は、サルトルの「自由への道」で一冊の本の半分にあたる一章全部が改行ゼロだった例を挙げていますが、それはサルトルが文学的な効果を意図して書いたか、よく考えないで書いたからだと思います。サルトルは、主著の一つである「弁証法的理性批判」でも、あまりよく考えを整理しないで書いている印象を私は受けました。
第七章は、「無神経な文章」についてです。悪い文章を例に挙げて批判することは、文章の勉強を最初のうちだけは上達させます。しかし、悪い例の批判をいくら続けても、上手な文章を書けるようにはなりません。教育の基本は、よい文章を読むことによって、よい文章を書く力をつけることです。悪い文章を批判することによって、悪い文章を書かないようにすることは、教育の導入期にだけ必要なことです。そして、悪い文章を批評する場合も、大事なことは、批評の仕方の思いやりです。本多氏の批評にあるような「ヘドが出そう」「いやみったらしい」のような言葉を中学生どうしが互いの作文の批評に使うとしたら、その作文の授業はかなり寒々としたものになると思います。
第八章は、「リズムと文体」についてです。自分の好きな文章の例は、だれでも自分の好みでいくらでも出てきます。しかし、このような好みの文章の羅列が、中学生の作文力の向上につながるとは思えません。
本多氏は最後に、文章改良の例を書いています。ここが、本多氏のこれまでの作文技術の集大成と言えるところでしょう。しかし、その改良のもとになる文章は、「芝生をいためる球技等の行為は厳禁する」という短い標語でした。(笑)
「中学生からの作文技術(本多勝一)」批判(1)
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作文指導に関してテキストとなるような本が少ない中で、この本が中学生の作文指導に使われることもあると思うので、何点か批判を書いておきたいとと思います。
第一は、読点の打ち方についてです。本多氏は、「長いかかる言葉が二つ以上あるとき、その境界にテンをうつ」と述べています。これはそのとおりです。また、かかる言葉の順序として、「句より節を先に」「長い言葉から先に」と述べています。これもそのとおりです。
例えば、「村はずれにあるうちの雑木林を開墾する」という文があった場合、「村はずれにある→雑木林」「うちの→雑木林」と、かかる言葉が二つあります。これを、短いほうのかかる言葉を先にして「うちの村はずれにある雑木林を開墾する」と書くと、誤解が生じる可能性があります。だから、本多氏の説明で言うと、「うちの」を強調して先に置きたい場合は「うちの、村はずれにある雑木林を開墾する」とするということです。これも、そのとおりです。
しかし、ここからが問題で、本多氏は、「村はずれにある、うちの雑木林を開墾する」のテンは不要だから間違いだと主張します。理由は、「村はずれにある」という言葉は終止形と同じなので、マルと誤解されるからだと言うのです。もちろん、その可能性はあります。しかし、かつての国語表記法では、このテンを打つ方が原則だったのです。
昭和21年3月に文部省教科書局で作成された句読法の案では、「テンは副詞的語句の前後にうつ」「その上で、口調の上から不必要のものを消す」「形容詞的語句が重なる場合にも前項に準じてうつ」としており、その例としてしっかりと「村はづれにある、うちの雑木林を開墾しはじめてから、」という例が載っています。
句読点が日本語の中に成立したのは、たかだか百年前後のことです。テンの打ち方については、まださまざまな揺れがあるのです。特に読みにくくなければ、いずれも許容範囲です。どれか一方が正解で他方が誤りだというのは、頑なな見方だと私は思います。
また、終止形と同じ形だと誤解されるとは言うのは、あまり説得力のある理屈ではありません。例えば、私たちが口頭で話す場合、長いかかる言葉が二つ以上あるときは、それが終止形であっても、いったん息を継ぎます。「村はずれにあるうちの雑木林を」というのは一口でも言えますが、「村はずれにあるうちの古い大きな雑木林を」という文になれば、多くの場合、話し手は「村はずれにある」でいったん息を継ぎます。そのときに聞き手は、「村はずれにある」までを聞き、その後それが終止形となるか連体形となるか二つの可能性を予測しながら先の言葉を待っているのです。だれも、「終止形で息継ぎをするなよ」などとつっこみません。(笑)書き言葉は常に話し言葉からの影響を受けています。だから、終止形と同じ形の連体形でテンを打つということも、それなりに自然な打ち方なのです。
二つの可能性があるものの一方だけを原則とし、他方を反則とする論理は歯切れがよいので、中学生にはわかりやすいかもしれません。しかし、その歯切れのよさは、実は考え方の一面性に基づいている歯切れのよさなのです。
第二は、本多氏の文章の持つ人間性についてです。本多氏は、悪い文章の見本として朝日新聞の声欄の投稿の一つを挙げ、次のように書いています。
「一言でいうと、これはヘドの出そうな文章の一例といえましょう」「最初から最後までうんざりさせられるだけの文章だと思うに違いありません」「手垢のついた、いやみったらしい表現」。
「中学生からの作文技術」の188ページに載っていますから、時間のある人は書店で立ち読みして確認されるといいと思います。当の批判された文章は、ごく普通の文章です。多少紋切り型の表現が多いと思いますが、文章で大事なのは伝えようとしている中身であって、伝え方の巧拙ではありません。書店で確認する時間がない人のために引用すると、こういう文章です。
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只野小葉さん。当年五五歳になる家の前のおばさんである。このおばさん、ただのおばさんではない。ひとたびキャラバンシューズをはき、リュックを背負い、頭に登山帽をのせると、どうしてどうしてそんじょそこらの若者は足もとにも及ばない。このいでたちで日光周辺の山はことごとく踏破、尾瀬、白根、奥日光まで征服したというから驚く。
そして、この只野さんには同好の士が三、四人いるが、いずれも五十歳をはるかに過ぎた古き若者ばかりなのである。マイカーが普及し、とみに足の弱くなった今の若者らにとって学ぶべきところ大である。子どもたちがもう少し手がかからなくなったら弟子入りをして、彼女のように年齢とは逆に若々しい日々を過ごしたいと思っている昨今である。
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別にいいじゃん。(笑)そんなひどい言い方で批判するなよ、と私は思います。
もし、身近な人に、「あいつの言っていることはわかるが、言い方がむかつくんだよな」などという人がいたら、私はその言われた人よりも言っている人の程度の方が低いと思います。
教育でまず大事なことは、テクニックではなく人間性です。作文の技術を身につけるよりも、作文を書く姿勢の方が大事だと私は思います。私たちは、じょうずな文章を書くよりも前に、よい生き方をするべきなのです。せっかく一生懸命に書いている人の文章に、「ヘドが出そう」だとか「いやみったらしい」などという言葉で批評する感覚は、勉強以前に人間の生きる姿勢として問題なのです。想定されている読み手が中学生であれば、なおさらこのことが言えると思います。
「中学生からの作文技術(本多勝一)」批判(2)
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昨年、「パワーVSフォース」という本の紹介をしました。そこで、キネシオロジーという人間の筋肉の反応を利用した正誤判定が可能らしいということを書きました。
その後、同じ著者の本が何冊か出版されているので、アマゾンで注文して読んでみました。と言いたいところですが、英語で書いてあったのでほとんど読めませんでした。
ところで、最近の著書「トゥルースVSフォールスフッド」をつまみ読みすると、このキネシオロジーテストの限界が逆に明らかになっていました。
今回は逆に、このキネシオロジーという発想のマイナス面に光を当てておきたいと思います。
これは、キネシオロジーに限らず、宗教や占いをはじめとするすべての超越的なもの(現実の理解を超えたもの)について当てはまることです。一言で言えば、これらの超越的なものには、正しい要素と誤った要素が分かちがたく結び付いており、人間が強力な常識を持たなければその正誤を分別することができないということです。そして、多くの人は、超越的なものの力に圧倒されて常識の方を放棄してしまうようです。
このような意味で、すべての宗教は基本的にオウム真理教と同じ性質を持っています。個々の宗教で、例えば輸血をしないとか肉食をしないとかいうのは、個人の信条の自由として尊重されなければならないことは当然です。しかし、その宗教がもし政治的権力を持つようになった場合、他の人に対して「輸血をすべきではない」とか「肉食をすべきではない」ということを強制する可能性があるのです。なぜならば、それらの信条は個人の自由意志によって為されたものであるにも関わらず、神からの命令として実行されているからです。「私がしたいから」という話であれば、対話の余地がありますが、「神様がそう言ったから」では人間どうしの対話は成り立ちません。そして、対話がない中で対立を解決する手段は、結局暴力にならざるを得ないのです。これが宗教の弱点です。
キネシオロジーは、のべ何百万人もの実験データによって科学的な裏づけを持っているかのように叙述されています。しかし、ここにはその実験データを解釈する仮説の側に大きな誤まりがあるのです。それは、キネシオロジーは、客観的な正誤を判定しているのではなく、その人の意識(又は無意識)の中にある正誤を判定しているに過ぎないということです。
同様のことは、水の結晶のようなことにも言えると思います。「ありがとう」という紙をはったコップではきれいな結晶ができ、「ばかやろう」という紙をはったコップでは醜い結晶しかできなかったという実験です。ここでも、考えられることは、水が紙に書いてある字を読んだわけではなく(笑)、紙をはった人の意識を反映したのだろうというのが、普通の常識的判断です。
エドガー・ケイシーは、無意識のリーディングの中で、人間が知ることのできなかったさまざまな真実を明らかにしました。しかし、ここに登場する神様は、キリスト教というきわめてローカルなものに限られています。キリスト教以外のあらゆる宗教の神が登場することのない真実は、やはり一面的な真実だろうというのが、普通の常識的な考えです。
心理学の実験で、被験者に苦痛を与えることが必要なのだと説明された人のほとんどは、平気で他人に苦痛を与えることができたそうです。この場合も、「たとえ必要なことであっても、他人に苦痛を与えることはしたくない」と言うのが常識を持った人間です。そして、「苦痛を必要としない方法を考えよう」と提案するのが創造的な人間です。しかし、整然とした理屈に対抗するだけの強力な常識を持つ人さえほとんどいなかったということをこの実験は示しています。
キネシオロジーは、自分の肉体にとってプラスかマイナスかということは正確に判断できると思います。これはOリングテストと同じです。ビタミン剤と人工甘味料を袋に入れて、キネシオロジーテストによって中身を判断するというのは可能だと思います。
また、自分の知っている身近な人が、自分にとってプラスかマイナスかということも、同様に判断することは可能だと思います。これは、常識で考えてもありうることで、何となく話が合う人と合わない人がいることは多くの人が経験していることだからです。
しかし、ここから話を拡大して、自分が直接には知らない人、例えばガンジーとかマザー・テレサをキネシオロジーが判断すると言った場合、そこで判断されているのは、ガンジーやマザー・テレサというリアルな人間ではないはずです。キネシオロジーが判断しているのは、人々の意識の中にある、又は、メディアを通して知らされた知識の中にあるガンジーやマザー・テレサです。これが常識です。
キネシオロジーは、自分に直接影響のあるものごとを判断するには、有効なテストだと思います。しかし、自分の直接的な関わりを離れて、客観的な事象を判断しようとするとき、そこに数々の主観的偏向が入り込む余地があるのです。テストに参加する人が多くなればなるほど、そのテストはそれらの参加者の集合的な意識に影響されるようになり、あたかも客観的な数値であるかのように振る舞いはじめます。しかし、それは科学ではありません。ただのマジックなのです。ところが、この科学とマジックは、科学の要素が強い部分からマジックの要素が強い部分まで境目がない状態で分かちがたく結び付いています。それは、すべての宗教と同じです。普遍的な要素とその宗教だけに当てはまるローカルな要素が分かちがたく融合しています。それを見分けることができるのは、人間の人間的な常識です。しかし、その常識は、科学的装いと拮抗できるほど強力な常識でなければならないのです。
[:ねずみ:][:きつね:][:うし:][:チューリップ:]
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