私(森川林)が子供のころ、物心ついたときには既に、家に犬とチャボとアヒルがいました。横浜の普通の都会の話です。
父が動物好きで、いつも何かしらの生き物を飼って、家の中や周囲に放し飼いにしていました。だから、私自身も、そういう生活が普通のものだと感じていました。
昔は、街なかに野良犬などもよくいたので、小学生のころは、友達と近所の野原で野良の子犬を飼っていたこともあります。
中学生になると、急にジュウシマツを飼いたくなり、つがいを買ってもらい、次々に雛を育て手乗りにしました。
動物が近くにいると、何かほっとする気持ちになります。
後年、「ソロモンの指輪」という本で、正確な文は定かではありませんが、「動物との生活を知らない人には、人生の幸福の半分は隠されている」という一節を読み、妙に納得するところがありました。(その分、ほかの幸福を増やせばいいのだとも言えますが。)
そこで、自分の子供が生まれたころ、何よりも犬を飼うことを最優先にしました。子供が保育園のころ、秦野市のブリーダーから1ヶ月半のゴールデンレトリバーを買ってきて、家の中で飼うことにしました。
その後、子供が、近所の公園から野良猫を拾ってきたり、夏祭りですくってきた金魚を飼ったり、カニを飼ったり、カタツムリを飼ったり、やがて野良猫が子供を産んだりと、にぎやかな家になりました。
下の子は、ぜんそく気味でしたが、動物が増えて家の中が汚れてくるにつれて免疫ができたせいか、ぜんそくも自然に治ってしまいました。
子供たちは、もともとみんな動物が好きです。しかし、いろいろな理由で犬や猫を飼えないという家庭も多いと思います。
子供の情操教育というか、自然の人間らしい感情を育てるためには、動物と一緒に暮らす生活は大いに役立つと思います。
この4月に、近所のペットショップから、オカメインコと文鳥の1ヶ月の雛を買ってきました。
動物と共感する感情にも、臨界期というものがあるようで、幼児期から小学校低学年の時期に動物と一緒にいる時間があると、心から動物好きの子になるような気がします。
小さいころから頭がよいと思われている子で、年齢が上がるにつれて頭打ちになる子がいます。一方、小さいころは普通の子ですが、年齢が上がるにつれて学力が大きく伸びていく子がいます。
小さいころよくできて、やがて頭打ちになる子は、魚をつかまえるタイプの子です。逆に、小さいころ平凡で、やがて年齢に応じて力をつける子は、魚の釣り方を身につけるタイプの子です。
早めに知識を入れれば、勉強がよくできるように見えます。例えば、「富士山の高さは3776メートル」という知識でも、早く覚えている子は、まだ覚えていない子よりもよくできているように見えます。
このような物そのものの知識ではなく、思考力を育てる頭の使い方もあります。物そのものではなく、物と物との関係を表すのが思考です。それは、名詞ではなく、主に接続詞や助動詞を使った考え方です。
例えば、「もし、富士山が3メートルだったら」とか、「どうして富士山の高さがわかったのか」というのが思考です。
親子の対話の場合も、対話が知識の羅列になってしまう場合があります。「あれがあって、これがあって、ああして、こうして」という単なる事実の経過が続くような話です。
もちろんその事実や知識が、本人の体験に根ざしているものであれば、聞き手はその話に関心を持ちます。更にその体験が、個性、挑戦、感動、共感、ユーモアなどを伴っていれば、事実を述べること自体に大きな価値があります。
しかし、単なる知識の伝達だけの話は、思考力を高める対話にはなりません。
対話で大事なことは、自分の知っている知識を披露することではなく、答えのないことを一緒に考えようとする姿勢です。
そのためには、考えるということに慣れることが必要です。
インタビューアーでも、初心者のうちは質問事項をあらかじめ用意していくので、機械的なインタビューになってしまうことが多いと言われています。
上手なインタビュアーは、そのときどきの話の展開に応じて自由にインタビューの内容を変えるので、意外な発見に遭遇することも多いのです。
世の中には、作るのが好きな人と、探すのが得意な人とがいると思います。下手でも自分で作りたいという人と、多くのものの中からよいものを選び出しそれを自分のものにする人です。
確かに、どちらの役割も大事です。しかし、これからは、すべての人が、自分で何かを作るという面が大きく広がる社会になってきます。
正しい答えを早く見つける能力よりも、答えのない問題を作り出し、自分でその答えを作る能力が必要になってくるのです。
このような考える能力を育てるのに大事な時期は二つあるように思います。
ひとつは、幼児から小学校低学年の時期にかけてです。この時期に、長文の音読をもとに、親子で考える対話をしていくのです。
もうひとつは、高校3年生から大学2、3生にかけて、考える本を読むことです。
考える本というのは、いわゆる古典です。例えば、思いついたところで言えば、「生物の世界」(今西錦司)「存在と無」(サルトル)「方法序説」(デカルト)など、社会の教科書に書名や著者名が出てくるような本のことです。
教科書や概論書や入門書というものは、結論の出た知識がわかりやすく覚えやすく整理されているだけです。古典は、その筆者が未知の問題について考えた足跡が残っています。
教科書をどんなに読んでも知識が増えるだけです。しかし、古典を1冊読めば、その筆者と同じ思考の過程を経験することができます。それが、自分で考える力のもとになっていきます。
そして、考える力をつけた人が、やがて父親や母親になり、その子供と考える対話をすることによって、社会全体が豊かな思索に満ちたものになっていくのです。