これまでの社会は、機械化によってコストを削減し、豊富な商品を安価に大量に提供することを中心として発展してきました。そして、機械化しにくい人間の手間がかかる部分は、グローバル化によって安い人件費を利用する方向に進んでいました。更に、ネット化の進展は、それらの商品をハードな物材からソフトなサービスに広げる方向に進んできました。
教育において現在行われているのは、次のようなものです。第一は、少数の有名講師の優れた授業をネットで広範に配信するサービスです(MOOCなど)。第二は、ゲームと同じぐらいに資本をかけて作り込んだ魅力のある教材をオンラインで提供するサービスです(今、googleやamazonが取り組もうとしていること)。第三は、グローバルな労働市場で最も人件費の低いところから調達した人材を使った教育サービスです(ネット英会話教室など)。
この動きのプラスの面は、よい商品が安価に大量に世界に普及することです。しかし、それに伴って、その商品を提供する企業は、世界で数社に絞られるという寡占化の状態が生まれます。それは、ソーシャルネットワークやネットショッピングなどネットサービスの分野で既に起きていることが、教育の世界にも広がっていくということです。現在は、やがて世界の教育市場が1社か2社の巨大な企業に支配されるスタート地点にあるのです。
しかし、もっと大きく考えれば、世の中の動きは既にその先を志向しています。
優れた安価な商品を大量に提供する社会とは、豊かな消費の社会です。商品の価値を構成するものは、エネルギーと人間の労力と方法です。コストを削減する方向とは、エネルギーを効率よく利用するための設備に資本を投下し、機械科とグローバル化によって人件費を削減し、システムを普段に刷新する方法を開発するという方向です。
この方向から生まれるものは、巨大な資本を有する寡占化された少数の企業、購買力の低下した多数の消費者、方法の開発に従事できる少数の知的エリートという社会です。しかし、この結果、飽和した消費によって、生産と消費のサイクルが回らなくなってきつつあるというのが今の先進国の姿です。優れた商品を安価に大量に提供する豊かな社会は、消費の側から行き詰まりつつあるのです。
この行き詰まりを打開する道は、人間が、企業に勤めて得た給料で消費を行うという生活から抜け出て、その代わり自らがひとりの生産者となる役割を果たすようになることです。それが、今、先進国で起きているミニ起業への関心です。
多くの人がミニ起業家として生産者となることのできる市場は、グローバルな市場ではなくローカルな市場です。また、その産業は、資本や設備を必要とする産業ではなく、つまり人件費を削減する産業ではなく、むしろ人件費を増やすことを志向する産業です。それは、地域の個性と個人の個性を生かし、その個性との交流を喜びとする個性的な消費に支えられた産業です。それが、観光、教育、文化などの産業です。
教育に関して言えば、これからの教育は、ネット化、ゲーム化、グローバル化によって単一の市場に統合される方向が進むと同時に、その正反対の方向として、ローカル化、自給自足化、触れ合い化が進みます。
言葉の森が、目指しているのは、この触れ合いを重視した教育です。それは、講師と生徒との対話を生かした作文指導、幼児期からの親子の交流を促す幼児作文コース、ネットでつなぐ家庭学習の寺子屋オンエア、自然と友達との触れ合いを増やす自然寺子屋合宿、作文の交流を行うプレゼン作文発表会、そして、ミニ起業としてそれらの教育サービスを提供する森林プロジェクトです。
行き詰まりつつあるグローバル化の流れの先に、人間が自ら生産し、その生産物とサービスを、互いの交流によって消費し合うローカルな新しい市場が生まれてきます。そして、日本発のその新しい市場と産業が、これから世界に広がっていくのです。
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英語の成績は、真面目さに比例していると言われるので、勉強を真面目にしている生徒が英語の成績もよいというのは当然のことで、全く問題ありません。
しかし、問題のある生徒もいます。その問題があるのは、英語が得意すぎる生徒です。
なぜ得意すぎるかというと、小さいころから英語に力を入れていたからです。
その結果、肝心の日本語が不十分なまま英語だけが得意になったという生徒がいて、それが年々増えているようなのです。
コンピュータの発達の今後の延長線を考えれば誰でもわかることですが、いずれ自動翻訳機が実用化されます。
そうなったとき、英語が得意だということは、何の優位性にもなりません。
しかも、日本人のほとんどは、これからも日本の国を中心にして仕事をします。
海外で仕事をする場合でも、その仕事のもともとの基盤は日本になっていることが多いのです。
英語がどんなに得意であっても、日本人どうしのやりとりで、日本語が正しく使えなければ、質のよい仕事はできません。
そしてまた、英語がどれほど得意であっても、それは周りの日本人と比較した場合の得意さであって、もともとのネイティブの欧米人よりも得意だということはありません。
だから、子供に幼児期から英語教育をさせるなどというのは、大きな勘違いなのです。
幼児期に海外に移住するとか、家庭でも英語で話をしているとか、幼稚園の英語教室が盛況だとか、勘違いの例は枚挙に暇がありません。
それを、マスメディアがもてはやしさえしています。
今の英語教育ブームに乗せられて、子供に熱心な英語教育をした人の中には、将来、日本語力の不十分さに気づいて後悔する人が必ず出てくると思います。
熱心にやらなければ、害はありませんが、その場合は何かのプラスになることもありません。
だから、幼児期は、英語教育などに走らずに、豊かな日本語と愛情を、親子の対話を通してたっぷり与えることに力を注いていくべきなのです。
▽参考図書「英語の早期教育・社内公用語は百害あって一利なし 」(渡部昇一)
http://www.amazon.co.jp/dp/4198637822
英語の勉強をしなくてよいというのではありません。正しい時期と正しい方法ですることが大事なのです。
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教育の意義は、これまでは個人の側にあっては福沢諭吉の言うような立身出世にありました。
社会の側にあっては、富国強兵を支えるための学力や体力を備えた人材育成にありました。
しかし、これからの教育の意義は、そういうものではなくなります。
それは、個人にあっては、社会的な競争で優位にたつための教育とは異なる別の動機が必要になっているからです。
また、社会にあっては、教育の目的は、工業時代までの誰もが同じように一定の水準の能力を達成するためのものではなくなってくるからです。
未来の教育の意義は、個人にあっては、自分が心から喜びを感じることのできる分野で創造性を発揮するための準備をすることになります。
社会にあっては、各人の創造性がそれぞれ多様に発揮できるような社会を作ることになります。
教育のレベルが低ければ、個人の喜びは、その人らしい個性的な喜びではなく、より動物的な一般的な喜びに留まります。
あらゆる面で自分の能力を育てていくことが、その人の本当に自分らしい喜びを発見するための方法になります。その方法が教育です。
自分の真の喜びに近いところで、向上し、創造し、社会に貢献することが個人の人生の目的になります。
その結果、社会全体が、個人の多様な創造性の開花によってより一層豊かになっていくのです
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語彙力検定というものがあります。その学年の子が、どこまで語彙を知っているかという目安にはなりますが、そのための勉強をしたところで語彙力がつくわけではありません。
ことわざ辞典も同じです。ことわざに関する知識は身につきますが、それでことわざ力がつくのではありません。
語彙力やことわざ力は、生きた使い方をすることによって身につきます。だから、最もよい勉強法は、日常生活の中で難しい語彙やさまざまなことわざや名言を実際に使ってみることです。
知識として身につけた言葉は、知識だけで終わってしまいます。知識があるのにこしたことはありませんが、生きた言葉が第一で、知識が第二という軽重の差を理解しておく必要があります。
よく、耳にタコができるぐらい聞かされる言葉というものがあります。そういう言葉は、その言葉を身につけようとは思わなくても、いつしかその人の血や肉となり、生きた言葉になります。
そういう言葉は、話す人の深い体験に結びついていることが多いからです。
大事なことは、たくさんの知識だけの言葉を覚えることではなく、限られた数ではあっても生きた言葉を身につけることです。
そのために親のできることは、自分自身の体験を、いろいろな機会を利用して子供に話してあげることです。
そして、その体験を話すときに、その事実だけではなく、事実の背後にある本質的な概念も言葉にしようとすることです。すると、対話の中に、自然に抽象的な語彙が盛り込まれるようになります。
例えば、体験談を話したあとに、その体験談にあてはまるようなことわざを考えてみるというようなことです。また、話を楽しくさせるために、たとえを使ったりダジャレを入れたりというような工夫もしてみるといいのです。
こういう対話の機会として活用できるのが、言葉の森の毎日の長文音読と毎週の作文課題です。
親子の対話は、子供が小学校低学年のうちに始めると、自然に生活の一部になります。
子供の語彙力は、親子の対話の中で育っていくのです。
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これまでの社会は、物を売って利益を上げ、その利益を再投資して物を作る、という経済のサイクルで成り立っていました。
これからの社会では、学ぶことによって個性を発揮し、その個性によって作り上げたものを教える、という新しい文化のサイクルが生まれます。もちろん、文化の時代にも経済は動くので、学ぶことや教えることにも利益は伴いますが、中心になっているものは、物を得るとか利益を得るとかいうところから来る喜びではなく、自分を向上させ個性を発揮するという喜びになっているのです。
この文化の時代には、教育の性質も変わってきます。
経済の時代の教育は、受験のための教育でした。人よりよい点数を取り、上位の学校に入ることが、社会のよいボジションを獲得するための条件になっていたので、教育もその競争のための手段となっていました。
文化の時代の教育は、自分の真の喜びを発見し育てるために、能力を全面的に向上させることが目的となります。もちろん、文化の時代にも経済は動いているので、創造的な個性を発揮することが、社会的な成功にもつながるという可能性は高くなります。しかし、これからの人間の求めるものは、社会的成功よりも、自分らしい自己実現になっていくのです。
このように、学び合い、教え合い、人間の能力を全面的に開花させる教育の場として、森林プロジェクトというものを考えています。
森林プロジェクトは、当面、子供たちの作文指導を中心としていますが、作文の学習を軸にして、家族の対話や地域のつながりを生かし、子供たちの能力を開花させるあらゆる教科を学習の対象としていくような場にしていきたいと思っています。
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これまでは、物の時代でした。物の豊かさや生活の利便性が多くの人の求めるもので、それらを提供するものが、主に工業製品でした。
工業製品には、設備や資本が必要なので、物やサービスを売って利益を出し、それを再投資することが社会の流れの大きなサイクルになっていました。
しかし、物やサービスが行き渡るようになると、(行き渡り方がまだ不十分だとしても)人間の喜びは、物ではなく、自分の個性を発揮することに向けられるようになります。
ところが、個性は、その人の能力の水準によって開花の水準も異なってきます。例えば、食物を食べることは誰にとっても喜びですが、そこに表れる喜びの個性は、動物的な水準の個性です。人間の個性は、向上とセットになっていなければ、人間的な個性としては開花しません。
これからの社会は、多くの人が、自分の個性の発見と創造を求めて、自分自身を向上させることに向かう社会です。そして、何かを学ぶ人がいるということは、その何かを教える人がいるということですから、社会全体として学ぶことと教えることが組み合わさる形で進んでいきます。
経済の時代には、学ぶことは、個性を生かすことではなく利益を出すことに結びついていましたから、学ぶジャンル自体がきわめて狭く限られていました。
しかし、文化の時代の「学ぶこと」は、多様性に満ちていますから、学ぶ人と同じくらいに教える人も必要になります。(つづく)
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勉強は、小学校に入ってから始めるものではありません。子供が生まれたときから、バランスのよい成長を考えていくことが広義の勉強です。
幼児期の勉強で最も大事なのは、豊かな日本語の力を身につけていくことです。その日本語力の勉強に次いでやっていく必要があるのが、数の感覚を身につけておくことです。
しかし、日本語力の大切さに比べれば、計算の練習で数の感覚を身につけることはずっと重要度の低いものです。それは、あとからでもやれば身につくものだからです。
また、幼児期からの英語は、今はブームになっていますが、渡部昇一氏の著書「英語の早期教育・社内公用語は百害あって一利なし」にあるように、やりすぎれば必ず弊害があります。そして、既に、そういう弊害が一部に出ています。
ところが、日本語力をつけるという勉強は、漢字の書き取りをしたり、国語の問題集を解いたりするような勉強ではありません。そういう知識的な勉強を幼児期に行うことは、かえってバランスのよい成長を阻害します。
日本語力をつけるための最良の勉強法は、親子の生きた対話です。なぜかというと、幼児や小学校低学年の勉強で最も大事なものは、勉強に対する意欲で、その意欲は、子供にとっていちばん身近な両親との交流の中で生まれるものだからです。
この幼児期の対話を、親子で書く作文の勉強として行うのが幼児作文コースです。現在、幼児年長以上の方を対象に、体験学習を受け付けています。
https://www.mori7.net/yousaku/
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暗唱は、「てにをは」も含めて1文字も間違えずに、途中でつっかえたり考えたりせずに、最初から最後まで一気に滑らかにできるのが本来の形です。
貝原益軒は、百字の文章(四書五経など)を百回、空で読み空で書くという暗唱法を提唱しました。時間にすれば30分ぐらいの暗唱練習です。これだけやれば、誰でも1文字も間違えずに滑らかに暗唱できるようになります。これが、昔の寺子屋の勉強の基本でした。
しかし、現代の子供が、百字を百回読むというような暗唱法で練習できるかといえば、そういうことはまずできません。そこで、言葉の森では、1日の回数をもっと少なくして、最終的にひとつの文章(900字)を百回読むような暗唱法にしたのです。このやり方を覚えていれば、将来、自分が本当に暗唱したい文章があったときも同じやり方ですぐに暗唱できるようになります。言葉の森の暗唱は、暗唱法を身につけるための暗唱でもあるのです。
暗唱は、文章を覚えることが目的ではありません。何度も繰り返し音読することが目的で、その結果としてその文章を覚えることになるということです。だから、暗唱チェックの仕方は、文章を覚えているかどうかにしていますが、それは覚えたかどうかを見るためではなく、暗唱の練習を毎日していたかどうかを見るためなのです。
なぜ、文章を覚えただけでは不十分で、覚えたあとも繰り返し暗唱し完璧に言えるようにするかというと、そのようにして暗唱した言葉は、日常生活のほかの場面でふと思い出すようになることがあるからです。
覚えたものをただ再現できるというだけであれば、それは「覚えた」という衣服を着たようなものですから、時間がたてば衣服を脱ぐように忘れてしまいます。ところが、覚えた以上に更に繰り返した暗唱は、日常生活の場面でふと口をついて出ることがあります。このときに、暗唱した文章は、脱ぎ着できる衣服ではなく、その人の身体の一部のようになっています。
これは、読書でも同じです。いろいろな本をたくさん読むのはよいことですが、それはいろいろな衣服を次々に着てみたというような読み方です。たくさん読んだわりに、自分の身についているものは少ないのです。
それとは反対に、自分の好きな数冊の本を何度も読むような読み方をすると、その本は衣服ではなく身体の一部のようになります。だから、子供時代に、同じ本を何度も読んだという経験のある子は、読む力や書く力がつくのです。
繰り返した言葉は、ただ理解するための言葉ではなく、表現するための言葉になります。その表現できる言葉が、その人の思考力のもとになる言葉になるのです。
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